やっと私の牙を届かせたぞ、魔王
一旦邸宅にと向かうため森を抜ける最中に。私は無事にマルメロと合流した。
なぜかチェシャ、そういう名前だったはずの獣人の少年が、まるでマルメロに付き従うような態度であった事と、私と一緒にいたアリスに向かって腕で大きくバッテンを作って見せた事で察しはついた。
お互いズタボロになった私とアリスに比べると二人とも元気そうで、ずいぶん温度差があるなと、思わずアリスと二人で笑ってしまった。
全身傷だらけの私をマルメロは心配したが、同じようにかなりの深手を負ったアリスを見て、向こうも察したようで、一言、二人とも無事でよかった、そう笑いかけるだけだった。
逆に全然元気そうなチェシャが、アリスに責め立てられたりと、こんな状況で何を呑気にしているのかとも思ったが、今はいいだろう。
森を抜ける時になればそこで一度引き締めればいい。
本当に呑気だったと、私はすぐに後悔させられた。
・・・・・・・・・
この場に戻り、まずは一番に確認しなければいけない光景を確かめた。
主様は、魔女様は。今はどうなった
戦況を目にした瞬間、私もマルメロも、蒼白な色で表情を染めた。
主様の身にしている魔法の法衣は、かなり高度な魔法が幾重も組み込まれており、防御性能は言うに及ばす、仮に破損したところで、主様の魔力を流し込めば、それで修復もできる、そのような代物のはずだ。
魔王の前で、仰向けに倒れ伏した主様は……右手の肘の先と、左の肩から先と、右足の腿から下が喪われていた。
それがそうとわかるように、魔法の衣装は破損したまま、主様の肌を覆えずに晒している始末。
もはや立ち上がる事もままならない、もう今にも力尽きてもおかしくない、遠目に見てもそう伝わるような、そのような姿だった。
「ガルム、様……。」
神狼様たちを伺っても、纏っているのは一様に重苦しい空気。
ガルム様とルーナ様は、最早何も言うまい、そのような表情のまま無言を貫いてじっと戦況を見つめるのみだった。
私達が戻ってきた事に、気づいてはいるだろうが、言葉どころか視線さえこちらに向けなかった。
ただ、クリス様だけは違った。
……ここを発つ前は、よくこの短時間で成長したと思えるほどに懸命に気丈に振る舞っていたが、さすがにこの光景を前にしては……。
そう心配になり見やった彼女は、感情を必死に押し殺したような、そんな無表情を保っていた事に、安堵といえばおかしいが、ともかく、取り乱してはいないようだ。
それが、私たちを目にした途端に、何か決意めいた色を金色の瞳に宿した、そんな気がした。
・・・・・・・・・
「お前のタフさと頑固さにはもう今更何も言いやしないが、こうなれば、お前の意思がどうとかもはや関係ないな。」
魔王は心底疲れた、もう本当にいい加減にしてほしい、とうに怒りや呆れは通り過ぎたようだ、もはやうんざりするしかない。そのような態度だった。
そりゃあそうだろう。
私のような幼い見目の少女めいた姿を、こうまでひたすらに、残忍に、長時間甚振り続けるなど。
幼き者が嬲られて上げる悲鳴を耳にする事で身に栄養を満たせるような、そんなよほど特殊な趣味をお持ちでない限りは気が滅入って当然だ。
「何度でも言うが、俺だってこんな真似したくはなかった。マーナガルムの手前、命だけはと思ってはいても、ついやりすぎたって事はいくらもあった。それでもお前がいくらでも耐えやがる。厄介この上なかった。」
はぁ、とため息を零しながら男が、魔王が、私に近づいてくる。
もはや今の私はかろうじて片足が残っているだけの達磨。
ここまで、私に一歩も距離を詰めずに遠距離からの徹底した攻撃のみを繰り返し続けた魔王も、そこまでして、やっと近づいても大丈夫と判断したらしい。
やれやれ慎重な事だ。呑気にそう思いながら仰ぐ空は、相変わらず止むことのない吹雪。
聖域の方を見ると、空はうっすら赤くなりはじめていたので、どうやら日没が近いらしい。
足音がゆっくりと近づいてくる。
この絶望的な状況の中、もはや死んだ魚の目で横たわる事しかできない私は……。
どうぞどうぞ、お早くこちらに!歓迎の準備は、整っておりますよ!
