身代わりロッカーー不運を預けるつもりが、預けられていたのは自分のほうだった。
地下鉄のホームの匂いが、好きではなかった。
油と金属と、どこから来たのか分からない湿った風。朝のラッシュ前、まだ人の少ない時間帯でも、その匂いだけは確かにそこにあった。
相沢信也は、片手に紙コップのコーヒーを持ったまま、いつもの柱の前に立って電車を待っていた。スーツは量販店のセール品、ネクタイは三年前の正月に買った福袋の中身。鏡を見るたび、どこにでもいる「アラサー会社員」の見本みたいだなと自嘲する。
その日、ホームの壁には、見慣れない看板が増えていた。
「身代わりロッカー 本日オープン」
「あなたの災難、ロッカーが肩代わりします」
「願いを書いて入れるだけ。利用無料」
派手なフォントと、柔らかく笑うキャラクター。縦に長いポスターが、ベニヤ板で仕切られた工事跡を隠すように貼られている。その下、銀色に光る新しいコインロッカーの列。どれもまだ傷ひとつない。
信也は、コーヒーを一口飲んでから、ついポスターに近づいた。
ロッカーの扉には小さな投入口がついていて、「願いの紙はこちらへ」と書かれている。横には説明書きのプレートがあった。
「ご利用方法
一、備え付けの用紙に、かなえたい願いごとをお書きください。
二、用紙をロッカーの投入口へお入れください。
三、ロッカーが、あなたの代わりに『災難』を引き受けます。
※詳細な仕組みは企業秘密です。
※人命に関わる行為・犯罪行為は固くお断りします。」
最後の一文が、かえって怪しかった。
「また妙なキャンペーンを始めたな」
隣で同じ看板を眺めていた中年の男が、ぼそりと呟いた。
スーツの胸ポケットには、この駅を管理する鉄道会社の社員証がぶら下がっている。
「これ、本当に何か効果あるんですかね」
信也がなんとなく口にすると、男は肩をすくめた。
「さあね。上が決めたことだから。
何でも、広告代理店が『話題性抜群です』って売り込んできたらしいよ。運だの縁だの好きだからね、みんな。お守りつき定期券も売れたし」
確かに、駅の売店には、交通安全と書かれたキーホルダーやお守りが並んでいた。人はいつも、不確かなものに対して小さな安心を買いたがる。
その日、信也はただそれだけを見て、会社へ向かった。
◇
最初に「身代わりロッカー」の話題をちゃんと目にしたのは、数日後、ネットニュースの小さな記事だった。
「地下鉄○○駅の『身代わりロッカー』、SNSで話題に」
記事には、投稿された写真やコメントがいくつか載っていた。
「ロッカーに『明日のテストがうまくいきますように』って書いて入れたら、本当にヤマ当たった!」
「昨日失敗したくないプレゼンのことを書いて入れたら、相手の担当者が体調不良で延期になった。結果オーライ」
「朝寝坊しそうだったのに、目覚まし止め忘れた自分グッジョブ。ロッカーのおかげ?」
冗談半分、本気半分の浮ついた文章。
信也は、それを読みながら、マウスをいじる手を止めた。
その日の午後、彼は取引先で盛大にやらかした。
新人時代から担当していた中小の食品メーカー。新しいパッケージ案を提案していたが、会議室に通された瞬間、担当者の表情がおかしいと気づいた。
「相沢さん、これ、他社さんのデザインとそっくりなんですよね」
テーブルに並べられた競合の商品サンプル。メインカラーもロゴ配置も、言い逃れできないほど似ていた。信也のほうが先に提案していたと主張しても後の祭りだった。上司からの電話は、帰りの電車の中で鳴り続けた。
「ちゃんと調査してたって言ったよな? どうしてこうなる」
言い訳を並べるほど、声のトーンは冷たくなっていく。
電話が切れると同時に、車内アナウンスが流れた。
「まもなく○○駅、○○駅です」
扉が開くと同時に、冷たい空気が流れ込む。
ホームに降り立った信也の視界の先、あの日のロッカーが並んでいた。
足が、自然とそちらへ向かっていた。
◇
ロッカーの前には、ペン立てと、小さなメモ用紙の束が置いてあった。
