ある犬の一生 (1.3挿話)
ルビィの前世での話です。少し長めになっています。
その犬は、少し変わった犬だった。
そして、その"少し"に翻弄される運命だった。
犬種は、シベリアンハスキー。
両親共に、血統書付き。
とあるブリーダーが飼育する母犬の、三度目の出産。
それは、近年では珍しく、師走の初旬からチラホラと雪が降るような、とてもとても寒い冬の事だった。
その日、街はお祭りムードだった。
朝から断続的に降る雪は、寒冬に震える街の人々……主にカップルの気持ちを、大いに暖めた事だろう。
12月24日。天からのプレゼント。ホワイトクリスマスだ。
その犬の生まれ故郷、つまりブリーダー宅は、地方都市……から県を跨ぎ、50km程の地点にある、大部分が山林で埋まっている町にある。
その町は、標高が少し高いだけあって、師走の二週目くらいには、既に一面銀世界だった。
しかし、いくら寒い冬とはいえ、三度目の出産ともなれば、ブリーダーも慣れたもので、母犬が産気付いても、落ち着いたものだった。
その日生まれたのは、五頭。
その犬は、兄弟姉妹の中で、二番目に光を浴びた。
血統書付きの両親は、共に黒毛と白毛のツートンカラーで、隈取り模様。青い瞳の、とてもシベリアンハスキーらしい風貌だった。
だが、その犬は、蒲公英の綿毛のように、真っ白だった。
アルビノだ。
まだ、目は開いていないが、そうに違いない。
ブリーダーは、思った。
アルビノは珍しいので、希少性は高い。
だが、身体が丈夫では無い場合があり、その場合は、育てにくい。
色々な配慮が必要だからだ。
どう売ろうか?
ブリーダーは、犬好きが高じて商売を始めただけの、個人事業主だった。
業界との繋がりも薄く、パソコンやインターネットの知識も無かった。
そして、スマホも無い時代。
広告といえば、自宅兼販売所前の看板のみ。
販売の流れは、所謂、口コミだけ。
弱い可能性があるアルビノは、次代の繁殖犬には向かないのだ。
事業として考えるのであれば、残しておく訳にはいかない。
引渡し可能になるまでの、約二ヶ月。
ブリーダーは、いつもより客探しに奔走した。
――
「わぁ! この子だけ、真っ白! 可愛いー!」
「そうでしょう? 可愛いでしょう? 凄く珍しいんですよ!」
どうやら、気に入ってもらえそうだ……と、ブリーダーは、安堵の笑顔を浮かべる。
それは、自家用車のエンジンオイルを換えに行った、いつものカーディーラーで、運良く聞けた話だった。
担当の営業マンの娘が、白い犬を欲しがっている、と。
乗らない手は無かった。
「あ、この子、目が片方ママの指輪と同じ色だね!」
「本当ねぇ。ルビーみたいねぇ。」
「あ、見て! ぺろぺろして来るよ! 可愛いねー!」
「どうするの? この子でいいの?」
「うん! ルビーって名前にする!」
こうして――その犬は人手に渡った。
営業マンの娘(姉の方)への誕生日プレゼントという事で、値切られもしなかった。
ブリーダーにとって、この上なく最良の結果だった――。
その家族は、父、母、長女、次女の四人家族だった。
その犬の不幸は、この家族が全員肥っていたところから始まったのかも知れない。
シベリアンハスキーは、初心者には飼い難いといわれている。
それなりの大きさになるし、活発でパワフルだ。
散歩の推奨距離は、小型犬とは比較にならないし、躾を怠れば、手が付けられない程凶暴になる場合もある。
そして、暑さに弱い。
だが、ありがちな話ではあるが、その飼い主一家は、犬の知識が無かった。
さらに、物臭だった。
ルビーと名付けられたその犬は、シベリアンハスキーの例に漏れず、好奇心旺盛で、イタズラ好きの、ヤンチャ犬だった。
幼い頃から段階を踏みながら善し悪しを教えていくのが、躾の基本だ。
だが、飼い主一家は、イタズラをするその犬に、ただ怒るだけだった。
当たり前の話ではあるが、それでは意味が伝わらない。
犬は、ただ困惑する事になるのだ。
当然のように、ルビーにも怒りの意味は解らなかった。
シベリアンハスキーの成長は早い。
ルビーが大きくなるにつれ、飼い主一家は、持て余すようになっていった。
ルビーは、日中の散歩を好まなかった。
それは、アルビノの所為もあるだろう。
いつも決まって陽が落ちてから、外に出掛けたがった。
しかし、飼い主一家の面々は、重い夕食を好み、夕食以降は、ダラダラと過ごすのが日課だった。
ルビーが外に出たがるのを、トイレに行きたいのだと決め付け、田舎ならではの、そこそこ広い裏庭へ続く窓を、ただ開けるだけだった。
ルビーは、常に運動不足状態だった。
食事も良くなかった。
飼い主一家にあった犬の飼育知識としては、犬に葱類は与えてはいけない、というものだけだった。
離乳食が済んだ頃には、飼い主一家が食している物を与えた。
揚げ物でも、何でもだ。
それらは、人間でも重たい食べ物だ。
ルビーは、どんどん肥っていった。
そしてルビーは、遂には病気になってしまうのだった。
――
ルビー、生後七年。
転機が訪れる。
ここからの、二年と少し。
ルビーにとって、強烈に濃密な時間を過ごす事になる。
それは、ルビーが七歳を迎える少し前の、とある夏の日の事。
(これだれだろー?)
