表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神狼の魔女と不死の魔王   作者: 抹茶ちゃもも
四章 魔女はその感情の名前を知らない
30/56

お母様には内緒だからな

「ふーむ、こんな場所でそこまで求めてはいないが、こうなるとお前の家の執事の茶の味は恋しい。」


「ですね、ルーナは本当に何を作っても美味しいのです。」


「……食事は、早く戻って家で取る方が満足度が高そうだな。」


「そうですね、それには同意します。」




魔王様ご一行の身の回りの日用品や着替えなども含め、日常の消耗品の買い出しは、町を適当に歩いて目についた店に入って、といった形で割と無計画、無軌道な形で進行はしたが、それも粗方は終わった。


そうしている間に太陽が真上にあがる程度の時間帯にはなっていたので、一旦どこかで喉の渇きでも癒し、ついでに軽く何か口に入れよう。提案してきた魔王に、素直に頷いた。


土地柄、寒気が年中厳しい気候ではあるが、さすがに町が形成されている場所だけにその辺もだいぶマシな方の場所。今日は雪が地面を覆う程ではない。


雪が激しいようなら屋根のある店を、となっただろうが、少し休むだけだしと適当に選んだオープンテラスのカフェでお茶を頼んだのだが、これがかなり薄い。


まぁ薄いだけで味は普通だし、飲みはするが。……ついでに何か軽食を頼む、そのつもりはもうなくなっていた。先ほど意図せず食べた串焼きの味を今更思い出すと、余計にだ。


向かいに座った魔王も意見は同じようで、失敗したな。そんな顔でお茶を口にしていた。




「それはそうと、椅子は買ったとて町から家まで運ぶのが事ですし、作るつもりだったのですが……。便利なものですね。」


「ああ、アリスやチェシャでも扱える程度だ、お前の魔力量なら簡単に扱えると思うし戻ったら教えようか?」


「……そうですね。私が扱えるかどうかは別として、興味はあります。」




私の返事に、彼は薄いお茶を口にしながら満足気に笑む。


それは何か、私の役に立てるのが嬉しいといったそういう色だ。彼のそういう、素直すぎるほどに向けて来る好意を気恥ずかしくは思えて目線は思わず逸らしたが、向けた返事自体は本音だ。




話題に出したのは、彼の使用した空間の魔法。


容量自体に限界はあるが、魔法で作った異空間に荷物を収納できるらしく、家具屋で購入した椅子も今はその中に収納されているとの事。お陰で大荷物の買い物をした後にも関わらず私達は手ぶら。


椅子を複数抱えて帰るとか、重量はまだいいとしてもかさばり過ぎる。何か台車でもないと面倒。


家への道中は魔王の転移の魔法で省略するにしても、せめて買うなら帰る直前の最後にしよう。私の心配をよそに、そうするのが当然のようにその魔法を使って見せられて、さすがに驚いた。


そういう手段で人目を引いて目立つのは面倒だから、使うのは物陰とかで、あとカモフラージュとして売るための素材を詰めていた、もってきた鞄に入れてる体にしろ、そういう風には言い含めたが。


……それにそういう便利な魔法が使えるなら最初から言って欲しかったと少し唇を尖らせたが、彼らからすれば日常的に使用している手段であり、むしろ私が大き目の鞄に素材を詰め込んで持って来たのを、なぜ魔法で収納しないのか、何か理由があるのだろうと、不思議に思ってはいたが、言わなかっただけだったとのこと。