メモ用紙の端には「身代わりロッカー」と印刷されている。罫線の一本一本が、何かの契約書のように見えた。
信也は、ため息をついてからペンを取った。
「明日の謝罪会議が、無事に終わりますように」
書いたあと、自分で少し笑ってしまった。こんなものにすがるくらいなら、資料の一枚でも見直したほうがましだ。そう思いながらも、紙を二つ折りにして投入口から落とした。
カタリ、と小さな音がする。
それだけだった。ランプが光るわけでも、メロディが鳴るわけでもない。
翌日。
謝罪会議は、拍子抜けするほどあっさり終わった。
「今回の件は、双方ともに調査不足ということで」
先方の部長が、頭を下げた。その隣で、担当者が青い顔をして立っている。彼の上司が、どうやら競合案件の情報共有を怠っていたらしい。自社だけが責められる形にはならなかった。
会議室を出て廊下を歩きながら、上司が小声で言った。
「運が良かったな。普通ならもっと揉めるぞ、こういうの」
運。
その言葉が耳に残った。
◇
それから、信也は時々ロッカーを使うようになった。
朝の満員電車で上司と鉢合わせしませんように。
月末の数字が、どうにかノルマに届きますように。
実家からの「そろそろ結婚は」の電話が来ませんように。
くだらない願いばかりだった。
それでも、書いて入れると、少しだけ気分が軽くなった。
奇妙なことに、小さな幸運は重なり始めた。
いつもギリギリだった売上が、あと一件で届かなかったところを、キャンセルしていた客から急な追加発注があって埋まったり。
偶然にも電車の遅延で、遅刻しそうだった打ち合わせの開始時間がずれたり。
もちろん、ただの偶然だと言われればそれまでだ。
だが、人は偶然を、自分に都合のいいように物語にしてしまう生き物だった。
ロッカー前には、日を追うごとに人が増えていった。
学生、スーツ姿の会社員、買い物帰りの主婦。並んだ列は、占いの館か有名な神社のようだった。
ある日、若い女性二人組が、ロッカーの前で楽しそうにスマホを見せ合っているのが聞こえた。
「見て見て、昨日のニュース。『身代わりロッカーを使ったら宝くじ当たった』って投稿、バズってる」
「ほんとだ。やば〜。でもさ、その裏で誰かの運が悪くなってたりして」
「やだ、怖いこと言わないでよ」
彼女たちは笑いながら、それぞれ紙に願いを書き始めた。
信也は、ペンを握ったまま手を止めた。
その会話が、妙に引っかかった。
「裏で誰かの運が悪くなってたりして」
自分の小さな幸運の影で、誰かが何かを失っているのだろうか。
そんなことを少し考えてみても、答えなど出るはずがなかった。
その夜、ニュースで見たのは、信也の利用する地下鉄とは違う路線の事故だった。
「人気占い師、階段から転落し重傷」
テロップの横の写真には、テレビで見たことのある笑顔の女性が映っていた。その人のブログタイトルには、こう書かれていた。
「明日の不運、私が引き受けます」
◇
ロッカーについて、本気で調べてみる気になったのは、三度目の「助かった偶然」のあとだった。
三度目は、雨の日だった。
取引先に向かう途中、突然の豪雨に見舞われた。持っていた折りたたみ傘は、駅を出て数分で役に立たなくなった。スーツの肩はびしょ濡れになる。
信号待ちの横断歩道の向こう側で、トラックが急にスリップするのが見えた。
運転手が必死にハンドルを切る。歩道に向かっていた車体が、ぎりぎりで電柱にぶつかり止まった。
もし、あと数歩進んでいたら。
もし、青信号に変わるのを待てずに走り出していたら。
信也は、自分の靴の先を見つめた。雨のしずくが、つま先からぽたぽたとアスファルトに落ちる。
その日の朝、ロッカーに入れた紙にはこう書いていた。
「今日は事故に遭いませんように」
◇
身代わりロッカーを運営している会社の名前は、ポスターの端に小さく書かれていた。
「ミナモト・ソリューションズ株式会社」。聞いたこともない社名だった。