歓喜の色に心が満ちていた。
ようやく、ようやくここまで耐えに耐えて訪れたこの絶好の好機に対して、一撃で仕留めて見せる。そのはやる気持ちを抑えるので精一杯だった。
胸の中に抱いた興奮を微塵も表に出してなるものか。そう思い、必死で陸に打ち上げられて今にも死にそうな魚の演技を続けた。
魔王は一つだけ勘違いをしている。
私の、徒手空拳以外には唯一の芸である治癒魔法。
別に私は、この消し飛ばされた手足はやろうと思えば、それなりに消耗こそするものの、即座に修復できる。
だが、最初に右腕の肘から先を消し飛ばされた時に、あえて、あえてそれを修復しないでみせた。
もしそれであの魔王の目を騙す事が出来れば……利用できる。そんな思いから試しに仕掛けてみた。
思惑通りに魔王は勘違いをしてくれた。
私の治癒魔法ではそこまではできない、と。そこまで出鱈目ではないかと、静かに言った言葉を聞き逃さなかった。
ならば、仕掛けはこれだ。そう腹を決めた。
流石にそうして傷を増やし、物理的に抵抗がままならないとまで至った相手にならば、魔王とて油断の一つもするだろう。
だからあとは……どれだけ、自然に相手を網にかけるかだった。
ここで急に不自然に抵抗を弱めるわざとらしい真似をすればこちらの意図がバレる。
だから待った。こちらは変わらず抵抗をしながら、魔王の攻撃が、偶然、自然に、私の本気の抵抗を掻い潜った上で、私がそのように身を砕かれていく状況が、発生するのをひたすらに待った。
何度も何度も、焼かれ、刻まれ、斬られ、貫かれ、押しつぶされ……死ぬ直前まで身を痛めつけられては治癒で身体を癒しながら、蓄積する疲労が、摩耗していく精神が、私に諦めの声を訴え続ける中、この一瞬を得るため、そのためだけに、耐えに耐えたのだ。
マーナガルム様の手前もあるのだろう、彼は、出来れば私を殺さずに降伏させたいようだし、その思惑に基づいて、近づいても大丈夫と判断した最後にはきっと私の傍に寄るだろうと。その時が好機だと。
一寸でも疑われないように、早くこの状況を得るために、わざとの手抜きをしてしまうような愚は犯さず、そこはとことん慎重を貫いた。
……そういう思惑の上であっても、私が彼の攻撃を防ぐ、避ける等の抵抗なんかまるでできない事は最初からずっと変わらないから、わざと受けた、それは烏滸がましい言い方になってしまうのは確かだが。
だが、やっとだ。
仕掛け通りに近づいてきた魔王が私の前で足を止める。倒れ伏した私を、見下ろす彼の金色の瞳は、すっかり冷めきっている。
何度もそうしたように、私に向かって降伏を勧告するための言葉をかけるのだろう。私に向かって上半身をかがめた。
もう少し慎重であれば、もっと確実なチャンスを、そう判断しただろうが、さすがにもう、私の精神が限界だった。
これ以上はもう、抑えられない。
「おい、魔女……。」
「しゃああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
油断しきり。何の警戒もしていない事が伺えた、こちらに向けて身をかがめた彼の喉首は無防備だ。もうそこを狙えと言わんばかりに。
心の中を吐き出すような雄たけびをひとつあげた。
私は一瞬で手足を再生させ、このために温存しておいた最後の力と集中力を開放し、飛び跳ねるように立ち上がり、開いた右の掌を男の喉元に食いつかせようと、必死に伸ばした。
驚きに固まり、目を丸めた魔王の金色の瞳に私の姿が映る。
やっとだ。
やっと私の牙を届かせたぞ、魔王。
あとはその喉笛を、私の牙が食い破る、それだけだ。
「……今のは、肝が冷えた。さすがに。」
全身に冷や汗を浮かべながら、初めて見る心底驚いた、そのような表情を浮かべながら魔王は私の右の手首を掴み取っている。その手が震えているように感じた。
「まさか、こんな方法で隠し潜ませていた牙を磨いていたとはな。」
……届かなかった。私の爪先は男の喉に届き、そこをわずかに食い破る事には成功したが……。
あと一歩の踏み込みが足りなかった。
