戻ってこいと言われましても
「なぁクレア、戻ってきてくれないか……?」
そう言ったのは勇者アルスである。
「アルス……」
それに対してクレアと呼ばれた女は困ったように眉を下げた。
クレアはかつてアルスと共に魔王を倒す旅に参加した女戦士である。
そこらの女性よりも背が高く、また筋肉もついてがっしりとした見た目は彼女が魔法のビキニアーマーを装備していなければ、それでいて髪もある程度長くしていなければ男性に見えていてもおかしくなかった。
魔法によって強化と加護を与えられているビキニアーマーは露出が高く、胸の部分と腰回り以外はほとんど肌が出ているといってもいい。
腹筋とかバッキバキだし、太ももだってもう柔らかそうとは思えないくらいにがっしりしている。
胸を見てかろうじてある、というのがわかるからこそ女であると周囲も認知できた。
クレアは小さな小屋の前で薪を割っているところだった。
そしてそこへアルスが訪れた。
彼はとても気まずそうな顔をして、開口一番に言った言葉がそれだった。
ぱこん、と軽やかな音と共に薪が真っ二つに割られる。割れて落ちた薪は地面にぶつかりカコン、と乾いた音を立てた。
「あのねアルス、戻ってきてくれも何も、ここがアタシの家なんだけど」
「わかってるよぉぉぉおおおお! そんなの承知の上だよおおおおおお! でも俺にはクレアが必要なんだよおおおおおおお!!」
いい年した男はがばっと勢いよく土下座の体勢になると、その場でギャン泣きした。
「アルス、そこにいると薪がぶつかるから危ないよ」
対するクレアは涙と鼻水で顔中くしゃくしゃにしている勇者に対してとても冷静であった。
「おっ、何か聞こえると思ったら今日も来たのかアルス」
そして少し離れた所からこの光景が見えたのだろう。やや足早にもう一人、男がやってくる。
華奢な体格の男であった。クレアと並ぶとむしろこちらの方が女性に思われそうな、線の細い男である。
彼はスルド。魔法使いだ。彼もまた、勇者の仲間であった。
「おかえりスルド。今日の釣果はどうだい?」
「あぁ、今日もバッチリだ。見てくれ」
抱えていた籠の中身を見せれば、そこには程よい大きさの川魚が。
「いいね。今日の夕飯は期待していてくれ」
「うわああああああああああ!!」
スルドとクレアの会話を聞いて、アルスはその場で仰向けになりまるでお菓子を買ってくれない母親に抗議する子供のようにじたばたと動き回った。
「今日も元気だねぇ」
「毎日これだと正直鬱陶しいけどね。ほらアルス、そろそろ帰んな。城であんたの奥さんも待ってるよ」
「わかってるけどおおおおおお! わかってるけどでも帰りたくないいいいい!!」
駄々をこねるのを一向にやめる様子もないアルスに、クレアははぁ、と小さくため息を吐いた。そうしてアルスに近寄って、そっと腕を引っ張って上半身を起こそうすれば、アルスは何かを期待するように駄々をこねるのをやめて煌めいた目でもってクレアを見た――が。
「ほぐぁ」
クレアが懐から取り出した吹き矢によって至近距離から麻酔付きの矢が眉間に命中し、勇者アルスはあっさりと陥落したのである。
「……それじゃ、お城に届けてくるよ」
「任せたよ。あ、マリアにもよろしく」
「うん、伝えておくね」
白目を向いて口から泡を吹いている勇者を「よっこいせ」と抱え上げたスルドは一度訪れた場所であればワープできる魔法を使い、シュンッ、という音を立てて消えた。
「さて、夕飯の支度にかかるとするかねぇ……」
誰もいなくなったその場で、クレアの独り言を聞いていたのは近くの木にとまっていた小鳥だけだった。
――勇者とその仲間として魔王を倒す旅に出たのはもう何年も前の話だ。
倒したのは二年前。
それなりに長い旅だった。途中何度か死にそうな目にも遭った。けれども、仲間は誰一人欠ける事なく魔王を倒すことができたのは、仲間たちの絆か、単純に運が良かったのだろう。はたまた神の御加護もあったのかもしれない。
ともあれ、世界が平和になって二年。
クレアは旅の中で芽生えた絆からか、スルドの告白を受けて結婚し今は人里からやや離れた森の近くで生活している。魔王による侵略で、クレアの家族はとっくに死んでいたので天涯孤独の身であったのだが、スルドは自分が家族にはなれないだろうか、と面と向かって告白してきたのだ。見た目はどちらかと言えば女性に見えなくもないけれど、中身までそうではなかったようだ。
勇者アルスだって旅の中で何だかんだ聖女として旅に同行していた王女と恋仲になっていた。辛く険しい旅を乗り越えて、魔王を倒すという快挙を果たした勇者は見事王女と結婚し、今は一国の主である。
