ただいま、です。
地下室の重い扉が軋みを立てて開き、レオン様の肩に抱えられたまま、私は外へと運び出された。
暗く閉ざされた空間から抜け出したとはいえ、まだ屋内の地下。だが、牢獄のような鬱屈とした空気とは明らかに違う。天井は少し高くなり、壁の隙間からわずかに風が流れ込んでいる。その微かな空気の流れに、私は小さく息を吐き、ほっとする。
背後にはレオン様。視界を動かすと、マルメロ、サクラ、チェシャ様、それに神狼様と、彼の信徒である銀狼たちが数名いた。
広くはない空間にすし詰めになっているが、目が合うと尻尾を振ってくれる銀狼達や、微笑んでくれる皆の姿に、安堵が広がる。
だが、その一瞬の安心の直後だった。
「主しゃまああああ!!」
大きなタオルを広げたマルメロが、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま駆け寄ってきた。彼女の瞳は赤く腫れ、嗚咽混じりの声が震えている。どれほど心配をかけたのか、その姿を見ただけで痛感した。
そんな彼女に向かって、レオン様は「ほら、預けてやる」とでも言いたげな顔でため息をつき、あっさりと私の身柄を託した。
「魔女ちゃんのコート、これ上の部屋にあったから回収しといたにゃ。タオルはそのついでにゃ。いると思ったから。」
どこからともなく、チェシャ様がひょいと私の魔法のコートを差し出した。
気絶している間に教団の連中に奪われたことは覚えていたが、こうして無事に戻ってきたことに、ほっと胸をなでおろす。
身体を拭うための布を用意してくれていた事もそうだが、皆が何も言わずとも私を気遣ってくれていることが伝わり、密かに感謝の念を抱いた。
マルメロは無言のまま、震える指先で私の肌を拭い、傷や汚れを確かめるようにそっと撫でる。その手に身を委ね、静かに皆へ小さく感謝の言葉を告げた。
「ありがとうございました。それと、お手数をおかけいたしまして、申し訳ありませんでした。」
ある程度身が整うと、てるてる坊主よろしく巻きつけられたマントを、マルメロが器用に紐で調整し、腰や肩に巻きつけて簡易的な衣服へと仕立ててくれた。その上にコートを羽織りながら、改めて皆に礼を述べた。
「詫びる必要はなかろう。これもお主の日頃の行いの結果じゃ。その感謝を忘れぬ事の方が大事よ。」
皆を代表するように、神狼様が陽気に笑いながらそう告げる。
だが、彼の大柄な体には、この地下へ続く廊下はあまりに狭い。天井に届きそうなほどの威圧感があり、見ているこちらが窮屈に感じるほどだ。早く外へ出る方が良さそうだと思った。
「アリスと、ロベリア、チコリ、ヘリオも来てくれていますよ。今はこの通路の出入り口で見張りを引き受けていますので、すぐに合流いたしましょう。……無事で。……何よりでした。」
神狼様に続き、サクラが一礼しながら報告を口にする。
「無事に」と言ったところで、ほんの一瞬、言葉を飲み込む気配があった。だが、私も察して気づかないふりをする。
それよりも報告の内容を咀嚼し、なるほどとうなずいた。万が一通路の出口を敵におさえられては、この狭い廊下にいる私たちにとって大きな危険となる。慎重な判断だろう。
今名前を聞いた面子も含めて改めて顔ぶれを考えると、ルーナとクリス、それに銀狼の数名を屋敷に残しただけのようで、ほぼ総出だ。
クリスを危険に晒すわけにはいかないし、彼女を護衛もなしに一人家に残すわけにもいかない。順当な判断だろう。
が、正直これほどの戦力はいらないはずだが、それも神狼様の言葉を思えば、そうやって皆が来てくれたこと自体が、素直に嬉しかった。こうして皆が来てくれたのは、戦力の必要性というより、単に私のためだったのだろう。
目じりに涙が浮かんだが、嬉しさからくるそれを恥じるつもりはない。私は笑顔で、皆とその場を後にする。
見張りのアリス様たちとも何事もなく合流し、大喜びで身を擦り付けてくるヘリオとチコリの頭や背中を撫でながら、ひとまず建物の外へと急ぐでもなく足を進めた。
「……は……?」
