君の花によせて ヒマワリ
彼女は、十年前の一夏に咲き誇った、向日葵だった。太陽の方を向いて何一つ陰りのない笑みを浮かべて。
「…だあれ?ここの子?」
「え…」
おどおどするばかりでなにも満足な言葉を返せなかったのに、彼女は、怒りもしなかった。
一瞬だけ目を見開いて、彼女は。
一緒に遊ぼうと笑った。
あまりに無邪気なその笑顔は、彼らの心にまっすぐ届いて。
野菜畑の中で鬼ごっこをしていた彼らと、向日葵の少女はそうして出会った。
それから、十年。
長いようで短い月日が過ぎ、彼らは知る。
それぞれ十年分の年を重ねた彼らの中で、彼女だけはもう年を重ねることがなかったのだと。
「嘘だ」
間髪入れずに切り返した改に、嘘じゃないと言い返す。
「嘘じゃない。…改、信じたくないのは分かる。けど、ほんとのことなんだ」
「嘘だ。俺は、信じない」
「改、聞いてくれ」
「嫌だね、聞く気もないし、そんな空言聞く理由もない」
「改…」
「もういいから帰れよ、いつまで居たって無駄だぞ」
取り付く島もない頑なな改の返答に、ああ、と気づく。
もう、改は分かっているのだ。そうだろうなと思う。改は昔から、仲間内の誰よりも察しがよくて頭の回転が速かった。
ここに呼ばれたという時点ですでにすべてを悟っていたとしても、何ら不思議はない。だから、この頑なな返事はただ、認めたくないだけなのだ。
そのことを、認めたくないことを知っていてなお、僕は彼に同じことを言うしかできない。
「改」
「帰れ」
「もう、気づいてるんだろ」
「何のことだよ、なにも気づいてねーよ。気づくことなんて、ないんだから」
「もう、気づいてるんだろ。聞いてくれ」
「……嫌、だ」
絞り出すような答えに、胸がずきんと痛む。きっと今、改の心は認めたくない、認められないと悲鳴を上げている。改を救うどころか苦しませることしかできない自分を、僕は呪った。
「頼む。…でないと、あの子が、かわいそうだ。………聞けよ、改。あの子は…」
「やめろ!」
「あの子はな…!」
改のうめき声をあえて遮る。嫌だろう、こんなことを聞かされるのは。そりゃあそうだ、こちらだって今こうして話すのは息が止まりそうになるほど辛い。けれど、これは夢ではない。まっていればかならずいつかは醒めるような、そんな都合のいいものではない。
悪夢をにっこり笑って退けるような向日葵の彼女がいれば。埒もない事を考えて自嘲気味に嗤う。その考え自体、この状況ではあり得ないことだから。なにもない虚空を強く睨んで、一つ息を吸う。
そして、言葉を唇の隙間から押し出す。
「あの子は、死んだんだ」
ぴたり、と改の動きが止まった。
次いで、端整な顔立ちがくしゃりと歪んでいく。
「ああ…」
板に遮られた天井に何かがあるはずもなかったけれど、改は視線を上向けて何かを探すそぶりを見せた。
「…いつ?」
空を、探す。
あるはずのない青い青い空は、僕らの希望だったあの子の、一等好きなものだったから。
『雲がない、真っ青な晴れた空が好き!』
無邪気な笑い声が耳の奥で弾けて、消えた。
それから数日かけて、僕は彼女を知る友人たち一人一人に話をしていった。
やっぱりみんなの反応は改と似たり寄ったりだったけれど、僕の必死さから冗談ではないと悟ったのか、分かってくれた。
そして、今日この場にかつての仲間6人が、揃ったのだ。7人だったうちのひとりは、もう永遠に来ない。
対して広くはない僕の部屋に、5人が円上に座っている。
「で、どういうことだ」
最後にきた僕が座るのを待って、勇吾が口火を切った。
「暁が、死んだっていうのはほんとか?」
暁は、もういない。
「本当だよ」
本当に、そうとしか言い様がなかった。僕自身触れたくない話だっただけに、ついつい消極的な受け答えになってしまう。そして、それがみんなは気に入らなかったらしい。それぞれが肩を揺すったり、眉をひそめたりして不快感を示す。当たり前だ、人の生き死にを話していて、しかも切り出した張本人がこの態度では僕だって苛つくだろう。だけど、気が重い。そうだよ、残念だったねと明るく言えるような人には、僕は永遠になれない。
「てめえ、こんだけわざわざ全員集めといてどういう言い草だよ!」
