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短編

バイト先の常連お姉さんが「完食したら何でも言うこと聞く」事を条件に激辛麻婆豆腐を無理矢理食べさせようとしてくる

作者: 剃り残し

 古めかしいジャズナンバーをバックに常連のおじさんが吹かすタバコの煙がカウンター越しに僕の方まで飛んでくる。


 二十一世紀も四半世紀経過が目前となったこの頃となっては絶滅危惧種とも言える喫茶店。ここが僕のバイト先だ。


 公式ホームページもレビューサイトも開店時間は十時〜十一時、閉店時間は十六時くらいと書かれている。マスターの気分次第で前後するからだ。


 そんなゆるゆるな雰囲気だったので気軽な気持ちで働き始めたのが大学に入学して一ヶ月後、今から半年前の事だ。


 店が開くまではゆるゆるだが、金を貰う以上は開いた後はきちんと仕事をさせられる。半年も働くと常連の人が言う「いつもの」が何なのか把握も済んだ。


 常連のおじさんが「いつもの」カプチーノを片手にいつものように吹かす煙を避けながらグラスを磨いていると、チリンチリンと扉に備え付けられたベルが鳴る。


「おぉ。波瑠はるちゃん、いらっしゃい」


 今日の開店前、齢五十を迎えてやっと白髪が似合うようになったと嬉しそうに語っていたマスターが真っ先に認識して挨拶する。


 常連の女性、高橋波瑠たかはし はるさんだ。


 波瑠さんは良く通る声で「こんにちは」と挨拶を返すと、いつものように店の一番奥のテーブルに向かう。壁と向かい合う形で座るのが波瑠さんの「いつもの」だ。


 真っ黒なボブカットの髪の毛を揺らしながらカウンターを通り過ぎるときの姿は、背筋がビシッと伸びていてモデルのようだ。


 僕が彼女について知っている事は三つ。


 一つ目は彼女の仕事。僕とは違う大学に通っているらしいが大学生だ。学割のために学生証を見せてもらったから知っているだけで、そんなに親しいわけではない。


 二つ目は彼女のこだわり。いつもマスクをつけている。冬は風邪対策というのは分かるが、彼女の場合はずっとだ。秋めいたこの頃は違和感はなくなってきたが、夏もほぼ毎日のようにこの店に来ていて、毎日のようにマスク下の汗を拭っていた。


 変装というには、マスクだけでお粗末なので単なるすっぴん隠しなのだろう。


 三つ目は彼女の「いつもの」。それは、ポットの紅茶にはちみつだ。


 そんな訳で、波瑠さんのテーブルへ向かい、おしぼりと水、はちみつを置く。


「紅茶、お持ちしますね」


「ゲンゲン、ありがと」


 僕の店でのあだ名はゲンゲン。山元弦やまもと げんが本名なのだがヤマゲンゲンと呼ばれることも多く、そこから転じてゲンゲンがあだ名となった。


 いつもなら僕と波瑠さんの会話は以上で終わり。紅茶のポットを持って行ったときは頷きで感謝の意を伝えてくるからだ。


 後は会計時に少し世間話をするくらいの距離感。もどかしさはあるけれど、この店に来てくれなくなる方がよっぽど苦しい事態だから何も言えないのが実情だ。


 だが、珍しくこの日は延長線にもつれ込んだ。紅茶の準備をしようとカウンターの向こう側へ戻ろうとすると「あ……あの……」と波瑠さんの声が聞こえた。


「なんですか?」


「この麻婆豆腐、結構辛い?」


「あー……辛いですよ。マスターが張り切っちゃうので。甘めにしてもらいますか?」


「い、いや! 辛くていいから。辛さマックスで」


 顔を引きつらせながらオーダーしてくるので、明らかに不本意なのだろう。罰ゲームだとすると、波瑠さんを面白がって見ている人がいるはずだが、テーブルは一人だし、店内にも店外にもそんな人は見当たらない。


 この店の麻婆豆腐はマスターが張り切って作ったメニューで、現地で修行までしてきた本格派だ。賄いで何度か作ってくれたことはあるが、キッチンに立ち込める湯気でむせるくらいには辛い。


