夫が三年越しに帰宅しましたが、あなたの帰る家などありません。
エリーザは荷物をまとめて、エントランスの扉から出て行こうとする夫の手を取って、問題を訴えた。
「待ってください! このままでこの領地は破綻します! 先日も話したでしょう!」
「くどい! お前は優秀な文官なんだろ! それなら、全部まとめて、なんかこう、いい感じにうまくやってくれればいいだけなんだからやっとけよ!!」
「そんな指示がありますか! まだ結婚して一ヶ月も経っていないと言うのに、ろくな引き継ぎもしないで、どうするのです!」
「だ、か、ら、くどいって言ってんだろ! 全部どうにかしてくれ。母様のことも、領地のことも、経営のことも、そのためにお前みたいな女を嫁に入れたんだろ!!」
エリーザには自分の頭が固く、柔軟性がない自覚があった。
しかし、同時に夫のギルベルトの言葉も看過できないものであることは明白だろう。
どうにか手を離さないように必死に掴んでいた。このまま彼に行かれては、きっと連れ戻すことは難しい。
結婚してからわかったが、ノイドハイム子爵であるエリーザの夫のギルベルトとその母エーディトは行方が知れないことが多くある人々だ。
少し屋敷を開けていても、居場所を教えてくれるならばいいのだがそうもいかない。
一週間いなくてもどこに行っていたか言わないような人々なのである。
だからここで手を離す訳には行かなかった。
「だとしても、指標や方向性、この土地自体の特性やお金をかけるバランスなどはわたくしにはわからないことではないですか! せめてきちんと節約したまま安定した経営が出来るまではっ――」
「チッ」
ギルベルトは変わらないエリーザの主張に大きな舌打ちをして、それからエリーザの肩をどんと押した。
「きゃっ」
よろめいて、ステンと背後に尻餅をつくと、ギルベルトはハッと短く笑って、それからずかずかとエントランスホールを歩いて出て行く。
「っ……」
起き上がる余力もなくエリーザはそうして尻餅をついたまましばらく座っていた。
エリーザがこのノイドハイム子爵家へと嫁に来たのは、大まかに二つの理由がある。
一つは、エリーザは早くに文官の試験に受かり資格を持っていて優秀だと評判も良かったのに、頭が固いばっかりに相手が見つからず婚期が迫り焦っていたこと。
二つ目は、ノイドハイム子爵家が、ギルベルトの父である元ノイドハイム子爵を失い、領地経営が危ぶまれたこと。
そうして、優秀な管理能力を持つエリーザが見初められて一ヶ月ほど前にこの領地にやってきた。
張り切って、経営の見直しと改革を進めようと意気込んでいたのに、一ヶ月も立たないうちにこのざまだ。
ギルベルトは「なんか全部いい感じにしてほしい」と言って飛び出していくし、彼の母親のエーディトもたまに帰ってくるけれどそうすると屋敷の金銭を持ち出してまたそそくさと消えていく。
彼らの手綱を握っていたのはギルベルトの父であった元ノイドハイム子爵だったのだろう。
(わたくしにはその代わりは務まらない……)
それはもう十分にわかっていた。
(それでも……)
諦めるという選択肢はエリーザの中には存在していなかった。せっかく得た機会であり、自分の持っている技能を使うべき時が来たのだ。
だからこそ、ここは踏ん張るべきそう思って立ち上がる。
しかしエントランスはしんと静まりかえっていて、誰もエリーザのことを応援するでもなくただ、孤独な日々が始まったのだった。
ノイドハイム子爵家の屋敷は、全体的にとても冷たい。
結婚して、この屋敷も領地も背負って守る立場になったからには、責任を負って屋敷の住人たちのことも守りたいと思う。
しかし、彼らは守ってほしいとは望まないのかもしれない。……いや、そうではなくエリーザに守れるとも思っていないだけなのかも。
「……」