ルビーは、少し首を傾けた。
「よ。ルビーっていうんだって? 今日からしばらくオレと暮らすんだぞー? よろしくな!」
ニッと笑顔を見せたその男は、飼い主一家の長女と、ひょんなことから知り合った、犬好きの男だった。
歳の頃は、よく分からないが、一見すると、チャラそうで、若そうに見える。
ルビーの印象としては、その男から嫌な匂いはしなかった。
「なんか、最近調子悪そうなのよ、この子。
本当に面倒見てくれるんなら、しばらく貸すから、病院もよろしくねー」
「ああ。ちゃんとやるから心配しなくていいよ。
ま、何かあったら連絡するから。
よし、ルビー! 行こうかー。まぁ乗りな!」
そう言って、男は車の後部ドアを開ける。
(いくって、どこへだろー?)
ぐごーぐごーと、鼾のような音を出し、重い足取りでヨタヨタと歩くルビー。
(これかな?)
車に前脚を掛けてみたものの、上れない。
今のルビーには、僅か20cmの段差が、高過ぎるようだ。
(のぼれないよー。あるくとくるしいしー。)
「あー、そんな感じかぁー。おけー。」
そう言うと、男はひょいとルビーを抱き上げ、車に乗せた。
「いやー。ルビーよ。お前、マジで重たいな?
まぁ、ダイエット頑張ろうな!
というわけでだ。先ずは病院な?」
にこやかに、男は車を走らせた。
――
「肥りすぎて、気道が圧迫されていますね。
かなり苦しいんじゃないかと思います。」
「あー。喘息とかじゃなくて、やっぱりそんな感じなんですか。」
「気管支拡張剤出しときますね。
ですが、痩せないと根本的な解決にはなりませんので。」
「ま、そうですよね。」
見慣れない風景に、少し戸惑っているルビーを、男はそっと撫でながら、獣医師と会話をしていた。
「よし、ルビー。今日からお前は生まれ変わるのだ!
頑張ろうな!
って事で、心機一転、名前も変えるか。んー……」
「じゃ、ルビィな。あんま変わると分からんだろうしな!」
病院からの帰り道、男はニッと笑いながら、そう言った。
――
「ルビィ、ご飯だぞー」
先程まで台所で作業をしていた男が、何かをルビィに差し出す。
それは、煮た鶏胸肉を、ざっくりと小分けしたものだった。実は、肉の中に気管支拡張剤が挟んである。
(クンクン……あ、ごはんだー!)
鼻をひくつかせて、確認するルビィ。
(おにくおにくー!)
ハグハグと食べだす。
(あれ? なんかマズイところあるー)
ルビィは、口の中で器用により分けて、薬だけ吐き出した。
「ちょ、ルビィ、おま……器用だな!
そんな事出来るのかよ! すげーな、ある意味。」
男は、切れ長の目を丸くした。
そして、吐き出された薬を、もう一度、今度は先程のものより小さい肉に挟み込む。
ルビィは、少し嫌そうな素振りを見せたが、今度は何とか薬を飲み込ませる事に成功したようだ。
二時間程すると、ルビィの呼吸音が落ち着いてきた。
「お、いいじゃん。よし、そろそろ散歩行くか!」
そう言うと、男は首輪とリード、ビニール袋を手に取った。
(さんぽ……?)
それは奇しくも、ルビィが幼少の頃、決まって外に出たがる時間帯だった。
夜の帳はすっかり降りている。
とはいえ、夏だ。人間なら、半袖で過ごす。
ルビィには、とても暑く感じられた。
(はうぅ……あついよぅ……)
夜に外に出してもらえたという喜びも束の間、運動不足のルビィは、すぐにバテてしまった。
「お、キツイか、やっぱ。
ま、もうちょい進んだら、いい所があるぞ?」
男は思わせぶりに、ニッとする。
ルビィは、ゆっくりゆっくりヨタヨタと、老犬のように歩いた。
男は、ルビィの少し前をゆっくりと進む。
時間にして、一時間。だが、200mの距離だ。
「ルビィ、着いたぞ! ご褒美タイムだぞー」
そこは、小さな公園だった。
「ほら、こっち。ここにお座りな。
よーし。いくぞー」
男は、街灯に照らされ鈍く光る銀の取っ手を捻る。
(うわぁー! きもちいー!)
バシャバシャと音を立てて、蛇口から放たれた水は、火照ったルビィの身体を冷ましていく。
(あぁー! これ、すごいきもちいーなー!)
お座りのポーズで水を受けていたルビィは、気持ち良さの余りか、伏せのポーズを取り、排水受けに出来始めた水溜まりまでをも堪能する。
「お、ルビィ、気持ち良さそーだな!
気に入ったのか! 良かった良かった!」
しばらく様子を見ていた男だったが、
「そろそろいいか? 冷やし過ぎても良くないからなー」
と、キュッと栓を閉め、水を止めた。
(あれ? もうおわり?)
ルビィは、水が名残惜しくキョロキョロするが、男に促され、今日は諦める事にした。
帰路の足取りは、行きよりも軽く、ルビィは少し楽しかった。
――
翌朝。
「ルビィ、おはようさん。ちょっと待ってな!」
男は台所でまた、何かをしている。
「ふふふ。今日は豪華だぞー?