まぁ、彼の全盛期と今では世代が違いすぎる。常識に差違はあって当然だろうし、この件を責めるのはお門違い。こちらも素直に納得はした。


それに実際これは、あれば便利な手段だ。私が魔法として使いこなせなかったとしても、得た知識自体は貴重なものだろう、そういう興味へのときめきも、実際ある。




「そういう表情も見せてくれるのであれば、懇切丁寧に指導もしようという気にもなる。」


「失礼、はしたないところを。」




知的好奇心を刺激され、表情が無意識に緩んでしまっていたらしい。それを指摘するような言葉に一つ咳晴らいをしてから襟を正す。


それから、気候のせいで家で飲むよりは冷めるのが早いお茶を飲み干してしまおうとカップに口をつけた。


「いや、お前のそういう穏やかな顔色はむしろ好ましい。抱きしめてしまいたくなる。」


魔王は、行儀悪くテーブルに肘をつき、こちらをのぞき込むように顔を少し近づけながら、またそういう事を照れもなく口にして、笑みに細めた金の瞳で、私をまっすぐに見る。


「……人前ですので、弁えてください。」


ぷいと視線を逸らしながら、なんとかお茶を飲み干したが、やはりこの男の笑顔はこう、心臓に悪いと思った。










・・・・・・・・・









歩いて、身体を動かしている時はそうでもなかったが、座ってじっとしていると少し冷える。休憩もほどほどに、お茶を飲み干すとすぐにカフェはあとにした。


あとは、私的にはあともう一軒だけ寄りたい店がある、もうそれだけ済ませれば撤収で良いか、そう思いながら足を進めていたところ、私の一歩後ろを歩いていた魔王に、かぶっていたフードを指先で捕まれた。


それで少し脱げそうになったフードを摘まみながら、なんですか、と振り返ると、彼は一軒の露店に目線を向けている。


「少し良いか?」


露店に並んでいたのは、アクセサリーの類を扱っているような店だった。


魔王の目線に気付いてにこりと笑顔を向けたのは、どうやら店主らしい、茶髪を後ろでまとめた若い女性。その隣に屈強そうな中年の男性がいるのは、こういう場所で貴金属を扱うとなれば、そういう備えも必要という事だろう。


「構いませんが……。」


だが、こんな場末の露店に、彼の目に留まるような品が何かあるのだろうか。そうは思うが、とりあえず深く考えずにそう答えて。


それから。


(……まさか。)


そのあと、一寸浮かんだ想像を、自惚れすぎだとすぐに振り払った。




・・・・・・・・・。




「こういう事は、品の質も大事だが、それよりも今日という日の記念という意味の方が大きい。どうか受け取ってはくれまいか。」




振り払った想像通りの結果だった。


その店に並んでいたアクセサリを何か私に贈りたい。彼は結構ロマンチストなようで、大仰な手ぶりで演技めかせてそのような言葉を笑顔で向けた後、私の前で膝をついた。




その、貴方のその目立つ容姿で、往来で、そういう事するの本当にやめて欲しいのですが。


ほら、往来、特に淑女の方々がめちゃくちゃ貴方の事注目してますよ、目立つのは嫌だと最初に言ったはずなのに。


少し頭を抱えそうになりながらも、はぁ、と一つため息をついた。




彼が選んだのは、黄金真珠が飾られた銀の髪留め。


小ぶりなそれは、中心に控えめな大きさの真珠が飾られており、控えめながらも品は良い。髪留めの本体は柔らかな銀色で、全体的にシンプルなデザインだが、端には小さな模様が刻まれており、気取らずとも丁寧な作りを感じさせる代物だ。