検索してみると、コンサルティング会社だとか、データ解析だとか、もっともらしい言葉が並んでいる。オフィスは駅に近い雑居ビルの七階。受付の写真では、観葉植物の横に笑顔の受付嬢が写っていた。
「クライアント企業様のリスクを、データの力で最適化いたします」
ホームページのキャッチコピーを見た瞬間、信也は、ロッカー前で聞いた若者の会話を思い出した。
「裏で誰かの運が悪くなってたりして」
――リスクを、最適化。
翌週の有給届を出しながら、信也は自分でも笑ってしまった。
何をやっているのだろう、と。
◇
ミナモト・ソリューションズのオフィスは、写真の通りだった。
エレベーターを降りると、白い壁と観葉植物。ガラス扉の向こうには、受付カウンターがあり、その向こうで黒髪をまとめた女性がにこやかに頭を下げた。
「ご予約はされていますか」
「いえ……その、『身代わりロッカー』のことについて、お話を伺えればと。利用者の一人なんですが」
自分でも、何をどう説明すればいいのか分からないまま口を開く。
受付の女性は、少しだけ目を丸くしてから、穏やかに微笑んだ。
「少々お待ちくださいね」
彼女が内線で誰かと話す声が、ガラス越しにくぐもって聞こえる。
しばらくして、奥からスーツ姿の男性が現れた。四十代くらい、痩せていて、眼鏡の奥の目がどこか計算高そうだった。
「お待たせしました。ロッカー事業の担当をしております、谷川と申します」
会議室に通され、ペットボトルの水が出された。
ガラス張りの室内からは、外の景色がよく見えた。だがどれも、薄いフィルムを透かして見ているように、現実感がなかった。
「それで、本日はどのようなご用件で」
「ロッカーの仕組みについて、教えていただけないかと思いまして」
谷川は、一瞬だけ笑みを崩した。
「仕組み、ですか。詳しいアルゴリズムは企業秘密になっておりまして。ホームページにも書かせていただいている通り、願いの内容をデータとして解析し、弊社独自のリスク分散システムにより――」
「誰かの不運を、誰かに押しつけているんじゃないですか」
自分でも驚くほど、声がはっきり出ていた。
谷川の言葉が途中で止まる。
会議室の空気が、少しだけ重くなったように感じた。
「……面白い視点ですね」
谷川は、ゆっくりと手を組んだ。
「ロッカーに願いを書く人がいます。
その願いの多くは、『何かが起きなかった状態』を望むものです。事故に遭わない、失敗しない、怒られない。
しかし、現実の世界では、すべての危険が消えてなくなるわけではない」
「だからって、それを他人に回すのが、あなたたちのやり方ですか」
「回す、というより、『寄せる』と言ったほうが近いでしょうか。
どのみちどこかで起こる不運なら、受け止める人を、効率的にまとめてしまったほうが管理しやすい。保険のようなものです」
保険。
その言葉の軽さに、信也は言いようのない苛立ちを覚えた。
「じゃあ、その『まとめて』押しつけられているのは、誰なんです」
谷川は、しばらく黙っていた。
窓の外で、ビル風が何かを吹き飛ばす音がした。
「お客様は、よくロッカーをご利用されていますね」
「……え?」
「駅のカメラを確認させていただきました。防犯上の理由から、特定の利用者様の動向は把握しています」
心臓が、どくりと跳ねた。
いつ、どこで、どんな姿でロッカーの前に立っていたかを、思い返そうとしても、うまくいかなかった。自分の記憶が、監視カメラの映像に負けているような気がして、嫌だった。
「もしよろしければ、『契約者専用ロッカー』をご覧になりますか」
谷川の口元に、薄い笑みが戻った。
◇
「契約者専用ロッカー」は、地下鉄のホームのものとよく似ていた。ただし、こちらには投入口はなく、普通の鍵穴がついている。番号は一から百まで。まだ半分以上が空いているようだった。
「ロッカーというのは、入れるだけでなく、取り出すためのものでもありますからね」
冗談めかして言いながら、谷川は「013」と書かれたロッカーの鍵を取り出した。
金属がこすれる乾いた音とともに、扉が開く。