ま、ダイエットメニューだがな!」
そう言って、男が差し出したものは、鶏胸肉、ブロッコリー、キャベツ、ほうれん草、大豆などを細かくして茹でたものだった。
(クンクン……。ごはんだー! あ、これおいしーかもー)
「それ食べたら出かけるぞー」
男はそう言うと、いそいそと何かをしだした。
「よし、乗りなー」
男は、ルビィを車に乗せた。そして、三十分程走る。
着いたのは、ルビィには知る由もないが、男の職場だった。
街の郊外にある、敷地の広い工場だ。
「ここだぞー。」
そこは、二階建ての倉庫。その一階部分だった。
その場所は、嘗ては車庫として利用されていたが、現在ではすぐには使わないものが、少し置いてあるだけの場所だった。
その一角に、大きなダンボールで寝床らしきものが作られている。
その横には首振りに設定した扇風機。
そして、水の入った皿と、蚊取り線香、少し離れた所にトイレが設置してあった。
そこには、ルビィの待機所を簡易に作ってあったのだ。
その倉庫は、適度に遮光される環境で、ルビィを置いておくには、丁度良かった。
男には、調子の悪いルビィを家に置いておく事が、心配でならなかったのだ。
「んじゃ、ここで待ってな! 休み時間に見に来るからな!」
そう言って男は、仕事に向かった。
そして二時間に一回、キャベツの芯や、煮た豚の軟骨などをオヤツに持ち、様子を見に来た。
「お、いい子にしてるな! これ食う?」
(なにこれー! カリカリしてたのしー!)
ルビィは、キャベツの芯の歯応えが気に入ったのだった。
――
男の元で暮らし始めて、二週間が経過したルビィは、すっかりルーティンが出来上がってきていた。
そのおかげで、ダイエットも少しづつ成果を見せ始めていた。
「ルビィー! お待たせー。帰るかぁー。」
仕事を終えた男が、迎えに来る。
(あ! きたー!)
少し動ける様になってきていたルビィは、男に、てちてちと駆け寄って、飛びつこうとする。
だが、まだジャンプ力が足りず、男のお腹辺りまでしか届かなかった。
「お、ルビィ、元気になってきたなー!」
男は、満足そうに笑うと、ルビィと車に向かう。
ルビィは、いつの間にか、この男をものすごく好きになっていた。
ルビィは、男を舐めまわしたかった。
この頃から、ルビィは、車の後部座席を嫌がって、助手席に乗りたがる様になった。
(こっちはヤダー)
「なんだよ、後ろは嫌なのかよー。
前は、危ないんだぞー。」
仕方ないなと、助手席に乗せられたルビィはというと……。
満足するまで男の顔をヒンヒンいいながら舐め回すのだ。
「ちょ、マジか! 全然出発出来ねーじゃんよ!」
すると男はいつも、困ったように、笑うのだ。
男の仕事場から戻り、晩御飯を食べた後は、散歩だ。
夜の散歩は、ルビィには格別だった。
周りをよく観察すると、面白かった。
色々な匂いがする。
ルビィは、年齢的には成犬なのだが、経験的には豊富では無かった。
頻繁に外に連れ出される現在、とても新鮮な気持ちを味わっていた。
苦手な暑さも特に問題は無い。なぜなら……
「おぉ、すっかり覚えてるなー。」
ルビィは、率先して公園へと向かう。
そして、水道の蛇口の下で、お座りするのだ。
「よしよし、ご褒美だなー!」
と、男が水をかけてくれるのを待ち、満足するまで水浴びをして、気分良く帰路につくのだ。
(うひひー! たのしいなー! バシャバシャきもちーしー!
またあしたもいけるかなー?)
ルビィは、毎日楽しくて仕方なかった。
――
更に二週間が経過した。
甲斐甲斐しく世話をしてくれ、一日の大半を一緒に過ごしてくれる。
楽しい所にも連れて行ってくれる。
そんな男の事を、ルビィは既に、親犬や群れのリーダー犬のように思っていた。
なので、男の指示や躾には、素直に従っていた。
「ルビィよ。お前、賢いなぁ。
教えたらすぐ覚えるなぁ。」
(うひひー! なでなで、きもちーなー!)
ルビィは、男に撫でられて、最初はしっぽを振って喜ぶのだが、段々と、目を虚ろに脱力していく。
終いには、お腹を見せて、撫でてもらいたがるのだ。
「お? なんだー? ここもかぁー?」
(あぁー……きもちぃー……
あたらしいボスは、いいボスだなぁー……)
そんな時だった。
――ピンポーン
インターホンが、不意に鳴った。ビクリと顔を起こすルビィ。
男が玄関に向かったので、ルビィもついて行く。
(なんだろー?)
――ガチャ
「はーい? どちらさん?」
男が扉を開けると……
(うわ……あいつ……まえのむれのやつだ!)
そこに居たのは、ルビィの飼い主一家の長女だった。
その女は、まだ実年齢は若いというのに、丸々と肥っているせいで、細い目が更に細く見え、肌糖化が始まっているのか、黄色くくすんでいる。
元々は、肌色素は薄いタイプだったのか、ソバカスも目立つ。
悪い方の意味で、年齢不詳だ。
「久しぶりー。ルビー元気になったんでしょ?
