85話、アヴァロンの試練13
林道でアリアとフリードがラカムを沈めていた頃、木々がわずかに途切れた森の広場では、また別の魔力が大気を震わせていた。
「行くぞ。マーメイド」
古びた魔導書を手にアンナが凛とした声で呼びかける。
その足元から淡い水色の魔法陣が広がり、飛沫と共にハープの旋律を纏った精霊が姿を現した。
「こいつらを始末すればいいのね。アンナ」
真珠のような鱗を持つマーメイドが、不敵な笑みを浮かべて問いかける。
「ええ」
アンナの短い肯定を受けたマーメイドがハープの弦を弾く。
美しくも鋭い旋律が森を駆け抜け、迫り来る敵たちの自由を奪っていく。
その傍らで、サリーもまた自身の魔導書を開く。
「ウンディーネ!!」
サリーの呼び声に応じて彼女が掲げる魔導書のページが激しく翻した。
紙面から湧き出した透明な奔流が、一瞬にして精霊ウンディーネの姿を形作る。
ウンディーネは隣に立つアクアとサリーに視線を交わした。
「私が水を突き上げるから、あんた達はその補助お願いね」
ウンディーネが術者サリーとアクアに指示を出し、二人は力強く頷く。
アクアは愛用の傘を、サリーは魔導書をそれぞれ構えて溢れ出す奔流へと注ぎ込んだ。
「この水玉で終わらせて上げる!」
サリーとアクアの補助を受けてウンディーネが操る水が臨界点を突破する。
一瞬にして、森の広場の空を数百もの巨大な水玉が埋め尽くした。
「相手が同じ水属性なら、こちらの支配下に置くのも容易い。……マーメイド!」
アンナの鋭い指示に合わせ、マーメイドがハープの弦を一閃させる。
その衝撃波が空中に浮遊する水の宝玉たちに干渉してそれらを瞬時に凍てつくほど鋭利な水の礫へと変貌させ、流星のごとき速度で一斉に掃射した。
だが、その連撃が敵を飲み込む直前森の冷気を一身に集めたかのような鋭い声が響き渡った。
「――支配下に置くのは、お前だけじゃない!」
その声と同時に放たれたスノウの一矢が、空を駆ける水の礫に直撃する。
衝撃が走った刹那、水の礫は瞬時に白銀へと染まり、凍結の連鎖が結晶の鎖となって空間を駆け抜けた。
「……っ、なに!?」
アンナとマーメイドが目を見開く間もなく、数秒前まで自在に操っていたはずの水が硬質な氷の彫刻と化して地へと砕け散る。
「支配権を奪われた……!?」
不意を突かれて防御が疎かになったアンナたちの隙を、スノウの瞳が氷のように射抜いた。
弓を引き絞るギチリという音が森に響く。
一矢、二矢、そして三矢。
瞬きする間もない速射。
氷を纏った矢が空気を切り裂きながらアンナたちの足元を凍てつかせた。
「お前が召喚術師ならこれでどうだ!」
スノウが放った最後の一矢が、アンナとマーメイドの間に深々と突き刺さった。
矢を中心に、高さ数メートルに及ぶ巨大な氷の壁が、地響きを立てて屹立する。
「な....!アンナ!?」
「マーメイド!」
アンナとマーメイドの叫びは、厚い氷の壁に遮られた。
氷壁を境に、戦場は完全に二つへと分断される。
一方には、不敵に弓を構えるスノウとその視線を真正面から受け止めるマーメイド。
そしてもう一方には、厚い氷の壁を背に逃げ場を失ったアンナと彼女を仕留めんとするアクア、そして魔導書を構え直すサリーの姿があった。
氷壁の向こう側を見据えたスノウが冷たく言い放つ。
「お前の相手は俺だ。……人魚様」
スノウの言葉に呼応するように、氷の壁によってアンナへの追撃を確信したアクアとサリーがそれぞれ武器を構えて魔力を込める。
「召喚魔法使う彼女ならすぐに抑えられる!」
「私たちであなたを倒す!」
サリーが魔導書を強く握りしめる。
アクアもまた確実に息の根を止めるべく、傘の柄を握り直す。
しかし――。
「アハハハハハハハハハハハ!」
その絶望的な状況下で、アンナの喉から漏れたのは悲鳴ではなく場違いなまでの高笑いだった。
守るべき精霊も傍におらず、丸裸同然の自分を二人がかりで追い詰めた。
その事実が、彼女には滑稽でたまらないようだった。
「召喚術師一人なら、簡単に仕留められると思っているなんて……あんた達の作戦、浅はか過ぎるわ」
アンナは腹を抱え、涙を浮かべながら言葉を継ぐ。
その瞳の奥には、絶対的な自負が宿っていた。
「特に、召喚術師のあんた。そんな甘い考えじゃ、まだまだ半人前もいいところね。――ねえ、コボルト……?」
「え……っ!」
サリーの足元から、湿った土を跳ね除けて「それ」は這い出した。
現れたのは、骨張った身体に灰色の体毛を纏った小さな小鬼――コボルト。
一匹、また一匹と、サリーの影を起点にその不気味な姿が増殖していく。
「小鬼? いつの間に……!?」
突然の出現に、アクアが思わず足を止める。
「まだまだ召喚術師としての腕前は素人ね。私くらいのレベルになれば、マーメイドを維持しながら別の使い魔を編み込むなんて造作もないことよ」
アンナが高らかに指を鳴らす。
その合図と共に、サリーを取り囲むようにして更にもう二匹のコボルトが土から這い出し、牙を剥いた。
「この小鬼たちはね、単体じゃ弱すぎて使い物にならないけど……魔力の消費が極端に低いから、こうして多重召喚して牽制に使うには最高なのよ。――さあ、遊んであげなさい!」
