第42話 理想と犠牲(前編)
ジェラルド視点です。
「おはようございます」
ジェラルドの視界に入ってきたのは、満面の笑みを浮かべたディオンの顔だった。
目を覚ましたのは、間違いなく後宮のアメリーの部屋、そのベッドの上。なのに、見回しても、この部屋の主がいない。
「なぜ、お前がここにいる……?」
「こちらの女官は初心な女性ばかりでしてね。陛下が裸で眠られている部屋には入りづらいと」
「ロジーヌがいるだろう?」
「残念ながら本日はお休みで、私に白羽の矢が立ったのです」
「そうか」
「しかし、私もまさか意中のアメリー妃の部屋で、陛下が昨夜と同じ服装で眠られているとは思いませんでした。律儀にも事を終えた後に服を着たのですか?」
「うるさい……」と、ジェラルドはつぶやきながら、顔を覆った。
女性をベッドに誘うのが、これほど難しいことだとは思ってもみなかった。他の妃たちはジェラルドがその気になれば、すぐにでも服を脱ぎ出す勢いで迫ってくるのが当たり前だったのだ。
それをうまくかわしながら、会話をし続けるノウハウはこの五年で身についていたのだが――。
その逆は完全に未経験。言葉を尽くして、気持ちを伝えたつもりだったが、肝心のアメリーはうれしそうな顔をするどころか、ぽかんとするばかり。
だいたい、ひと月ぶりに顔を合わせたというのに、アメリーの方にはそんな感慨は見られなかった。しかも、真夜中近くにもかかわらず、彼女は真面目に帰ろうとしていた。
あれ以上は場が持たず、竪琴を弾いてもらう以外に引き留めるすべがなかった。
(ああいう場合、どう言ったらよかったのだ? 何が間違っていたのだ?)
「……そういえば、アメリーは?」
「すでに里帰りされましたよ」
「帰った!?」と、ジェラルドは声が裏返るほど驚いた。
これはもう『逃げられた』以外の言葉では表現できない。ジェラルドはずんと頭が重くなるのを感じた。
「陛下が寝不足のようなので、ゆっくり休ませてほしいと、アメリー妃がおっしゃっていました」
「それはまあ、ありがたいことだが……」
彼女の竪琴のおかげで、気持ちよく眠れたのは間違いない。まだ寝起きでぼうっとはしているが、身体はいつになく軽くなっている。
「ところで陛下、ゆっくりお休みになられて何よりですが、時間はすでに九時を回ろうとしています。じきに謁見の時間が始まりますが、寵妃に夢中になって、公務をすっぽかす愚王と呼ばれたいのでしょうか?」
(……しまった。今日は日曜ではなかった)
アメリーと過ごすのは、いつも土曜の夜。日曜日は公務が入っていないので、多少の寝坊も許されていたのだ。平日の朝となれば、ぎっしりと仕事の予定が入っている。
「それを早く言え」と、慌ててベッドから下りた。
「それからディオン、謁見が終わったら話がある」
「承知いたしました」と、答えたディオンの顔から笑みは消えていた。
ジェラルドが一日の公務を終え、ディオンと二人で話をする時間ができたのは、夕食の後、執務室に戻ってからだった。
昨夜はアメリーからの警告があったので、何かあった場合に備えて、寝室の外と執務室の中には近衛騎士たちが待機していた。ディオンも執務室で聞こえる限りは、話に耳をそばだてていたはずだ。
結局のところ、呼ぶのはアメリーだけで事は済んだので、大事にはならなかった。聞かれたくない話も公にせずに済んだ。
「まさか、本当にセリーヌ前王妃が憑りついていたとは……」
昨夜の一部始終を話してやると、ディオンは青ざめた顔で、しばらく言葉もないようだった。
現実に悪霊や死者の声を聞いたことがないディオンにとって、マレナの狂言だったという方がまだ理解しやすいのだろう。
「ディオン、お前はヴィクトルがやったことを知っていたのか?」
ディオンの父、ヴィクトル・フォルジェ公爵がフランソワ王太子を暗殺した件について、ジェラルドは今まで全く知らされていなかった。その事実をセリーヌの口から聞いた時の衝撃は、言葉に尽くせない。
一介の貴族が王太子を殺害、都合のいい人間を王位につけようとする。それは簡単に容認できるものではない。
ヴィクトルがそのようなことを画策しなければ、イザベルも処刑されることはなかったのだ。
「今まで黙っていたことをお詫び申し上げます」
ディオンは悩ましげに顔を歪め、デスクの向こうで深々と頭を下げた。これまでニコニコ顔の裏に隠していた、本当の表情が見えたような気がした。
「お前もフランソワの暗殺に関わっていたのか?」
顔を上げたディオンは、神妙な面持ちで「いいえ」とはっきり答えた。
「私がそのことを知らされたのは、父の処刑の直前でした。父はフランソワ殿下を手にかける以上、処刑も覚悟の上だったと申しておりました。ただ、イザベル様まで巻き込んでしまったことは父の落ち度であり、大変申し訳なかったと」
「ヴィクトルは私を王にして、何をしたかった? そこまで権力に固執する人間だとは思っていなかったが」
そうでなかったら、平民上がりの妾妃の後見などしたところで、損しかないように思える。その点だけが、ジェラルドの腑に落ちなかった。
後編に続きます≫≫≫