だが、私のそんな呑気は、屋外に出た瞬間に吹き飛んだ。
私が捕らわれていたのは、どうやら貴族街の領主館らしい。小高い丘の上に構えられたその建物の敷地から出ると、町の様子が一望できた。
確かに、時刻は夜明け前。東の空の彼方では、分厚い雪雲の向こうに朝日が滲み始めているのがわずかにわかる。だが、その光すら霞むほどに、町は赤々と燃え盛っていた。
見下ろした先に広がるはずの整然とした街並みは、いまや無残な廃墟と化していた。燃え盛る炎が黒煙を噴き上げ、夜明け前の空に不吉な影を落としている。遠くには、まだ崩れきらぬ建物が、軋みながら炎に呑まれるのを待っているように見えた。
見渡せる限り、貴族街全体が、焦土と化していた。
赤々と照り返す炎の光が雪雲を染め、まるで空そのものが燃えているようだった。そこかしこで建物の倒壊する音が響き、瓦礫が弾ける破裂音と炎の唸るような音が入り混じる。
しかし、そこにあるべきはずの、人の悲鳴は、どこにもなかった。
「ここも土に戻してから帰るぞ。忘れ物はないかー。」
「はいにゃー、もう粗方盗り尽くしたから満足したにゃー。帰りに酒買って帰るにゃー。」
「……こんな時間にどこで買い物するつもりよ、アホ猫。」
まるで遠足の引率でもしているかのようなレオン様の声に続いたチェシャ様の軽口と、アリス様の呆れた声が、焼け落ちた町を前にしているとは思えない程呑気に、陽気に響いていた。
「……レオン、様?」
私が張り付いた笑顔を思わず作りながら、ぜんまい仕掛けのおもちゃのようにゆっくりと振り返る。
「いやあ久しぶりに暴れさせてもろうたわ。」
だが、それよりも先に神狼様が反応し、大口を開けて豪快に笑い出す。その声に呼応するかのように、後ろで控えていた銀狼たちが遠吠えを重ね答えた。
ヘリオなど再度私の元に寄ってきて、撫でてほしそうに訴えかけてくる……まるで「僕も一緒に頑張ったから、誉めて!」とでも言いたげな様子で。
ひとまずヘリオの顎を撫でながら、視線をサクラとマルメロに向ける。すると、マルメロは肩をすくめて苦笑いし、サクラは無言で首を小さく振るだけだった。
「あの、まぁ、レオン様たちは良しとしましょう。ですが貴方様はむしろ止める立場では……?」
全力で私を助けに来てくれたことはありがたいのだけれど、こんな地獄のような光景を目の当たりにしては、さすがにもっとスマートな方法があったのではないかと。
「我の家族に手をかけた上に、その連中が『こやつら』だぞ。我が情けをかける理由が少しでもあるか?」
「もし攫われたのがクリスで、お前が救出する立場だったら、お前だってこれくらいやるだろ?」
神狼様は一切躊躇うことなく、あっけらかんと答える。それに続くように、レオン様も言葉を続けた。そういう言い方をされるとぐうの音も出ない。
「しかし、自らのお立場をお考えください。神狼様が今更人里で人の目に触れると言う事の意味をですね……。」
「神狼様のお姿を目にした人間はもはや息をしていませんからその心配は大丈夫ですかと。」
「死人に口なしにゃ。念のため残党狩りしたいならおっさんに言えばしてくれるにゃりよ。」
額に手を当て、思わずため息をつくが、チェシャ様もアリス様も、その声色は神狼様たち同様に呑気なものだった。
街の様子を再度確認しようと、私が数歩前に出ると、サクラとマルメロは付き従うように同じ歩数だけ続いてきた。
最早この状況はどうにもならない。考えるだけ仕方ないかと振り返って、力なく皆に笑いかける。
「いろいろと不安を感じるのはわかる。だが案ずるな、俺が居るのだから。」
ここで神狼様の目撃者を消したとしても、この状況自体が大問題だ。
これほど大規模な出来事となれば、人里も騒然とし動き出すだろう。私たちが隠れている森の奥、あの平穏な日常にも影響が及ぶかもしれない。最悪の場合、どこか遠くに引っ越すことも考えないといけない。それを言葉にしようとした瞬間、魔王は先に口を開き、頼もしく胸を張った。
「お前とお前の家族に牙を向けるものがあるならば、悉く俺が滅ぼしてやる。不安があるなら俺に寄り掛かれ、それで良い。」
