閑話休題。時にはそういう時間と話も。
薪のはぜる音は、耳に心地よく響く。壁に埋め込まれた石造りの暖炉からは柔らかな橙色の光が漏れ、部屋の片隅にまで温もりを届けてくれている。窓の外では、時折風が木々を揺らし、月明かりがその影を揺らめかせる。
色々と騒ぎの中心になった主様と、そして、これからは彼女の「恋人面」でもする気なのだろう彼とを見送り終えてから、こちらも落ち着く程度の時間はとうに過ぎた。
今はただただ、静かで穏やかな時間。お茶の香りも味もまろやかで、そんな空気に寄り添うように沁み渡ってくる。
……こういう時に、その静寂をぶち破るのは大概いつも同じ口からだ。
「ぶっちゃけ魔女ちゃんで、立つの?あのおっさん。」
数ヶ月も一緒にいれば、チェシャがそういう方面の話を歯に衣着せないも殿方だってことくらい、流石の私でも理解はしている。
けれど、いきなりそんな直球を投げてくるとは思わず、私は飲みかけていたハーブティーをどうにか喉に戻すので精一杯だった。
……まぁ、クリス様が寝室に入るのを待ってから、というタイミングだけは、一応彼なりに空気を読んでるってことなのかもしれない。そこだけは、ギリギリ認めてやってもいい。
「dead or die で選ばせてあげるけど?アホ猫。」
その声は、私の隣に座るアリスのものだった。淡々とお茶をすするその表情は穏やかそうに見えるけれど、瞳だけは笑っていなかった。完璧に、座っていた。目が。
「いやいやいやいや、でも正直みんなも気になってないにゃ?あの二人がどういうセッ……」
その言葉の続きを吐き出すよりも早く、アリスがそっとティーカップの受け皿を取り上げたかと思うと、それをまるでスリケンのように放った。
乾いた音を立てて、それはチェシャの額に見事命中。勢いよくのけぞった彼の口はようやく閉じ、室内に一瞬、微妙な静寂が訪れる。
床に落ちた皿の乾いた音だけが、余韻のように響いていた。
私はそこに委細かまうことはなく、暖炉の揺らめきに映る自分の影を見つめながら、そっと茶をすするのみだ。
「……正直、物理的に可能なのか?」
だが、神妙な声がひとまず訪れた場の静寂を割った。
誰かが気の利いたひと言で空気を変えてくれるだろう。そう期待して黙っていた私の予想は外れた。向かいにいたサクラ姉が、顔の前で手を組み、真剣な顔つきで、なんとチェシャの疑問をそのまま拾ってしまったのだ。
せっかく一度は飲み込んだお茶を、私は思わず盛大に吹き出し、その隣でアリスは、大げさにソファに腰掛けたまま、前へと崩れ落ちた。
「いやそっちも気になるけどにゃー、それ以前のとこで、あんなちっこ可愛いので興奮しちゃうのかにゃーとか。」
軽い調子で、あくまで殿方にとっての一般論めいたであろう話を持ち出してくるチェシャ。それに対して、なぜか真顔で、静かに食いつくサクラ姉。
「……であれば、ある方が興奮するという可能性は?」
議論の真髄を突くかのように、眉をひそめながら口を開く。
私には、もうどうしていいかわからない。この空気、どこへ着地するつもりなのだろう。
……そもそも、初対面の時もそうだったが、自分以外が全員淑女という場で、まるで臆することなくこの手の話題を強行突破するその神経だけは、やっぱり座っている。感心するやら、呆れるやら、複雑な気分だ。
「いやー普通は厳しいと思うにゃー。まあ僕はノーマルだからね、しょうがないにゃりね。」
チェシャが、少し得意げに切り返す。
「まああんたはぼいーんばいーんが好きなのは知ってるけど。」
サクラ姉が反応したこともあり、もう今日の空気はどうしようもないと観念したのか、アリスがそう言葉を紡ぎながら、ゆっくりと身体を起こした。
そして、わざとらしく額の前髪をかきあげながら、チェシャに目線を向けた。口元には溜息がひとつ。
「あのおっさんだって昔から女抱く時はばいんぼいんばっかよ?……アリスだってそん位知ってるのにゃ?」
「……あんただって、私があのぼうやのそんな話聞かされても反応に困るだけって知ってるでしょうに。」
淡々と、少しだけ呆れたように返すアリス。
……話に乗ったのはサクラ姉なのだから、チェシャとのくだらない話は最後まで処理してよと言いたいのだが、彼女は顎に左手を添え、何か思案に暮れだしてしまっている。
一方で、チェシャとアリスは、昔馴染みならではの軽口を交わしながら、妙に自然な空気を作っていて、私は、どうにも取り残された心地だった。
そんな中、なんとなく口をついて出た。
「……そういえば、アリスって、レオン様のこと、たまに『ぼうや』って呼びますよね。」
声に呼応するように、暖炉の火がぱちり、と静かに弾けた。
しばしの間。
やがてアリスが、口元だけで静かに、意味深に微笑みを浮かべる。
「まぁそりゃ、実際坊やの頃からの付き合いだし。身体がどれだけでかくなろうと、坊やは坊やね。」
……それを受けて、私は先ほどまでの何とも言えない話題とは違った意味で、返答に困ってしまった。
サクラ姉も同じ気分だったらしく、考え込んでいた顔を少し持ち上げ、少し驚いたような表情で、無言でアリスに目線を向けていた。
