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身代わりロッカーー不運を預けるつもりが、預けられていたのは自分のほうだった。

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/20

 地下鉄のホームの匂いが、好きではなかった。

 油と金属と、どこから来たのか分からない湿った風。朝のラッシュ前、まだ人の少ない時間帯でも、その匂いだけは確かにそこにあった。


 相沢信也は、片手に紙コップのコーヒーを持ったまま、いつもの柱の前に立って電車を待っていた。スーツは量販店のセール品、ネクタイは三年前の正月に買った福袋の中身。鏡を見るたび、どこにでもいる「アラサー会社員」の見本みたいだなと自嘲する。


 その日、ホームの壁には、見慣れない看板が増えていた。


 「身代わりロッカー 本日オープン」

 「あなたの災難、ロッカーが肩代わりします」

 「願いを書いて入れるだけ。利用無料」


 派手なフォントと、柔らかく笑うキャラクター。縦に長いポスターが、ベニヤ板で仕切られた工事跡を隠すように貼られている。その下、銀色に光る新しいコインロッカーの列。どれもまだ傷ひとつない。


 信也は、コーヒーを一口飲んでから、ついポスターに近づいた。

 ロッカーの扉には小さな投入口がついていて、「願いの紙はこちらへ」と書かれている。横には説明書きのプレートがあった。


 「ご利用方法

 一、備え付けの用紙に、かなえたい願いごとをお書きください。

 二、用紙をロッカーの投入口へお入れください。

 三、ロッカーが、あなたの代わりに『災難』を引き受けます。

 ※詳細な仕組みは企業秘密です。

 ※人命に関わる行為・犯罪行為は固くお断りします。」


 最後の一文が、かえって怪しかった。


 「また妙なキャンペーンを始めたな」


 隣で同じ看板を眺めていた中年の男が、ぼそりと呟いた。

 スーツの胸ポケットには、この駅を管理する鉄道会社の社員証がぶら下がっている。


 「これ、本当に何か効果あるんですかね」


 信也がなんとなく口にすると、男は肩をすくめた。


 「さあね。上が決めたことだから。

  何でも、広告代理店が『話題性抜群です』って売り込んできたらしいよ。運だの縁だの好きだからね、みんな。お守りつき定期券も売れたし」


 確かに、駅の売店には、交通安全と書かれたキーホルダーやお守りが並んでいた。人はいつも、不確かなものに対して小さな安心を買いたがる。


 その日、信也はただそれだけを見て、会社へ向かった。


     ◇


 最初に「身代わりロッカー」の話題をちゃんと目にしたのは、数日後、ネットニュースの小さな記事だった。


 「地下鉄○○駅の『身代わりロッカー』、SNSで話題に」


 記事には、投稿された写真やコメントがいくつか載っていた。


 「ロッカーに『明日のテストがうまくいきますように』って書いて入れたら、本当にヤマ当たった!」

 「昨日失敗したくないプレゼンのことを書いて入れたら、相手の担当者が体調不良で延期になった。結果オーライ」

 「朝寝坊しそうだったのに、目覚まし止め忘れた自分グッジョブ。ロッカーのおかげ?」


 冗談半分、本気半分の浮ついた文章。

 信也は、それを読みながら、マウスをいじる手を止めた。


 その日の午後、彼は取引先で盛大にやらかした。

 新人時代から担当していた中小の食品メーカー。新しいパッケージ案を提案していたが、会議室に通された瞬間、担当者の表情がおかしいと気づいた。


 「相沢さん、これ、他社さんのデザインとそっくりなんですよね」


 テーブルに並べられた競合の商品サンプル。メインカラーもロゴ配置も、言い逃れできないほど似ていた。信也のほうが先に提案していたと主張しても後の祭りだった。上司からの電話は、帰りの電車の中で鳴り続けた。