近くに来る用事あったから、見に来たの。
なんなら連れて帰るけど?」
何の前触れも無く現れた彼女は、男の後についてきたルビィを見つけると、呼びかけた。
「あ、ルビーいるじゃん! 帰ろー?」
(え、なんなの? やだやだー)
ルビィは、男の陰に隠れた。
そして、しっぽも股の間に隠した。
「おぉ、嫌がってんな。」
「は? なんなの? 何で嫌がるの?」
「はぁ……。そーゆーとこじゃない?」
「は? どーゆー事?」
「ん、まぁ、まだダイエットも途中だし、病気も完治した訳じゃないし、薬も飲ませないとだけど。
連れて帰るの? 大型犬の治療費ってかなり高いよ?
それに、ちゃんと毎日、夜運動させれる?」
男には、目の前の怠惰が服を着ているような女に、病気のルビィの世話が、まともに出来る訳が無いと思えて仕方なかった。
「あー……いや、ちゃんとやってくれてるか、見に来ただけだし? 別に……。」
「そ?まぁ、ここに来た時よりは、少し痩せたし、動けるようにはなってきてるから、ご心配なく。
大体、人間だってダイエットとか、時間掛かるっしょ。
パーセンテージでいったら、ルビィの場合は27%減らさないとだけど、犬だと一ヶ月で4%くらいしか減らせないのよ。
早くても最低あと半年くらいは掛かるから。」
「……聞いたよ、それは。でもさ……」
「なに?」
「……ん、いい。ダイエット、よろしくね。
ルビー、おいでー! 撫でたげる!」
(ヤダー!)
ルビィは呼ばれたのだが、余程嫌だったのか、くるりと背を向けて、部屋の奥へと逃げてしまった。
――
ルビィが男の元で暮らし始めて半年が過ぎた。
「おぉー、ルビィ速いな!」
ルビィは、走れるようになっていた。
その頃の男の走力は、50m走だと、6秒8。
ルビィは、その男の全力疾走に、並走出来たのだ。
この半年間で、遂にそこまで回復していた。
「ウチに来た時が嘘みたいだなぁー。
よかったよかった! 元気になったなぁー!」
季節は、すっかり冬だ。
ルビィの生まれた年程の寒さは無いが、ハッハッと吐く息は白い。
だが、ルビィには、心地好い季節だった。
男は、心底嬉しそうに、ルビィを撫で散らかす。
ルビィも、とても嬉しかった。
撫でられた事は勿論だが。
思いっ切り走り回り、飛び回る。
そんな事は、生まれてこの方、経験が無かった。
ルビィの内なる野性、本能が、新芽が萌えるように、ふつふつと目覚めていく。
その歓びたるや、如何程だったろうか。
――
翌月。
「ああ、うん。まぁ、症状は出なくなったね。
……分かった。連れてくよ。……うん。明日。」
――プッ
男は、電話を切ると、ルビィに話しかける。
「ルビィ……。卒業……だ。
明日……元の家に連れてくからな。」
ルビィには、言葉の意味は解らなかった。
(ボス……? どうしたのかな? かなしいのニオイだよ?)
ただ、男が物凄く悲しそうな事は、伝わった。
ルビィは、何だか良くない事が起こる予感がした。
「ルビィ。最後の晩餐じゃないけどさ。
これ好きだったろ。」
男は、手作りミックスフードを差し出した。
それは、男が考案した、栄養バランス重視のレシピだったが、ルビィは気に入っていたのだ。
(あ! これおいしいやつだ!)
ルビィは、嫌な予感を感じつつも、好物の晩御飯をペロリと平らげ、いつもの様に、散歩を堪能した。
そして、帰宅後は、丹念に洗ってもらい、歯も磨かれ、軽くトリミングもしてもらった。
ふわふわに仕上がったルビィは、月夜に舞う銀花のように輝いた。
「うむ。キレイになった! 我ながら上手いもんだ!」
男は、ハハッと、いつもの様に笑うのだが、ルビィは何処となく元気が無いように感じていた。
(やっぱりボス、なんかへん?)
ルビィは、いつもは与えられていた寝床で眠っていたのだが、その晩は、無性に寂しい気持ちになって、男のベッドに潜り込んだのだった。
――
翌日。
(きょうは、いつもとちがうところにいくのかなー?)
車窓から見る景色が、いつもと違う。
明らかに男の職場へ向かっていない事を、ルビィは少し不思議に思っていた。
片側三車線の国道が、二車線になり、そして一車線になる。
それにつれ、路沿いの建物は減っていき、代わりに田畑や木々の割合が増えていく。
トンネルを二つ抜けると、周りはすっかり山林に囲まれて、緩やかな登り坂が続く。
(あれ? ここ、しってるかも? なんだっけ?)
目的地が近付くにつれ、ルビィには何となく見覚えがある風景になっていった。
「さ、着いたぞー」
男の家を出て、一時間半程。
男は車を止めた。
――ガチャ
ドアが開けられると、ルビィは車からピョンと身軽に飛び降りる。
(あれ? ここ……)
ルビィには、実に七ヶ月ぶりの場所だ。
この世に生を受け、六年半を過ごした場所。
だが、ルビィにとっては、あまりいい思い出は無いのだ。
(えー? ボスー? ここはたのしくないよー!)