魔王は喉からこぼれる流血に、少し苦し気に呻いてこそいるが、致命傷には至らなかった。
「身が軽い事に利点もあるだろうが、やはりガタイの大きさってのは、そのまま戦力差だな。お前の手足が、あとほんの数cm長ければ、今のでお前の勝ちだった。」
魔王の声は、そこに何の裏もない、素直な感嘆の言葉に感じる。
だが、こちらはそれどころではない。
損ねた。ここしかなかった、ここまで大切に大切に磨き続けた末の一撃が、失敗に終わってしまった。
「っ……!!」
畜生。そのような言葉が喉から出かけたが、さすがにはしたないと思い言葉は堪えた。
単純な腕力比べなら、魔王自身がそう認めたように私の方に分があるはずだった。
私の力なら、右腕の手首を掴んだ魔王の腕を振り払い、強引にそのまま、掴んだ喉首を食い破る事だってできるはず。
今も、そうしようとしている。しているが。実際は私の右腕をそこから剥がそうとする魔王の腕の力に、もう抗えない。
私の心は折れずとも、身体が限界だった。そこまで腕力を高めるための魔力がもう残されていないのだ。
勝てる、勝てるのだ。
そう希望を抱いて高揚した、年甲斐もないときめきに胸を高鳴らせた。
だから、残されたすべてを先ほどの一撃に込めた。それはきっと、正真正銘の最後だった。
それだけに、この失望は。一気に奈落に突き落とされた心は。その落差に打ちのめされた末に感じた感情は、これは。
(ー……!呑まれるな!)
絶望、脳裏を過りかけたその言葉を、私は必死に振り払う。
力を使い果たした、それが何だ。
これで終わりだと自分で区切るな。
私が歩みを止めるかどうか、決めていいのは私だけ。
それを他の誰にも決めさせない。
その相手が例え魔王だろうと、だ。
………………
「姉様!!」
それでもと、魔王を睨み返す私の耳に、その声が届く。
同時、魔銃の銃弾が魔王の顔面を捉えようと風を切り飛び込んできた。
それ自体は彼の左の掌で軽く受け止められてしまったが。だが。
驚き見た視線の先で。
「主様!足手まといは承知!こちらを守ろうとする考えは不要です!」
「どうぞ、存分に捨て石として使いつぶしてください!!」
ずたぼろの傷だらけ、それにかまわず刀を手にしたサクラ。
先ほどの一撃を放ったであろう魔銃の銃口を魔王にむけたマルメロ。
そして、まるで二人を従えるように。強い意思を宿した瞳の色をまるで太陽のように輝かせて。
私の最愛の妹。
クリスが、抜いた剣を、構えこそはしていないが、それを手に。私の元へと歩み進んできた。威風堂々。
魔王はその光景に、舌打ちを一つ。露骨に面倒くさい、そんな顔をしていた。
「……おい、アリス、チェシャ!」
何をしていたんだと言いたげに魔王は声を荒げた。
特に悪びれた風もなく、今名を呼ばれた二人も、クリス達に続いて、同様に此方に向かって足を進めている。
「こちとらちゃんと給料分の仕事はしたにゃ。これ以上は残業手当と危険手当を要求するにゃ。」
「あ、私には労災給付をお願いします。」
今にも魔王に噛み付かんばかりの、緊張感をみなぎらせたこちらの従者たちと違い、二人は随分気楽な様子、朝、お茶を一緒にしていた時の空気感。
見れば、従者たちは4人とも、ずいぶんと雪や泥に塗れている。その上、サクラとアリス様は随分と負傷を負っている様子。
何があった、何のためにここに。そう問うのは野暮だ。察した。
サクラとマルメロの二人が、今何を胸に抱いてこの場に立っているのか、それを思うと胸が温かくなる。
そしてクリスまで。
先ほどまでは怯えて泣いて私に縋るだけだった、あの子が、自ら牙を手にして、この場に威風堂々、立ちおおせている。
ありがとう。
皆の心意気が、私の疲弊しきった心に、本当に染みる。クリスを抱きしめて撫でて誉めてあげたい。そんな気持ちで胸がいっぱいだ。
だから。
だからこそ。
「サクラ、マルメロ、二度は言いません。すぐにクリスを退かせなさい。その後はクリスの警護を最優先。」
私は、三人から目を離し、魔王へと視線を戻すと、魔女の仮面を被り冷たく言い放った。有無は言わせない、と。そのつもりで。