 「ちゃんと調査してたって言ったよな? どうしてこうなる」


 言い訳を並べるほど、声のトーンは冷たくなっていく。

 電話が切れると同時に、車内アナウンスが流れた。


 「まもなく○○駅、○○駅です」


 扉が開くと同時に、冷たい空気が流れ込む。

 ホームに降り立った信也の視界の先、あの日のロッカーが並んでいた。


 足が、自然とそちらへ向かっていた。


     ◇


 ロッカーの前には、ペン立てと、小さなメモ用紙の束が置いてあった。

 メモ用紙の端には「身代わりロッカー」と印刷されている。罫線の一本一本が、何かの契約書のように見えた。


 信也は、ため息をついてからペンを取った。


 「明日の謝罪会議が、無事に終わりますように」


 書いたあと、自分で少し笑ってしまった。こんなものにすがるくらいなら、資料の一枚でも見直したほうがましだ。そう思いながらも、紙を二つ折りにして投入口から落とした。


 カタリ、と小さな音がする。

 それだけだった。ランプが光るわけでも、メロディが鳴るわけでもない。


 翌日。

 謝罪会議は、拍子抜けするほどあっさり終わった。


 「今回の件は、双方ともに調査不足ということで」


 先方の部長が、頭を下げた。その隣で、担当者が青い顔をして立っている。彼の上司が、どうやら競合案件の情報共有を怠っていたらしい。自社だけが責められる形にはならなかった。


 会議室を出て廊下を歩きながら、上司が小声で言った。


 「運が良かったな。普通ならもっと揉めるぞ、こういうの」


 運。

 その言葉が耳に残った。


     ◇


 それから、信也は時々ロッカーを使うようになった。


 朝の満員電車で上司と鉢合わせしませんように。

 月末の数字が、どうにかノルマに届きますように。

 実家からの「そろそろ結婚は」の電話が来ませんように。


 くだらない願いばかりだった。

 それでも、書いて入れると、少しだけ気分が軽くなった。


 奇妙なことに、小さな幸運は重なり始めた。


 いつもギリギリだった売上が、あと一件で届かなかったところを、キャンセルしていた客から急な追加発注があって埋まったり。

 偶然にも電車の遅延で、遅刻しそうだった打ち合わせの開始時間がずれたり。


 もちろん、ただの偶然だと言われればそれまでだ。

 だが、人は偶然を、自分に都合のいいように物語にしてしまう生き物だった。


 ロッカー前には、日を追うごとに人が増えていった。

 学生、スーツ姿の会社員、買い物帰りの主婦。並んだ列は、占いの館か有名な神社のようだった。


 ある日、若い女性二人組が、ロッカーの前で楽しそうにスマホを見せ合っているのが聞こえた。


 「見て見て、昨日のニュース。『身代わりロッカーを使ったら宝くじ当たった』って投稿、バズってる」

 「ほんとだ。やば〜。でもさ、その裏で誰かの運が悪くなってたりして」

 「やだ、怖いこと言わないでよ」


 彼女たちは笑いながら、それぞれ紙に願いを書き始めた。


 信也は、ペンを握ったまま手を止めた。

 その会話が、妙に引っかかった。


 「裏で誰かの運が悪くなってたりして」


 自分の小さな幸運の影で、誰かが何かを失っているのだろうか。

 そんなことを少し考えてみても、答えなど出るはずがなかった。


 その夜、ニュースで見たのは、信也の利用する地下鉄とは違う路線の事故だった。


 「人気占い師、階段から転落し重傷」


 テロップの横の写真には、テレビで見たことのある笑顔の女性が映っていた。その人のブログタイトルには、こう書かれていた。


 「明日の不運、私が引き受けます」


     ◇


 ロッカーについて、本気で調べてみる気になったのは、三度目の「助かった偶然」のあとだった。


 三度目は、雨の日だった。

 取引先に向かう途中、突然の豪雨に見舞われた。持っていた折りたたみ傘は、駅を出て数分で役に立たなくなった。スーツの肩はびしょ濡れになる。


 信号待ちの横断歩道の向こう側で、トラックが急にスリップするのが見えた。

 運転手が必死にハンドルを切る。歩道に向かっていた車体が、ぎりぎりで電柱にぶつかり止まった。


 もし、あと数歩進んでいたら。

 もし、青信号に変わるのを待てずに走り出していたら。


 信也は、自分の靴の先を見つめた。雨のしずくが、つま先からぽたぽたとアスファルトに落ちる。


 その日の朝、ロッカーに入れた紙にはこう書いていた。


 「今日は事故に遭いませんように」


     ◇


 身代わりロッカーを運営している会社の名前は、ポスターの端に小さく書かれていた。

 「ミナモト・ソリューションズ株式会社」。聞いたこともない社名だった。


 検索してみると、コンサルティング会社だとか、データ解析だとか、もっともらしい言葉が並んでいる。オフィスは駅に近い雑居ビルの七階。受付の写真では、観葉植物の横に笑顔の受付嬢が写っていた。