彼がその力を持っていることを今更疑うことはない。だが、こちらとしては心穏やかな日々があればそれで良いというのに。
「まるで、私に庇護下に入れと傲慢に申し上げたあの日のようですね。結果として、そうなった事が少し面映ゆい気もしますが。」
少し意地悪を言いたい気分にもなったので、初めて会った日の彼の言葉を引用すると、彼はふっと鼻で小さく笑う。
「収まった形だけを見ると、そうもなるだろうが、俺とお前の気持ちはあの時とは違うだろう。」
私達のやり取りを耳にしたマルメロとサクラは一瞬、目を見開いていた。
次に、マルメロはにこやかな笑顔を私に向け、サクラは少し目を逸らした。
……そういえば、昨日、二人とクリスには随分と迷惑をかけたことを思い出す。それを考えると、少し気恥ずかしくなったが、私とレオン様の間に流れる空気から、二人は何かを察したようだった。
「おっさん、今すげえ気持ち悪い顔してんにゃ。」
レオン様が爽やかに笑いながら言葉を放つと、チェシャ様が冗談めかせてその表情を指摘した。すると、アリス様が無言でチェシャ様の耳を引っ張り、彼は悲鳴を上げた。
こういったやり取りも、もうすっかり見慣れた光景だ。私は思わず小さく吹き出した。
そうして笑い合っていると、神狼様がその存在を主張するようにのそりと一歩前に出た。彼も納得したような笑みを口元に浮かべ、そして言った。
「……気持ちが通じあわせた場所と時がこのような有様とはな。まぁお主らしいかの、レオン。しかしお主が義理とはいえ、息子になるとはの。」
「生憎と、正式な返事は家に戻ってからとの事だ。こちらからの報告は後日とさせていただこうか、義父殿。」
殿方同士が友情を確かめるように呑気な冗句を飛ばし合って笑ってはいるが、今も燃え盛る業火に空は彩られている。
魔王は、今私たちが立っている敷地も後には更地にするつもりらしいが、こうしているだけでは、この場が火の手に覆われないとも限らない。そろそろ撤収を視野に入れた方がいいだろうと思いながら、私は二人に向き直った。
「神狼の裁きによる地の清めであったとしても、そこに居た人々の死に対して、敬虔を損ねることがあってはならないと思います。それがどれだけ憎い敵であったとしても、もう彼らは地に還ったのです。……この地を去る前に、彼らの平穏を祈る時間を、どうかお与えください。神狼様。」
彼らの掲げた旗自体に思うところはあり、その旗の下にいたあの赤毛の男の事を許す気にはなれない。けれど、そこに所属したすべての人々がそうであったわけではないのだから。
欺瞞かもしれないが、彼らの魂の安息くらい、誰かが願ってあげてもいいと、そう思った。
小さく頭を下げた私に、神狼様は「それでお主の気が済むならば。」と静かに答え、ゆっくりと空を見上げた。その瞳には、何かしらの思索の色が浮かんでいるようだった。
「人間は複雑にゃりね。殺された側からしたら、殺した僕らに祈られたら、それは呪いだにゃ。」
チェシャ様の言葉は、まさにその通りだった。欠伸交じりの皮肉に、誰も特に反応しなかったが、私は心の中で静かに彼らに祈りを捧げた。少なくとも、私の話を聞いてくれたあの人たちには、何かしらの安らぎを願いたかった。
だが、誰かに祈られる側に立つ者は、その祈りをどう受け止め、どのように感じるのだろうか。
もし、私が逆の立場だったら、私は、彼らの祈りを受け入れることができるのだろうか。
あるいは、自らが祈られる側という存在意義で生きる者がこういった感情を抱いた際は、誰に向かってどうするものなのだろうか。
私の傍らで、神狼様は静かにたたずみ、今も空を見上げたままだった。その瞳には、町を浄化するための炎が確りと映り込んでいた。
彼の表情は読み取れないが、何かを考えているようだった。静寂が、重たく降り積もる。
「魔女。」
やがて、神狼様はぽつりと呟いた。その低く響く声に、私はそっと顔を上げる。
「我らは獣の世界の道理で生きておる。喰われる者と喰らう者。それでよい。」
それは、まるで自分自身に言い聞かせるような口調だった。