実際こんな場所で売られている品としては結構上等なものだと思う。私の前にそれを差し出す彼を前にして、どうすべきかと思案。


断ったところで彼はきっとすぐには退かない。


さっさと受け取って疾くこの場を立ち去るのがおそらく正解なのだとは思うが。


受け取るにしても、そういう適当な態度を返すのは絶対によろしくない。彼に対して失礼にならないように、恭しく礼の一つも返すのは礼儀だ。


だが、こう衆目から注目されながらでは、恥ずかしすぎて耐えられそうもない。


どうしたものかと、耐えかねて掴んだフードの裾をひっぱり、顔を隠すしかできない。




「お嬢ちゃん、こういう時は遠慮しないで素直に受け取ればいいの。」




私が困って固まっているのを見かねたのか、そんな風に声をかけてきたのはお店の女性だった。


視界は深めに被ったフードのせいで少し影を落としているが、視線の先で女性は柔らかく微笑んでいた。


「この品一つで、お前の気持ちを変えて欲しい、そこまでは望まない。ただ受け取ってくれるだけで良いのだ。」


意外なところからの援軍を得た魔王も、そのように言葉を紡ぎながら、少し上目遣いにこちらを見やりながら髪留めを乗せた掌を近づけてくる。


私達の様子をにこにこと眺める女性も、うんうんと頷き、そして。




「お父さんと喧嘩でもしちゃったのかな?でも、ほら、こんなに言ってるんだし、許してあげられないかな?」




あっけらかんとそう言い放った。


私を見る魔王の表情が、虚を突かれたような顔色になったので、思わず吹き出しそうになったが俯いて耐えた。


「それに、最近は子供が誘拐されるような事件もあるから、お父さんと離れるのは危ないからね。早く仲直りしないと。」


完全に私たちを父娘と認識した店員さんは、容赦なく追い打ちをかけてくる。なので。


「うん、ありがとうお父さまっ、しょうがないから、これで許してあげますっ。」


私はこれだ、と乗りかかる事にした。せいぜい見た目の年相応の少女の顔と口ぶりを作って、贈り物を乗せた彼の手に自分の掌を重ねながら、ぽふりとその胸に顔を埋めた。


店主からすれば、難しい年ごろの娘を怒らせた父親が、贈り物で気を惹こうとしている。そのような光景に見えたのだろうし、実際そうとでも見る方が自然だろう。


私達を見る衆目の目線も、よくよく感じ取れば何か微笑ましいものを見るような空気である。


うん、これなら自然な形で一旦品を受け取って、この場をやり過ごせる。ちゃんとしたお礼は人目のつかない場所ですればいい。正直店員の女性には感謝の至りだ。


さて、後は魔王様はどうだろうかと、彼の胸に顔を埋めたままちらと見上げたが。


諦めたような笑みを一つ浮かべながら、私を抱きかかえ上げて、そして。




「お母様には内緒だからなっ。」




その方が面倒がないと思ったのだろう。彼も彼で歩調を合わせてくれた。周囲からの視線は先ほどにもましてなんだかとても暖かい空気だった。


どさくさにまた彼の腕に抱き上げられたのは、ちょっとした仕返しかもしれないが、この際だから許容しよう。父に甘える娘の演技を続け、せいぜい無邪気に笑っておく事にした。


「ほら、さっそく着けてみせてくれないか?何ならお父さまが着けてあげてもよいのだぞ?」


「大丈夫です、自分でつけられますから。」


手にした髪飾り、金色が私に似合う気はしないが、そう言葉にするのはこの状況ではよろしくないだろう。作った笑顔のまま、耳の上あたり、フードで隠れて見えない位置あたりになってしまったが、とりあえずで急ぎ、留めた。


その様子を微笑ましく笑顔で見つめる店主さんへ、彼が支払いを済ませる間に、いきなり高くなった視線で一応周囲を伺う。


此方を遠巻きに見ている方々の中に、あーやっぱり奥さんいるよねー、というような声を上げながら残念がっている淑女が、何人かいるようで。


やはり世間一般の淑女の方々からしても、この男は一目でそのように気を惹く容姿なのだろうな、と。


そう思うとなんとも説明が難しい、もやもやとした複雑な感情が心に混じった、そんな気がした。










・・・・・・・・・









「あれが正常な反応ですよ。貴方のようなお方が私などに冗談でも気持ちを寄せるなど、世間様からすれば貴方の名誉が疑われるようなの事なのだと、改めてご理解いただける機会になったのではないでしょうか。」


一番賑やかな大通りは抜けた。


ぼちぼち人通りも落ち着いたあたりで先ほどの状況についてそのように告げるが、彼はあまりへこたれた風でもなかったし、まだ私は彼の左腕に座ったままだった。


いい加減下ろせと言いたいが、私の言葉を受けてここは自分から下ろすという分別を見せて欲しかったので何も言わない事にした。行きたい店があるので進行方向の指示だけにとどめた。