 「クライアント企業様のリスクを、データの力で最適化いたします」


 ホームページのキャッチコピーを見た瞬間、信也は、ロッカー前で聞いた若者の会話を思い出した。


 「裏で誰かの運が悪くなってたりして」


 ――リスクを、最適化。


 翌週の有給届を出しながら、信也は自分でも笑ってしまった。

 何をやっているのだろう、と。


     ◇


 ミナモト・ソリューションズのオフィスは、写真の通りだった。

 エレベーターを降りると、白い壁と観葉植物。ガラス扉の向こうには、受付カウンターがあり、その向こうで黒髪をまとめた女性がにこやかに頭を下げた。


 「ご予約はされていますか」


 「いえ……その、『身代わりロッカー』のことについて、お話を伺えればと。利用者の一人なんですが」


 自分でも、何をどう説明すればいいのか分からないまま口を開く。

 受付の女性は、少しだけ目を丸くしてから、穏やかに微笑んだ。


 「少々お待ちくださいね」


 彼女が内線で誰かと話す声が、ガラス越しにくぐもって聞こえる。

 しばらくして、奥からスーツ姿の男性が現れた。四十代くらい、痩せていて、眼鏡の奥の目がどこか計算高そうだった。


 「お待たせしました。ロッカー事業の担当をしております、谷川と申します」


 会議室に通され、ペットボトルの水が出された。

 ガラス張りの室内からは、外の景色がよく見えた。だがどれも、薄いフィルムを透かして見ているように、現実感がなかった。


 「それで、本日はどのようなご用件で」


 「ロッカーの仕組みについて、教えていただけないかと思いまして」


 谷川は、一瞬だけ笑みを崩した。


 「仕組み、ですか。詳しいアルゴリズムは企業秘密になっておりまして。ホームページにも書かせていただいている通り、願いの内容をデータとして解析し、弊社独自のリスク分散システムにより――」


 「誰かの不運を、誰かに押しつけているんじゃないですか」


 自分でも驚くほど、声がはっきり出ていた。

 谷川の言葉が途中で止まる。


 会議室の空気が、少しだけ重くなったように感じた。


 「……面白い視点ですね」


 谷川は、ゆっくりと手を組んだ。


 「ロッカーに願いを書く人がいます。

  その願いの多くは、『何かが起きなかった状態』を望むものです。事故に遭わない、失敗しない、怒られない。

  しかし、現実の世界では、すべての危険が消えてなくなるわけではない」


 「だからって、それを他人に回すのが、あなたたちのやり方ですか」


 「回す、というより、『寄せる』と言ったほうが近いでしょうか。

  どのみちどこかで起こる不運なら、受け止める人を、効率的にまとめてしまったほうが管理しやすい。保険のようなものです」


 保険。

 その言葉の軽さに、信也は言いようのない苛立ちを覚えた。


 「じゃあ、その『まとめて』押しつけられているのは、誰なんです」


 谷川は、しばらく黙っていた。

 窓の外で、ビル風が何かを吹き飛ばす音がした。


 「お客様は、よくロッカーをご利用されていますね」


 「……え?」


 「駅のカメラを確認させていただきました。防犯上の理由から、特定の利用者様の動向は把握しています」


 心臓が、どくりと跳ねた。

 いつ、どこで、どんな姿でロッカーの前に立っていたかを、思い返そうとしても、うまくいかなかった。自分の記憶が、監視カメラの映像に負けているような気がして、嫌だった。


 「もしよろしければ、『契約者専用ロッカー』をご覧になりますか」


 谷川の口元に、薄い笑みが戻った。


     ◇


 「契約者専用ロッカー」は、地下鉄のホームのものとよく似ていた。ただし、こちらには投入口はなく、普通の鍵穴がついている。番号は一から百まで。まだ半分以上が空いているようだった。