先ほど、古くからの資料を保存しているという書庫の場所を知るために侍女に道案内を頼んだ。
すると三人に忙しいと断られ、一人に道順を教えてもらった。
道順をたどった先でついた場所は中庭だった。
ふと、中庭に出られる外廊下に三人の侍女がひょっこりと顔を出し、クスクスと笑い合っていた。
「…………」
エリーザはぽかんとした。それからなんと非効率的なと衝撃を受けた。
そんな日々の中で時間は巡る。
雇われている文官の数は少なく、自身も時間を使って書類をまとめてなんとか毎日を過ごしていく。
一ヶ月ごとに、節約するための施策を打ち出しているが、うまくいったと思ったら、屋敷の金庫からエーディトがお金を持ち出していって、計算が合わなくなった。
侍女が仕事に遅刻してきてエーディットは予定していた近隣大領地のシェーラー公爵家の子息との会食に間に合わなかった。
バルトルトから手紙が来て様子を聞かれたので、現在の状況と帰宅のお願いを書いた手紙には返信がなかった。
そんな衝撃的で、そして目が回るような日々が過ぎていき、エリーザは最近めまいがするようになったのである。
なんでもないときに、くらっときてしまう。
そして今回もそうだった。
「たしかに値は張るけど十年は持つって言う触れ込みなんだだから、こまめに旧型を買うよりも安上がりらしいんだ」
「……」
くらっときて、頭を抑えてうつむく。それからハッとして目の前のシェーラー公爵子息であるアレクシスのことを見やった。
「……ごめんなさい、なんの話だったかしら」
「……新型の防衛魔法具のはなし」
「ああ……そうだった。以前、わたくしがその費用に悩まされてると一言言っただけなのに、覚えていて情報をくださるとはありがとうございます。アレクシス様」
「いいや。俺は別に全然、いいんだけど……」
彼はまじまじとエリーザのことを上から下まで見つめる。
エリーザは、せっかく話してくれたのに聞いていなかったのは気分を悪くさせただろうかと心配になった。
彼は、多くの粗相がありながらもおおらかな心で許し、領地の近さを生かして相談を聞いてくれるありがたい存在なのに、こんなことで失うわけにはいかない。
「じ、実は最近、集中力が続かずめまいがすることが多いんです。お恥ずかしい限りですけれど、そういうわけで注意が散漫になってしまいました」
自分の不出来さを認めることは少し苦しいことだったが、それよりも彼の話に興味がなかったと思われることは避けたい。
であれば自分のことを正直に話すことが重要だろう。
「めまいか。きちんと眠っている? 体調は悪くない?」
「ええ、きっちり七時間半、定刻通りに眠り定刻通りに目覚め、目覚めの一杯と朝の食事はきっちり取っています」
「……しっかり者だなぁ」
アレクシスは少しぽかんとして言った。その言葉にエリーザは少し胸を張ってキメ顔で言った。
「自慢ではありませんが、ここ五年ほどかかしたことはありません」
エリーザが言うと彼は、「そう」と短く言って、くすりと笑う。その笑みは侍女がちが浮かべる嫌な意味を含んだ物ではなかった。
それを見るとなんだかとても複雑な気持ちになる。嬉しいというかなんというかもっと複雑な感情だ。
(……それはきっと、彼を喜ばせれば、最終的には好かれて、彼を利用してなにもかもうまく生かせることが出来るかもという、あり得なくはない可能性に胸がときめいているのでしょう)
そうエリーザは自分の心に整理をつけた。
「ただ、それでも、めまいに襲われているなど不覚です。わたくしは、たくさんの物を背負っている身です。もっとしっかりとしなければ」
そうして、戒めのようにエリーザは言った。すると彼は、ピタリとだまってそれから「少し外に出ない?」と提案した。
もちろんアレクシスの提案を断る道理などない。