中には、分厚いファイルが一冊収められていた。
白い表紙に、シールで番号が貼られている。「13」。
「お客様の番号です」
「僕の……?」
「ロッカーのご利用履歴から、自動的に割り振られます。頻度と内容に応じて、『身代わり容量』のある契約者の方に、順次お振り替えさせていただいております」
身代わり容量。
耳慣れない言葉だったが、意味はなんとなく分かった。要するに、どれだけ不運を引き受けられるかの「余白」のようなものだろう。
「このファイルには、お客様がロッカーに預けた『災難』の行き先と、お客様が引き受けられた災難の記録が、すべて残っています」
谷川は、ファイルを両手で取り出し、会議室のテーブルの上に置いた。
ページの端は、きれいに揃えられている。新品同様に見えた。
「ご覧になりますか」
「……いいんですか」
「お客様の情報ですから。もちろん、ここから外へ持ち出すことはできませんが」
信也は、椅子に腰を下ろし、ファイルの表紙に手をかけた。
心臓の音が、紙をめくる音よりも大きく聞こえる。
一ページ目。
左側には日付と、駅名と、ロッカー番号。右側には、願いの内容と、転送先のコードのような数字が並んでいた。
「明日の謝罪会議が、無事に終わりますように」
「今月のノルマが達成できますように」
「事故に遭いませんように」
自分の字だ。
クセのある「会」の書き方や、かすれた「月」の線。どれも、間違いなく自分の筆跡だった。
その右側に、小さくコードが記されている。「A-27」「C-04」……意味は分からない。
ページをめくるごとに、自分の願いが続く。
くだらないものもあれば、切実なものもある。
「お盆の帰省で、親に結婚のことを聞かれませんように」
「健康診断の結果が悪くありませんように」
「このままクビになりませんように」
その願いひとつひとつが、どこかの誰かの元へ送り出され、別の誰かの災難が、自分のもとへ送り込まれていたのかもしれない。
「右側のコードは、転送先の契約者番号です」
谷川が、淡々と説明する。
「お客様がロッカーに預けられた『起こりうる災難』は、リスク許容量の高い契約者様へと集約されます。
例えば、日頃から危険な仕事をされている方や、統計的に見て生活習慣上のリスクが高い方など。そうした方々に、見えないかたちで、少しずつしわ寄せが行くのです」
「ひどい話ですね」
思わず口から出た。
谷川は、少しだけ首を横に振る。
「保険だって似たようなものです。健康な方がお金を払い、病気の方がそのお金を使う。
ただ、私たちのシステムは、その逆も同時に行います。リスクを集約しきれない部分を、ある一定の契約者にまとめて引き受けていただく」
「ある一定の……」
そこで言葉が途切れた。
ページの後半、右側の欄のコードが、急に同じものばかりになっているのに気づいたからだ。
「S-00」
「S-00」
「S-00」
数ページにわたって、ほとんどすべての行の右側が「S-00」になっていた。
「それが、『身代わり専用』の契約者番号です」
谷川は、声のトーンを変えずに言った。
「多くの方の災難を引き受けることを前提に契約されている方。
その方のおかげで、大多数の利用者の方は、安全側に偏った日常を送ることができている」
「その人は、どうしてそんな契約を」
「様々な事情があります。金銭的なもの、家族関係、あるいは――」
谷川は、それ以上は話さなかった。
白い天井の照明が、紙の上でにじむ。
「最初のページに戻ってみてください」
促されるまま、信也はページを手繰る。
ファイルの一番最初、見返しの裏紙に、一枚だけ別の紙が貼られていた。
それは、ロッカーに入れるものと同じメモ用紙だった。
ただし、印刷された「身代わりロッカー」のロゴの下、びっしりと細かい文字が書き込まれている。願いというよりは、契約条項のようだった。
「この人の代わりに、私の災難をすべて引き受けてください」
そう書かれた一行のあとに、名前があった。
「相沢信也」