 辛い物を食べたいだなんてストレスでも溜まっているのだろうか。


「本当に大丈夫ですか?」


「だ……大丈夫」


 生唾を呑み込みながらそう言うので断る訳にもいかない。そもそも、オーダーされた食べ物を断る店がどこにあるのだろうか。


 そんな訳で、いつもは紅茶としか書かない伝票に麻婆豆腐と書いて裏に戻る。


「マスター、麻婆です」


「お? 波瑠ちゃんかい?」


「はい。辛さはマックスが良いらしいです」


「おぉ……チャレンジャー現るか。いっちょやるかぁ」


 普段はナヨナヨした喫茶店のマスターが腕をまくって大きな中華鍋をかかげる。


 慣れた手つきで中華鍋に次々とよく分からない調味料を放り込んでいく。


 ニンニクのいい香りが立ってきたところで、紅茶のことを思い出す。


 ポットに茶葉を入れ、湯を注ぐと茶葉が湯の中を一定のリズムで泳ぎだした。


 砂時計と一緒にトレーに載せ、波瑠さんのテーブルへ持っていく。


「どうぞ」


「ありがと」


 ポットをテーブルに置くと、今日は珍しく言葉が返ってきた。そんな些細な出来事に驚いて波瑠さんを見ていると、波瑠さんは怪訝な顔で僕を見てくる。


「どうしたの?」


「あ……いや、何でもないです。ニンニク、いい匂いですね」


「そうだね。口、大丈夫かなぁ」


 マスクを外して口を覆い、ハァーっと息を吐いて自分の口臭を確認する。波瑠さんくらい美人だったら口が臭いのもそれはそれでボーナスだと思うけれど、そんな事を言える関係性ではないのでグッと飲み込む。


 よくよく考えたらマスクの下を見たことは殆どなかった。


 いつも壁に向かって座っているので、紅茶をすする時の顔が見えないからだ。


 鼻はスッと立ち上っていて唇は薄い。なんというか想像とは違っていたけれど、想像を超えてくる美人だったので驚いてしまった。


 僕の視線に気づいた波瑠さんがまた変な顔で僕を見てくる。


「何?」


「あ……いやいや! 麻婆豆腐、もう少ししたらお持ちしますね!」


 僕達は喫茶店のバイトと常連という関係しかない。交わした言葉も大した数ではない。一目惚れと言うには時間は経ちすぎている。それでも、マスクを外した波瑠さんを見た途端、マスターの麻婆豆腐を食べた時のように一気に顔が熱くなってしまった。


「ゲンゲーン、出来たよー」


 気の抜けた声がキッチンの方から聞こえる。マスターがあっという間に麻婆豆腐を仕上げたらしい。


 キッチンに戻ると、白い皿にこんもりと盛られた麻婆豆腐は皿の縁に真っ赤な油を並べており、いかにもな見た目をしていた。


 以前、賄で食べた時の記憶が蘇る。牛乳無しでは食べられなかったし、次の日は下の口でも嫌というほど辛味を味わった。


 本当に波瑠さんはこれを食べるのだろうか。


 さっきと同じトレーに皿を載せて持っていく。


「お待たせしました。麻婆豆腐の辛さマックスです」


 結構な重さなので腕をプルプルとさせながら皿をテーブルに置く。


 波瑠さんは感情の定まらない「おぉ」という声を出した。


 ここに長居するとさっきみたいに変な目で見られかねない。「ごゆっくり」とだけ声をかけてテーブルから離れ、遠巻きに波瑠さんを観察する。マスターも気になっていたようで、キッチンとカウンターの境目から波瑠さんを心配そうに見つめている。


