STARLINE──星に憧れて
穹が昏い。
静寂は夜風に溺れ、草木は冷気に口を噤む。
何処までも静かな川縁の遊歩道。
遠く、橋の街灯だけが、細いその道を心許なく照らしている。
荷物はない。
唯一在るのは、この死に体の絡繰人形だけだ。
霞んだ夜鷹の瞳で、何気なく右掌を見詰めた。
小さな手だ、と思う。
望まれぬままに産み落とされ、惰性で駆動いた四半世紀。
その僅かな駆動の中、多くの宝物を落とし過ぎた。
嘗て、愛を語った誰かは居ない。
嘗て、共に笑った家族は居ない。
嘗て、空に描いた希望は消えた。
詰まる所、きっと自分は夢を見過ぎたのだろう。
ただ、安らげる場所を探していた。
自分探しの旅、なんて都合のいい言葉を使うつもりはない。
何か、大切な場所を探していただけ。
恋に恋する乙女のように。
夢に溺れる少年のように。
欲に委せる娼婦のように。
ありのままの自分で居たかっただけなのだ。
膝の歯車が軋んだ音を立て、少しだけ前の世界へと躰を運ぶ。
口から漏れ出る蒸気は、少し残って霧散した。
あと少しだけ掌が大きければ、何かを繋ぎ止める事ができたろうか。
躰を巡る紅い潤滑油が燃えている。
いま一度、掌を見詰め、握り締めた。
夜風に流れる前髪が、狭い視界を遮った。
遮られた視界は、この世界そのものだ。
何も見えていない。
誰も見えていない。
此処で叫んでも、きっと誰にも聴こえない。
誰しも自分自身が生き抜くだけで精一杯の世の中。
赤の他人の生き様など、目に入るまい。
ましてや壊れかけの人形。
粗大ゴミのそれと変わらない。
歩いている道すら分からない。
一寸先に歩を進めるだけで恐怖を覚える。
洒落にもならないが、確かにそれは未知だった。
社会の柵が前髪で、邪魔で周囲は見えもしない。
すぐ横に、奇麗な蝶が舞っている。
すぐ上に、勇猛な隼が飛んでいる。
すぐ後に、逃した夢が踊っている。
凡百ものを、簡単に見落とした。
選択肢を選ぶ度、後悔の影が付き纏う。
大切なものを守る度、大事な人を傷付ける。
時代が世界を巡る度、過去が己を拒絶する。
恐らく自分は、世界に拒絶された唯一の人形だ。
烏滸がましいことは分かり切っている。
自分より苦しんでいる人など腐るほどいる。
自分より涙を流した人など砂の数ほどいる。
言われなくても分かっている。
分かっている、けれど。
辛い時くらい、悲観しても赦されるだろう?
遠い約束を待つだけの駆動。
僅かな泡銭を求めるだけの駆動。
嗚呼───────なんて、詰まらない。
首に巻き付いた青い管を引き千切れば、駆動は止まるだろう。
紅い潤滑油を撒き散らし、それこそゴミのように死ぬだろう。
頭では何度鮮血に身を浸しただろう。
頭では何度四肢を切り刻んだだろう。
でも所詮それらは想像で。
現実はどうしようもなく恐ろしくて。
腕の歯車も、首の歯車も、節々の歯車も。
結局、自分を殺す挙動を拒絶した。
思い通りにならない四肢に苛立って。
それでも今を生きている事に微笑んで。
本当、どうしようもない駆動だ。
また風が前髪を揺さぶった。
視界が開ける。
所詮この霞んだ夜鷹の瞳。
見えるモノなどたかが知れている。
けれど、確かに見えた気がしたのだ。
遠く、遠く、遥かに瞬く恒星が。
見えた。それだけだ。
触れない。届かない。
現実だったかも曖昧だ。
けれど、確かに見えた気がしたのだ。
駆動は遅く、歯車の動きは悪くなる。
夜鷹の瞳すら、直に光を亡くすだろう。
なんでもない星の輝き。
その尊さに、微かに高鳴る駆動音。
単純だと笑うがいい。
愚かだと謗るがいい。
俺の駆動だ。
俺だけの駆動だ。
あの星に行こう。
あの星に手を伸ばそう。
無理だなんて意見は止してくれ。
いつかこの駆動は止まる。
駆動は止まり、瓦落多のように朽ちていく。
一切合切を、あの星に持って行こう。
一切合切を、あの星で築き上げよう。
地球まで届く輝きだ、零れ落ちた宝物も見えるだろう。
錆び付いた歯車が音を立てて回る。
狂ったように滾る潤滑油が躰を巡る。
口から蒸気を吹き出した。
歯車と鉄骨が捻じ切れた。
代償は駆動時間の短縮。
しかし、残された時間など瑣末な問題だ。
なぁ、そうだろ───────?
狂った絡繰人形は、星に憧れて生きていく。
瞳から、流星のような軌跡を残して。
了