その公爵令嬢は、毒舌で相手を打ち負かす。
社交界――それは、絢爛豪華な装飾と優雅な音楽、そして甘美な香りに満ちた世界である。
穏やかな微笑を湛える者もいれば、頬を朱に染める者もいる。中には、自らの美貌や地位に陶酔しきっている者まで、まさしく十人十色である。
しかし、その華やかな世界の裏側では、情報の探り合いや遠回しな嫌味が絶え間なく飛び交っていた。魑魅魍魎が跋扈し、嫉妬と虚栄心が渦巻く、まさに伏魔殿。
生半可な覚悟で足を踏み入れれば、たちまち相手の思惑に呑み込まれてしまう。
貴族社会において、真に信じられる味方など存在しない。己の身を守れるのは、結局のところ自分自身だけなのだ。
そんな会場の中を、一人の令嬢が悠然と歩いていた。
背筋はぴんと伸び、足取りには一点の乱れもない。彼女の姿を認めた途端、周囲の令嬢たちは顔を強張らせ、扇子で口元を隠しながら忌々しげな視線を向けた。
決して、好意的な眼差しではなく、誰もが彼女と目を合わせることを避け、さりげなく距離を取っていく。先ほどまで華やいでいた空気は、彼女が通り過ぎるたびに、霜が降りたかのように冷え込んでいった。
理由は単純明快。
彼女と関われば、己の身に不利益が降りかかる――そう信じられているからだ。
彼女の名は、リベッカ・ローンネット。
ローンネット公爵家の次女にして、貴族社会でも指折りの高貴な身分を持つ令嬢である。周囲の令嬢たちを凌駕するほどの美貌と教養を兼ね備え、本来ならば誰もがこぞって親交を求めるはずの存在だった。
しかし、現実はその正反対で、彼女と会話を交わせば、理不尽な言葉で心を抉られ、しまいには精神に異常を来す――そんな噂が、まことしやかに囁かれていた。
相手が泣き喚こうと、リベッカは容赦なく追い打ちをかける。まるで呪詛でも吐くかのように、辛辣な言葉を浴びせ続けるのだという。
被害に遭った者たちは、口を揃えてそう証言していた。
その結果、リベッカは社交界でも指折りの疎まれ者となった。令嬢たちの茶会に招待されることも滅多になく、交流が乏しいため、彼女の素顔を知る者はほとんどいない。
いつまでも凍てついた空気に耐えかねたのか、やがて周囲の者たちは、まるで彼女など初めから存在しなかったかのように振る舞い始めた。
(…………ああ。友達が欲しいですわ)
周囲の様子とは裏腹に、リベッカは心の中で深々とため息をついた。
自分が周囲から疎まれていることくらい、とうに承知している。けれど、なぜそこまで忌避されなければならないのか、その理由だけは未だに理解できずにいた。
おまけに、彼女の知らぬところでは、妙な二つ名まで誕生している始末である。
曰く、社交界の毒舌ババア。
曰く、変態殺人鬼。
曰く、毒舌処女。
最後のものに至っては、もはや二つ名ですらない。
(まだ十七歳でございますけれど?)
(……それなら、殺人鬼の時点で捕まっているはずですわね)
(処女は関係ねぇだろ!!!)
噂を耳にした当初は、心の中で散々突っ込んだものだ。腹立たしさのあまり、枕を壁に叩きつけたことさえもある。
今後も、彼女の肩書きは次々と更新されていくのだろう。
せめて、もう少し品位のある呼び名にしていただきたい。リベッカは切に願っていた。
ちなみに、リベッカの父は、この手の噂を聞くたびに腹を抱えて笑うのである。
ふと、そのときの愉快そうな顔が脳裏をよぎり、リベッカはむっと頬を膨らませた。
(……早く帰りたいわ)
そんなことを考えながら、一人で料理を楽しんでいた、その刹那。
――パシャーンッ!