 運んでいる最中も鼻がムズムズしたので手加減はしていなさそうだ。


 スプーンでひとすくいして口に入れるべきか悩んでいる素振りを見せていた波瑠さんだが、意を決したように口へ匙を放り込んだ。


「……ンヌッ……ゲホッ!」


 一瞬耐えきったように見えたのだが、やはり生理反応は抑えられないようで、しっかりとむせている。


「ゲンゲン、牛乳持っていってあげて」


 マスターがピッチャーに牛乳を注いで持ってきた。


 こうなる事は予想できていたので、僕もなんの戸惑いもなくそれを受け取り、三度波瑠さんのテーブルへ向かう。


「牛乳飲んでくださいね。落ち着きますから」


 僕の声を聞いて波瑠さんが顔を上げる。涙目になりながら口を手で覆い、上目遣いで見上げる波瑠さんを見ているとなんだかいけないことをしている気分になってしまう。


「あ……ありがと……」


 声をガラガラにさせて波瑠さんがお礼を述べる。


「い……いえ……マスターからのサービスですから」


「そっか。ゲンゲン、そろそろ休憩?」


 そう波瑠さんに尋ねられて時計を見ると、既に十六時を回ったくらいだった。休憩というか、日によっては既に閉店時間だ。


 今の店内の客は波瑠さんと常連のおじさんだけ。常連のおじさんは既に会計をしながら談笑しているのでもう出ていくだろう。


 マスターが見送りついでに、看板をオープンからクローズに変えるだろうから新しい客も入ってこない。


「そうですね。今日はもうおしまいです。あ、波瑠さんはゆっくりしてていいですからね」


「フフ。ありがと。じゃ、そこ座ってよ」


「いいんですか?」


 波瑠さんは喉に引っ掛った何かを取ろうと小さく咳払いをしながら頷く。


 指定されたのは壁際の椅子。波瑠さんと向かい合う形で座る。


 そして、沈黙。


 座れと言われたので何か話でもあるのかと思ったが、そう言うわけではないらしく、ただただ麻婆豆腐から熱が逃げていくところを眺める時間が続く。


 店の入口付近では、チリンチリンと扉の開閉される音が何度かした。


 マスターは常連のおじさんを見送ると、「あ、もう今日は閉店だなぁ。ゲンゲーン! 片付けよろしく! ちょっとパチンコ行ってくるわ!」だなんてわざとらしい嘘をついて店から出ていってしまった。