外に出る理由はわからないがエリーザは喜んで、庭園へと向かおうとした。
しかし外とは屋敷の外にある小規模だけれどノイドハイム子爵領の中で一番栄えている町のことだった。
町へと降りる。そこには、実家の領地の町と同様に、人々の営みがあった。
子供が走っていて、面倒を見ている母親がいて、少し廃れた憩いの場の噴水には若いカップルが座っている。
多くの平民がチラリとこちらを見ては物珍しそうにしながらも去って行く。
それはなんだかとても不思議に思える、しかしたしかに、多くの人々が息づいていた。
「エリーザさん、めまいは大丈夫?」
エリーザは問われて、小さく頷いた。本当は、もっと気の利いた言葉を返したかったのだが、あいにくそこにまで頭が回らなかった。
なんせ、なんだかとてもすがすがしい気持ちだったから。
今まで頭の中をぐるぐると回ってエリーザを嫌な気持ちにさせていたものが霧散して広く遠い空に解けていく。
嫁に来たときに通った以来、この町をエリーザはまったく見ていなかった。
エリーザにとってのノイドハイム子爵領というものは紙の上の数字とあの小規模で陰湿な屋敷の中にしか存在していなかったのだ。
しかし、外に出ればこんなに広く、こんなに高く、こんなにたくさんの建物と人がいて暮らしている。
それは盲点だった。
「……エリーザさんは、俺と会うときよく、自分が背負っているのだからしっかりしなければと言うけれど、どうにも息が詰まっていそうに見えたんだ」
「そう、なのですか」
「まぁ、少しだけね。めまいの原因はわからないけれど気持ちもあるのかなって、思う。すこしいつもの場所から出て動くのもいいんじゃない」
それだけ言ってアレクシスは歩き出す。
その背中にエリーザはついて言った。
なんの特徴もない小さな町だ。小さな本屋や骨董屋、そんな場所にただ入って、なぜか貴族が入ってきたと驚かれて、「視察です」とアレクシスが短く言う。
それから、埃の積もった骨董を眺めて、硬貨を所持していないことに気がついた。
なので指輪と交換して、チープなブローチを買った。
「……」
「それが気に入ったんだ」
「いいえ、たいして」
「え」
「ただ、なにか一つ持ち帰りたいと思ったので」
「……なるほど?」
そうしてヒールで足が痛くなるまで歩いて、あっという間に時間が過ぎた。
アレクシスにはたくさんお礼を言って別れて、それからエリーザの日々は、変化し始めたのだった。
ギルベルトには、若くて美しく頭のよい妻が屋敷で今か今かと帰りを待っていた。
しかし、好きでもなんでもなかったし、とにかく面倒くさかったのでひたすらに放置し続けた。
最初の方は、様子を窺う手紙を送ると十枚以上にも連なった猛烈な帰宅要請の手紙が返ってきていた。
けれども、それらをうまく交わして、領地から上がっている利益を帰宅を盾にかすめ取った。
そういう攻防が続き一年が経過した。
変わらず様子見の手紙を送ると勢いのよい帰宅要請の手紙が届く。
文面から察するに破綻はしていない様子だし、それなりにうまくやっているらしかった。
あんなにピーチクパーチクと小うるさく、ギルベルトがいないと困るなどと言っていながら結局あの女には、出来るのだ。
これで文句の一つも言わずにただ、仕事をしてくれるならよかったのに、どうしてこうも我が強いのか。
帰宅を願う手紙をくずかごに捨てながら、そばにいないのにうっとうしい気持ちになった。
二年目になっても帰宅要請は変わらない、むしろ勢いを増している。
けれども領地経営はうまくいっているのだろう。
なんせ、ギルベルトが帰宅を盾に金銭を要求すると以前よりも大きな金額が飛び出してくるのだ。
その金銭で高級宿に泊まり、妻が横暴で屋敷に帰れない可哀想な男として、社交界で女性を引っかける。
最終的にはシャルロッテというかわいらしい女性を見初めた。