 「ロッカーというのは、入れるだけでなく、取り出すためのものでもありますからね」


 冗談めかして言いながら、谷川は「013」と書かれたロッカーの鍵を取り出した。

 金属がこすれる乾いた音とともに、扉が開く。


 中には、分厚いファイルが一冊収められていた。

 白い表紙に、シールで番号が貼られている。「13」。


 「お客様の番号です」


 「僕の……?」


 「ロッカーのご利用履歴から、自動的に割り振られます。頻度と内容に応じて、『身代わり容量』のある契約者の方に、順次お振り替えさせていただいております」


 身代わり容量。

 耳慣れない言葉だったが、意味はなんとなく分かった。要するに、どれだけ不運を引き受けられるかの「余白」のようなものだろう。


 「このファイルには、お客様がロッカーに預けた『災難』の行き先と、お客様が引き受けられた災難の記録が、すべて残っています」


 谷川は、ファイルを両手で取り出し、会議室のテーブルの上に置いた。

 ページの端は、きれいに揃えられている。新品同様に見えた。


 「ご覧になりますか」


 「……いいんですか」


 「お客様の情報ですから。もちろん、ここから外へ持ち出すことはできませんが」


 信也は、椅子に腰を下ろし、ファイルの表紙に手をかけた。

 心臓の音が、紙をめくる音よりも大きく聞こえる。


 一ページ目。

 左側には日付と、駅名と、ロッカー番号。右側には、願いの内容と、転送先のコードのような数字が並んでいた。


 「明日の謝罪会議が、無事に終わりますように」

 「今月のノルマが達成できますように」

 「事故に遭いませんように」


 自分の字だ。

 クセのある「会」の書き方や、かすれた「月」の線。どれも、間違いなく自分の筆跡だった。


 その右側に、小さくコードが記されている。「A-27」「C-04」……意味は分からない。


 ページをめくるごとに、自分の願いが続く。

 くだらないものもあれば、切実なものもある。


 「お盆の帰省で、親に結婚のことを聞かれませんように」

 「健康診断の結果が悪くありませんように」

 「このままクビになりませんように」


 その願いひとつひとつが、どこかの誰かの元へ送り出され、別の誰かの災難が、自分のもとへ送り込まれていたのかもしれない。


 「右側のコードは、転送先の契約者番号です」


 谷川が、淡々と説明する。


 「お客様がロッカーに預けられた『起こりうる災難』は、リスク許容量の高い契約者様へと集約されます。

  例えば、日頃から危険な仕事をされている方や、統計的に見て生活習慣上のリスクが高い方など。そうした方々に、見えないかたちで、少しずつしわ寄せが行くのです」


 「ひどい話ですね」


 思わず口から出た。

 谷川は、少しだけ首を横に振る。


 「保険だって似たようなものです。健康な方がお金を払い、病気の方がそのお金を使う。

  ただ、私たちのシステムは、その逆も同時に行います。リスクを集約しきれない部分を、ある一定の契約者にまとめて引き受けていただく」


 「ある一定の……」


 そこで言葉が途切れた。

 ページの後半、右側の欄のコードが、急に同じものばかりになっているのに気づいたからだ。


 「S-00」


 「S-00」


 「S-00」


 数ページにわたって、ほとんどすべての行の右側が「S-00」になっていた。


 「それが、『身代わり専用』の契約者番号です」


 谷川は、声のトーンを変えずに言った。


 「多くの方の災難を引き受けることを前提に契約されている方。

  その方のおかげで、大多数の利用者の方は、安全側に偏った日常を送ることができている」


 「その人は、どうしてそんな契約を」


 「様々な事情があります。金銭的なもの、家族関係、あるいは――」


 谷川は、それ以上は話さなかった。

 白い天井の照明が、紙の上でにじむ。


 「最初のページに戻ってみてください」


 促されるまま、信也はページを手繰る。

 ファイルの一番最初、見返しの裏紙に、一枚だけ別の紙が貼られていた。


 それは、ロッカーに入れるものと同じメモ用紙だった。

 ただし、印刷された「身代わりロッカー」のロゴの下、びっしりと細かい文字が書き込まれている。願いというよりは、契約条項のようだった。


 「この人の代わりに、私の災難をすべて引き受けてください」


 そう書かれた一行のあとに、名前があった。


 「相沢信也」


 見慣れた自分の名前。

 その下に書かれているのは、署名のようなものだった。


 震える手で、信也はそこに書かれた文字をなぞった。


 「……これ」


 見覚えのある筆跡だった。

 丸みのある「沢」の書き方。最後の点を、少しだけ大きく書く癖。

 十年以上前から、ずっと見てきた文字。


 「母さんの字だ」


 声にならない声が、喉の奥で崩れた。


     ◇


 ファイルの最初のページの日付は、十五年前だった。

 まだ身代わりロッカーなど存在しなかったはずの頃だ。


 「ロッカー事業は、ここ数年のことですが、システム自体は以前からあったのです」


 谷川が、背後から静かに言った。


 「当初は、ごく限られたお客様への『リスク引き受けサービス』として提供していました。

  例えば、ある政治家の方が、『自分の身に起こりうる不祥事を、すべて別の誰かに集約してほしい』と望まれたことがありまして」


 遠い音のように聞こえた。

 十五年前。信也がまだ中学生だった頃。父親の会社が倒産し、家は一度、夜逃げのようなことをした。母親はパートを掛け持ちしながら、家計を支えていた。


 その年、信也は、自転車で車にぶつかった。

 相手の不注意だったが、結局、保険のやりとりはぐだぐだになり、通院が長引いた。部活もやめざるをえず、成績も落ちた。

 その後も、妙に運の悪い出来事が続いた。受験のときにはインフルエンザにかかり、第一志望に落ちた。就職活動では、内定が出た直後に会社が合併のゴタゴタで採用取り消しになった。