 別に波瑠さんが気になるなんて言ったことはないのだが、何となく変な気を回してくれたみたいにも感じる。


 マスターの声に振り返って会釈した波瑠さんは店に二人っきりになった事を確信した瞬間、スプーンに手を付けた。


「ゲンゲン、これ食べられる?」


「無……無理ですって。前に食べたんですよ。辛さマックスじゃないやつでヒィヒィ言ってたんですから」


「ふーん、そっか」


 波瑠さんは気だるそうにスプーンで麻婆豆腐をすくっては皿に戻す。


「波瑠さん、何かありました? 辛いものを食べたくなる時ってストレスが溜まってるって言いますよ」


 波瑠さんは「そうだねぇ」と相づちを打って頬杖をつく。


「ゲンゲンはさ、どうしても嫌な事をしないといけないときってどうする? メリットは大きいんだけど、どうしても嫌でやりたくないの」


「どうでしょうね……最初はやらなくて済む方法を考えますけどね。逃げられないなら、覚悟を決めるしかないかなって諦めます」


「諦めるのはやっ!」


「でもケースバイケースだと思いますよ。この麻婆豆腐を食べたら良いことがあるって言われても、それがどのくらい良いことなのかによるじゃないですか」


「うーん……ま、それもそっか」


 唇を尖らせながら考えていた波瑠さんは僕の当たり障りのない意見で納得したらしい。


 悩んでいるというよりは背中を押してほしいだけにも見えた。


 つっかえがとれた波瑠さんは忙しなく動く。テーブルに顔をつけてニヤニヤしながら僕を見上げる。


「じゃあさ、この麻婆豆腐を完食してくれたら、何でも言うこと聞くって言ったらどうする?」


「波瑠さんがですか?」


「うんうん。何でもいいよ」


「いや……何でもって……」


「あー! エッチなこと考えてるんだー! そういう事じゃないんだけどなぁ」


「かっ……考えてないですよ! そもそも、何で波瑠さんが言うことを聞いてくれる事が僕にとってのメリットになるんですか!」


「あ……ならないんだ。そっか……」


 捉え方によっては、お前に興味がないと言われていると聞こえなくもない事を言ってしまった。


 後悔しても時すでに遅し。シュンとした波瑠さんは、僕から顔を逸して時計を眺める。


「まぁ……辛さって痛覚だから、一時的なものだよね。現にもう慣れてきたし。意外といけんのかなぁ……」


「何かあるんですか?」


「ん? 教えてほしい? じゃあこれ、食べきってよ」


 青年誌の袋とじみたいに情報を小出しにされ、大事なところを隠されると知りたくなるのが人の性というものだ。


 それでも、あの見出しだと大した話じゃなさそうだし、激辛麻婆豆腐完食と天秤にかけるのは悩ましいところだ。


「もう残したらいいじゃないですか」


「それは駄目! 食べ物を残すなんて!」


 食べきる自信のない人が注文しておいて虫のいい言い草だ。最初から僕に食べさせる気だったのではないかと思えてくる。


「うーん……食べ切った報酬がそれっぽっちなのはちょっと……」


「じゃ、こうしようか」


 そう言って波瑠さんはスプーンで麻婆豆腐をひとすくい。


 熱さを気にしているのか、フーフーと息を吹きかけて僕に突き出してくる。「あーん」だ。


 麻婆豆腐を食べきったご褒美で貰うべき報酬を先に差し出してくれている状況。スプーンを咥える以外の選択肢がどこにあるのだろうか。


 意を決してパクリと咥えると、ニンニクや油の香りが広がる。現地で修行しただけあって絶品だ。


 だが、そんな楽しむ余裕があったのは最初だけ。すぐに口の中に針が打ち込まれたような痛みが走る。


「……ゴホッ! から……牛乳!」


 僕が牛乳でうがいしているところを見て、波瑠さんはゲラゲラと笑っている。


「アハハ! 人が辛いものを食べて苦しんでるところって面白いんだねぇ!」


「ド……ドSじゃないですか……」


「そっ、そんなことないよ! 私はむしろ……」


 波瑠さんはいまのが失言だと自分で分かったのか、口臭を気にする人のように口に手を当てて言葉を遮る。


 興味が無いわけではないが、夕方の閉店した喫茶店で性癖談義なんてする気はない。


「ま、でも、勇気がもらえるね。ゲンゲーン、もう一口いけるかにゃ?」


「い……じゃあさっきの約束、覚えてますよね? 完食したら……」


「いいよ。何でも言うこと聞いてあげる」


 波瑠さんが僕の事をどう思っているのかはわからないが、僕がうっすら好意を持っているのはバレていそうだ。あーんにがっついてしまったし。


 そんな立場の弱さをつかれた訳だが、麻婆豆腐を完食すれば逆転する。距離を詰めるために使うもよし、一時の欲望を満たすために使うもよしだ。


 波瑠さんの手からスプーンを奪うと、大きなひと口を放り込む。


 口の中に剣山を投げ込まれたような痛みだが、一度始めたチャレンジを途中で投げ出すほど格好悪い事は無い。


 牛乳で誤魔化すことも諦め、激辛麻婆豆腐を一気にかきこむ。


 無心で食べ続けていると、気づけば最後のひとすくいまで減っていた。


 これを食べれば完食。


 全神経はスプーンの先に乗っかった赤黒い豆腐に注がれている。


 その時、そんな一時に水を指すことが起こった。波瑠さんが僕の腕を掴んでスプーンの向きを変え、自分から麻婆豆腐を口に運んだのだ。


「ングっ……からいぃ! 牛乳! 牛乳!」


 誰に強制されたわけでもないのに勝手に麻婆豆腐を食べて、牛乳を一気飲みして騒いでいる。


「な……何してるんですか?」


「なんか、ゲンゲン見てるといてもたってもいられなくてさ」


「これ……完食したことにならないですよね。もしかして完食を阻止したかった……とかですか?」


「いやいや! そんなわけ無いじゃんか! ここまで食べたんだから十分だよ」


「じゃ、じゃあ……」


 何でも言うことを聞く。デートに誘うなんてコテコテの事をして大丈夫だろうか。いっそ、僕と付き合ってくれと言ってみるべきだろうか。


「あ、でも今日は忙しいから無理なんだ。それに、簡単に使ったら勿体無いよ。この私に好きなことをさせられるんだから」


「それもそうですね。またの機会にとっておきます」


 この店がある限り、またの機会はいつか訪れる。焦る必要はないのかもしれない。


「うおい! ボケたつもりだったんだけど!?」


「あ……そうなんですか? まぁ、楽しみにしておいてくださいよ」


「うんうん。楽しみだねぇ。あ、そろそろ行かなきゃ! お金、ここに置いとくね!」


 波瑠さんはバタバタと帰り支度を始める。


 立ち上がって入り口に急ぎ足で向かう途中、いきなり何かを見つけたように立ち止まった。


 そして、その見つけた何かを手にとって振り返る。「何か」はリモコンみたいだ。


 音量をゼロにして適当なチャンネルを流していただけのテレビだが、波瑠さんは目当てのチャンネルがあるようで、迷いなくそこに変える。


「しばらくここに固定しておいてよ。理由は言わないけど」


「はぁ……」


 何か見たい番組でもあるのだろうか。


 マスターも僕も客も特にこだわりはないので、誰もいじらなければこのままだろう。


 ウィンクを僕に向けて一発放つと、波瑠さんは駆け足で店から出ていってしまった。




 ◆




 波瑠さんが激辛麻婆豆腐を注文した日から一ヶ月と少しが経った。


 その日以降もほぼ毎日のように店には来るが、頼むのは「いつもの」だけ。


 結局、あの麻婆豆腐を頼んだのが何だったのかは分からないままだ。


 今日も今日とて常連のおじさんの煙草の煙を避けながらグラスを拭いていると、横からマスターが素っ頓狂な声を出す。


「はっ……波瑠ちゃん!?」


 ドアが開いた音はしなかったので、マスターの方を見るとその視線はテレビに注がれていた。チャンネルは波瑠さんが設定したままになっていたはず。バラエティー番組が流れているみたいだ。