ルビィは、車から降りたものの、その場から離れようとしない。
「お? ルビィ、どうした? 来ないのか?」
男は、動かないルビィを、取り敢えずそのまま置いて、インターホンを押した。
――カチャッ
最初に姿を見せたのは、例の長女だった。
「はいはーい。あ、連れて来てくれたんだ。ちょうど皆居るから呼ぶね。ちょっと待ってて。」
「ああ、うん。」
「パパー! ママー! ルビー帰ってきたよー!」
外まで聞こえる声で、両親を呼んでいる。
男は、その声を聞いて、客前でパパママ呼びとは、気持ち悪いな、と思っていた。
――カチャッ
再び扉が開く。
「おぉ、君か。お世話になったね。話は聞いてるよ。」
次に、眼鏡をかけた長身で巨漢の男が現れた。
その男は、全体的にでっぷりと肥えているが、特に腹回りが出ており、その姿は信楽焼の置物に瓜二つ。
そのせいで、せっかくの長身が台無しになっている。
頭は、毛が薄く白髪も目立ち、額はとても広く、脂ぎってテカっている。
顔も、目が細い割に、眉間や眼下、額やほうれい線などが、日本海溝の様に横たわっている。
有体に表してしまえば、加齢を感じさせる風貌だ。
見る人が見れば、悪い生活習慣で生きてきました。と、一目で分かってしまうだろう。
まるで見本のようだ。
「あら、ルビー。キレイになっちゃって。」
更にもう一人、背丈の低い女性が出てきた。
これまた丸い。
茶色い服を着ているせいで、つくね串のようだ。
ソバージュのようなパーマ毛だが、ハリもコシも無く、ペタッとしている。
そのせいか、頭頂部が薄く見える。
そして、せっかくの二重瞼も、たくさんの小じわと肌のハリの無さで、台無しになっている。
実年齢より、かなり老けて見えるタイプだった。
この両親があって、あの長女が出来上がり、ルビィも悲惨な状態になっていたという事だ。
男は、話には聞いていて知っていたが、実際に目の当たりにして、納得した様子だった。
だからこそ、ルビィをこのまま引き渡したら、また元通りになってしまうのではないかと、心底心配していた。
「見ての通り、ルビィは回復しました。
ですが、きちんと世話をしてもらわないと、また元通りになってしまいます。
差し出がましいようですが、注意事項なんかを書いておきました。読んでください。」
男は、そう言って、クリアファイルに入れられた紙束を差し出した。
そこには、ルビィの一日のルーティンや、世話の仕方などが、みっちりと書き込まれていた。
「うわ、細かっ。何コレ? キモッ。
あんた、モテないでしょ?」
それを少し見た長女は、明らかに不服な様子である。
(いや、普通にお前の方がキモイデブだし、モテなさそうだぞ……。
ん? もしかして、一部のマニアに持て囃されてたりするのか?
うーむ。性格も酷いと思うんだがなぁ……?
平気でこんな事言えるわけだしなぁ。
ふーむ。凄くニッチな需要があるんだろうか?)
男は、内心ではそんな事を思っていたが、殊勝な表情を貫いていた。
「いやぁ、わざわざすまんね。お手間かけました。」
父親は、営業マンらしく、その場を取り繕おうとする。
「ルビー? ルビー! もう! あの子、ちっとも来ないわね。」
母親は、我関せずといった様子だ。
呼んでも来ない飼い犬に、少々憤慨している。
「では、これで失礼します。」
「ああ、ありがとう。気をつけて。」
――バンッ
男は、車に乗り込み、発車させた。
長居すればする程、別れが辛くなる。
彼はそんな想いから、振り返る事も……しなかった。
(え?! ボス?! どこいくの?! ルビィは?!)
ルビィは、物凄く驚いた。
「ワン! ワン! ワン!」
(まってよ! どこいくの! ルビィのってないよ!)
走り出す車を、全力で追いかけた。
飼い主一家は、その光景を、呆然と見ていた。
――キィッ
ミラー越しに異変に気付いた男は、車を停め、降りる。
「ルビィ!」
「ワン! ワン! ワン!」
(ボス! なんでおいてくの! ルビィもいくよ!)
ルビィは、男に飛び付いて、ひたすらに舐め回した。
「ルビィ、ダメなんだよ。ここが、お前の家なんだよ……。」
男は、ルビィを抱き上げると、飼い主一家の元へ歩き出した。
「多分、また付いて来ると思うんで、家の中に入れてしまった方がいいと思います。」
「ああ、よっぽど君の事を気に入ってるみたいだね。
大したもんだ。じゃあ、皆、中入ろうか。」
男は、玄関にルビィを入れると、すぐさまドアを閉めた。
(ルビィ……元気でな。)
「では、失礼します。」
――
「ルビー! おかえり! すっかりスマートになったね!」
長女が、ルビィに近寄り、触れようとする。
「グルルル」
(なにすんだー! したっぱのくせにー!)