男爵家のそれも第二夫人の生まれで、シャルロッテも苦労しているらしい。
そんな彼女に同情し、愛を育む。
変わらず、妻は帰宅を盾にするときちんと金を出す。しかし三年が経った頃から、妻の態度は一変した。
手紙だけでも口うるさい言葉の数々はなくなり、ただ金銭を送ってくるだけになったのだ。
加えて「謝りたい」と短い手紙。
それを見て、ギルベルトはとても満足した。
そうしてかわいいシャルロッテを連れて、久方ぶりにノイドハイム子爵家の屋敷に戻ってやることにした。
今の妻ならば、きっとなにもかも受け入れることが出来るだろう。
帰ることができるまで随分と長かったが、そのことは許してやるつもりだ。
馬車に乗って、遙か遠くに懐かしい屋敷が見えてくる。
ギルベルトが育った、大切な館だ。そこでこれからは有能な妻とかわいらしい愛人との気楽な生活が待っている。
「やっとつくのね! 楽しみだわ。ノイドハイム子爵邸」
シャルロッテが笑みをこぼしてそう口にする。もちろんギルベルトも楽しみだ。
到着日時は伝えてある。妻、エリーザもきちんと待機しているはずだろう。
エリーザは、ノイドハイム子爵家の屋敷の前で、仁王立ちになり髪を結い上げ、腕を組みやってくる馬車を見つめていた。
御者が怪訝そうな顔をしつつも、エリーザの前で馬車を止める。
それもそもはず、まだ屋敷の敷地の中の馬車ロータリーではない。
敷地の外の大きな門の前にエリーザがいるのだ。不審にも思うだろうし、加えて門は開かない。
門番がいないのだから開きようがないのである。
御者が、慌てた様子で中の人物とやりとりをして、急いで馬車の扉を開ける。
中からは、三年前にあったきりのギルベルトと、なにやら見知らぬ女性がおり、ギルベルトはその見知らぬ女性をエスコートしているようだった。
「……」
「……」
しかし、彼らはノイドハイム子爵邸を見るなり言葉を失って、呆然としていた。
「え?」
短い疑問の声を漏らして、女性はギルベルトを見やる。
ギルベルトはノイドハイム子爵邸を見てから、ゆっくりと屋敷の門の前に立っているエリーザへと目をやった。
「……お久しぶりです。ギルベルト様」
エリーザは何の変哲もない声で言った。
「……お……お久しぶりです、じゃないだろ。なんだこれ、は? なんなんだ、これ」
ギルベルトは震える声でエリーザに言った。
しかし、なんだこれと言われても見たままである。
屋敷の周りの庭園もすべて荒れ果て、花壇は雑草が力強く生えている。
屋敷自体も、精密な木彫りが施された美しい扉は取り外されて、屋敷の外装を飾っていた彫刻もなにもかも、すべて取り払われて残っているのは価値のない壁と枠組みだけである。
屋敷の中身ももちろん外から見ての通りもぬけの空。
この場所はももはや人が住める場所ではない。ただの廃屋だ。
「なんだと言われましても、見たままです。これがあなたが私を三年間放置した結果です」
「……頭おかしいのか?」
「さぁ? そうなのでしょうか。わかりません」
エリーザは、彼の言葉を普通に真に受けて首をかしげた。
たしかに少しばかりエリーザは極端であり頑固であり頭が固く、一直線なところがある。
今回だってそうだった。
エリーザは自分に与えられた機会によって力を示すことばかりに躍起になっていた。
しかし、三年前のこと。アレクシスに連れ出され、わかったのだ。
エリーザは、なにを背負っていてなにを守るべきだったのか。
それは、人々の暮らしだ。
人々のよどみない営み。
つまり、エリーザが守りたかったのはこの領地の大多数。平民たちだ。
そのために必要なかったのは、貴族だけが搾取し、得た利益を権限以上に使って人々の生活すら脅かしかねないギルベルトやエーディトの贅沢なのだ。
だから、エリーザは、仕事の相手を町の平民たちへと移した。