一番最初に爆発したのはやっぱり勇吾だった。小さい頃から、勇吾は僕らの切り込み隊長だ。いつだって一番最初に突っ込んでいって怒られているようなやつだった。変わっていないなと、そんな場合ではないのにばかなことを考えてしまう。自嘲気味に笑って、ごめんと謝った。重たい口が、ようやく次の言葉を紡ぎ出した。
「暁は、死んだ。いや、死んでたんだ、とうの昔に」
「死んでた?」
怪訝そうな声を上げて、改がすぐに切り返す。頭の回転が尋常じゃなく速い改だからこそできる質問だろう。今もこう言いながら、何十通りもの可能性を思い描いているのにちがいない。
「それ、いつのことだよ」
はぐらかすんじゃねーぞと言わんばかりに、勇吾がぎろりとにらみつけてくる。
「いつ、死んだかなんて、そう簡単に答えられないだろ。勇吾、もうちょっと柔らかい言い方はできないのか?」
相変わらずおまえは答えづらい聞き方をするな、と慶利が困ったように言う。責められ役の僕よりも真剣に困ったような表情をするので、ついつい毒気を抜かれてぽかんとしてしまった。勇吾も、改も、みんな同じように目を瞬いて息を吐く。場が一瞬静まる。
「俺から、ひとつ聞きたいのは」
そこを見計らったかのように、慶利が声を上げる。静かで穏やかにすら聞こえるのに、なぜだか有無を言わせない強い声。この声を持つからこそ、慶利は僕らのリーダーだった。今も、まだそうなのだと思い知らされる。慶利は、辛そうな顔で言った。
「暁が死んだのは、…俺たちのせいなのか?」
「違う」
はっきりと、その質問にだけ答えを用意していたかのように答える。まるで今まで突っかかっていたのが嘘のように、答えはするりと口から飛び出した。
「僕らのせいじゃ、ない。」
それだけが、何もかも不確かな中で間違いのないことだった。
「そうか」
それだけ言って慶利は口を閉じた。ほっとした表情ではない。寧ろ罪悪感に駆られたような、苦しげな顔をして黙り込む。
そしてそれは、他の全員も同じだった。自分たちのせいじゃなかった、よかった。そんなことで終わらせられるほど、僕らと彼女の関わりは浅くなかった。
いつの間にか、場は静まりかえって誰もが怒っているような、泣くのを堪えているような表情になっていた。
「そっか、暁、もういないんだ…」
絵廉がそう言う。昔から、誰もが黙り込んでしまうときに黙っていられないやつだ。そのせいで人一倍、勇吾に噛みつかれている。
「なあ、雲間」
呼びかけられてはっと顔を向けると、泣きそうな顔で口をぎゅっと引き結んだ苑が、僕をじっと見つめていた。
「…泣かないよ、オレ。絶対泣かないから」
だから、と唇が紡ぐ。
「雲間」
「…頼む」
立て続けに改と勇吾にも呼ばれた。
何も言わずに黙したままの慶利も、じっと僕を見つめている。みんなが考えていることは、同じだ。言われずとも分かっている。でも、言われるまでは言いたくなかった。暁が死んだことを一番認めたくないのは、過去にしがみついたままでいるのは、きっと自分なのだろう。他の人はみんな、覚悟を決めて進もうとしているのに。
「「「「「「雲間」」」」」」
五つの声が、同じ言葉を放つ。
「暁は、なんで死んだんだ」
「………それは………」
………ぐっと唇をかみしめたまま
、僕はしばらく答えることができずにいた。
―――十年前。否応なしに、時は僕らをあの頃へと連れ戻す。
★
「雲間ちゃん?改ちゃーん?」
「ばっ!」
「うわっ!」
無防備な背中に雲間と改が後ろから飛びつくと、暁は驚いたように飛び跳ねた。
「へへ、びっくりした?」
「び、びっくりなんかしてないもん!ちょっと怖かっただけだよ」
「うそつけー!絶対びっくりしただろう!」
「そんなことないよー!改ちゃんのほうが、私よりずーっと怖がりなくせに!」
「なんだと!」
「改ちゃんが!私より!ずーーーっと」
「う、ううううるさーいっ!」
きゃんきゃんと言い争う暁と改を見て、雲間は軽くため息をついた。
この二人は何かというと言い争いをするので、そのとばっちりが雲間に回ってくるのだ。例えば、親に怒られる。止めようとして、殴られる、蹴られる、吹き飛ばされる。
