第43話 秘密の旅行――誰も知らない温泉街
春の公演を終えた後、わずかに与えられた休暇。
美玲さんは人目を避け、僕――篠原颯真と共に旅へ出ることを選んだ。
実家のある兵庫県宝塚市を朝早く出発し、新幹線と在来線を乗り継ぎながら関西から関東へ。
車窓には桜の花が散り始めた景色が流れ、窓を開ければ春の風が頬を撫でた。
長時間の移動も、彼女と並んで座っているだけで不思議と心地よい。
「こうやって普通に電車に乗って、移動するの……久しぶり」
「やっぱり、普段は移動も全部裏方任せなんですか?」
「そうね。車やスタッフが多いから。でも今日は、颯真と一緒に“旅人”でいられるのが嬉しいの」
彼女はマスクをつけ、帽子を深く被っていたが、どこか子どものように目を輝かせていた。
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途中で神奈川県厚木市に立ち寄り、評判のラーメン屋「麺や食堂厚木本店」へ。
行列に並んで待つ間、周囲の客が談笑する声を聞きながら、ふたりだけの世界にいるような感覚がした。
カウンターに並んで座り、人気メニューの醤油ラーメンを注文する。
澄んだスープに浮かぶ香味油の香りが立ちのぼり、箸で持ち上げた麺から湯気が溢れる。
「いただきます……んっ、すごい……!」
美玲さんの瞳が丸くなる。
「優しい味。……でもしっかり旨みがある。これは人気なわけだわ」
「ほんとだ。飲み干せそうなスープですね」
舞台上で見せる凛とした彼女ではなく、湯気の向こうで頬を紅潮させてラーメンを啜る姿。
それは僕にとって、誰よりも愛おしい瞬間だった。
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箱根に到着したのは午後。
山の緑と硫黄の香りに包まれた温泉街は、日常から切り離されたような静けさがあった。
旅館に着くと、女将に案内されて畳の香る客室へ。
「すごい……落ち着くね」
「やっぱり畳の部屋っていいですね」
少し休んだあと、貸切の露天風呂へ向かった。
湯煙の立ちこめる湯船には誰もいない。ふたりだけの世界。
美玲さんは湯に浸かり、長い髪を後ろにまとめながらこちらを見た。
肩口までお湯に沈む白い肌が月明かりに映え、思わず言葉が漏れた。
「……綺麗です」
その言葉に、美玲さんは頬を染めて視線を逸らした。
「やめて……そんな風に言われると、恥ずかしい」
けれど次の瞬間、彼女は僕の肩にそっと頭を預け、恋人繋ぎで指を絡めてきた。
吐息混じりの声が耳にかかる。
「んっ……」
僕はたまらず彼女を抱き寄せ、唇を重ねた。
甘く、長く、身体を寄せ(重なり)合い、互いの熱を確かめ合う。
湯気に包まれ、彼女の震える吐息が耳元で溶けた。
「……好きです」
耳元に囁くと、美玲さんは切なげに微笑み、さらに強く僕に身を預けてきた。
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風呂上がり。
浴衣に着替えた美玲さんが髪を下ろして現れる。
柔らかな布地に包まれた姿は、舞台の煌びやかな衣装よりも、ずっと可愛らしくて綺麗だった。
「……似合ってます」
「もう……またそういうこと言うんだから」
頬を赤らめて笑う姿に、胸が締めつけられる。
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夕飯は部屋食。
湯葉や刺身、炊き立ての釜飯に舌鼓を打ちながら、ふたりで箸を伸ばした。
「はい、あーん」
僕が焼き魚を箸でつまんで差し出すと、彼女は少し照れながら口を開いた。
「……ん。おいしい」
「僕が食べさせたからですね」
「ふふ……そうかも」
そんなやりとりを重ねながら、笑顔が絶えない夕食となった。
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夜。
布団を並べて敷き、ふたりで手を繋ぎながら横になる。
部屋の灯りを落とすと、障子越しに月明かりが差し込み、彼女の横顔を淡く照らしていた。
「颯真……おやすみ」
「おやすみなさい」
最後にそっと唇を重ね、静かに目を閉じる。
温泉街の夜の静けさに包まれながら、僕らは互いの手を離さぬまま眠りについた。
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翌朝、旅館を後にした僕らは再び電車に揺られ、帰路についた。
箱根の山々を背にして、どこか名残惜しさを抱えながらも、二人だけの時間の余韻が心を温めていた。
「帰る前に、もう一軒寄っていかない?」
美玲さんがそう提案し、僕らは神奈川県横浜市へ足を延ばした。
訪れたのは家系ラーメンの名店――寿々㐂家。
濃厚な豚骨醤油の香りが立ちこめる店内で、並んでラーメンをすすった。
厚切りチャーシュー、ほうれん草、海苔。
その一杯を口にした美玲さんは、嬉しそうに目を細めた。
「昨日の“麺や食堂”とは全然違う……でも、これも美味しい!」
「やっぱり旅行の締めはラーメンですね」
ふたりで笑い合いながら、完食したどんぶりを前に充実感に浸った。
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その後、電車を乗り継いでそれぞれの家へ帰ることになった。
兵庫へ戻る彼女を見送り、僕も地元の駅に降り立つ。
改札を抜けると、小さな影が尻尾を振って駆け寄ってきた。
「ラウル!」
実家の柴犬・ラウルが家族と一緒に迎えに来てくれていたのだ。
元気よく吠えながら僕の足元にじゃれつく姿を見て、旅の疲れが一気に癒された。
――こうして秘密の旅行は幕を閉じた。
けれど胸には、誰にも言えない甘い記憶がしっかりと刻まれていた。
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