耳をつんざくような音が、会場に響き渡った。
何事かと顔を向ければ、そこには、嘲笑を浮かべる令嬢と、その足元にうずくまる一人の令嬢がいた。
うずくまっている令嬢のドレスはすっかり濡れそぼり、床には砕け散ったグラスの破片が散乱している。
「貴方には、その惨めな格好がお似合いでよ!!!」
甲高く不愉快な声が響く。
一方、床にうずくまる令嬢は何も言い返さず、ただ唇を噛み締めながら涙を流していた。微かに震える両腕が、彼女の恐怖と屈辱を物語っている。
「あのセオール様との婚約だなんて、分不相応にも程がありますわ!卑しい平民と貴族の娘が!!今すぐ婚約を破棄なさい!」
そう叫ぶや否や、令嬢は手にした扇子で令嬢の頭を打ち据えた。
「あ、あの……カミラ様。もう、その辺りで……」
近くにいた令嬢が恐る恐る諫めるものの、カミラと呼ばれた令嬢は聞く耳を持たない。
(……カミラ、というのね)
リベッカは目の前の光景を冷静に分析した。
おそらく、カミラはセオールに恋心を抱いているのだろう。ところが、当のセオールの心は別の女性に向いている。ゆえに、その行き場を失った嫉妬を、婚約者である彼女へとぶつけているのだ。
(胸糞の悪い話ですわね。……まあ、社交界では珍しくもありませんけれど)
理不尽な仕打ちに憤る方が世間知らず――そんな風潮さえあるのが、この世界だった。
誰も助けようとはしない。それどころか、周囲の者たちは面白がるように、くすくすと笑い声を漏らしていた。
リベッカは、ぎゅっと拳を握り締める。
――気にしてはいけない。
――余計なことをすれば、また妙な噂が立つ。
胸中で自分を戒め、どうにか視線を逸らそうとした。
(しかし、それでは私も皆と同じでは?)
カミラは先ほどよりも勢いを増し、扇子を振り上げた。華奢な腕を高々と掲げ、床にうずくまる女性の頭めがけて、容赦なく振り下ろす。
しかし、その音が響くことはなかった。
リベッカが、扇子を持つカミラの腕を、女性の頭に届く寸前で掴み取ったからだ。
「――っ!?」
カミラの瞳が大きく見開かれる。右肩は不自然に吊り上がり、何が起きたのか理解できていない様子だった。
「カミラ嬢。ご自身の行いを、恥ずかしいとは思われませんの? 実に滑稽ですわね」
リベッカは静かに告げた。
感情を露わにしてはいけない。こういう相手には、むしろ冷静に言い放った方が効果的なのだ。
「な、なんで貴方がここにいるのよ! 嫌われ者なんだから、隅っこで大人しくしていればいいものを!」
「これは失礼いたしました。性根の腐った方々が、誰一人としてそのご令嬢を助けようとなさらないものですから。私が目立つべきではないと承知しておりましたが、どうにも我慢が利きませんで」
リベッカは微笑を浮かべながら、周囲にも聞こえるように言葉を紡ぐ。 さりげなく周囲を牽制することも忘れない。
案の定、周りの令嬢たちは気まずそうに目を逸らし、戦々恐々とした様子で成り行きを見守っていた。
「まあ、リベッカ嬢はお優しいこと! もしかして、好感度を稼ごうとしていらっしゃるの? ああ、可哀想に。私の好感度を分けて差し上げられたらよかったのに!」
カミラはわざとらしく口角を吊り上げ、扇子で口元を覆った。
庇護欲をそそるような声音とは裏腹に、その眼差しには嘲弄の色がありありと浮かんでいる。
いちいち癪に障る女である。ここまで鼻につくとは、もう才能なのかもしれない。
「カミラ嬢から分けていただいたら、人間としての尊厳まで失いそうですので、遠慮しておきますわ」
「ぶっ……! 人間としての尊厳ですって!? 笑止千万! そもそも、貴方がいらっしゃってから会場の空気が重くなったのですよ? 周囲に迷惑をかけておきながら、尊厳があるなどと、よくもまあ言えますわね!」
カミラは鼻先が触れ合いそうなほど顔を近づけ、矢継ぎ早に暴言を吐き散らした。
声が大きい。吐いた言葉も汚いし、吐いた息も臭い。
(勘弁してほしい。)
リベッカは耐えきれず、三歩ほど後ずさった。それから、改めてカミラを見据える。
「迷惑をかけている? それが何か?」