気持ちはうれしい。
その行為は、私の胸に、溢れんばかりの勇気を補充してくれた。
だがこの場に交わる事を許すかどうかはまるで別の話。
もう傷ついたとしても、それを癒すための余力さえない今の私にとって、正直に言えば申し訳ないが邪魔でしかない。
「姉様。」
離れろ、その命令だけ告げて、後は振り向かないつもりだったが。
クリスの凛とした声に込められた決意。
気が付けば吸い寄せられるように振り返ってしまっていた。
「私が今この場で、姉様のお役に立てると思うほど思い上がってはいません、ですが。姉様の覚悟を、ずっとこの目で見ておりました。」
クリスが持ち出してきた剣は、練習用の刃が潰してある模擬刀ではなかった。
誰だ、クリスが、あんなものを持ち出すことを許可した人間は。
その刃を、クリスが向けた相手は……。
クリス自身だった。その喉元に自ら刃を添えてみせた。
「ならば、姉様が打ち破られる事があれば、私もお供します。それが黄泉路であろうとも。私にできる事は、このくらいですが、せめて、できることはさせていただきます!姉様!」
冗談や洒落で言っているわけではない。そもそも、冗談で覚悟を口にするような、そんな教育を神狼の一門は彼女に施してはいない。
そう、覚悟を口にするときは、己の心に問いかけ、己の心がそれを疑わない、その時だけだ。
……高らかに宣言を謳ったクリスの今の瞳の輝きの意味を、私は知っている。あれは本気だ。私が崩れ落ちたら、あの子は本当に自分で自分の首を刎ねる。
何もできないのであれば、せめて自分の命を私にかけて私を鼓舞するために。自分の身の丈を解った上で、それでも、と。
サクラとマルメロも、クリスの言動に動じた風はない。ただ静かに頷いた。
もしそうなれば自分たちもそれに殉じる。その覚悟がとうに出来上がった瞳をしていた。
「お前の家の人間は狂犬しかいないのか。……あの娘はお前と違って見目通りだろ、あんな稚い娘に、どんな教育してやがる。」
呆れたようにため息を漏らす魔王の喉首から、すでに私の右腕は剥がされていた。
もう力なんてほとんど残ってない。
魔法だのなんだの、その辺がなければ、ただでさえ体格差は大人と子供だ。勝てるわけがない。どう考えても無理。
だが。
クリス達のあんな姿を見せられた事もある。
この期に及んで、まだ私は負けるつもりなんて、これっぽっちもないのだ。
一度魔王から手を引いた。背を向けたのは三人に向き合うため。
ここでその背を襲うほど魔王も無粋ではあるまい。
「クリス、サクラ、マルメロ、気持ちはわかりました。あなたたちの忠誠と覚悟、心より嬉しく受け取ります。ですから。」
私は三人に微笑みかけた。一度かぶった魔女の仮面を脱ぎ捨てて。そこで、淑女として一礼を向ける。
「せめて安全な場所まで下がってください。心配ありません。私はまだこうして自分の足で立っています。腕も口も動きます。だから。安心してそこで見ていてください。」
お願いだから、分かってほしいとそう訴えかけた三人は、納得は……していないか。だが。
クリスが一旦剣を下げ、ぺこりと私に一礼をして一歩下がった事で、クリスとマルメロもそれに従う形にならざるを得なかった。
「私は、負けません。」
その光景を見届けた後、それだけ告げて、魔王へ振り替える。
背中を気にするのはこれで終わりだ。もうあとは、宣言通り。目の前の敵を穿つのみ。
勝ち筋など知るものか。
神狼様もそう言った。私は狂犬らしく、目の前の魔王が泣いて謝るまで、噛み付き続けるだけだ。
・・・・・・・・・
「そもそもの立場が違ったな。……俺は侵略する側、お前は守る側。お前に、退くという選択肢はそもそも最初から無かった、そこを、どうも失念していたらしい。お前に殉じるといったあの娘を、後ろに抱えていたのだったな。」
が、目の前の魔王は頭を掻きながら呑気にそんな言葉を紡ぐ。が。
「今頃気づいたんですか?案外抜けていらっしゃるのですね。」
