86話、アヴァロンの試練14
サリーたちが術者アンナと火花を散らしている頃―――
氷壁の反対側でもまた、激しい戦闘が繰り広げられていた。
スノウが放つ氷の矢が、絶え間なくマーメイドを襲う。
(・・・・・・やはりな、尾ひれが足枷になっている。地上での機動力は高くない)
この断崖の森に水場はない。
地の利が自分にあると踏んだスノウは、勝機を逃さじとさらに魔力を練り上げる。
(ここで一気に仕留める ・・・・・・・逃がすか!)
容赦のない水の雨が、獲物を射抜くべく加速していった。
迫りくる氷矢の雨を、マーメイドは強靭な尾ひれで次々と薙ぎ払っていく。
的を外れた氷矢は地面に突き刺さり、本来ならそのまま冷気となって霧散するはずだった。
しかし、一部の氷矢が不自然に溶けて地面に小さな水たまりを作りはじめる。
(しめた・・・・・・!)
それこそがマーメイドの狙いだった。
その微かな変化に気づかぬまま、スノウは決定打となる最後の一矢を放つ。
「これで終わりだ!」
必殺の氷矢がマーメイドを射抜く――そう確信した瞬間。
マーメイドは吸い込まれるように、足元のわずかな水たまりへと身を躍らせた。
「………………っなに!? 消えた!?」
弾ける水しぶきだけを残し、獲物はスノウの目の前から姿を消していた。
目の前の光景を疑いながら、スノウは短弓の弦に指をかけていつでも放てるよう構えながら水たまりへと静かに歩み寄った。
警戒を解かぬまま、片足で水面を軽く叩いてみる。
だが、跳ね返るのは泥混じりの冷たい水の感触だけだ。
波紋が収まれば、そこには底が見えるほどの浅い水たまりが横たわっている。
(………………浅すぎる。こんな場所に、あのマーメイドが隠れられるはずがない。見間違いか?)
困惑がスノウの思考をわずかに止めた、その時だった。
「後ろがガラ空きよ」
背後から響く冷ややかな声。
スノウが振り返るよりも早く、彼が「ただの残骸」と見なしていた別の水たまりからマーメイドが音もなくその姿を現していた。
「ぐ……っ、あぁ・・・・・・・!?」
至近距離から放たれた強烈な水の衝撃が、スノウの精悍な身体を容赦なく弾き飛ばした。
(……な………………んだと・・・・・・!)
スノウは空中で無理やり体勢を立て直して泥を噛みながら受け身を取る。
着地と同時に、衝撃が放たれた方向へ弓を絞り込んだ。
しかし、そこにはもう波紋すら残っていなかった。
「………………どこだ!?」
焦燥が胸を焼く―――。
だがその時、視界の端で別の水たまりが揺れた。
そこから放たれたのは、三つの鋭い水球。
「見つけたぞ!」
スノウは地を蹴って横へと跳んだ。
回避の動作と同時に、指から四本の氷矢を解き放つ。
空中で交差する魔力。
スノウが放った氷矢のうち三本が、迫りくる水球を真っ向から撃ち砕く。
そして残る最後の一矢は、水面から身を乗り出したマーメイドの肩を深く射抜いた。
「きゃあああ!!」
悲鳴を上げた人魚は、憤怒にまみれた双眸でスノウを射抜くように見据えた。
「たかが人間ごときに・・・・・・・、少し油断したようね、私」
彼女は肩に深々と突き刺さった氷矢を魔力で溶かし、溢れ出す血を冷たい指先で強引に抑え込んだ。
「お前の能力・・・・・・水さえあれば、どんなに底の浅い器だろうと水たまりだろうと、瞬間的に空間を跳躍できる、そうだろ」
スノウの指摘に、マーメイドは口角を歪めて不敵に笑う。
「ご名答よ。確かにこの森に水場はないわ、けれど、氷魔法の使い手であるあなたを相手にするなら、道に困ることはない」
「――まさか」
「そう。例えそれが、あなたの放った氷の残骸であってもね……」
言い放つや否や、マーメイドは再び足元の水たまりへと身を沈めた。
「逃がすか!」
彼女の次の一手を先読みしたスノウが躊躇いなく指を放す。
放たれた氷矢が鋭い風を切って水面を打ったが、その時にはもう、そこはただの泥水へと戻っていた。
だが、敵の機先を制したのはスノウだった。
彼はすぐさま新たな矢を番え、その先を背後の『氷壁』へと向ける。
(氷も元を正せば水だ、そしてヤツにとって、この場にある最大の水場は・・・・・・あの氷壁!)
予測通り、巨大な氷の壁が波打ち、マーメイドが弾丸のような速度で飛び出した。
彼女の手には、うねる魔力で生成された水流の槍が握られている。
「死になさい!」
凄まじい風切り音とともに放たれた水の槍。
スノウは冷静にそれを引きつけ、放たれた氷矢で迎撃した。
衝突の瞬間、水槍は一瞬で硬質な氷へと変貌して砕け散る。
(凌いだ・・・・・・!)