 「お母様は、ご家族の中で誰か一人を指定し、その方にご自身の災難を集中させる契約をされたのでしょう。ご家族全体のリスクを下げるために」


 「そんな……」


 信也は、ページを握る指に力を込めた。

 紙がくしゃりと音を立てる。


 「あの人は、そんなことする人じゃない」


 そう言いかけて、言葉が喉で止まった。

 母親は、いつも言っていた。


 「うちには、運が一つしかないのよ。誰か一人が全部持っていったら、他の人が困るでしょ」


 冗談のように笑いながら、くじ引きやビンゴ大会では、絶対に自分の番になると譲ってくれた。

 あれは、そういう意味ではなかったのだろうか。


 「もちろん、お母様だけが悪いわけではありません」


 谷川の声は、どこまでも平板だった。


 「我々は契約時に、十分な説明をさせていただいた上で、お客様自身のご意思でサインをいただいております。

  『身代わり専用契約者』の方々には、一定の金銭的補償も行っていますし、ご家族の生活状況を改善するための支援も――」


 「それで、僕の運が悪かった理由が、ちゃんと説明できたとでも?」


 声が荒くなっているのが分かった。

 谷川は、一歩も引かなかった。


 「『運が悪かった』とおっしゃいますが、お客様は本日まで、命に関わる重大な事故には遭われていない。

  それは、お客様自身の回避能力と、システムの調整によるものです。

  もし契約がなければ、ご家族の方々のうち、どなたか一人が――」


 それ以上は、聞きたくなかった。

 信也は、椅子を乱暴に引いて立ち上がった。


 「契約を、やめることはできますか」


 谷川は、少しだけ目を細めた。


 「『身代わり専用契約者』の変更には、別の方の同意が必要です。

  新たにどなたかが、『この人の代わりに、私が災難を引き受けます』とロッカーに書いてくだされば、契約の上書きは可能です」


 「そんな人、いるわけないでしょう」


 「皆さん、そうおっしゃいます。

  ですが、このシステムは、廃止される気配がない。

  それだけ、利用する方が多いということです」


 会議室の空調の音が、やけに大きく聞こえた。


     ◇


 地下鉄のホームに戻ると、ロッカーの前には、いつものように列ができていた。

 会社員、学生、買い物袋を提げた老夫婦。皆、小さな紙切れに何かを書き込み、それを投入口にすべり込ませていく。


 「明日、告白が成功しますように」

 「テストで赤点を取らないように」

「手術が成功しますように」


 誰かが口の中で読み上げた願いごとが、耳に入ってきた。

 その一つ一つの言葉の奥に、見えない矢印が伸びていて、その矢印の先に、自分が立っているような気がした。


 列の最後尾に並びながら、信也は、自分でも驚くほど冷静だった。


 順番が来る。

 ペン立てから一本、ボールペンを抜く。

 メモ用紙を一枚取る。


 その紙の上で、手が止まった。


 ――『この人の代わりに、私の災難をすべて引き受けてください』


 十五年前、母親が書いたであろう文面。

 同じ言葉を、そのままなぞることもできた。

 母親の名前を書いて、矢印を逆向きにすることもできた。


 けれど、ペン先は、どちらにも動かなかった。


 代わりに、紙の中央に、自分の名前を書いた。


 「相沢信也」


 その下に、一行だけ、短い願いごとを書き足す。


 「これ以上、誰かの災難を僕に集めないでください」


 それが、願いなのか、拒絶なのか、自分でもよく分からなかった。

 紙を二つ折りにして、投入口へ押し込む。


 カタリ。


 小さな音が、内部の闇に吸い込まれていった。


     ◇


 翌朝、駅のホームに降りると、ロッカーの前に新しい張り紙がしてあった。


