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はじまりの雨

掲載日:2012/08/10

電撃文庫「チャンピオンシップ」、お題「あめの中の逃亡者」で書いたけど出さなかった作品その1です。

 同級生を、殺した。

 午後から降りはじめていた雨が、屋根のないコンクリートの非常階段を黒っぽく染めていた。

 学級委員の女に呼び出されたのは放課後で、小降りとはいえ止まない雨に屋外競技の部活は休みになったらしく、ほとんどの生徒達は帰宅してしまったようだった。

 濡れ鼠の、灰色に染まった校舎は初夏なのにどこか肌寒さを感じさせる。

 自分だけ赤い傘を差して、女は三階の非常階段の踊り場にいた。

 僕をちらりと見て、唇をゆがめる。長い黒髪は後ろでひとつにまとめられていて、大きく少しきつい目を更に吊り上げて睨みつけてきた。

 なんだよ、とこちらも低い声が出る。

 僕はこの女が嫌いだ。

 いつでも僕にだけ突っかかってくる。掃除のとき喋っていただの、提出ノートが出ていなかっただの、全校朝会のときに隣の奴とふざけていただの。中学三年の夏になってまだ受験校が決まらないなんて、とこの前は鼻で笑われた。入れるとこに入るからいいんだと言い返したら、そんないい加減に決めるなと怒られた。

 なんでお前に文句を言われなきゃなんないんだ。

 クラスの中では、結構可愛いとそこそこの人気があるようだけど、僕にはまったく理解できない。大嫌いだ。

「今日、体育の授業で係だったのにボール片付けなかったでしょ」

「係? ちげーよ」

 女の傘に当たる雨の音が、不規則に響く。目を細めて空を仰ぐ。灰色の雲が、一面を覆い尽くしている、と思った瞬間急に雨粒が大きくなった。

「体育係は去年の話、今年は理科準備係だ」

 自分だけ雨に濡れているのも不快だし、向こうの勘違いで文句を言われたのにも腹が立つ。ふざけんな、と言い放つと、反省するかと思った女はむしろ苛立ったような顔で、「いつも真面目に生きてないからよ」と吐き捨てた。

 真面目に生きてない?

 僕が?

 真面目に生きてないから、なんだ。真面目に生きてないから勘違いして文句つけた自分は悪くない? 自己弁護? 謝りもせず?

 瞬間的に怒りが爆発した。

 女はさっさと背を向けて非常階段を下りようとする。

 無意識に、その背を強く押していた。落ちてケガをすればいいだとか、怖い目に会えとか、そういう感情ではなくて、ただ僕の目の前からこの女を消したくてそうしただけのような気が、後からした。

 

 灰色の空間で、持ち主の手を離れた赤い傘がふわりと舞う。

 一瞬雨音を含めた世界中の音が消えた。

 悲鳴もなかった。

 ただ、紺色のスカートが少しだけひらりと揺れて、女は僕の視界から消えた。


 二階の踊り場で、彼女は倒れていた。頭の部分だけ、雨の染みた色が濃かったように見えたけれど、僕は頭の中が真っ白になってそれ以上確認することを意識が拒んだ。

 突然バタバタと雨脚が強まり、僕は背中を押されたように階段を駆け降りた。

 殺した?

 殺してしまった?

 突き飛ばしたのは僕だ。

 だけど悪いのは、悪いのは。

 言い訳がぐるぐると頭の中を駆け巡る。それを耳を出口に追い出してしまおうと、頭を強く振った。

 雨は容赦なく僕を叩く。シャツが張り付いて、ズボンが足に絡みついた。それでも必死に走った。

 殺した? 

 分からない。

 確認したわけではない。

 でも。

 頭から、血が流れていなかったか?

 嫌いな女とはいえ。だけどあれは自業自得なのでは?

 肺が痛い。思い切り走りすぎて、呼吸が止まっていた。胸が刺すように熱い。

 逃げよう。

 どこへ?

 分からないけど、逃げないと。

 逃げてどうする?

 分からないけど、とにかく!


 カバンも持たず靴も履き変えないまま学校を飛び出し、とにかく人通りがない方を選んで走った。雨が目に入って痛い。左腕でこすったところで、人と思い切り正面衝突した。

 どん、という鈍い衝撃に僕は後ろへひっくり返る。尻餅をついて、首がガクンと振れた。

「大丈夫?」

 やわらかい声がする。見ると大きな男の人が僕に手を差し伸べていた。その後ろで、微笑んでいる優しそうな女の人が傘を向けてくれている。

 その手を取ることもできず、ぽかんとしていると、男の人は自分から僕の手を握って立たせてくれた。

「大丈夫だから、帰りな」

「……はい?」

 雨が口の中へ入ってくる。

「君が突き飛ばした子、無事だから。学校へ戻って大丈夫だよ」

「……なんでそれを、」

 真っ赤な傘を差し出してくれている女の人が、代わりに口を開いた。

「時間を修正したの。少しだけ。だから彼女は階段を落ちてないから、ケガもしてないしもちろん死んだりしていないわ」

「あなた達、誰なんですか……」

 ふたりは僕の問いに答えず、なぜかお互いの顔を見合わせて笑い合った。

「好きな子をいじめちゃうのって、女も男も一緒なのよね」

「幼稚なんだよな、気の引き方が」

「頭では分かっていても、つい、ね」

 僕は訳も分からないままふたりを眺める。

 信じていいのか悪いのか、でもあの女を突き飛ばしてしまったことはついさっき起こったことで、僕自身まだ混乱しているのに。どうしてこの人達が知っているんだ。

「ああ、ごめんな、もう時間がないんだ。僕達も訳ありで逃げてる最中なもんでね。でも彼女が大丈夫なのは本当だよ、信じてくれていい。君はなにも心配しなくていい」

「さよなら、泣くほど心配してくれて彼女も喜んでると思うわ。彼女もあなたに突っかかりすぎだったのを反省するから」

 泣くほど? と僕は慌てて顔を触るけれど、自分が泣いている自覚はなかったし、顔がびしょびしょなのは雨なのか涙なのか区別がつかなかった。

 じゃあね、とふたりが手を振ってくれる。

 僕の手に、赤い傘が押しつけられた。

 どこかで見たような傘。だけど、大分古いそれ。

「あのっ、」

 視界を遮って渡された傘を急いで持ち上げた時には、もうふたりの姿は僕の視界から消えていた。

 ただ、その場にチラシのようなものが落ちていた。

 拾い上げると、白黒で印刷されたさっきの男女の写真がひとりずつ並べられている。

「……っ!」

 その下に、僕の名前と学級委員のあの女の名前が書かれていた。

 指名手配、と。

 時間を操作し過去を変化させる極悪犯、指名手配中と。

 驚いたときに指先へ力が入りすぎたらしい。雨に濡れていた紙は簡単に千切れてしまった。

 僕はそれを丸めた。考えてからポケットに突っ込んで、歩き出す。

赤い傘に雨が跳ねて、明るい音を立てた。

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