平民たちの生活をどうしたら守れるかと検討し、最終的には移住という案を出し、あくまで彼らの意思で移動してもらった。
移住先は安定したお隣の領地だ。
そこでは彼らの生活のサポートをし、献身的に働いた。
一方で、帰宅の要請は続け、金銭は要求されればその通りに差し出した。維持する必要がなくなった屋敷は素晴らしい財源となってくれたのである。
この現状は、好きなように散財しこの屋敷に何の思い入れもない人間に屋敷を任せたギルベルトの過失だ。
それに予測できた事態ではないだろうか。
「なにを、どうしたらこんなことになるんだよ。なんなんだ? ここはお前の家でもあるはずだろ」
「……いいえ、わたくしの今の住居は、この町の町長宅の隣にありますので」
「っ、は? ……どういうこと、なんだよ」
ギルベルトは頭を抱えて、絞り出すような声で言う。
その言葉にエリーザは淡々と応える。
「どうと言われましても、わたくしはこの領地の人々のこととただ背負い、自分なりに最善を尽くしただけです」
「……」
「その結果、見ての通り、ノイドハイム子爵家の屋敷は廃屋同然となりましたし、税金の支払いはかろうじて終えていますが、これ以上あなたやエーディト様の貴族としての生活を維持できるような経済力などございません」
「……」
「ああ……ちなみに、あなたの名義でエーディト様は血縁のある貴族の方に借金をしているようですが、その支払いの必要もありますね」
つまり、もうすでに詰んでいてノイドハイム子爵家はすべて終わりだ。
平民がすべて移住したノイドハイム子爵領にはかせぐ当てもないし、金銭に返られる家財の一つも存在しない。
「っお、俺に謝りたいんじゃなかったのかよっ!」
ギルベルトは、衝撃的な事実に堪えかねて、エリーザが送った手紙のことについて大声で尋ねた。
もちろん、その手紙を送ったことにも意味がある。
「それは、申し訳ないのですが嘘です。本当は、ただ行方のわからないあなたを確実に呼び寄せるためでした」
「……ねぇ、ギルベルト様、どういうこと?_なんなのこれ? 意味わかんないんだけど?」
「俺にだってわかるか! こんなことになってるなんて思うわけないだろっ」
「は?_なんで私が逆ギレされなきゃいけないわけ? 私のこと大切にしてくれるって言ったのあなたでしょ」
冷静に言葉を紡ぐエリーザに不安を抱いたのか、隣にいた女性が口を挟んだ。
ギルベルトは彼女からも責められて、混乱し、取り乱しているが、彼らがやってきた道から馬車が走ってくる。
「本来ならもっと、短期間で、破綻させあなたに追っ手がかかってもよかったのですが、同居や協力などの婚姻の義務違反を適応するには少し時間が必要だったのです」
「せっかくいい男見つけたと思ってたのにっ、最低じゃない、詐欺よこんなの」
「詐欺だと!? 俺だって知らなかったんだ、それなのに何でそんな言葉が出てくるんだよ!!」
二人が言い合いをしているうちに、三台の馬車が彼らの乗ってきた馬車を取り囲む。
それはエーディトが借金をした親類たちの家から派遣された人員であり、ギルベルトを捕らえに来たのだ。
兵士たちがぞろぞろと出てきて、彼らを取り囲み距離を詰める。
「は? おい、なんだこれ!」
「きゃあ!!」
彼らは問答無用で捕まり、馬車に乗せられる。きちんとタイミングよく来てくれて助かった。
連れてこられた女性には悪いが、ギルベルトの持っていた金銭を一切使っていないわけではないだろう。
「た、助けてくれ、エリーザ! 説明を! いや、謝るから!」
「……」
ギルベルトは力を振り絞って馬車から顔を出し、必死になってエリーザを呼んだ。
その言葉に、エリーザは一つも心が動かずに、小さく微笑んで、静かに馬車を見送ったのだった。
ギルベルトは爵位を返上することになり、エーディトも妊娠していて逃げ出すことがなわず、親類により監禁されながら、返済のために働いているそうだ。