そんな空気を察したのか、チェシャがけらりと陽気に笑い、肩をすくめながら言葉を継ぐ。
「……正直、100やそこらで『魔女』名乗るとか、僕らからしたら可愛らしいもんにゃ。」
気楽な調子だったが、妙に説得力のあるその言葉に、私はお茶をすする手を思わず止めた。
……確かに、魔女である主様が絵本の中の住人なら、レオン様は、まるで神話の時代から抜け出てきたような存在だ。
その彼に連れられている従者たちもまた、当然ながら、ただ者ではない。
知識としてそれは頭に入っていたが、理解が追い付かないところもある。その片りんを見せられた気分というか。
「別に、お婆さんとかおば様って呼んだくらいで怒りはしないわ。私は私よ。変わらないわ。」
反応に困る私たち姉妹に、そのように茶目っ気めいた笑みを浮かべる様には、とてもそのような呼び方をする気にはなれないが。
「……レオン様が主様に抱いた恋慕も、そういう事なのでしょう。……その者の精神性はどうあれ姿見に出る、でしたか。」
アリスの言葉をかみ砕いたように、サクラ姉はふっと笑ってそう答えると、アリスと視線をからめて互いに微笑みあう。
「で、実際んとこ、坊やのことはどう思ってるにゃ?アリスおばあちゃあああああああああ!!」
チェシャがひょいと身を乗り出し、アリスをからかうように声を上げたが、言葉を言い切る前に、アリスの手がすかさず動いた。
裏拳一閃。
チェシャの顔面を的確に捉えた一撃が、軽い音と共に炸裂する。間抜けな悲鳴を上げながら、ソファの裏側へとチェシャの身体は転がり落ちた。
……まぁ、彼の軽率にはすっかり慣れた。私もサクラ姉も、特に驚きもせず、顔色ひとつ変えずに光景を見守るにとどめた。
アリス自身も、吹き飛んだチェシャには一瞥もくれず、ただ静かに、テーブルの上の茶器へと手を伸ばす。
湯気の立つカップを指先で挟み、ゆっくりと一口。
その動作の合間に、ぽつりと零すように、言葉が降りた。
「……人の中身を見て判断できる男に育ったことは、まぁ、嬉しいかしら。」
暖炉の火が、またひとつ、ぱちりと弾けた。
アリスの横顔は、変わらず涼やかだったが、どこか、微かに、誇らしげにも見えた。
「……アリスから見ても、主様は、レオン様に相応しいとお考えですか?」
アリスの言葉を裏返せば、それは私の主である魔女様をも認めてくれているに等しい。思わず問うた私の言葉には、隠しようのない嬉しさが滲んだが、アリスは、特に気にする様子もなく、屈託のない笑みを返してくれた。
「チェシャも言ったけど……私から見れば、あの淑女はまだ百やそこらの小娘よ。」
さらりと、言葉を紡ぎ、続ける。
「けど、そんな年若い娘が、あそこまで力量を磨き上げている事は、見事としか言いようがないわ。……精神性も含めてね。」
その声には、裏などなかった。ただ真っすぐな、素直な賞賛。
すると、ソファの裏から這い出してきたチェシャが、ひょいと顔を出す。
「……魔女ちゃんの戦闘スタイル、あれ、完全に僕の上位互換にゃ。正直、自信なくすにゃりよ、あれは。」
情けないような、でもどこか楽しそうな顔で、肩を竦める。
……価値観を寄せる場所が、そこなのは、彼ららしいか。
私は自然と笑みを零し、そっと頷いた。
暖炉の火が、またぱちりと弾けた。静かに、温かく、今この時を照らしながら。
「主様の慈悲深さと高潔さに惹かれたというのであれば、無理からぬ話だ。……だが。」
サクラ姉は、静かに満足げな声音でそう言葉を紡ぐと、手元の茶に口をつける。そこから、わざとらしいほどに間を置いたのは、半ば芝居めいていた。
一つ、咳払いをして、それから。
「それはそれとして、あの可愛らしい姿に対して殿方としての欲求を募らせるという事実については、やはり言及の余地があるのでは?」
サクラ姉の表情は、至極真剣だった。
……で、その顔で話をそこに戻しますか。
思わず肩を落としかけた私をよそに、チェシャだけが、わかりやすく元気な笑い声をあげた。
「ですよにゃー!言うても中身がどうあれ、外見は可愛いお人形さんですしにゃー!言及の余地、ありありにゃー!」
いつもの調子で軽口を飛ばす彼に、またソファが軋み、賑やかな空気が広がっていく。
察したのか、アリスが私の背中をぽんと軽く叩いた。
もう放っておけ、という無言のアイコンタクトに、小さく頷きながら席を立つ事にした。アリスもそれに続いて、静かに動く。
賑やかに盛り上がるままのサクラ姉とチェシャに、特に反応されることもなく、私たちはそっと背中で扉を閉じた。きぃ、と小さな音だけを残して、部屋の喧騒を遠ざける。
少し早いが、床に就くにはいい時間だ。
そう思った途端に、抑えきれずに零れた欠伸を、ゆっくりと噛み殺した。
……そうしながら、廊下の窓から見える夜空を見上げて、もう一度、空の星座に主様の安寧を願う事にした。。
それから。
「そういう素養がなかったのであれば、それは主様に出会った末に目覚めた、という事では?」
「おっさんの言葉を逆彫りすると、そういう事にゃりよにゃ?」
背後から漏れ聞こえる会話は何も聞こえなかったことにした。




