88話、アヴァロンの試練16
沈む巨漢に背を向けたヴァイルはなおも膝をついたまま動けないエドラに歩み寄り、無機質な手つきで手を差し伸べた。
「おい、いつまでそこに座っているんだ、終わったぞ」
エドラは差し出された手を激しく払い除け、地を蹴って立ち上がるとヴァイルの胸ぐらを両手で掴み上げた。
「てめえ・・・・・・!どういうつもりだ! なぜ殺した!」
荒々しく血走った眼で睨みつけるエドラ。
至近距離で浴びせられる怒声にもヴァイルの表情は氷のように微動だにしない。
「やらなきゃ俺たちが死んでいた。それだけのことだ。・・・・・・いや、それどころか、あんな怪物を生かしておけばギルド全体が全滅していただろうな」
「ほかに方法はあったはずだろ! 身柄を拘束するとか、せめて気絶させるとかよお!」
甘く、青臭い理想論。
吐き捨てるようなエドラの言葉にヴァイルの瞳に初めて苛立ちの影が差した。
彼はエドラの手を強引に振り解くと逆にその胸ぐらを掴み返して鼻先が触れんばかりの距離で言い放った。
「甘ったれるな! お前のその甘さで、後々仲間が危険に晒されたらどうする? 次に死ぬのが仲間の一人だったとしても、お前は同じことが言えるのか?」
ヴァイルの冷徹な正論が、森の静寂に鋭く突き刺さる。
エドラは反論の言葉を探して唇を震わせるが、ヴァイルの圧倒的なまでの現実を前に言葉を継ぐことができなかった。
「お前、勇者を目指してんだったな。誰も殺さない、自分の手を汚さない。・・・・・・そんなの、いくら勇者でも土台無理な話だ」
ヴァイルは冷たく突き放すように、視線をエドラの足元に落とした。
「……なんだと?」
「お前だってクエストでモンスターを殺しているだろ。それと同じだ」
「人間とモンスターを一緒にするな!」
エドラが吠えた。
だが、ヴァイルの種は死んだ魚のように凪いでいた。
「いいや、一緒だ。命ある存在である以上、人間もモンスターも変わらない。…………お前はクエストで、生計を立てるためにモンスターを殺している連中に対しても、そんな風にきつく詰め寄るのか?」
ヴァイルはエドラの胸元を突き放し、返り血で汚れた大鎌の穂先を見つめた。
「相手が人間だから、特別だとでも思っているのか?だったら、お前が救おうとしたその「人情』のせいで、救えたはずの誰かが死んだら、その責任は誰が取るんだ。……殺す覚悟がないなら、最初から剣なんて持つな」
そう言い捨てて歩き出すヴァイルの背中は、真昼の木漏れ日に照らされながらもどこまでも孤独でそれでいて強固な意志に満ちていた。
「………………少なくとも俺が勇者だったら、誰かを救い守るために、喜んで自分の手を汚すよ。勇者だろうが正義だろうが、それは散っていった無数の命の上に成り立つもんだ」
ウァイルは冷たくそう吐き捨てると呆然と立ち尽くすエドラを置き去りにして、一人静かに森の奥へと歩き出した。
「正義って・・・・・・なんなんだよ・・・・」
降り注ぐ真昼の陽光の下、エドラは何もない虚空に向けて、誰にも届かない独白を濡らした。
―――団長は、アーサーは、やはり、大切な者のためにその手を赤く染めているのだろうか。
――――勇者として歩む以上、いつか必ず、守るべき仲間のために誰かを屠らねばならない瞬間が訪れる。
―――癪だが、ヴァイルの吐いた冷徹な正論こそが、この世界の歪な真実なのだ。
エドラはただ、立ち尽くした。
脳裏を埋め尽くす理想と、今しがた眼前に突きつけられた鮮血の記憶。
その狭間で、彼は逃れようのない葛藤に身を焼かれていた。
―――勇者にも、英雄にも、眩いほどの強い光があるのなら、それに比例して濃密な「影」が必ず存在する。
―――サリー、スノウ、アリアさん、エリーさん、アクア、ヴァイル、フリード、マーリンさん、イスカ・・・・・・。そして、アーサー、いや団長。
―――脳裏をよぎる顔ぶれ。いまの「スカイホーク」こそが、俺にとっての家族なんだ。
―――この家族を守り抜くため、救い上げるためなら、俺は・・・・・・立ち止まっているわけにはいかない。
―――いつか訪れる「その時」のために、俺は覚悟を決めなければならない。
―――守るべき命のために、この手を赤く染める覚悟を。
エドラは震える挙を強く握りしめて自分に言い聞かせるように深く、長く息を吐き出した。
それは少年が理想の殻を破り、残酷な現実へと一歩を踏み出す、静かな決意の呼吸だった。
「ヴァイル・・・・・・お前の言ってることは、正しいよ。正しいけど・・・・・・俺は、その全部を肯定はしない。できないんだ」
ヴァイルの足が不意に止まった。
振り返ることはない。
ただ、冷たい沈黙だけが二人の間に横たわっている。
エドラはなおも、震える挙に力を込めた。
「俺は、お前の言う通り、青臭い理想を掲げてるだけの甘ちゃんだ。・・・・・・でも、もしこの先、今日と同じことが起きたら、同じように、仲間の命が危機に晒される瞬間が来たら、その時、俺は・・・・・・迷わずこの理想を捨てる」
エドラの言葉には、今しがた流された血の重みが宿っていた。
「自分の手がどれだけ赤く染まっても、大切な奴らが死ぬよりはマシだ。その時は・・・・お前に笑われようが、俺も喜んで自分の手を汚してやる」
ヴァイルは、わずかに首を動かしてエドラの気配を感じ取った。
「だがな、ヴァイル、俺は、その理想を「捨てる」自分を・・・・・・絶対に許さないまま進んでやる。汚れた手で、誰にも誇れない勇者になって、それでも全員を救い上げると決めた自分だけは裏切らない」
「・・・・勝手にしろ、勝てる見込みのない理想ほど、滑稽なものはないがな」
ヴァイルは短く吐き捨てると、今度こそ振り返ることなく、森の暗がりへと消えていった。
残されたエドラは、頭上の陽光を仰ぎ見た。眩しすぎるほどの光、その影は、以前よりもずっと濃く、深く、彼の足元に伸びていた。
「守るべき命のために、俺は・・・・・・覚悟を決める」
少年が抱いていた純粋な理想は、冷酷な真実という嵐に晒されて砕け散った。
しかし、その欠片を拾い集め、血にまみれた手で繋ぎ合わせた今のエドラの瞳には、かつての憧憬よりも遥かに鋭い。
本物の決意が宿っていた。