「俺が惚れたのはお前の中身だ。その精神の入れ物がどのような姿形をしているかなど、俺にとってはさして重要な事ではない。」


「……その割には、その私の入れ物をお求めのような言葉を口にしていらっしゃいましたが。やはり妙な性癖をお持ちなのでは?」


私のその言葉に、珍しく魔王は表情に憂いを浮かべる。


「チェシャやアリス達が俺をそう誤解するなら勝手にさせておけばよい。だが、当のお前にそう言われるのは、心外と言いたい。……外見に惚れて求めた訳ではない。お前自身が好ましいからこそ、その外見も愛おしく思える、順序が逆だ。」


彼の言葉は真剣なもので、浮かべた表情も合わせて少し、申し訳なさも覚えた。


「貴方の言葉を、正直、受け入れるつもりにはなれませんが、ですが、もう疑うつもりはありません。昨日も言いましたが、貴方からの気持ち、それ自体はうれしく思います。……贈り物も、ありがとうございました。のちほどきちんと謝礼をさせてください。」


彼の言葉に、私なりに真剣に返したい。そう思ってもこう返すのが今はせいいっぱいだ。


だが、返した言葉を反芻すれば、最初の頃に比べれば少しは整理ができているとは思った。今の気持ちを、現状を、こうしてちゃんと言語化はできるようになったようだ。


私の返事に、魔王はふっと小さく笑い、ようやく私を下ろす気になったらしく、通りの端に移動してからしゃがみ込んで私を腕から下ろした。


私の言葉を受け入れて、諦めてくれる気になっただろうか。


「帰ったら外しても良い、棚の肥やしにしてもよい、が、多少は今日の記念だと心にとどめてくれると嬉しい。」


少しだけそう期待したが、そんな風ではないようだ。私を下ろす際に膝をついた恰好のまま、熱っぽい瞳で私を射抜きながらそのように告げてきた。


伸ばしてきた手で、私のフードを少し捲り、隠れるようにそこで光る金色を確かめると、なんだか彼は満足そうで。


まぁ、その位は良いかと、彼のしたいようにさせて抵抗はしなかった。


「こうして見えない隠した場所に潜ませてあるのも、意地悪いように見えて、これはこれで趣があるな。お前の中に俺の存在が秘められているようにも思えて、良い。」


「私に、この色は似合わないと思いますよ。」


フードに隠れたのは単純に私が布を深めにかぶっているせいなのだが、それをそのように解釈されて悦に入られると、さすがに少し意地悪を返したくもなり、彼の指を払いながら、笑ってそう返したのだが。


「いずれ似合うようになってくれれば嬉しい。俺の色だ。」


余裕めかしてそう返されて、気付いた。


金色が、男の瞳と同じ色だと言う事に。





「~~~~~っ!!!」




「なんだ、今気づいたという顔をしてるな。」


自分の色を相手に贈るのは親愛の証であり、それを受け入れて身にしているというのは、その気持ちを受け入れたという事。


以前暇つぶしに読んだ恋愛小説でそんな描写があった気がする。彼の中の常識にそのことがあるかどうかは知らないが。


顔を赤くしながら驚きで表情を戸惑いで崩してしまった私に対して、彼は満足そうに、愉快そうに笑いながら立ち上がった。


「……き、金瞳など、たいして珍しくもないでしょう、クリスの瞳の色だって同じようなものです!」


だからといって今更慌てて髪留めを外すのもみっともない。せいぜい屁理屈をこねて言葉を荒げるくらいしかできない私へ、楽し気な視線を向ける彼の態度に余計に心を乱される。


「ならばクリスの色としてでも構わぬよ。それでも身にしてくれるのであれば、俺からすれば喜ばしい。」


「……っ!!」




これ以上は、また感情を乗せただけの意味不明の言葉を吐いてしまうだけだ。さすがに学習した。ここは言葉を飲み込んでから、彼へ背を向けて大きく息を吐いた。一旦落ち着こう。