 そこに映っていたのは紛うことなき波瑠さん。画面に出ているテロップは『激辛大好きアイドル 丹下たんげ波瑠』。名字は芸名みたいだが顔を見ればそれがこの店の常連の高橋波瑠であることは一目瞭然だった。


 収録がいつ行われたのかは分からないが、早々に辛い物が得意になる訳がない。


 それでも画面の中の波瑠さんは真っ赤なタンタンメンを笑顔ですすっている。目の周りを赤くしながら汗を垂れ流している様子を見ていると、バラエティとはいえやらせには見えない。


 最後まで笑顔で食べきった波瑠さんは番組でも大きく取り上げられていた。


 休日の昼間に流れているバラエティだが、他に並んでいるメンツからしてもこれに出ているという事はそれなりに有名な人なのだろう。


 そんな有名人がこの店の常連だった事に驚きと優越感を覚えていると、チリンチリンと誰かが入店した音がした。


「波瑠ちゃん、いらっしゃい」


 いつものようにマスクをして颯爽と歩く波瑠さんの目線はいつもより少し高め。テレビを見ているのだろう。


 僕の前を通り際、ちらりとこちらを見て目で微笑みかけてくる。


 いつもの席に座ったことを確認すると、いつものように、水とおしぼり、はちみつを持っていく。


「ゲンゲン、ありがと。あれ、見てくれた?」


「えぇ。バッチリですよ。というか……芸能人だったですか?」


 少し声を落として波瑠さんに話しかける。マスクを外した波瑠さんは口の前に人差し指を当てる。別に言いふらすような人もいないので、肩をすくめて返事をする。


「まぁ……まだまだだけどね。激辛好きアイドルを探してる番組があるって事務所に言われてさ。私、辛い物がすっごい苦手だったんだけど、とりあえず練習してみようと思って先月注文したんだ」


「練習……ですか」


「そ。実際に食べてみて、あんなの無理だって思ってたんだけど、目の前で完食してるゲンゲンを見たら勇気がもらえたんだ。おかげで完食できたし、番組で爪痕残したし……いい事ずくめだよ。何より、ゲンゲンともご飯食べられたしね」


「そ……それは良かったですね。ああいうバラエティって本当に辛いんですか? フリとかじゃなくて」


「どうだろうねぇ」


 いたずらっぽく笑い、肯定も否定もしないのはからかっているのだろう。


 あまり波瑠さんとの雑談に時間もかけていられない。仕事中だった。


「紅茶でいいですか?」


「うん。あと、麻婆豆腐。辛さマックスね」


「えぇ!? まさか……また僕が食べるんですか?」


「そんなわけないじゃーん。ハマっちゃってね。激辛。口の中を虐められてる感覚がたまらなくて……」


 波瑠さんは口を滑らせて自分がM気質だと言っていたけれど、これもその一環なのかもしれない。


 客のオーダーなので断るわけにもいかず、伝票に書き留める。


 波瑠さんは立ち上がって僕の手を掴み、伝票に数字を書き加えた。


「麻婆豆腐は二つね。ゲンゲン、一緒に食べよっか」


「う……前の約束、ここで発動していいですか?」


「なになに? 何するの?」


 前にしていた「何でも言うことを聞く」という約束。それを行使すると波瑠さんも気づいたようで、楽しそうに前のめりになって尋ねてくる。


「じゃあ……辛い物じゃなくて甘い物を食べに行きませんか?」


「えー。辛い物がいいなぁ。じゃ、ゲンゲン、バイト終わったらどこか行こっか。辛い物を食べに」


 ニシシと波瑠さんが笑う。甘い物でなくても波瑠さんとのデートなら良いと思えた。


 笑顔で頷いてカウンターに戻り、伝票をマスターに渡して仕事を再開する。


 グラスをいくつか拭き終えたところで思い出す。


「あっ!」


 キッチンに駆け込むと、二人前の激辛麻婆豆腐を用意している店長が見えたのだった。

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