獰猛な咆哮と共に、コボルトたちが一斉に跳躍した。
小さく鋼のように鋭い牙が、無防備なサリーとアクアの四肢を目掛けて深く食らいつく。
「ああっ……! 離して、この……っ!」
サリーは魔導書を盾に抵抗するが、コボルトたちの連携は執拗だった。
一匹を振り払えば、影から生まれた別の個体が即座にその隙を埋める。
数の暴力と小回りの利く波状攻撃の前に、二人はただ防戦一方へと追い込まれていく。
「サリーさん、こっちへ!」
アクアの鋭い声が響いた。
サリーが必死の思いでコボルトを蹴り飛ばしてアクアのもとへ駆け寄る。
アクアは即座に手にした傘をまるであたりに慈雨を降らせるように「相合傘」の形でサリーの頭上へと差し出した。
「サリーさん、ここから出ないでください!」
アクアが鋭く言い聞かせると同時に、傘の縁から清冽な水が溢れ出した。
それは激流ではなく、薄いヴェールのような半透明の天蓋となって、二人を包み込む。
相合傘のように寄せ合った二人の周囲に何者も寄せ付けない円形の聖域が展開された。
ドカッ、ガツンと鈍い音が響く。
殺到したコボルトたちが次々と水の壁に衝突し、弾き返されていく。
小鬼たちは牙を剥き、爪を立てて結界を突き破ろうとするがアクアの差し出す傘が放つ穏やかなマナに遮られてその指先一つ触れることができない。
「助かったわ、アクア……!」
「はわわ……どうしましょう、これじゃ攻撃出来ない....」
サリーの耳元で、結界の外を見据えるウンディーネの鋭い叱咤が飛んだ。
「――何やってんの?あの女を倒すんでしょ?ならばサリー、私を還し、サラマンダーを出して!」
「え? サラマンダーを?」
「厄介な小鬼だけど、所詮は土塊の小物。圧倒的な火力で一掃してしまえばいいのよ!」
「なるほど……!」
ウンディーネの提案に、サリーは弾かれたようにアクアへ振り返った。
反撃の灯火がその瞳に宿る。
「アクア、私とサラマンダーでコボルトを殲滅するわ!その間、あなたは結界で術者を抑えて!」
「分かった、やってみる!」
アクアは決然と頷き、傘の柄を両手でしっかりと握り直した。
荒れ狂う小鬼の群れの中、サリーの魔導書から紅蓮の魔力が渦巻き始める。
「サラマンダーお願い!」
呼応するように、足元の魔法陣から蒸気が噴き出して水のマナが瞬時に紅蓮の業火へと反転した。
サラマンダーが顕現する。
サリーは迷わずその赤い背へと飛び乗った。
「お願い、焼き払って!」
サラマンダーが咆哮を上げて森の空気を一気に加熱させる。
空中へと駆け上がったその口端から、凝縮された紅蓮の火球が連射された。
逃げ場を失ったコボルトの群れが、爆炎の中に飲み込まれていく。
圧倒的な火力の前に、土の偽物たちは悲鳴を上げる間もなく一瞬で塵へと化し、殲滅された。
「クソ……ッ!」
アンナが表情を歪めて上空を舞うサリーとサラマンダーに視線を奪われた。
召喚術師同士の空中戦を予感させた、その一瞬――――。
「横がガラ空きですよ!」
結界の中から、アクアの声が響いた。
彼女は、サラマンダーの火球によって溶け始めた巨大な氷壁――そこから滴り落ちる大量の水のマナを見逃さなかった。
アクアが傘を振るうと同時に、水溜りが生き物のように跳ね上がる。
うねるような水の触手が、氷壁から蛇のように伸び出し、霧の如き速さで空間を走った。
「あ……!?」
アンナが気付いた時にはすでに遅い。
氷から生まれた水の鞭が、逃げようとするアンナの四肢を執拗に絡め取り、その場に縫い付けた。
「やったねアクア! 私たちの勝ちだわ!」
空中から飛び降りたサリーがサラマンダーを消還させながら晴れやかな声を上げた。
水と火、そして氷をも利用した完璧な連携。
拘束されて膝をついたアンナを見下ろし、二人は確かな勝利を確信した。
「はいっ!」
アクアもまた、傘を閉じて可憐に微笑む。
だが。
「……ハ、アハハハ」
拘束されたまま地面に伏していたアンナが、肩を震わせて低く笑い始めた。
その笑い声は次第に大きくなり、森の静寂を不吉に塗りつぶしていく。
「何がおかしいの?」
サリーが怪訝そうに眉をひそめる。
「……私の意識があるうちは、それを『勝利』とは呼ばないのよ。まだ、何も終わってなんていないわ」
アンナは顔を上げて二人を射抜くような冷たい眼差しを向けた。
その手元――泥にまみれた魔導書が、主の拘束など意に介さぬように蒼い光を放ち続けていることに二人は気づく。
「まさか……コボルトがまだ残っているの!?」
サリーが咄嗟に身構えた。
「違う……。これはコボルトの魔力じゃないわ。……マーメイドよ」
アンナの不敵な宣告にサリーとアクアの背筋を凍るような戦慄が駆け抜けた。
二人は弾かれたように、戦場を二つに分断していたあの巨大な氷壁へと視線を向ける。
そこは、先ほどまでスノウとマーメイドが死闘を繰り広げていた場所。
しかし、立ち込める冷気の霧が晴れたあとに残されていたのは砕け散った氷の残骸だけだった。
そこには、氷の弓を構えていたはずのスノウの姿も、歌声を操っていたはずのマーメイドの姿も、跡形もなく消え去っていた。
ただ、冷たく湿った風だけが、無人の戦場を吹き抜けていった。