見慣れた自分の名前。
その下に書かれているのは、署名のようなものだった。
震える手で、信也はそこに書かれた文字をなぞった。
「……これ」
見覚えのある筆跡だった。
丸みのある「沢」の書き方。最後の点を、少しだけ大きく書く癖。
十年以上前から、ずっと見てきた文字。
「母さんの字だ」
声にならない声が、喉の奥で崩れた。
◇
ファイルの最初のページの日付は、十五年前だった。
まだ身代わりロッカーなど存在しなかったはずの頃だ。
「ロッカー事業は、ここ数年のことですが、システム自体は以前からあったのです」
谷川が、背後から静かに言った。
「当初は、ごく限られたお客様への『リスク引き受けサービス』として提供していました。
例えば、ある政治家の方が、『自分の身に起こりうる不祥事を、すべて別の誰かに集約してほしい』と望まれたことがありまして」
遠い音のように聞こえた。
十五年前。信也がまだ中学生だった頃。父親の会社が倒産し、家は一度、夜逃げのようなことをした。母親はパートを掛け持ちしながら、家計を支えていた。
その年、信也は、自転車で車にぶつかった。
相手の不注意だったが、結局、保険のやりとりはぐだぐだになり、通院が長引いた。部活もやめざるをえず、成績も落ちた。
その後も、妙に運の悪い出来事が続いた。受験のときにはインフルエンザにかかり、第一志望に落ちた。就職活動では、内定が出た直後に会社が合併のゴタゴタで採用取り消しになった。
「お母様は、ご家族の中で誰か一人を指定し、その方にご自身の災難を集中させる契約をされたのでしょう。ご家族全体のリスクを下げるために」
「そんな……」
信也は、ページを握る指に力を込めた。
紙がくしゃりと音を立てる。
「あの人は、そんなことする人じゃない」
そう言いかけて、言葉が喉で止まった。
母親は、いつも言っていた。
「うちには、運が一つしかないのよ。誰か一人が全部持っていったら、他の人が困るでしょ」
冗談のように笑いながら、くじ引きやビンゴ大会では、絶対に自分の番になると譲ってくれた。
あれは、そういう意味ではなかったのだろうか。
「もちろん、お母様だけが悪いわけではありません」
谷川の声は、どこまでも平板だった。
「我々は契約時に、十分な説明をさせていただいた上で、お客様自身のご意思でサインをいただいております。
『身代わり専用契約者』の方々には、一定の金銭的補償も行っていますし、ご家族の生活状況を改善するための支援も――」
「それで、僕の運が悪かった理由が、ちゃんと説明できたとでも?」
声が荒くなっているのが分かった。
谷川は、一歩も引かなかった。
「『運が悪かった』とおっしゃいますが、お客様は本日まで、命に関わる重大な事故には遭われていない。
それは、お客様自身の回避能力と、システムの調整によるものです。
もし契約がなければ、ご家族の方々のうち、どなたか一人が――」
それ以上は、聞きたくなかった。
信也は、椅子を乱暴に引いて立ち上がった。
「契約を、やめることはできますか」
谷川は、少しだけ目を細めた。
「『身代わり専用契約者』の変更には、別の方の同意が必要です。
新たにどなたかが、『この人の代わりに、私が災難を引き受けます』とロッカーに書いてくだされば、契約の上書きは可能です」
「そんな人、いるわけないでしょう」
「皆さん、そうおっしゃいます。
ですが、このシステムは、廃止される気配がない。
それだけ、利用する方が多いということです」
会議室の空調の音が、やけに大きく聞こえた。
◇
地下鉄のホームに戻ると、ロッカーの前には、いつものように列ができていた。
会社員、学生、買い物袋を提げた老夫婦。皆、小さな紙切れに何かを書き込み、それを投入口にすべり込ませていく。
「明日、告白が成功しますように」
「テストで赤点を取らないように」
「手術が成功しますように」
誰かが口の中で読み上げた願いごとが、耳に入ってきた。
その一つ一つの言葉の奥に、見えない矢印が伸びていて、その矢印の先に、自分が立っているような気がした。