 「本日をもちまして、『身代わりロッカー』の実証実験は終了いたしました。

  ご利用ありがとうございました」


 ただそれだけ。

 ロッカーの扉には、黄色いテープが貼られ、鍵穴には封印用のシールが貼られている。投入口も目張りされていた。


 「終わるの、早いな」


 隣で張り紙を眺めていた鉄道会社の社員が、ぼそりと言った。


 「ニュースで、ちょっと騒がれましたからね。『運を操作するなんて倫理的にどうなんだ』とか、『当たり外れが偏っている』とか。上も面倒になったんでしょう」


 「偏っている、ですか」


 信也は、思わず聞き返した。


 「何でも、このロッカーを使った人の中に、妙に運の悪い人がいるって噂で。

  事故に二回遭って、会社クビになって、彼女にも逃げられて、宝くじもかすりもしないとか。そいつのせいでバランスとれてんじゃないかって、ネットでネタになってましたよ」


 社員は、どこか他人事のように笑った。

 笑い声が、ホームの天井に吸い込まれていく。


 「そんな人、本当にいるんですかね」


 「さあね。顔も名前も分からない、誰かの話ですよ」


 電車がホームに滑り込んできた。

 風がポスターを揺らす。身代わりロッカーのキャラクターが、最後の挨拶をしているように見えた。


 電車の扉が開き、人が乗り込んでいく。

 信也は、ひと呼吸おいてから、その流れに身を任せた。


     ◇


 それから数週間、特別に運が良くなることも、悪くなることもなかった。


 残業は相変わらず多く、上司には怒られ、小さなミスは続いた。

 けれど、電車が脱線することも、歩道橋が崩れることも、空から何かが落ちてくることもなかった。


 ニュースも、相変わらず誰かの不幸と誰かの幸運で埋まっていた。

 ただ、それが自分とどこかで繋がっているような感覚は、少しずつ薄れていった。


 ある晩、仕事で遅くなり、終電間際に駅に着いた。

 ホームは、昼間とは違って静まり返っている。

 封印されたロッカーの列だけが、蛍光灯の下で銀色に光っていた。


 近づいてみると、一つだけ、封印のシールが剥がれかけているロッカーがあった。

 番号は「013」。


 指先でそっと触れると、シールは簡単に剥がれた。

 鍵穴はむき出しになっている。


 ――鍵なら、あの会社にまだある。


 そう思って、すぐに首を振った。

 もう、関わらないほうがいい。


 それでも、目は自然と、扉の隙間に吸い寄せられる。

 薄暗い隙間の向こうには、紙の端のようなものが見えた気がした。


 「……開けたいですか」


 背後から声がした。

 振り向くと、あの日の谷川が、改札のほうから歩いてきていた。


 スーツ姿は変わらない。ただ、ネクタイの色が違う。

 人混みの中では気づかなかっただろうが、今は他に誰もいない。


 「たまに、確認に来るんです。実験機材の回収がきちんと進んでいるかどうか」


 谷川は、ポケットから小さな鍵束を取り出した。

 銀色の鍵には、013と刻まれている。


 「最後に、中をご覧になりますか」


 信也は、迷った。

 ここで断れば、きっと二度と知ることはないだろう。

 このロッカーの中に、自分の名前が何回書かれ、どんな願いの的になってきたのか。


 「……見ます」


 そう答えていた。


 鍵が回る音がして、ロッカーの扉がゆっくりと開く。

 中には、あの日見たのと同じファイルが一冊だけ入っていた。


 表紙をめくると、最初のページに、母親の筆跡がある紙が貼られている。

 その紙は、少し黄ばんでいた。


 「この人の代わりに、私の災難をすべて引き受けてください」


 相沢信也。


 信也は、それ以上読む気にはなれなかった。

 閉じようとしたとき、ファイルの最後のほうから、一枚の紙がひらりとこぼれ落ちた。


 拾い上げて見る。

