第41話 たった一人の妃に
アメリーが竪琴を弾く手を止めると、悪霊たちの声が一瞬にして消え、部屋の中に静寂が満ちた。
「陛下、終わりました」
声をかけると、ジェラルドははっとしたように顔を上げた。マレナは気を失ったのか、ベッドに横たわって目を閉じている。
天に昇ったのは、セリーヌと何体かの魂だけ。特にセリーヌは、憑依しているマレナに対して直接的な恨みも思い入れもなかったので、引きはがすのは逆に容易だった。ジェラルドを呪う悪霊たちに比べて、【鎮魂の調べ】に抗うすべがない。
よって、ジェラルドを取り巻く悪霊たちは、いまだそこに残り続けている。やはり一筋縄ではいかない悪霊たちだ。
「母も天に昇ってしまったのか……?」
「いいえ。もともと【鎮魂の調べ】を弾いている間は、離れているように言ってありますので。そうでなくても、この程度の調べで天に昇られるほど、弱い方ではありません。陛下をお守りしようという気概が違います」
「そうか」と、ジェラルドはほっとしたように口元に小さな笑みを浮かべた。
「マレナは? 大丈夫なのか?」
ジェラルドはベッドに横たわるマレナを見やりながら聞いてきた。
「今のところは大丈夫かと。ただ、マレナ様は悪霊に憑りつかれやすい資質をお持ちなので、これからも気をつけた方が良いとは思いますけれど」
「気をつけると言われてもな……」
ジェラルドは困ったように口をつぐんだ。
「せめて陛下を呪う悪霊たちがいなくなるまでは、接触を控えることをお勧めいたします」
「それはつまり、まだまだ私は悪霊に取り巻かれているということか」
「申し訳ございません。今日はその報告も兼ねてこちらに参ったのですけれど……あとひと月ほどお時間をいただければ――」
「まだひと月もかかるのか!?」
ジェラルドに睨まれ、アメリーはびくりとすくみ上がった。
「こ、これでも頑張っているのですけれど、どうにも厄介な悪霊たちでして……」
「そなたがそう言うのなら、仕方がないが」
ジェラルドは不機嫌そうにむすりと黙り込む。
(お母様に言われたことを口にしたはずなのだけれど……?)
『泣きつく』が足りないせいなのか。かわいいと思われるどころか、怒らせてしまったらしい。
「では、わたしは失礼させていただくということで、よろしいでしょうか……?」
「誰が帰っていいと言った? だいたい、このような時間に帰すわけにはいかないだろう」
「え、でも、ここにはマレナ様がいらっしゃいますし……」
「だから、私がここで寝るわけにはいかない。そなたの部屋が空いている」
「はい……?」
ぽかんとするアメリーの目の前で、ジェラルドはマレナをきちんとベッドに寝かせると、「さあ、行こう」と促してくる。
(ちょ、ちょっと待って……。わたしの部屋で一緒に寝るっていうこと!?)
今頃近くにいるはずのラウラは、小躍りして喜んでいそうだが――
アメリーはパニックになった頭を抱えたまま、気づけば後宮の自分の部屋に到着していた。
(こ、これはもう、逃げられない状況なのでは!?)
「陛下、お疲れですよね!? よく眠れる曲をご所望なのですよね!?」
まっすぐベッドに向かうジェラルドの背中に向かって、アメリーは必死の形相で問いかけた。
実際ジェラルドの顔は、初めて会った七カ月前と同じくらい疲れているように見える。目の下の隈もはっきりとしていて、寝不足なのは明らかだ。
ジェラルドは振り返ったかと思うと、アメリーの空いた右手をぎゅっと握ってきた。彼のまっすぐな眼差しが目に飛び込んできて、こくりと息を飲んだ。
今までと違って、そこに恐怖を感じる冷ややかさはない。どちらかというと、熱っぽく潤んだ瞳だ。
「そなたの竪琴を聞きながら眠りたいのは間違いないが、その前に先ほどの話の続きをしたい」
「先ほどの話……?」
どの話を指しているのか分からず首を傾げるアメリーの前で、ジェラルドは戸惑ったように瞳を泳がせた。
「その……これからもそなたと生きて行きたいと言ったことだ」
セリーヌとの会話の中で、ジェラルドがそのようなことを言っていたのを思い出す。
「ああ、それは当然のことかと。わたしは陛下の妃――一応、妻ですから、離縁されない限りは――」
「そうではなくて……!!」と、もどかしそうにジェラルドが遮る。
「こ、こういうことを言うのは初めてで、うまく言えないのだが……。私はそなたをたった一人の妃にしたい。この先、私とともに国を一緒に支える王妃となってほしい。世継ぎとなる王子を産んでほしい」
(……ちょっと待って。『こういうことを言うのは初めて』って?)
そういえば、セリーヌがジェラルドは妃を迎えても、子どもを作ろうとしていなかったと言っていた。
(まさか、エリーズだけではなくて、他のお妃様たちも『形だけの妃』だったの!? 五年も一緒にいたのに!?)
アメリーが唖然としてジェラルドを見つめると、彼は珍しく頬を染めて、ふいっと顔をそむけてしまった。
「……その、そなたが良ければの話だが」
ここで承諾したら、そのまますぐそこにあるベッドまで一直線。拒否したら――
(どうなるの?)
拒否などできるわけがない。そう思った瞬間、燃えるように顔が熱くなった。
(わたしとしても後継者が必要なのだから、陛下もお子が欲しいと言うのなら、意見は一致するわけで……)
ジェラルドに握られた右手が熱いのは、どっちの体温なのか。震えているのは自分の手なのか、彼の手の方なのか。
(もう覚悟を決める時よね……!!)
ドキドキと高鳴る胸を感じながら、恐る恐る口を開いた。
「あ、あの、陛下――」
アメリーが声をかけた途端、その手はぱっと離された。
「すまない。気が急いて、順序を間違えた。他の妃たちがまだ後宮にいる状態で、そなたをたった一人の妃にしたいなどと、誠実さを欠くことを言った。すべてが片付いた後、改めてそなたの気持ちを聞かせてほしい」
「は、はあ……?」
「竪琴を弾いてくれないか? そなたがいないひと月の間、あまりよく眠れなかった。今夜はゆっくり寝たい」
ジェラルドは身を翻して、さっさとベッドに潜り込んでしまう。
アメリーの方は返事をしそびれて、変に緊張していた分、その場に崩れ落ちそうなくらいに全身から力が抜けていた。
(お返事はまだ先でいいということで……)
アメリーは窓際のイスを引きずって行って、ベッドの脇で腰を下ろした。
「では、よく眠れる曲を――」
竪琴の調律を戻し、【ゆりかごの調べ】を奏で始めた。
今頃、ラウラがすぐ近くで悪霊のごとく怒り狂っている姿を想像しながら――。