そう確信したスノウの直感に、凄まじい警鐘が響いた。
視界の端、自らが砕いた氷の欠片が溶けて足元に新たな水たまりを作っていることに気づく。
「――しまっ」
刹那、水面を突き破って巨大な尾ひれが飛び出した。
逃げる間もなかった。
しなやかで強靭な一撃がスノウの腹部を正面から捉える。
「こふっ・・・・・・!?」
内臓を押し潰すような重い衝撃とともに、スノウの身体は木の葉のように後方へと吹き飛ばされた。
「逃がさない!」
追撃の手を緩めることなく、マーメイドは片手を天へと掲げた。
その掌から、噴水のように膨大な水が噴き上がる。
撒き散らされた水は豪雨となって戦場を濡らし、乾いていた地面は瞬く間に沼地へと変貌した。
あちこちに生まれた無数の水たまりが、不気味に陽光を反射している。
「さあ、次はどこから私が現れるか・・・・・・・その貧弱な頭で必死に考えな!」
マーメイドは嘲笑を残して再び水の中へと消えた。
右から、左から、あるいは死角となる背後から。
水たまりを自在に渡り歩くその動きは、獲物を翻弄する死神の如き俊敏さだった。
(ここで矢を乱発しても、ヤツに水場を提供するだけだ。ならば・・・・・!)
スノウは短弓を下げ、逃げるどころかあえてマーメイドの狩場である水たまりの真ん中に身を置いた。
そして、瞼を静かに閉じる。
視覚を断ち、泥水の底を移動する不気味な魔力の脈動だけに全神経を集中させた。
「貰ったぁぁ!!」
スノウの真下――わずかな水面が爆ぜ、マーメイドの細い腕が「魔手」となって飛び出した。
だが、スノウの反応はそれよりも一瞬早かった。
襲い来る冷たい腕を予測していたかのように力強く掴み取る。
「……!しまった!?」
「それはこっちのセリフだ!」
スノウは掴んだ腕を強引に引き寄せ、もう片方の拳に極低温の冷気を纏わせた。
通げ場のない至近距離から、渾身の一撃を叩き込もうと拳を振り抜く。
しかし、マーメイドの執念もまた常軌を逸していた。
「させるかぁ!」
彼女は逆に、掴まれた腕に全身の体重を乗せてスノウを水たまりの深淵へと引きずり込もうと強く引っ張った。
本来なら数センチの深さしかないはずの水面が、底なしの魔力の穴となってスノウの足を飲み込み始める。
視界が瞬時に闇に染まった。
光も空気もない、冷たく重い深淵の世界。
スノウは反射的に周囲を見渡すが、そこにあるのは音さえも歪む絶望的な閉塞感だけだった。
(……不味い! ここはあの女の独壇場だ。ここに留まれば、確実に仕留められる!)
全身を押し包む猛烈な水圧に抗い、スノウは本能の命ずるまま浮上を試みる。
だが、水中においてその機動力は人魚の比ではなかった。
「無事に地上へ帰すわけないでしょ・・・・・・このまま永遠に眠りなさい!」
泡となって響くマーメイドの声。
彼女は深淵の間に溶け込み、全方位から弾丸のことき速度で襲いかかる。
右から、上から、あるいは視覚の外から。
逃げ場のない水中での波状攻撃。
スノウが反応するよりも早く、重い水の衝撃が何度も身体を叩く。
肺に残る貴重な酸素が、激しい苦痛とともに泡となって口から零れ落ちていった。
(……意識が、遠のく・・・・・・・)
視界が揺れ、闇が深さを増す。
だが、その朦朧とした意識の淵でスノウは確信した。
マーメイドが至近距離で高速移動を繰り返すたび、水の流れが一定の規則性を持ち、自分の周囲を激しく渦巻いている。
(・・・・・・ これだ、ヤツが動けば動くほど、魔力は均一に混ざり合う・・・・・・!)
スノウは最期の力を振り絞り、自身の内側に残る全魔力を解放した。
それは矢として放つものではなく、自らの体温さえも生贄に捧げる。破壊的なまでの『熱の収奪』。
(凍れ・・・・・・この世界ごと!)
スノウの身体から、青白い波紋が爆発的に広がった。
その瞬間、奇妙な現象が起きた。
それまで激しくうねっていた水流が、一瞬にしてその動きを止めたのだ。
物理限界を超えて冷やし抜かれた水は、凝固のきっかけを待つ「過冷却」の状態へと達していた。
そこヘスノウが放った魔力の振動が、最初の一片――『種』となる氷の結晶を生み出す。
ピキッと、
静寂を切り裂くような硬い音が響いた直後。
連鎖反応は一瞬だった。
スノウを起点に、周囲の深淵が凄まじい速度で結晶化していく。
逃げようと身を翻したマーメイドの尾ひれ、指先、そして驚愕に目を見開いた顔さえも白銀の檻が容赦なく飲み込んだ。
音も、流れも、光も、
すべてが絶対零度の静寂の中に固定される。
マーメイドの口から漏れかけた声さえも、凍りついた泡の中に封じ込められた。
水面へと続く魔力の穴そのものが巨大な氷柱と化し、その中心でマーメイドは「彫像」のように完全に沈黙した。
スノウは自らの腕を粉砕せんばかりの力で振り抜き、地上を覆う氷の蓋を内側から撃ち砕く。
ザバァッ! と、
冷たい飛沫とともに、スノウは陽光の下へと這い出した。
激しく咳き込み、肺が焼けるような痛みを感じながら、氷の底に沈んだ獲物を見下ろす。
「言ったはずだ。地の利は、俺にあると」
そこには、もはや自在に泳ぎ回る死神の姿はなかった。
厚い水の層に閉じ込められ、身動き一つ取れなくなった哀れな人魚の姿があるだけだった。