とはいえ、政治だとかの難しい話はよくわからないとそういう話は王妃となった妻と、そして宰相に任せっぱなしだが。だが、国の象徴として勇者がいるというだけでも平和になったのだという安心感が凄いからか、国民からの人気は高い。魔王を倒したからとはいえ、魔物全てが消滅したわけでもない。まだ手ごわい魔物はそれなりに存在しているし、そういったものを倒す時には率先して勇者は前線に立っていた。
まるでお伽噺のハッピーエンドのようだ、と思うけれどようやく訪れた平和なのだ。
誰もがその平和を享受していた。
だが、勇者は。
アルスは一年ほど前からよくクレアたちの前に現れるようになった。
そうして戻ってこないかと勧誘するのだ。
戻ってこいも何も、クレアの家はここだし魔王を倒したのだから仲間としての旅はとっくに終わっている。たとえ城に出向いたとしても、特にやる事はない。
そりゃあ、それなりに魔王配下の魔族たちと渡り合った程度に実力はある。兵士たちの剣の稽古を見るくらいならできるとは思うが、わざわざ自分が出向く必要性を感じない。兵隊長だとかの防衛の任についていた者たちの実力だって決して低いわけではないのだから。彼らがこの平和を守り続けるべく日々兵士たちには訓練を課しているのだから、そういう意味でクレアの出る幕はない。
「ただいまー。アルス引き渡してきた」
「おかえり。あぁごめん、ご飯はもうちょっと待って。そろそろできるから」
「楽しみー」
ひゃっほう、とか言いつつスルドは台拭きを手にテーブルを拭き始めた。
「それで、マリアは?」
「仕方ありませんねぇ、って言いながら笑ってた」
「うーんいつも通り」
「いつも通りだから、多分また数日中に来るんじゃないかな」
「……困ったものだね」
「本当に。どうしてわざわざ人妻の手料理にこだわるのか」
「言い方」
アルスがクレアにこだわるのは、クレアの手料理が原因であった。
旅の途中、毎回宿に泊まれるわけでもなく当然のように何度も野宿をする事だってあった。
そういう時、料理は当番制だったのだ。
とはいえ一人で作るとなるとそれなりに時間もかかるので、二人で組んで、ではあるが。
基本的にアルスとスルド。クレアとマリアが組んで料理を作っていた。
仮にも一国の王女様に料理なんてできるのか、だとか、それ以外の事も大丈夫だろうかと思っていたクレアではあったが、マリアはただ安全な場所で守られているタイプの王女ではなかったのでむしろ大抵の事はこなせていた。見た目だけなら重たい物など持ったこともなさそうだし、料理だとか掃除洗濯といった家事もやったことがなさそうなのに。むしろ魔物との戦いの時だっていざとなれば率先して魔物に突っ込んでいく、見ているこっちがハラハラする事だってあったがそれはさておき。
マリアは普段城での料理を食べなれていることもあってか、野宿で作る料理の味付けに不安を覚えていた。味を確認してもどうしても城で食べる料理が基準になるせいで、本当にこれでいいのか……? と首を傾げる事がよくあった。クレアが味見をした時は何も問題はないしむしろ美味しいと言えるものだったが、マリアは納得しなかったのだ。
だから、二人が料理当番の時は基本的にクレアが料理の味付けをする事になった。二人で話し合った結果だったので特に文句はない。
クレアの味付けで作られた料理もアルスやスルドに好評だった。勿論、マリアにも。
だが、何をどうしてかアルスは料理の味付けはマリアがしているものだと思い込んでいたようだ。
まぁ、無理もない。
見た目だけならクレアは料理ができるようには見えないだろうし。
今でこそ女性らしい服を着ている事にも抵抗がなくなってきたけれど、元々身体はがっしりしていたほうだし、なんて言うかそこらの男よりも男らしかった。だから、料理ができると思われなかったのだ。かつて住んでいた村では力仕事を頼まれる事が多かった。
そっちも問題なくこなせるから、クレアとしては何を思うでもなかったけれど。
長い旅の間に、アルスはクレアの料理に胃袋を掴まれていた。とうに死んだ母の手料理の味に近かったらしい。故郷は割と離れているらしかったのに、意外な共通点、なんて思った事もあった。
味付けをしていたのはマリアだと思っていた。
そして世界を救った勇者として王女であったマリアと結婚。
城での生活は、今までの暮らしと違いすぎて最初は慣れなかったけれど。
ふとした時にアルスはマリアに頼んだのだ。旅の中で食べた料理が食べたい、と。
城で出される料理は勿論野宿の時の料理なんかと比べれば圧倒的に違う。材料だって味だって、城で出されるのだからむしろ野宿で出てくるようなのと同じに語ってはいけないけれど、それでもアルスは時々無性におふくろの味に近い料理が恋しくなっていたのだ。