 それは、見慣れたメモ用紙だった。


 中央に、大きく、自分の名前が書いてある。

 その下に、一行。


 「この人の代わりに、私の災難をすべて引き受けてください」


 十五年前とまったく同じ文面。

 ただ、筆跡が違っていた。


 自分が、数日前にロッカーに入れた紙ではなかった。

 見るまでもなく分かった。


 「……これは」


 指が震えた。

 文字の形、線の太さ、癖のあるはね方。


 それは、最近よく目にしていた字だった。


 「母さんの、じゃない」


 日用品の宅配便の伝票。

 病院の問診票。

 時々送られてくる、短いLINEのメッセージ。


 そして、もう一人。


 取引先との書類に押されたサイン。

 社内の回覧板に書かれた丸文字。

 去年まで付き合っていた彼女が、家に置いていったメモ帳の最後のページ。


 「……誰が書いたんですか」


 問いかける声は、自分でも驚くほど小さかった。


 「契約者番号S-00の新しいご契約者様です」


 谷川は、ロッカーの影の中で静かに答えた。


 「詳細情報はお見せできませんが、お客様の身近な方であることは確かです。

  最近まで、お客様のことをよく知っていた方。

  『あの人は、運が悪いからこそ、きっと全部引き受けてくれる』と、おっしゃっていました」


 誰の顔も、すぐには浮かばなかった。

 母親かもしれない。

 元恋人かもしれない。

 あるいは、昔の友人かもしれない。


 いずれにせよ、その誰かは、自分の名前を書いて、同じ願いを繰り返したのだ。


 この人の代わりに、私の災難をすべて引き受けてください。


 紙の端が、指の汗で少し濡れた。

 それでも文字は、にじまず、くっきりとそこに残っている。


 「この紙は、どうされますか」


 谷川の問いかけに、信也は答えられなかった。

 何を選んでも、誰かの災難はどこかに行く。


 ファイルを閉じる。

 紙を挟んだまま、ロッカーの中に戻す。


 扉が閉まる音が、ホームに響いた。


     ◇


 終電が行ってしまう。

 アナウンスの声が、遠くで聞こえた。


 「契約は、いつでも更新可能です」


 谷川は、そう言って鍵をポケットにしまった。


 「ただし、新しい願い主が現れない限り、最後に書かれた名前が有効です。

  それまでは、ロッカーは、きちんと約束を守ります」


 ホームの時計の針が、静かに進む。

 上りの電車の最終が到着し、わずかな乗客だけが降りてくる。皆、誰かの災難のことなど知らない顔をしている。


 電車の扉が閉まりかけたとき、谷川はふと振り向いた。


 「お客様」


 「……何ですか」


 「これでも、我々は、多くの方の安心のために仕事をしているつもりです。

  誰か一人を犠牲にしている、と言われれば、その通りかもしれませんが」


 「その『誰か』が、自分の名前だって、最初から知っている人はいるんですかね」


 信也の問いに、谷川は答えなかった。

 笑っているのかどうかも分からない表情のまま、軽く会釈をして歩き去っていった。


 電車の扉が閉まり、ホームに静寂が戻る。


 封印されたロッカーの列が、蛍光灯の光を鈍く反射している。

 金属の扉の向こう側で、無数の紙切れが眠っている。


 そこには、誰かの願いと、誰かの名前と、誰かの筆跡が、ぎっしりと貼りついているのだろう。


 自分の名前も、その中に混ざっている。

 最初のページにも。

 最後のページにも。


 身代わりロッカーは、何も答えない。

 ただ、口を閉ざしたまま、誰かの災難と、誰かの安心を、静かに預かり続けている。


 その日も、そしてきっと、明日も。

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