人通りも大通りに比べてだいぶ減ったとはいえ、全くいないわけではないのだから、これ以上騒ぎたくない。話題を変えよう。




「……あの、私の行きたい店は、もうすぐそこなのですが、店の前でぼうっと待っていただくのも申し訳ありませんので、その間にご自分の買い物でも。」


「いや、別にお前の買い物に付き合うくらい構わぬぞ?俺がいると何か都合が悪いのか?」


行きたい店はもう視界に届く位置だったから、振り返って看板に向けて目線を送る。




魔王は、ああ、と少しバツの悪そうな顔をした。


そこは、女性の肌着、下着を主に扱う店。さすがにあの店に一緒に入ってくださいとはこちらからも言いにくい。


「大丈夫ですよ、ああいうお店ですから、客も店員も女性しかいませんし。」


心配なのはわかるけれど、なだめるようにそう告げた。彼は頭を掻きながら少し思案した様子。


「レオン様も、この機に私がいるとし辛いような買い物を済ませておくというのはいかがでしょう。」


流石に私のその発言は冗句が過ぎたか、くしゃりとフードの上から頭を掴まれ、指先で少し、くしゃくしゃとされた。


「お前に言われた通り、チェシャとアリスへの土産でも見繕ったらこのあたりに戻るとするよ。もし何かあったら大声を出して、すぐに逃げろ。」


「はい。よろしくお願いします。」


諦め半分に笑う彼を見上げてから、一度頭を下げた。


それで彼からはもう制止を向けられる事はないようだったので、何事もなく店へと足を進める。


一度振り返り確認すると、こちらを見ながらひら、と手をふる魔王は、やはり何か懐いている犬めいて思えて、少し笑ってしまった。




・・・・・・・・・




ドアの呼び鈴を鳴らし、足を踏み入れた私に、店員さんのいらっしゃいませ、という声が平和に響く。


この店に来たのも、当然久しぶり。店の場所自体に変化はないが、やはり間を空けると店の中の配置は大きく変更されている。小さな店ではあるが、どこに何があるのかよくわからない事になっていたので、まずはぐるりと店の中を一周。


……サクラやマルメロの分は、さすがにもう正確なサイズを把握している自分の判断で選びたいだろうし、そういうところを考慮しなくていい品だけでいいか。……アリス様の分は、色々規格外で判断に困るが、適当に見繕うとして。


そうして物色を続けることしばし、結構ゆっくりと店の中で過ごした結果、いくらか気になる品を籠に放り込んだところで試着室が目についた。


私の場合、軽く太ったり痩せたり程度はあっても、基本的なサイズがそうそう変化しないので、必要はないといえばそうなのだが、初めて見るものは一応着心地くらいは確かめておこうか。


呑気に買い物を楽しんで、私は完全に油断しきりだった。


店員さんに声をかけてから何も考えず入った試着室。




足を踏み入れた、その途端に私の視界がいきなり黒一色で塗りつぶされる。


「……なっ……!?」


驚きの声を上げた私の背中を、何かが強打して、そのまま更衣室の壁に身体を叩きつけられて崩れ落ちた。更に、何かが私の身体を覆っていく。


誰かが先にこの更衣室に潜んでいたのだろう。


見えないから正確なところはわからないが、おそらく、大きな布、このざらざらした感触からして、おそらくは麻の袋。それを潜んでいた者に頭からかぶせられ、驚いた隙に転倒させられ、そして今はおそらく、袋の口を私の足元で縛ろうとしている。


(こ、これ、人さらいか、なにか……!)


確実に誘拐が目的だろう。まさか店そのものが共犯だったのか、その実情を私が知る術はない。


だが、今私が陥れられた現実は、不味い。袋に閉じ込められた私が暴れたところで、頑丈な麻を破る事はかないそうにない。


そうだ、懐にナイフを忍ばせてある、あれを使えば。そう思ったが、急激に意識が微睡みに落ちていく。


最初から誘拐するつもりで構えていたのだから、そのくらいの準備はしてあったのだろう。


袋の中に充満するこの甘さを含んだ匂い。主成分は黒蓮か何かだろうか。正確なところはわからないが、即効性の睡眠効果のある何か、そこは疑い様がなかった。


(……!!)


自分の迂闊を呪いながら、もう私は、急速に襲ってくる眠気に抗うのが精一杯で、声すら出せず。何も為す術がない。




そのまま意識は眠りへと落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