「なっ……!」
「私は、貴方方に気を遣って生きているわけではございませんので。それに、貴方は一方的に人を虐げることはお得意のようですが、反論されるのは苦手なのでは? 必死になっているのが丸分かりですわよ」
カミラの顔がみるみるうちに赤く染まり、目尻には涙まで浮かび始めた。
しかし、リベッカの舌鋒は止まらない。
「そういえば、先ほどカミラ様は、このご令嬢に濡れた格好がお似合いだと仰っていましたわね?」
そう言いながら、リベッカはカミラのドレスへと視線を落とした。
裾の辺りには、液体が染み込んだような痕が残っているではないか。
「……貴方も、なかなかお似合いですわよ?」
おそらく、グラスの中身を相手にぶちまけた際、自分にもかかってしまったのだろう。
「まさか、ご自身のことを仰っていたのですか? 自分に酔っていらっしゃるだなんて……お気の毒に。人から不遇な扱いを受けるよりも、自分の愚かさに気づかずにいる方が、よほど恥ずかしいと思いますけれど。私なら、穴があったら入りたいですわね」
そこで一度言葉を切り、リベッカはにっこりと微笑んだ。
「それと、もう一つ。セオール様が貴方をお選びにならなかったのは、その性格に問題があるからではございません?」
「だ、黙りなさい! 黙れ、黙れ! 貴方だって、処女のくせに高貴な女を気取っているんじゃないわよ……!」
「しーっ。口が臭いますので、少し黙っていただけます?」
「なっ……!?くっくち!!!??」
「それに、カミラ様。先ほどまで随分と威勢がよろしかったのに、ご自身の立場が悪くなった途端、随分とお静かになるのですね。もう少し、節度というものをお学びになってはいかがでしょう?」
「…………」
「あら。お黙りになってしまいましたわね。……もしかして、ご自身の口臭を認められたのでしょうか? ついでに、その性格の悪さもお認めになってくださいませ」
…少々、喋りすぎただろうか。
興奮すると歯止めが利かなくなる。この性分ばかりは、我ながらどうにかしたいと思う。
カミラは怒りに顔を歪め、何やら捨て台詞を吐き散らしたものの、結局は何一つ言い返せないまま、その場を去っていった。
(……私も、少々言いすぎてしまいましたわね)
毎度のことながら、後悔するのがお決まりの結末である。
リベッカはふと我に返り、周囲を見回した。
案の定、令嬢たちは一様に引きつった顔をしている。中には、関わり合いになるまいと、そそくさとその場を離れる者までいた。
そう、齢15の社交界でも、今日のようなことをやらかし、孤立するようになったのだ。
……これでまた、社交界での評判が悪くなることは確定である。
「あ、あの……リベッカ様!」
背後から遠慮がちな声が聞こえ、リベッカは振り返った。
そこには、先ほどカミラに虐げられていた女性が立っていた。
「フローネと申します。先ほどは、本当にありがとうございました! 私、どうすればいいのか分からなくて……。助けていただけて、本当に嬉しかったです」
フローネはドレスこそジュースで汚れていたものの、その顔立ちは愛らしく、潤んだ瞳には安堵の色が浮かんでいた。
「大丈夫ですわ。気になさらないで」
リベッカは軽く微笑みを返す。
「ただ、次からはご自身でも言い返せるようになりなさいね。いつも誰かが助けてくれるとは限りませんから」
言葉こそ厳しかったが、その声音には確かな気遣いが滲んでいた。
用件を済ませると、リベッカはそそくさと踵を返した。
(もう、帰りたい。)
周囲から突き刺さる痛いほどの視線に、これ以上耐えられそうになかったのだ。
彼女はフローネに軽く会釈をすると、逃げるように小走りで会場を抜け、待たせていた馬車へと駆け込んだ。
こうして今日もまた、リベッカ・ローンネットの悪評は、社交界の片隅でひっそりと積み重なっていくのだった。
(完)
人生初の読み切り作品となります。楽しんで頂けたでしょうか?感想の方もまたよろしくお願いします!!
これからも、色々な作品を投稿したいと思っています!
そちらの方も、機会があればよろしくお願いします!