この二人は幼児のくせにものすごく怪力なのだ。パワーは大人、手加減しないのは子供。せめてどっちかに統一するべきだと雲間は強く思う。
理由は簡単なことで、べつに心配とかそう言う云々を抜きにして、一番の被害者は雲間だからだ。
なんで僕が、とは思うがそういう役回りなのだから仕方がない。あきらめてちょっとだけ、せめてもの腹いせにため息をつくのがもはや雲間の日課となっていた。
「あ、雲間ちゃんまたため息ついてる」
変なところでめざとい暁が指さしてくる。
「だめだよ、雲間ちゃん!ため息は、つくと幸せが逃げていくんだよ?」
「うん、そうだね…」
もお、だめでしょと腰に手を当てて頬をふくらませる暁を、雲間はなんとも言えない気持ちで眺めた。
そもそもボクがため息をついたのは、アカツキが原因なのに。
と、そんなことを言えれば苦労はしない。もともと雲間はTHE、引っ込み思案代表のような性格で、なおかつ暁は人のことをほぼ全くといっていいほど慮らない性格だ。雲間が暁に主張できる訳もなかった。
「おい、暁!」
「なーに、改ちゃん?」
「何にも言わないからって、雲間に好き放題言うなよ!雲間は怒んなくても、オレが怒るからな!!」
「えー?なんで?」
「おまえなあ…」
「改、暁」
「「なに?」」
呼びかけるとぱっとこちらを向く二人に苦笑して、雲間は今度は苦みのない笑顔を浮かべた。
「喧嘩をするより、遊ぼ?」
瞬間、二人の顔が明るくなる。雲間の考える遊びはいつだって面白いし、普通の遊びだってみんなで遊べば何より楽しい。
「やろう、やろう!」
キャッキャッと喜んでそこら中を跳ね回る暁を見て、改もこくりと頷いた。
「か、勘違いすんなよ!暁と遊びたいわけじゃねーからなっ!」
「?改ちゃん、なんか言った?」
「な、な、なんも言ってねーよ!」
顔中真っ赤にして怒鳴る改の耳に、そのときクスクスという微かな笑い声が聞こえた。
「誰だ!?出てこいっ!」
「……あーあ」
ばれちゃった。
一拍おいて、傍のトウモロコシの奥からそんな声がする。
「勇吾が笑うから」
「ち、ちげーよ!おれじゃねーよ!」
「あーはいはい」
不毛なやりとりを交わしつつ、新たに二人が現れる。
「慶利、勇吾。遅かったね」
「慶利ちゃん!ユーゴちゃん?」
「おいまて暁。なんで俺だけカタカナなんだ」
「ユーゴーちゃん?」
「おいこらっ!」
きゃはは、と笑って暁は慶利に向き直った。
「慶利ちゃん、遅かったね?なんで?」
「遅くなってごめんな。よしよし」
ぽふぽふと頭をなでられて、暁は至極ご満悦の様子だった。
ここにいる全員が同い年のはずなのに、お互いそういう風に関わっているのに、暁は一人一人違った振る舞いをする。
慶利はさながらお兄ちゃん、勇吾は弟、改は喧嘩友達で雲間は双子のような。
本人にはそんなつもりはないらしく、みーんな大事なお友達、だと言っていたが。
「慶利、絵廉は?」
雲間の問いかけに、じゃれる暁をなだめていた慶利はああ、そうだったと頷いた。
「絵廉が風邪引いててさ、いまおれと勇吾でお見舞いに行ってたんだよ」
「へー、絵廉また風邪引いたんだ」
大した驚きも見せずに改が相づちを打つ。
絵廉はしょっちゅう風邪で寝込む、かといってべつにからだが弱いわけではない(本人曰く)不思議な子だ。熱を出すのに体が弱くないことはなかろうと思うが、確かに川遊びに行ってびしょ濡れで帰っても風邪を引いたことはない。ひょんなことで引いては、みんながはいはい、またかと流せるような調子でけろっと回復するのが絵廉だ。さながら末っ子のような立ち位置である。
絵廉の性格が甘えたなので、ますます末っ子っぽさをましている気がする。
「またお見舞い行ったの?」
「どうせすぐ元気になるんだから、ほっとけばいいのにさ」
あきれた口調の雲間に、改が続く。
さらりと手厳しいことを言う二人に、慶利はちょっと笑った。
「まあ、お見舞いったって何にも持ってってないし。毎日遊んでんだから、誰かいないとさみしいだろ」
「でもわざわざめんどくさいじゃん?特に勇吾」
けろっとそう切り返す改に、なんだとお、と勇吾がさっそく噛みつく。
「オレが絵廉の心配しちゃ悪いのかよ!」
「誰が悪いなんて言ったんだよ、勇吾のばーか」