愛する夫の頼みだもの、という事でマリアは腕によりをかけた。
かけたのだけれど。
悲しい事にそれは、アルスの望んでいた料理ではなかったのである。
そしてそこで旅の中であの料理は、マリアが味付けしていたわけではない、と気づいたのである。
森の近くで小さな可愛らしい小屋を建てて過ごしていたクレアは、その日のんびりと刺繍などをしていた。
見た目はごついかもしれないが、クレアは可愛らしいものに目がなかった。
刺繍だとかの細かい作業も嫌いではなかった。
夫になったスルドは好きな事をすればいいよ、とクレアのやりたいことを肯定してくれたので、早速あれこれ取り揃えて今までやりたくてもできなかった事を一杯やった。勿論家事だってこなしている。趣味を優先して家の事をそっちのけにするつもりはなかったので。
そんな真面目なクレアだから、スルドもいいよいいよとやりたいことをやらせてくれるのだろう。
そしてそんな所にアルス来襲である。
かつて食べた料理が恋しい。作ってくれ。
縋りつかれて最初に引き受けたのがダメだったのか。
その後も度々やってきては料理を強請るようになったし、そのうち城で働かないかと誘われるようになった。
クレアとしては別に城で働く事に憧れがあるわけでもないので、それは断った。
悲しい事にクレアは他の女と比べると背丈も体格も男性寄りだからか、女性物の服を着ているだけで時としてひそひそされる事がある。
女装した男だと思った、なんて陰で言われる事も何度か。
女のくせに男みたいだ、なんて以前住んでた村でも言われていたし、別に、そういうのは慣れているけれども。
でもやっぱりいい気持ちにはならない。魔王を倒した勇者の仲間だという部分で以前よりは向けられる目がそれなりに優しい物に変化したけれど。
お城なんてメイドが一杯いるところ、という認識があるクレアにとって、正直そんな場所で働くのは抵抗もあった。マリアは仲間であり友人であると向こうも宣言してくれているけれど。それでもやっぱり陰で何か言われるかもしれないなぁ、と思うとクレアとしては気乗りしないのだ。
今はまだしも、もう少しすればきっと平和が当たり前になったころにはクレアの功績もするっと忘れられて、また以前のような陰口を囁かれるかもしれない。
別に何か悪い事をしたわけじゃないんだから、堂々としていればいいのはわかるけれど。
でも、それはそれでやっぱり何か言われるのはイヤだなぁと思うわけだ。
元々人の多いところが苦手というのもあった。
そうなれば、城で働くというのはどうしたってクレアの中の選択肢には存在しないものだ。
そういった思いをぽつぽつと夫であるスルドに告げれば、スルドは無理してまで行かなくていいと言ってくれた。本当に優しい旦那様である。
向こうも無理強いをしようとはしていないので、こうして毎日のようにやってきても何事もなかったかのように追い返せるけれど、最近はちょっとこのやりとりにもうんざりしつつあった。
そりゃあ、昔に亡くなったアルスのお母さんの手料理の味に近いとか言われたら、こっちだって無下にはできない。けれども頻度が多すぎる!
時々アルスは口が滑ってクレアの事を母ちゃんとか言い出す事もある始末。いつアタシがあんたを産んだんだい。割とマジに突っ込んだ。
大体アルスとクレアの年齢差は精々三つ程度だ。産むのはどう考えても無理がある。
精々が兄と妹とか姉と弟、くらいの年齢差の相手に母親呼ばわりされるとか、ちょっとどうかなー、と思ってしまう。
アルスがこうも頻繁にやってくるのをマリアが止めないのは、マリアとしてもあわよくばかつての仲間であり友人である二人が近くにくればいつでも顔を合わせる事ができると思っているからかもしれない。
魔法で転移すればすぐだけど、それなりに魔力を消耗する。魔力を使わず会えるのならばそれに越したことはない、といったところなのかもしれなかった。
国の王妃として働くマリアとはめっきり会う事がなくなった……かと思いきや、そんなことはなかった。
クレアが趣味で作り始めたぬいぐるみを売って欲しいと言い出したのだ。可愛い物好きなクレアが作るぬいぐるみは、どれもこれもが愛くるしい。片手の平に載るくらいの小さなものから抱きかかえなければならない程大きなものまで。どれもこれもがマリアの心にクリーンヒットしたようで、全部言い値で買います、とか言われた事もあった。断ったけど。流石に全部は……自分用のも残して……
ちなみにマリア以外にも売れるのだろうかと思って聞いてみれば、一部貴族から熱烈に購入希望だと言われてしまった。ぬいぐるみ作家としてクレアの収入はとんでもない事になっている。なので、人里からちょっと離れた場所で暮らしている二人だけれど驚く程に金がある。