列の最後尾に並びながら、信也は、自分でも驚くほど冷静だった。
順番が来る。
ペン立てから一本、ボールペンを抜く。
メモ用紙を一枚取る。
その紙の上で、手が止まった。
――『この人の代わりに、私の災難をすべて引き受けてください』
十五年前、母親が書いたであろう文面。
同じ言葉を、そのままなぞることもできた。
母親の名前を書いて、矢印を逆向きにすることもできた。
けれど、ペン先は、どちらにも動かなかった。
代わりに、紙の中央に、自分の名前を書いた。
「相沢信也」
その下に、一行だけ、短い願いごとを書き足す。
「これ以上、誰かの災難を僕に集めないでください」
それが、願いなのか、拒絶なのか、自分でもよく分からなかった。
紙を二つ折りにして、投入口へ押し込む。
カタリ。
小さな音が、内部の闇に吸い込まれていった。
◇
翌朝、駅のホームに降りると、ロッカーの前に新しい張り紙がしてあった。
「本日をもちまして、『身代わりロッカー』の実証実験は終了いたしました。
ご利用ありがとうございました」
ただそれだけ。
ロッカーの扉には、黄色いテープが貼られ、鍵穴には封印用のシールが貼られている。投入口も目張りされていた。
「終わるの、早いな」
隣で張り紙を眺めていた鉄道会社の社員が、ぼそりと言った。
「ニュースで、ちょっと騒がれましたからね。『運を操作するなんて倫理的にどうなんだ』とか、『当たり外れが偏っている』とか。上も面倒になったんでしょう」
「偏っている、ですか」
信也は、思わず聞き返した。
「何でも、このロッカーを使った人の中に、妙に運の悪い人がいるって噂で。
事故に二回遭って、会社クビになって、彼女にも逃げられて、宝くじもかすりもしないとか。そいつのせいでバランスとれてんじゃないかって、ネットでネタになってましたよ」
社員は、どこか他人事のように笑った。
笑い声が、ホームの天井に吸い込まれていく。
「そんな人、本当にいるんですかね」
「さあね。顔も名前も分からない、誰かの話ですよ」
電車がホームに滑り込んできた。
風がポスターを揺らす。身代わりロッカーのキャラクターが、最後の挨拶をしているように見えた。
電車の扉が開き、人が乗り込んでいく。
信也は、ひと呼吸おいてから、その流れに身を任せた。
◇
それから数週間、特別に運が良くなることも、悪くなることもなかった。
残業は相変わらず多く、上司には怒られ、小さなミスは続いた。
けれど、電車が脱線することも、歩道橋が崩れることも、空から何かが落ちてくることもなかった。
ニュースも、相変わらず誰かの不幸と誰かの幸運で埋まっていた。
ただ、それが自分とどこかで繋がっているような感覚は、少しずつ薄れていった。
ある晩、仕事で遅くなり、終電間際に駅に着いた。
ホームは、昼間とは違って静まり返っている。
封印されたロッカーの列だけが、蛍光灯の下で銀色に光っていた。
近づいてみると、一つだけ、封印のシールが剥がれかけているロッカーがあった。
番号は「013」。
指先でそっと触れると、シールは簡単に剥がれた。
鍵穴はむき出しになっている。
――鍵なら、あの会社にまだある。
そう思って、すぐに首を振った。
もう、関わらないほうがいい。
それでも、目は自然と、扉の隙間に吸い寄せられる。
薄暗い隙間の向こうには、紙の端のようなものが見えた気がした。
「……開けたいですか」
背後から声がした。
振り向くと、あの日の谷川が、改札のほうから歩いてきていた。
スーツ姿は変わらない。ただ、ネクタイの色が違う。
人混みの中では気づかなかっただろうが、今は他に誰もいない。
「たまに、確認に来るんです。実験機材の回収がきちんと進んでいるかどうか」
谷川は、ポケットから小さな鍵束を取り出した。
銀色の鍵には、013と刻まれている。
「最後に、中をご覧になりますか」
信也は、迷った。
ここで断れば、きっと二度と知ることはないだろう。