私は彼へ踏み込むと、左手の拳を彼の腹へ叩き込んだ。が。彼はそれを防ぎも避けもしない。むしろ殴ったこちらの拳が痛んで顔を歪めたくらいだ。
これでも、今の私なりに出来る全力の攻撃なのだが。向こうはそれを意に介した風もない。
「一つ聞きたい。お前は俺に対して負けないと、そう言ったが。……お前にとっての敗北とは何だ?……俺に散々転がされて血反吐を吐き続けて、そんな子供の喧嘩以下の拳しか放てない無様を晒す事……ではないのだよな。」
それでも私は左右の拳を、リズミカルに男の腹に打ち込み続ける。全く効いていないのは解ってはいるが。もうこれくらいしかできる事がない。
「私の心が、負けたと認める事です。それだけです。そして私は、今この時にあってなお、貴方様に負けたとは微塵も、思えないのですよ。」
そう返事を返しながら、拳を打ち込み続けていたが、さすがに鬱陶しい、と言いたげな魔王に、蹴り飛ばされた。
散々彼に繰り返された攻撃に比べれば撫でるような優しい蹴りだったが、それでも今の私では思い切り吹き飛ぶし、二度三度、もう積もり始めている雪の上を跳ねもした。……痛い。
もう魔力で身を固くすることもかなわない、見目相応の身体でしかない今の私にはかなりきつい。蹴飛ばされた腹を撫でさすりながら身体を起こす。
「なんだよそれは!子供か!負けてないから負けないって!……さっきまでのお前ならもう少し、それらしい、魔女らしい物言いでもしてみせるのかと思えば!」
男は露骨に不機嫌そうだった。大仰に手を振る様は、それこそそちらの方が子供じみているではないか。そう思うと少し笑ってしまう。
痛みで苦しいからそれどころではないけれど。
「そうは申されましても……己の心の本音を、己でどう誤魔化せばよろしいのでしょうか。私が本気でそう思っている事実は変わらないのです。今、この時にあっても。」
「……このまま、殺されたとしても、なんだろうな、お前なら。」
「私を殺してしまえば、それこそこの勝負、私の勝ち逃げですよ?それとも、『うひー魔王様に逆らうなんて二度と致しませんどうかお許しをー』などと、忖度のひとつでもしてみせればご満足いただけるのでしょうか?」
平然とそう言い放つ私に、魔王はむしろ怒るどころか、すっと表情を消した。
この顔は見た事がない、今の魔王は、こう、なんというか。
今ここに及んでようやく、目の前の私を、忌々しい魔女ではなく『私』だと認識して、興味を抱いた。そのような。
もう一度よろよろと立ち上がり彼の元に戻り、当然、再び一度拳を振り上げようと構えたが、魔王はその場に胡坐で座り込む。
私に目線を合わせるためか。そう思えるような雰囲気だ。
それにも構わず繰り出した私の拳は、彼の頬を捉えたが、当然、最初の時のようにきりもみして飛んでいく事はなかった。ピクリとも動かない。
「何がお前をそこまで駆り立てる。マーナガルムが言った、俺が踏んだお前の尻尾とは、何だ。」
面倒くさそうに私の繰り出した拳を指先で弾きながら、そう問いかけて来る男の金色の瞳は私をまっすぐに捉えていた。
それは真剣にその答えを求めている、そのように見えて。
「貴方様が仰りました、魔王としての矜持。剣には剣をもって制すると。それが私相手には叶わぬと。」
今彼が求めているのは対話であるならば、私も拳はいったん引く。
「……先ほども仰いましたが、この戦いは私にとっては守るための戦いです。退けません。ですが貴方様には退くという選択肢はあり得ます。なれば。……退けば、よろしかった。あるいは。」
そこまで言って、彼は、まさか、とでもいいたげに目を少し見開いていた。。
「その矜持を貫いた上で私を穿てばよろしかった。それならば私が貴方に対して敬服も尊敬も、敗北も、抱くに至っておりました。」
「あんな、言葉遊び一つで……か。はぁ。面倒くせえな、お前。」
「私にとっては大切な事です。貴方様がご自分で申した通り、貴方様から見れば私など、矮小な小物に過ぎないでしょうに。そんな小物を打ち破るためだけ、そのようなつまらない相手ごときに矜持を忘れる、そのような方に、そう思えばこそ。矮小な魔女であれ、それなりの、誇りは胸に抱いています。……貴方様好みの、豊満なものではありませんがね。」
