第003話 おはよう地上生活
翌朝、レジーナはまぶしい光で目を覚ました。
見慣れた木の天井。埃っぽい匂い。
「おはよう、地上生活」
身を起こすなり、深々とため息をついた。
凍りついた窓を開けて、空を見上げる。
灰色の雲から、大粒の雪が降り注いでいた。
暦の上ではもう三月なのに、まったく春の気配が見えない。
「……もう、スカイリア島じゃ冬でも暖かかったのに」
ぼやきながらリビングに向かうと、部屋の中は冷え切っていた。
朝起きたら部屋を温めてくれるメイドなど、ここにはいない。
レジーナとトーマスは公爵という身分でありながら、魔力を持たない体質だ。
そのためメイドも執事も雇うことを許されず、
家のことは自分たちで行わなければならないのだ。
「……寒っ」
レジーナは身を震わせながら、フルード式魔道具のストーブを点ける。
『フルード』とは、この世界に存在する液体燃料のことだ。
魔力を持たない人間はこれを使って動くフルード式魔道具に依存している。
そのせいで貴族からは、フルーダーという差別用語で呼ばれている。
「……まだ点かないの?」
暖房が点くまでの間、寒すぎて何もする気にならない。
手もかじかんで上手く動かないし、
そもそも何もしない方がいいのかもしれない。
両手を擦り合わせながら、ストーブが点くのを待ち続ける。
が、なかなか温風が出てこない。
もしやと思ってメーターを見ると、フルードの残量が切れているのに気付いた。
渋々レジーナは玄関に向かうと、フルードの入ったタンクを両手で持ち上げた。
大きさはちょうど灯油タンクくらい。
中に液体燃料が入っていると、重さも同じくらいになる。
つまり、朝からする作業としてはかなりの重労働だ。
「ほんとこれ、重すぎ。筋トレ器具かっての……」
リビングに戻ると、フルード式ストーブの蓋を開け、給油作業を開始する。
こぼさないよう慎重に給油を済ませると、スイッチを入れた。
待つこと十分。
ストーブの燃焼筒が赤く染まった頃、ようやく部屋の中が温まってきた。
レジーナは温風に手をかざし、手が動くようになったのを確認すると、キッチンへ向かう。
フルード式コンロに火を点け、夕飯の残りを温める。
クリームシチューと黒パン。
質素な食事だが、それでも体を中から温めてくれる。
「ごちそうさま」
食事を終えると、着替えを済ませてから納屋へと足を運んだ。
お目当ての品と対面するためだ。
「おー、あったあった」
錆びた旧式のフルード式魔道具、「浮遊船係留アンカー」。
レジーナは身をかがめると、寒さにこらえながらアンカーを磨き始めた。
そうしてピカピカになるまで磨きあげた頃だった。
いつの間にか目を冷ましたトーマスが、横から話しかけてきた。
「おはよう、レジーナ」
「おはよう。今朝も冷えるね」
「それ、捨てるんじゃなかったのか……まさか、ここに船を繋ぐ気か」
「まっさかー!」
笑いながら手を動かし続ける。
光沢を取り戻したアンカーは、どこか黒光りする浮遊船の船体を連想させた。
そしてそこからさらに連想ゲームが始まり、貴族たちの暮らしや——
婚約破棄の瞬間を思い返していった。
『ママが言ってるんだ、魔力ゼロのフルーダーとは結婚するなってな!』
思い出したら、だんだん腹が立ってきた。
「ママァ~? あのマザコン野郎め……!」
レジーナは立ち上がる。
どうも体の中で怒りのエネルギーが渦巻いているらしい。
とても納屋の中でじっとしている気にはなれないのだ。
ちょうどアンカーも磨き終わったことだし、
「気分転換してくる!」
コートを羽織り、雪の中へと飛び出す。
凍てつく空気が頬を刺すが、それでも外に出る方がまだマシだと感じた。
レジーナは雪を踏みしめ、商店街へと向かう。
久々の帰郷だし、何か買い物をしてみようと思ったのだ。
「へー……前と品揃え変わってるわね」
文房具屋、本屋、八百屋、肉屋、卵屋。
どの店も浮遊島で見かける建物とは比べ物にならないくらいボロボロだ。
地上の人々の暮らし振りがうかがえる。
「おっはよーう」
まずは一軒目。
傾きかけた文房具屋に入ると、初老の店主に声をかけた。
「レジーナ様じゃないですか。いらっしゃい。いつ帰ってきたんですか?」
「昨日、空から降ってきた!」
「はっはっは。王立魔法大学出の人の言うことは、難しくてよくわかりませんな」
王立魔法大学を出ている者は珍しい。
そのため地上に戻ったレジーナは、数少ないインテリとして扱われる。