このロッカーの中に、自分の名前が何回書かれ、どんな願いの的になってきたのか。
「……見ます」
そう答えていた。
鍵が回る音がして、ロッカーの扉がゆっくりと開く。
中には、あの日見たのと同じファイルが一冊だけ入っていた。
表紙をめくると、最初のページに、母親の筆跡がある紙が貼られている。
その紙は、少し黄ばんでいた。
「この人の代わりに、私の災難をすべて引き受けてください」
相沢信也。
信也は、それ以上読む気にはなれなかった。
閉じようとしたとき、ファイルの最後のほうから、一枚の紙がひらりとこぼれ落ちた。
拾い上げて見る。
それは、見慣れたメモ用紙だった。
中央に、大きく、自分の名前が書いてある。
その下に、一行。
「この人の代わりに、私の災難をすべて引き受けてください」
十五年前とまったく同じ文面。
ただ、筆跡が違っていた。
自分が、数日前にロッカーに入れた紙ではなかった。
見るまでもなく分かった。
「……これは」
指が震えた。
文字の形、線の太さ、癖のあるはね方。
それは、最近よく目にしていた字だった。
「母さんの、じゃない」
日用品の宅配便の伝票。
病院の問診票。
時々送られてくる、短いLINEのメッセージ。
そして、もう一人。
取引先との書類に押されたサイン。
社内の回覧板に書かれた丸文字。
去年まで付き合っていた彼女が、家に置いていったメモ帳の最後のページ。
「……誰が書いたんですか」
問いかける声は、自分でも驚くほど小さかった。
「契約者番号S-00の新しいご契約者様です」
谷川は、ロッカーの影の中で静かに答えた。
「詳細情報はお見せできませんが、お客様の身近な方であることは確かです。
最近まで、お客様のことをよく知っていた方。
『あの人は、運が悪いからこそ、きっと全部引き受けてくれる』と、おっしゃっていました」
誰の顔も、すぐには浮かばなかった。
母親かもしれない。
元恋人かもしれない。
あるいは、昔の友人かもしれない。
いずれにせよ、その誰かは、自分の名前を書いて、同じ願いを繰り返したのだ。
この人の代わりに、私の災難をすべて引き受けてください。
紙の端が、指の汗で少し濡れた。
それでも文字は、にじまず、くっきりとそこに残っている。
「この紙は、どうされますか」
谷川の問いかけに、信也は答えられなかった。
何を選んでも、誰かの災難はどこかに行く。
ファイルを閉じる。
紙を挟んだまま、ロッカーの中に戻す。
扉が閉まる音が、ホームに響いた。
◇
終電が行ってしまう。
アナウンスの声が、遠くで聞こえた。
「契約は、いつでも更新可能です」
谷川は、そう言って鍵をポケットにしまった。
「ただし、新しい願い主が現れない限り、最後に書かれた名前が有効です。
それまでは、ロッカーは、きちんと約束を守ります」
ホームの時計の針が、静かに進む。
上りの電車の最終が到着し、わずかな乗客だけが降りてくる。皆、誰かの災難のことなど知らない顔をしている。
電車の扉が閉まりかけたとき、谷川はふと振り向いた。
「お客様」
「……何ですか」
「これでも、我々は、多くの方の安心のために仕事をしているつもりです。
誰か一人を犠牲にしている、と言われれば、その通りかもしれませんが」
「その『誰か』が、自分の名前だって、最初から知っている人はいるんですかね」
信也の問いに、谷川は答えなかった。
笑っているのかどうかも分からない表情のまま、軽く会釈をして歩き去っていった。
電車の扉が閉まり、ホームに静寂が戻る。
封印されたロッカーの列が、蛍光灯の光を鈍く反射している。
金属の扉の向こう側で、無数の紙切れが眠っている。
そこには、誰かの願いと、誰かの名前と、誰かの筆跡が、ぎっしりと貼りついているのだろう。
自分の名前も、その中に混ざっている。
最初のページにも。
最後のページにも。
身代わりロッカーは、何も答えない。
ただ、口を閉ざしたまま、誰かの災難と、誰かの安心を、静かに預かり続けている。
その日も、そしてきっと、明日も。