最後に付け足した冗句が余計だったのか、彼が伸ばした指が私の額を撃った。いわゆるデコピン。痛い事は痛いが、呻くほどでもない。
「お前の言葉通りなら……お前が死んでも負けを認めない、それがお前の偽れない本心だというのであれば。このままお前を仕留めたところで、そこにいるのは勝ったつもりでいるだけの道化、か。」
男は独り言めいた言葉を紡いで、それから、ふっと一つ口元だけで笑った。
「……矜持をもって砕け。お前の言う通りだと今になれば思う。だが、少しだけ言い訳をさせてくれ。久しぶりの浮世。そこで出会った最初の他人が、俺に対して惧れも何も抱かず、クソ生意気に噛み付いてきやがる頭のおかしい狂犬だぞ。……自分を見失いもペースを乱されもする。」
「ご愁傷様です。よほど前世の行いがよろしくなかったかと。」
「良いワケがないだろう、世界を滅ぼす寸前までいった魔王だぞ、俺は。」
それだけ言って、男は空を見上げ、愉快そうに笑った。
家に来たばかりの時に、神狼様相手に見せていたあの、少年めいた、そんな笑顔。
つられて私も笑ってしまった。
少し離れた場所にいる皆にここで目線を向けると、クリスは既に持っていた剣を地に落としていたし、サクラとマルメロ、アリス様、チェシャ様も、皆一様に此方に向かって笑顔で頷いていた。
「それで、どうします?まだ、お続けになられますか?」
試すように、軽めに右の拳を魔王に向けるが、特にリアクションもない。寸止め気味で拳を止める
た。
「いや、いい、今日は俺の……いや、戦略的撤退だ。せめてそのくらいの見栄は張らせてくれ。」
その言葉を受けて、こちらを見守る皆が、わっと大きな声を上げたのが聞こえた。
私も正直かなりほっとした。
その途端。私の身体は、まるで糸が切れた操り人形のように膝から崩れ落ちた。
だが、さすがにもういいか。疲れた。魔力を完全に使い果たすなんていつぶりだ。
自分が倒れ伏していくのを自覚はしたが、そのままもう倒れてしまっていいやと身を投げ出す事にした。
「……精も根も尽き果てた。それはわかるが、眠りに落ちるのはあともう少しだけ待ってくれ。」
倒れそうになった私の身体は、目の前の魔王の腕の中で抱かれていた。
何でしょうか。もはや、そう言葉を発することすらけだるい。
それでも顔を上げて相手を見る。距離が近い。
さっきまで散々敵視して、じっと見つめ続けていた相手であるが、こうして改めて、落ち着いてみると、やはり、お顔が良い。よすぎて胡散臭い。
その彼の秀麗な見目、その頬に打ち込んだ頬の痣はまだ残っていた事は、ちょっとした満足感も覚えた。
「眠りに落ちる前に、二つだけ覚えていけ。……レオンハルト・エーヴィヒレーベン、レオンでいい。名乗りをしない粗忽者では、お前には覚えてもらえないらしいからな。」
そういえば名を直接聞くのは初めてだった。こくり、と小さく頷きだけ返して、もう一つの言葉とやらをそのまま待つ事にした。
男は穏やかな微笑みを浮かべていた。
こんなちんくしゃの枯れた老婆でも、生物学的にはこちらは雌。
その笑顔は、少しは自分の顔面の破壊力を考えろ。そう毒づきでもしないと、一瞬魅了されそうになったほどで。
「……そのレオンの心が、どうやら、お前の牙に貫かれたらしい。次は、神狼の一門の主としてのお前にではない、お前自身に相まみえるために、近くこの地を訪れる。それを忘れるな。魔女。」
は?
何いってだこいつ。
最早眠りに落ちる寸前の私にはその言葉を咀嚼する事はできず。
何いってだあんたー!
そうやかましく叫ぶ声、あれは、チェシャ様だろうか。他にも大小、様々な声が私の上を通り過ぎていくが。
まぁ、今は、いいか。
周りの混沌とした騒ぎに今は気づく事もなく、意識は眠りの中に、落ちた。
魔王の胸の中に抱かれながら。
ここまでがプロローグ的ななにかで、
次回から表題通りの、本来書きたかったもの
ほのぼの日常回をぼちぼちはじめていく予定です。