おかげで文房具屋の店主は、何を話しても「頭のいい人が使う難解な比喩」と解釈している。
レジーナが前世知識を生かして、何度か発明品を提供しているのもその理由かもしれない。
「すごいなあ、レジーナ様は。きっとまた面白いことを始めてるんでしょうな」
「まあね。見ててよ、でっかいことするから」
小物を買って店を出ると、今度は本屋に向かった。
スカイリア島で売っているものと比べると簡単な内容ばかりで、挿絵の比率が多い。
格差がこんなところにも現れているのだ。
レジーナが「んー」と声を発しながら立ち読みしていると、気を使った店主が、
「やっぱり、今置いてある本はレジーナ様には簡単すぎましたかね」
と話しかけてきた。
「え? そう思う?」
「思います。貴方にはこのレベルの本じゃないと、面白くないんじゃないですか」
そう言って店主が渡してきたのは、分厚いフルード式魔道具の専門書だった。
こちらは少しは読み応えがありそうだ。
「僕には難しすぎてよくわからないから、レジーナ様にあげますよ」
「いいの⁉︎ ありがとう!」
「その本も、自分を理解してくれる人に読んでもらった方が幸せでしょうからね」
上機嫌で店を出ると、今度は八百屋のおばちゃんに声をかけられた。
「あらまあ! レジーナ様じゃないの! 昨日、空から降ってきたの見たわよ!」
「みちゃった? てへっ」
「すごいわねえ! 王立魔法大学に行くとあんなこともできるようになるのね!」
「ま、まあね」
地上の人たち全般に言えることだが、少々、魔法大学卒を神格化しすぎである。
だがレジーナは、決して悪い気はしなかった。
彼らは決して魔力ゼロを笑ったりしないし、フルーダーと蔑んだりもしない。
努力して勝ち取った学歴を、貴族よりもずっと正当に評価してくれるのだ。
「何か買ってってよ! 公爵令嬢様! 安くしますよ!」
「じゃあ、ニンジンにする!」
「あいよー! おまけに大根つけとこうかね」
「わあ! いいの⁉︎」
「卒業祝いですよ。このへんで王立魔法大学を出る子なんて、珍しいですからね」
八百屋で買い物を済ませたあと、肉屋に顔を出してみたところ、今度は牛肉の塊をくれた。
重くなった鞄を抱えて歩いていると、
「よかったらお父様と食べて」
と卵屋のおばちゃんが新鮮な卵の入ったカゴを渡してくれた。
「ありがとう!」
地上は確かに貧しいが、まだ人情が生きている。
里帰りした女の子が道を歩いていると、次々とお裾分けをしてくれるくらいには。
(そりゃ、この人たちを守るためなら過保護にもなるよね)
すっかりリフレッシュしたレジーナは、ご機嫌な様子で空を見上げた。
地上の治安がこんな風に保たれているのは、彼のおかげだ。
白いフードの青年が、塔の上に立っているのが見える。
胸元には銀のペンダントが光り、風がその裾を揺らす。
レジーナが手を振ると、彼はわずかに顔を傾け、片手を上げた。
そして口元に指を立てて、“静かに”の合図。
次の瞬間、鋭い口笛が響き、空から一羽のタカが舞い降りる。
「ルキアスの使い魔のタカ、いつ見ても可愛いなぁ」
レジーナは懐かしそうに微笑んだ。
ルキアスは〈タカの目〉の魔法で、
その使い魔の視点から空を見渡すことができる。
彼こそ、ミリオングラード領を静かに見守る領主であり、伯爵。
そのおかげで、この街の治安はいつも穏やかなのだ。
やがてルキアスは塔の縁に立ち、風を背に受けた。
マントが大きくはためく。
次の瞬間——彼は一瞬の迷いもなく、空へと身を投げた。
落下地点には干し草の山があり、吸い込まれるように着地していく。
遠目には、突然ルキアスが姿を消したようにしか見えないだろう。
レジーナは彼の口癖を思い出す。
『何も真実ではない。すべては許されている』
——それにしても、なんで毎回干し草に飛び込むんだろう。
まあ、どうでもいいか。
「……テンプラ騎士団のときみたいに助けてね、ルキアス」
レジーナは小さく呟いた。
(あれ? テンプルだっけ? まあ、どっちでもいいや)
その日の夜。
トーマスが眠ったのを確認すると、レジーナは庭に向かった。
フルード式魔道具のランプで足元を照らし、ザクザクと何かの作業を開始する。
「アトミオス王子なら絶対にこの家に来る……雪国の寒さを楽しませてあげる」
読んでいただきありがとうございました。
次回は明日20時10分に投稿します。