「躾し直したって話じゃなかったの? 相変わらずじゃないの。」
母親は、辟易した様に言い放つ。
「とりあえず、この紙読んでみるか?」
父親が、渡された紙束をヒラヒラと見せる。
「は? メンドイし。パパ読んどいてよ。」
不満を顕にした長女の言葉を受け、
「お前なぁ。お前が欲しいって言うから買った犬だろう?」
と、父親は、長女を責めた。
するとそれは、直ぐ様口論となった。
その気配を察知した母親は、その場を逸早く離れた。
「だって、全然言う事聞かないし。
それにさー、小学生の時の話とか、今更持ち出さないでよ。」
「小学生っていっても、中学に上がる直前だっただろう。」
「だったら何?」
「犬の世話くらい出来るだろ。」
「そんな事ばっか言ってさ、パパだって何にもしてくれなかったじゃない!」
「餌はたまにあげただろ? 作ったのはママだけど。」
「そんな事くらいでさ! 偉そうにしないでよ!」
「偉そうとは何だ! 大体お前は――」
(なんなのこいつら。やっぱりいやなにおいする。)
ルビィは、口論をしている飼い主一家を久しぶりに見て、とても苛々としていた。
(つまんないー! ボス、どこいったのかなー。)
仕方なく部屋の中を徘徊するルビィ。
(あ! いいものみっけー)
ルビィは、クッションを発見すると、端を噛みちぎって遊びだした。
中から白い綿が大量に掻き出されていく。
(ぶちーぶちー! たのしー!)
「あ! ルビー! また悪さして!
やっぱり全然直ってないじゃない!」
居間に入ってきた母親は、ルビィの行動を見ると、棒を手に持ち、ルビィの周りを叩いて威嚇した。
「こら! やめなさい!」
――バシッ!
「ガルルル……!」
(なんだよー! じゃまするなー!)
「全然言う事聞かないわね! このっ!」
――バシッ!
ルビィの左脇腹辺りに、棒が当たった。
「ガアッ!」
(なにすんだー!)
「何騒いでるんだ……? あっ!」
先程まで娘と口論をしていた父親が、騒ぎを聞きつけたのか、口論に飽きたのか、様子を見に来た。
「ルビー! お前、またか!」
「そうなのよ! 全然躾されてないじゃない! どうなってるの!」
父親は、ルビィを捕まえると、保護センターにありそうな、金属製のゲージに入れてしまった。
「ここで大人しくしてなさい!」
「ワン! ワン! ワン!」
(なにすんだー! だせー! だせよー!)
「で、この紙、読んでみるか?」
「だから、パパが読めばいいじゃない。」
「そうよ。躾し直したとか、嘘ばっかりじゃないの。」
母親と長女は、嫌悪感を露わにしている。
男が語っていたルビィ像と、目の前にいるルビィの著しいギャップが、余計にそうさせた。
「じゃあ、ここに置いておくから、読みたくなったら読んでみる事にするか。」
父親はそう言うと、背の低い箪笥の上に、紙束を無造作に放った。
――
その夜。
冬とはいえ、比較的に冷え込みが無く、崩れ始めた天気は、雨を降らせていた。
それは、哀しみに暮れた、ルビィの涙かのように、地上を濡らす。
「ルビーの散歩、誰が行くー?」
長女が、家族に問い掛けた。
「お姉ちゃんが行けば?」
帰宅していた次女は、ソファーから冷たく言い放つ。
「は? アンタには聞いてないし。」
「あっそ。」
次女は、カチカチと携帯電話でメールを打っている様だ。
「パパー? ママー? どうする?」
父親は、ビールを飲みながら、テレビを観ていた。
母親も、夕食の後片付けもせず、同じ様にテレビを観ていた。
長女は、家族に無視されると、ルビィのゲージを開け、裏庭への窓を開けた。
(あ、あいた。)
ルビィは、ゲージから出ると、窓が開けられている事に気付いた。
(あ、でれそう。)
ルビィは、裏庭へ出る。
そして、キョロキョロと辺りを見渡した。
シトシトと、雨が降っている。
雨雲に覆われた夜空は、今のルビィの心の様だ。
ここには、ルビィの大好きな男は居ない。
匂いもしない。
(ボス、むかえにきてくれないのかな……。)
ルビィは、どんよりとした空を仰ぎ見た。
雨粒が顔に落ちる。
「ワオォーン」
(ボスー! ルビィはここだよー!)
ルビィは、宙に向かって必死に呼び掛けた。
「ワォーン」
(どうしたー?)
すると、谺の様に、遠吠えが伝播していく。
(ボスが、いなくなったのー!)
(そりゃたいへんだー!)
(さがしにいったのかー?)
(きてくれるの、まってるー!)
(そりゃだめだろー! さがしにいけよー!)
(そうするー!)
「ルビー煩いぞ! テレビが聞こえん!」
部屋の中から、余計な怒鳴り声が聞こえた。
ルビィは、用を足すと、仕方なく中に戻った。
一つの決意を秘めて。
――
翌日。
「ルビー今日は、やたら大人しいね。」
「そうだな。イタズラもしないし。」
「本当に躾されて、変わったのかしらね?」
「でも、昨日はクッション破ってたね。」
「急に環境が変わって、混乱してたのかもな。」
「皆出掛けてる間、どうしとく?」
「トイレも行くだろうし、試しに開けといてみるか。」
そうして、一家はそれぞれ出ていった。
(よーし!)