「どこまでも食らいつくすさ、お前のためなら、この世界丸ごとでも、だ。」
私が祈る手をそっと解くと、レオン様は迷いなく腕を伸ばし、私の身体を抱き上げようとする。逆らうことなくその腕に身を委ねると、私の小さな身体は彼の腕の中にしっかりと収まった。
「今宵はここらで撤収とする。この建物も駆逐するつもりだったが……この分ならば、放っておけば炎に呑まれるだろう。そうでなければ、墓標として残すくらいは認めてやるか。」
レオン様が告げる言葉どおり、炎はすでに丘のすぐ下まで迫っている。
黒煙が空を裂くように立ち昇り、赤々と燃え盛る炎が、建物を飲み込まんとしていた。この状況では消火など到底間に合わないし、そもそも消したところで、助かる者などもういないのだから。炎は自然に任せるままになるだろう事は想像に易かった。
そして、撤収の号令を受け、皆が自然とレオン様のもとへと身を寄せる。
……彼は転移魔法の使い手であるが、この人数を一度に運ぶなど容易ではないはず。しかし、それが可能だからこそ、今ここに皆が立っているのだ。そう思えば納得するしかなかった。
「んにゃぁ……眠いにゃ……」
よほど疲れたのか、チェシャ様はその場に寝転がり、欠伸を噛み殺しながら尻尾をゆらゆらと揺らしている。
彼に構わず、レオン様が足元に軽く足を踏み鳴らすと、その場に淡く鈍い輝きを帯びた魔法陣が、静かに広がり始めた。
はじめは薄ぼんやりとした光だったものが、瞬く間に力を増し、地面に幾何学模様を刻みながら脈動する。まるで大地そのものが呼吸をしているかのように、魔法陣の輪郭が脈打ち、そこに集まる魔力が熱を帯びていくのがわかる。
その光は徐々に私たちの足元を包み込み、目に映る世界がぼやけ始める。空気が歪み、周囲の景色が溶けるように揺らめいたかと思うと——
瞬間、視界が暗転し、次の瞬間には、まったく異なる風景が目の前に広がっていた。
目の前にそびえるのは、私たちの館を覆う塀と、重厚な門。長い戦いの後、ようやく帰還したのだと実感が湧く。懐かしさが、胸の奥で静かに広がった。
「では、戻るとしようか。」
レオン様が軽く顎をしゃくる。
「特にクリスなど、首を長くして今か今かと待っておるじゃろうからな。」
神狼様の言葉に、私は小さく頷いた。
淑女が夜通し起きて待機など、普段であればお説教だが、今宵だけは。きっと、今頃居間にでも居て、ルーナと共にまだかまだかと待ち構えているに違いない。
「あーもう、チェシャ、家ついたから、もうちょっとだけ頑張れませんかねー。」
「ほっときなさい、もうそこで寝かせとけばいいから、マルメロちゃんは魔女様のためにお湯浴みの準備お願い。」
マルメロの軽く焦ったような声と、アリス様の冷静な指示。
振り返ると、チェシャ様がどうやら完全に力尽きたらしく、草むらの上で器用に丸くなり、すでに寝息を立てていた。
「では、参りましょう。クリス様を早く安心させませんと。」
もう放っておきましょう、とでも言いたげにサクラが静かに私へと声をかける。その言葉に応えるように、ちょうど門の向こう、館の扉が勢いよく開かれた。
「姉さまーーーーーっ!!」
澄んだ声が東雲の空に響き渡る。
クリスは大声を張り上げ、走りにくそうにスカートの裾を摘みながら、ピンクブロンドの髪を揺らして駆け込んできた。
その後ろを、慌てるでもなく、しかし確実な足取りでルーナと、留守番として残った銀狼三名を伴い、ゆっくりとついてくる。
……本来ならば、淑女としては完全に落第の行動だが。けれど今は、その粗相を咎める気にはなれなかった。
レオン様に小さく合図を送ると、彼は無言のまま私をそっと地面へと降ろしてくれた。
「ただいま、です。」
駆け込んできたクリスは、そのまま勢いよく私に飛びつく。
咄嗟に両腕を広げ、彼女の小さな身体をしっかりと受け止めた。
温かい。
その体温を感じた瞬間、ようやく胸の奥に確かな実感が広がる。
私は、無事に帰ってきたのだ。この家に、この場所に、大切な人たちのもとに。
やっと、その現実を受け止めることができたのだった。




