56話、賢人たちの逆襲・『ワールド・ウォーフェア』2
その魔導書には、アレイスターの生涯を懸けた「平和への祈り」が綴られているはずだった。
魔導書『ワールド・ウォーフェア』。
ひとたび発動すれば、対象の魂を疑似空想世界へと誘い、対象は肉体を傷つけることなく終わりのない戦場を体験させる。
死の痛みと共に「戦争の愚かさ」を魂に刻み込み、現実へと送還する——誰も殺さず、誰も傷つけず、ただ争いの火種だけを消し去るための極大魔法。
しかし、書き上げられた理論を前にアレイスターは出口のない迷宮に立たされていた。
「……これでは、本末転倒だ」
羽ペンを握る指先が黒いインクで汚れている。
机の上に山積みとなった羊皮紙には、血の滲むような計算式が幾重にも書き殴られていた。
この魔法は、術者一人の魔力だけでは到底その天秤を維持できない。
世界を一つ創造して魂を繋ぎ止めるための対価として、術者自身の「臓器」を捧げることを要求するのだ。
戦争を止めるための魔法を放つために、己の身を削らねばならない。
その矛盾を解消すべく、彼は犠牲を最小限に限りなく「無」に近づけるための調整に没頭していた。
だが、強大な理をリスクなしで制御することの難しさは、まるで空に筆を走らせて絵を描こうとするほどに無謀な試みだった。
「これじゃダメだ……!こんな術式、認められるはずがない!」
天才と謳われた魔導師の咆哮が、静寂に包まれた研究室に虚しく響く。
完璧なはずの理論は代償という壁に阻まれ、歪な形を成していた。
そんなある日。
アレイスターは煮詰まった思考を休めるため、森へと足を運んでいた。
木漏れ日が揺れる柔らかな陽光の下、セシルたちが山菜を摘む賑やかな声が響く。
「姉さん、見てみて! あそこに大きなキノコが!」
「ちょっとアラン、待ちなさい! 一人で走ると危ないわよ!」
目当ての獲物を見つけたのか、幼いアランが弾かれたように草むらを駆けていく。
先走る弟を叱りながらも、その顔に笑みを浮かべて追いかけるセシル。
研究室の陰惨な計算式とは無縁の眩しいほどに穏やかな日常。
アレイスターはそんな二人の背中を後ろから見守り、そっと目を細めた。
(……ああ, そうだ。この光景を守るためなら、俺は……)
決意を深めようとしたその時、背筋を撫でるような違和感にアレイスターの思考が止まった。
何者かが、茂みの奥から自分たちを観察している。
魔導師としての鋭敏な感覚が警告を発した彼は反射的に背後を振り仰いだ。
木々の隙間に揺れたのは見間違えるはずもない冷徹な鉄紺色の布地.
——軍事国家アレスの制服。
一瞬、目が合ったようにも思えたがその人影は霧が晴れるように音もなく森の深奥へと消えていった。
(……アレスの制服だと!?奴らに、この森のエルフの存在を悟られたというのか?)
心臓の鼓動が早まる.
平和への祈りを込めた未完成の魔導書と忍び寄る鉄の足音。
アレイスターの胸に拭い去れない不安が黒く広がっていった。
予感は最悪の形で的中した。
翌朝。
アレイスターが自宅のポストで見つけたのは、一通の厚手の封筒だった。
上質な紙に押された剣と盾をあしらった無機質な蝋封。
それは、かつて魔王を倒した「英雄アレイスター」へと宛てられた軍事国家アレスからの正式な招待状だった。
指先に伝わる封筒の冷たさが現実味を帯びて思考を侵食する。
アレイスターの脳裏をよぎったのは、長老エイワス翁が漏らしていた「近隣諸国への侵攻」という不穏な噂だ。
(アレスは、エルフの里を次の侵攻地に定めているのではないか? もしそうなら、ここはもう、安全な隠れ家ではない……)
最悪のシナリオが、頭の中で急速に形を成していく。
この手に握られた魔導書が奴らの手に渡ればどうなるか。
喉の奥に焦燥が込み上がり、招待状を握りしめたアレイスターは弾かれるようにエイワス翁の元へと駆け出した。
息を切らして長老の住まう大樹の私室に飛び込んだアレイスターをエイワス翁は静かに迎え入れた。
事情を聴き終えた翁は、深く刻まれた眉間の皺をさらに深くそして、重々しく口を開いた。
「ふむ……そうか。アレスの者に、この聖域を見つけ出されてしまったか」
翁の言葉は落胆の色を帯びていたが、アレイスターに迷いはなかった。
彼は握りしめた招待状を机に叩きつけるように置くと翁の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「エイワス翁。私がアレスへ赴きます。奴らが求めているのは私の知識——『ワールド・ウォーフェア』だ。私自身が奴らの元へ下れば、少なくとも今すぐこの里に兵が向けられることはないはずです」