寝たフリを決め込んでいたルビィは、すくっと立ち上がり、裏庭に向かった。
裏庭は、周囲が枯れかけた高さ180cm程の垣根で囲われている。
ルビィの脚力では飛び越えられそうもない。
建物脇から、駐車場に抜ける通路があるが、折り畳み式のペットゲートが設置してある。
こちらは110cm程だ。
いけるかも知れない。
だが、ルビィは一旦家の中に戻った。
そして、駐車場前の窓の前に立つ。
その窓には鍵が掛かっている。
一般的なクレセント錠だ。
それは、二重ロックでは無いタイプだった。
ルビィは、立ち上がり、片方の前脚を窓に付け、掴まり立ちのようにバランスを取り、もう片方の前脚で、鍵を器用に回した。
――カラカラ
窓を開けて、外に出る。
(でれたー! えーっとー……)
周囲を見渡す。
(こっちだったー)
ルビィは、車の辿った道筋を、思い出しながら進む。
距離にして、50km。
いつもの散歩の10~25倍程だ。
それは、シベリアンハスキー本来の能力であれば、大した距離では無いのかも知れない。
だが、ルビィは、飼い犬だ。
そして、飼い主はまともでは無かった。
運動らしい運動をしたのは、預けられていた、ダイエット期間の七ヶ月だけ。
更に、ルビィにとって、明るい時間の長時間の活動は初めての事だった。
困難が待ち受けているだろう事は、想像に難く無い。
だが、ルビィは、"ボス"に会いたいという一心しか持ち合わせていない。
恐怖といえば、"ボス"にもう二度と会えないという事しかなかった。
小走りくらいの速度で、ルビィは緩い坂を下って行く。
昨日の雨は止んでいるが、古びたアスファルトの轍には、所々に水溜まりが出来ている。
(あ、ここ、とおったかも?)
古びたトンネル。
距離は短いが、天井がやたらと高い。
照明は、自然光頼り。
そのせいで、日中でも、中は薄暗い。
直射日光を避けれる環境は、ルビィには都合がいい。
だが、ルビィは、休む事はせず、歩き続けた。
そこを抜けると、山林の隙間に、ポツリポツリと、民家や畑があるだけの風景が続く。
相変わらずの緩い下り坂と、時々の上り坂を、黙々とルビィは、進んだ。
幸いな事に、この田舎道は交通量が少ない。
車に邪魔される事もなく、ルビィは安全に進めていた。
(あ、またくらいとこだー)
先程のトンネルより、距離が長い。
天井の高さは、実は同じ程度だが、奥行がある為、低く見える。
等間隔に配置された薄暗いライトが照らしてはいるが、日中でも車であればヘッドライトを点灯するべきだろう。
だが、ルビィにしてみると、直射日光を遮れる環境は、快適だった。
1km程もある薄暗いトンネルを、ルビィは小走りで進んでいく。
時折、制限速度を明らかにオーバーした車が、壁際を移動するルビィのすぐ脇を、勢い良く走り抜けていった。
後ろから前から風を受け、よろけてしまう事もあったが、ルビィはあまり気にしない。
無我夢中だった。
――――
二日後。
「はぁー。いてて……。久々にやっちまったなぁ……。」
首にコルセット、右腕にギプスを巻いた若そうな男が、独り言を愚痴っぽく吐き出しながら、ぎこちなさを感じる素振りで、車から降りた。
そして、自宅玄関に向けて、力無くよろよろと歩いていく。
ルビィを預かっていたこの男は、よく事故に遭う。
平均すると、大体年に五回のペースだ。
だが、ルビィが居た頃は、事故には遭わなかった。
それはこの男にとって、珍しい事だった。だからこれは、久々の怪我だった。
男は、ルビィを返してしまい、寂しさに押し潰されそうな気持ちだったが、物理的にも押し潰されそうになったのだ。
「ウォン! ウォン!」
「重症だな……。」
何か、幻聴が聞こえる……。と、男は駐車場から玄関に向かう僅かな距離をゆっくりと歩きながら思った。
男は俯き加減で、ズボンの左ポケットに入れた鍵を取り出すべく、ゴソゴソしながら歩く。
すると――視界の端から灰色のような、クリーム色のような――大きな何かが飛び込んで来た。
「うぉっ……!」
唐突に受けた衝撃に、男は驚いてよろめき、尻餅を突いた。
男が顔を上げて状況を確認する前に、覆い被さるようにして、畳み掛けるようにして、その衝撃を与えた灰色のナニカは、甲高い音を発しながら、男の顔を――その長い舌で舐め回した。
「ヒーン! ヒーン! ヒーン! ヒーン!」
(もぉー! ボスー! ボスー! いたー!)
「え……! な……ルビィ?! ど、どうしたんだ!? 何でいるんだよ?!」
男にやっとの思いで再会出来たルビィは、興奮しきった様子で、そのまま30分程、男を舐め回した。
――
二日間、どんな道を通って来たのか……ルビィはとても汚れていた。男は、一先ずルビィを洗う事にした。
「いやー、まさかまたルビィを洗うとはなぁー。
……逃げてきたのか? あの家、嫌だったのか?