一方エリーザは、予定どおりに、結婚無効の申し立てを行った。
当たり前のことだが婚姻には同居や協力の義務というものが存在する。
ギルベルトはまったくそれを果たさず再三の帰宅要請にも応じずエリーザを三年間放置し続けた。
明確に何年という期間が決まっていてそれを超えたら結婚の義務を果たしていない結婚無効になると決まっているわけでは無い。
しかし三年を超えている場合にはすんなり認められる場合が多く、エリーザはそのためにギルベルトとの夫婦関係を続けていたのだった。
そして、申し立てを起こし、シェーラー公爵家の証言でギルベルトの婚姻上の義務違反が認められ晴れて自由の身となった。
しかし、一度背負った責任を放棄するつもりはない。
エリーザは、シェーラー公爵領の領地と統合された元ノイドハイム子爵領の町に平民たちを戻し、その生活を見守るためにシェーラー公爵家に文官として雇われた。
以前よりのんびりとした生活になり、少し張り合いがないような気もするがこれが平穏という物かもしれないという気もする。
そんなこの頃。
婚姻の話が舞い込んだ。
「結構前からいい女性だなと思ってたんだ。真面目だし、パワフルだし……素敵だし」
アレクシスはそう言って目を細め、エリーザに大きな花束を差し出す。
休日に呼び出されてお茶会をする心づもりで行ったら、突然の告白だったのでエリーザの頭は混乱していた。
「受け取ってもらえると嬉しいんだけど」
「……」
言われてまじまじと花束を見つめた。
色とりどりの美しい色彩が眼下に広がっている。ふわりと花のよい香りが漂ってきた。
(ああ、また、変な胸の高鳴りが……。わたくしってそんなに守銭奴だったのかしら)
きっとまた、彼に好かれることによって得られるたくさんの利益と自分の自由に出来る権利と責任が増えることに高揚しているらしい。
そのはずだと思うのだがそれだけでは説明がつかないような、妙な気持ちでもある。
「……」
「……いや、だった?」
「あ、いいえ。そういうわけではありません。ただ、妙な高揚感があって」
「嬉しい?」
「嬉しい……と言い表して問題ないと思います」
一番適した言葉を選ぶ。その言葉は貴族として当然の言葉だと思う。彼は公爵家の跡取りだし、求婚されて喜ばない人はない。
しかし、エリーザのその言葉に、アレクシスはぱっと目をみひらいて、砕けた笑みを見せる。
はにかむように笑うかれ少しあどけなく、そして赤らんだ頬。細められた瞳は幸せをたたえて一心にエリーザのことを見つめている。
「よかった。俺も受け入れてもらえて嬉しい。……ほっとした」
そしてとても丁寧に、そっとエリーザに花束を手渡す。受け取るときに手が触れあって、人肌が少し暖かい。
話の文脈から受け取るのは当然のことで、エリーザは求婚を呑んだのだから話はここから先に進むことになるだろう。
けれど、エリーザに受け入れられて喜んでいる彼を見て、エリーザは野心から来る高揚ではないことをさすがに悟った。
じわーっと顔が熱くなっていく。告白されたときよりも、胸が高鳴っていて、知らない感覚に今更戸惑った。
その予兆はあったはずなのに、野心と勘違いして見過ごしてしまった。
こんな予想外は困る、不覚を取った。エリーザには背負う物があるというのに。
しかし後の祭りだ。
エリーザはもう新しい責任と新しい居場所を一度でも受け入れた。ならば後に引くという選択肢がない。
「これからよろしく」
「……りょ、了承したからには、全力を尽くします……」
「うん。エリーザさんらしい返事をありがとう」
そうして、エリーザの二度目の結婚生活が幕を開けるのだった。
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