それもあって、城で働く必要性が全く感じられないのだ。
そりゃあ、城、もしくは王都で暮らせばその分仕事のやりとりが楽になるっていうのもあるのかもしれないけれど。
「それで、どうする? 作れば作っただけ余計に恋しさ増して悪化したわけだ。そろそろ腹をくくるかい?」
「そんなつもりはない、と言えば?」
「では、いっそアルスが来れないくらい遠くに逃げる? 折角君の理想の家を建てたけれど、まぁ家はまた別の所で同じように建てればいいからね」
「それもちょっと……」
同じ家を別の場所に、っていうのは何か違う。見た目が同じだろうと違うったら違うのだ。あと、ここが気に入っているというのもある。他の場所でも気に入るところはあるかもしれないが、今のところここを離れるつもりはこれっぽっちもなかった。
「そうか。じゃあ……あとはそうだな……仕事が増えるかもしれないけれどこんなのはどうだろう?」
夫の提案に、クレアは思わずぱちくりと音がしそうな勢いで瞬きをしてしまったのである。
スルドの提案はなんてことはない。
とりあえずアルスにとってのおふくろの味とやらを、周囲に広める事であった。
王都で開かれる料理教室。なんだかんだ魔王を倒す旅に出ていた事もあって世界各地の料理を食べる機会もあり、そういった意味では料理のレシピのバリエーションもそれなりにあった。
各地で採れる素材を活かした料理。野宿の時に作った物であったけれど、ちょっと手を加えれば立派に家庭料理と呼べるようなものであった。
勇者アルス、というかこの国の王となった男が泣きながら味見してる光景は一種異様ではあったけれど、ちょっと料理のレシピを増やしたい主婦層からそれなりに人気を博した。
ついでにクレアの作るぬいぐるみを好み、弟子入りしたいと言い出した者たちがそれなりの数いたので、料理教室が終わった次にはぬいぐるみ制作などを教える教室が開かれた。
その後もインテリアコーディネーターとしての相談やら野菜ソムリエとしての相談、更にはワインに関する事もきかれるようになり、やれ一段落かと思いきや今度は刺繍に関するあれこれを聞かれ、と気付けば王都にはなんかでっかい学校が出来てた。
気付けばクレアは年単位で王都で生活することを余儀なくされてしまったのである。
ついでにその間夫であるスルドは城の魔法研究所へ連れられて色々と相談に乗ったり研究の手伝いをする羽目になっていた。ちょっと画期的な魔法道具がいくつか完成して流通するまでに至った。
「おっかしいなぁ、ちょっと料理を教えるだけのはずだったのに……」
ようやっと懐かしの我が家へと帰ってきた夫の解せぬ、と言わんばかりの発言と表情に、クレアもまた本当にそう、と頷いていた。
「スルドが魔法の才能ありすぎて有能だったばかりに滞在期間が延びたんじゃないか」
「それをいったら僕の奥さんが多才すぎるってのもあっただろう」
お互いがお互いに滞在期間が延びたのは相手のせいだ、なんて言うものの。
どっちもどっちであると気づいてすぐさまお互いに吹き出すように笑っていた。
その後は時々忘れた頃に学校で生徒から教師へとなった数名がたまに訪れるだけに終わるかと思われていたのだが。
「ねぇスルド、戻ってきてくれませんか?」
「なぁクレア、やっぱ戻ってこないか……?」
なんでかやってくる国王夫妻(かつての仲間)。
聞けば魔法研究所でスルドなんで帰ってしまったん……? となって色々と人手が足りなかったりだとか、レシピは広まれどやっぱりクレアの手料理とは違う、となったアルスが早々におふくろの味恋しさにやってきた、というだけの話であるのだが。
「いや戻れも何も、だからここがアタシたちの家なんだってば……」
「そうだそうだ仕事しろ国王夫妻ー! ちなみに自分はもう二度とあの研究所には行かないぞなんだあの魔窟! 働いたら負け! 働いたら負け!! ぶっちゃけもう一生分働いたんだからもう働かないぞおおおおお!」
呆れた口調のクレアと、もう充分稼いでるから金には困ってない! と言い切るスルド。
おふくろの味が恋しいアルスと、なんだかんだ友人と呼べる相手が気軽に会える距離じゃなくなったことにより寂しさを覚えたマリア。
そんな彼らの攻防戦は、度々勃発する事になったのである。
「いいかい、何度も言ってるけどね。戻ってこいって言われてもここが自宅なんだよ!!」
そうして何度かこんな感じのクレアの叫びが森に響くことになるのだけれど。
その頃にはすっかり森の動物たちも慣れてしまって、木々から飛び立つ鳥ですらいなかったのである。