まぁ、そうなのかもなぁ。」
ルビィは、何も答えない。
ただただ、気持ち良さそうに洗われている。その表情は、満足そうに恍としていた。
それを見た男は、少し困惑しながらも、何かを決意した様子で頷いた。
――
「この通りです。ルビィを譲って頂きたい。再登録の費用は勿論払いますし、差し支え無ければ、お金も払いますので! どうか!」
ルビィの飼い主一家に話をつけるべく、男は頭を深々と下げていた。それは、ルビィが男の元に到着したその週末の出来事だ。
男は、ルビィが到着した日に、飼い主一家に連絡を取ったのだが、週末しか都合がつかないという事で、この日に訪れていた。
「お気持ちは分かりました。」
その男を、腕を組み見下ろす、頭が薄くなった、肥った人物。飼い主一家の父親だ。
男の言葉に、思案顔をしてはいるが、ルビィの事など、もうどうでも良かった。
「でもさー、ルビーは私の犬なんだけど?」
飼い主の義務を果たさず、権利だけ主張する飼い主長女。
当のルビィはというと、新しいボスと認めた男の後ろに隠れて、不機嫌そうにしている。
「お前、ルビーの世話なんてしてこなかっただろ。」
もっともらしい言葉で、長女を黙らせた父親が考える事。それは、どうしたら一番得か。それだけだった。
「では、条件として――」
男が請求された金額は、登録変更費用別で、20万円だった。
ルビィを買った金額の半額以下だ、これぐらい払えないようでは、譲る事は出来ないと、父親は強弁した。
男は、稼ぎ自体はあまり良くない。
20万もあれば、三ヶ月は暮らせる程度の暮らしをしていた。
だが、丁度良い事に、臨時収入の当てが有った。事故の保険金だ。
「分かりました。後日にはなりますが、必ずお支払いします。」
と、快諾し、ルビィを連れて帰路についた。
車内では、二人共に大はしゃぎだった。
「ルビィ! やったな! 良かったな! 一緒に暮らせるぞ!」
「ワン!」
そうして、正式に二人の生活が始まった。
――
季節は巡り。
男は、ルビィを自分の子供であるかのように、大事にした。
春は……
「ルビィ! 今日は、仕事休みだからな、ちょっと花見でも行くか!」
と、桜の綺麗な場所へと赴き
夏は……
「ルビィ! お前、海って知ってるか? ちょっと行ってみるか!」
と、海水浴に出かけ
秋は……
「ルビィ! 紅葉が綺麗だから、山でも行くか!」
と、山に登り
冬は……
「ルビィ! お前、雪好きだったよな?」
と、雪国まで赴き、散歩をした。
日常は、例の如く、ルビィは男の職場について行く。
毎日、満足出来るまでの、夜間の散歩。
ルビィは、自身の前半生とのあまりの違いに、幸福感に包まれていた。
そしてまた、春が来て、夏が過ぎ、秋。
「どうした? ルビィ。具合い悪いのか?」
ある朝、男は職場に向かおうと、いつもの様にルビィを呼んだが、ルビィは寝床から動かなかった。
(ボスー。ルビィ、ちょっとうごけないかもー。)
「うーん。具合いなら、今日は寝てな。帰ったら、病院行こうか。」
男は、言い知れぬ不安を抱えながらも、職場へと向かった。
それは、後悔を生む選択だったのだが、その時の男に、それを知る術は無かった。
男が職場に向かい、少し経った頃。
ルビィは、自身に起こっている異常が何なのか分からなかったが、激しく喉が乾いたので、水を飲もうと気だるげに立ち上がった。
いつものような精彩さは、見る影も潜めている。
ほど近くにある、水皿までが、嘗ての大冒険の距離よりも遠く思えた。
(みず……)
水皿に辿り着いたルビィは、力無く舐める。
舌の動きさえ緩慢で、満足に足るものでは無かった。
力を振り絞る様にしてピチャピチャと跳ね上げた水は、喉を若干潤せたものの、その殆どは、ルビィの顔や、床を濡らすに留まった。
(ルビィ、なんか……へん……)
ルビィは、寝床のクッションまで、ヨロヨロと戻ると、糸が切れたかのように、どさりと横になった。
(ボス……ルビィ、ちょっと……ねる……ね……)
――
その日……男は、嘗て無い程のスピードで仕事をこなした。早退する為だ。
朝のルビィの様子が、おかしかった事が、物凄く気掛かりなのだ。
そして、14時には、その日のノルマを達成した。
ルビィを病院に連れて行こう。そう思い、急いで帰路につく。
だが――
「ただいま! ルビィ、病院……」
男が目にしたのは、舌を垂らしたまま横たわり、動かなくなっていた――ルビィの姿。
「え……」
男は、恐る恐るルビィを抱き上げた。
その身体は、力無く、ぐにゃりと曲がる。
まだ少し、温かい。
だが、呼吸音が、無い。
心音も、無い。
男は、現実を理解すると……慟哭した。
ルビィが死んだ。
死んでしまった。
その最期を、看取る事すら出来なかった。
何故、今日の朝、仕事を休んで病院に行かなかったのか。
後悔――慙愧の念。男はもう、どうしたらいいのか、分からなかった。
そのまま男は、ルビィが冷たくなるまで、抱き続け、泣き続けた。
こうしてルビィは、あまりにも唐突に、そして呆気なく、その生涯を終えた。
それはルビィがこの世に生を受け、ちょうど十年目の事だった。
このなんとも数奇な運命を語る者はいないが、男の胸にはこれ以上ないほどに……深く深く刻まれたのだった。
ありがとうございました。またよろしくお願いします。