それは、自ら進んで虎口に飛び込むに等しい提案だった。
「その間に、どうか皆を避難させてください。私が奴らを繋ぎ止めておける時間は限られていますが、里の皆を救うためなら……私は、何だって差し出します」
かつて世界を救った英雄が、大切な人々を守るために再び修羅の道へと身を投じる決意を固めた瞬間だった。
「待て。そう焦るではない。アレイスターよ、物事は力だけで解決するわけではないぞ」
エイワス翁が、震える手でアレイスターの肩を制した。
その眼差しは、慈愛とどこか深い諦観を含んでいる。
「もしもアレスが純粋な平和的交渉を望んでいるとしたらどうする。全ての者が領土の侵攻を望んでいるわけではない。対話によって親交を深める手段もあるいは残されているかもしれぬのだ」
翁の言葉は正論だった。
長年、種族の長として多くの争いを避けてきた彼らしい慎重な判断だ。
「……確かに、翁の言う通りかもしれません。アレスの内情も、今や一枚岩ではないでしょう」
アレイスターは一旦言葉を呑み込み、静かに肯いた。
しかし、彼の胸の内に渦巻く黒い澱までは消せなかった。
脳裏に焼き付いているのは昨日森の影で見かけたあの軍人の姿だ。
「エイワス翁、私の杞憂であれば良いのですが……アレスの背後には、何か良からぬ者が暗躍している気配を感じるのです。理屈ではありません。かつて魔王の軍勢と対峙した際に感じた、あの肌を刺すような禍々しく、底冷えするような邪悪。それと同質の『悪魔』の影が、今の彼らには揺れている」
震える声を抑えてアレイスターはさらに身を乗り出した。
「私はどうしても、彼らを信用することができません。翁、お願いです。私の言葉を信じて、一刻も早く里の皆を避難させてください。最悪の事態が起きてからでは遅すぎるのです!」
アレイスターの嘆願を聞き入れたエイワス翁が苦渋の決断を下そうとその重い腰を上げようとした、その瞬間だった。
―——突如として、大樹全体を震わせるような凄まじい魔力の奔流が、天空から降り注いだ。
アレイスターと翁は顔を見合わせて弾かれたように外へと飛び出す。
上空を見上げた二人の眼前に広がっていたのは、悪夢のような光景だった。
静かな森の空を異様な紫黒色の幾何学模様が覆い尽くしている。
大気は震え、鳥たちは悲鳴を上げて一斉に飛び去っていく。
その魔法の正体をアレイスターは誰よりも熟知していた。
「この魔法……まさか、『ワールド・ウォーフェア』!? なぜだ、なぜ今、ここで発動している!?」
アレイスターの叫びが空に消える。
答えは一瞬にして導き出された。
自分がここへ誘い出された隙に工房が無防備になったのだ。
その頃、アレイスターの工房には見るも無惨な光景が広がっていた。
不用意に禁断の術式を起動させたアレスの兵士数名が魔法の「代償」に耐えきれずに自らの臓器を蝕まれて物言わぬ肉塊へと成り果てていた。
床に伏した彼らの血が平和への祈りが綴られたはずの羊皮紙を無残に汚している。
「ふぁ……あーあ。たかだか数人の臓器程度じゃ、この規模の維持はキツいか。アレイスターの奴、随分と自分勝手な理屈で魔法を組んだもんだ」
惨劇の真っ只中で、気だるそうに欠伸を漏らす影があった。
丘の上から里全体が紫黒色の魔力に飲み込まれていく様をベルフェゴルは退屈そうに見下ろしていた。
「掃除は雑魚どもに任せて、俺はのんびりこの里で”魔王の残骸”探しと行こうか。……あー、面倒。いっそ里ごと消しちゃえば楽なんだけどなぁ」
そう呟く悪魔の瞳には、かつての英雄が最も恐れた昏い虚無の光が宿っていた。
アレイスターの最悪の予感は、今ここに残酷な真実となって突きつけられた。
アレスという国家が掲げる「近隣諸国への侵攻」という大義名分は所詮、ベルフェゴルが己の目的である”魔王の残骸”を効率よく掘り起こすための目隠しに過ぎなかったのだ。
一国の軍隊を使い走りにして一族の平和を塵芥のように踏みにじる。
その底知れない悪意の正体に気づいたとき、アレイスターの胸中で何かが激しく音を立てて砕け、そして燃え上がった。
(奴らは、救いなど求めていない。対話など届くはずがない……)
紫黒色の空の下、かつての英雄は未完成の魔導書を取り戻すべくエイワス翁と共に絶望の渦中へと走り出した。