「このやろう!ボッコボコにしてやろうか!?」
「できるもんならどうぞ?」
ああ、また始まったと雲間は半ば諦めて小競り合いを見守る態勢に入った。
「大体勇吾は、お馬鹿だよな」
「なにぃ?」
「ほーら、すぐそうやって怒る。もうちょっと考えればいいこと思いつくかもしれないのに…無理か、勇吾には」
「むきゃあああ!」
単純な勇吾は、一瞬前の忠告(?)を綺麗さっぱり忘れて牙をむいた。まるで野生の猿のようだ。
「きゃははははっ、ユーゴちゃん面白い~」
「だから名前をカタカナにするなあっ!」
「え?ユーゴーちゃん?」
「ゴルアア!」
「きゃははははははっ!」
暁まで面白がって参戦する。そろそろ止めないとかな、と雲間が腰を上げるのとほぼ同時に、慶利が「そこまで」と三人―主に勇吾―を制した。
「三人とも、そろそろ止めとかないと怒られる。おばちゃんが来る時間だよ」
あれほどうるさかった三人がピタリと押し黙る。
「さっすが慶利」
勇吾vs暁の戦いをのんびり眺める態勢だった改が、ぴゅうっと口笛を吹いた。…一瞬前までは自分が勇吾と対決していたはずなのだが…。まあそれはさておき。
雲間も全く同感だった。絶妙な間の取り方と、割って入るタイミングが慶利は抜群にうまい。この辺りが彼がくせ者揃いの仲良しグループでリーダーとなっている理由だ。
「おばちゃんが、来るの?」
「やばい!」
のんびりした暁の声が、彼らをはっとさせた。
おばちゃんとは、この畑の持ち主にして勇吾の母親であり、怒るととんでもなく恐ろしい人だ。
ガキ大将を気取っている勇吾だって、おばちゃんの名前を出せば一発で震え上がる。
「か、母ちゃん、今日機嫌悪かった…!」
この世の終わりのような表情で勇吾がつぶやく。改がささっと離脱の態勢を取った。
おばちゃんは、大抵のことは笑って許すが畑に勝手に入ることだけは烈火のごとく怒る。この前ばれた時なんて、みんなで並んで正座でお説教だった。
慶利までちょっと涙ぐむほどに、それはそれは恐ろしかったのである。あんな思いをするのはもうこりごりだった。
「でも、ここの畑が一番居心地いいもんな。あー、勇吾ちゃんママがもうちょっと優しけりゃあなあ…」
「確かに。」
「そうかも…
「ばかなこと行ってる場合じゃないでしょ!ほら、はやくはやく!」
改の意見にうんうん、と頷いていた男衆を、暁が急かす。
普段はどちらかというとおっとりゆったりタイプの暁だが、こと勇吾の母の話になると表情が一変する。
前回ばれた際、文字通り死ぬほど叱り飛ばされたことがトラウマになっているのだ。そりゃあそうだろう、勇吾の母親は手加減という言葉を知らない。怒るとなったら子供相手であろうが全く容赦しないのだ。トラウマは人を変える。
「早くうううう!」
「やば、そろそろほんとに急がないと」
鬼気迫る表情の暁に、慶利のちょっと焦った様子。すでに改と勇吾は駆けだしている。
「わっ、あ、ちょっ!」
容赦なく自分をおいて去って行く面々にバカヤローと顔をゆがめつつ、雲間は慌てて後を追った。
「はあ、はっ、は…はっはっはっ…」
「ヒイ~、はあ、ハー…」
「…はあ、はあ…」
「………(声も出せないほどに疲労困憊)」
「全員無事で何よりだね!」
「そんで何でおまえはそんなに元気なんだよ!」
なんとか安全圏まで逃げ出すなりその場に崩れ落ちた四人を見下ろし、暁は元気に頷いた。
間髪入れずに突っ込みを入れた改はさすがと言うべきかなんと言うべきか。けれど、突っ込んですぐにまた臥せるところを見るとやはり相当つかれたようだ。
「私はつかれないよ!勇吾ちゃんより強いもん」
「なんだとお!?おまえよりはオレの方が強いに決まってら!」
嬉しそうな声に反応して勇吾がガバリと起き上がる。
さすがは体力モンスターだね、と慶利がつぶやいた。
雲間はそれどころではなく、ヒイヒイと息を整えるのに精一杯だ。慶利だって立派に化け物だ、いやいま喋れている時点でここにいる仲間全員化け物だ、とかすむ意識の中で朦朧と思う。
だっておかしくないか、ついさっきまで必死に逃げてたのになんでそんな平気な顔して喋れるんだ。
「怖かったー!」
「なんだと…うん、怖かった!」
「確かに怖かった」
「ぜ、全然…めちゃくちゃ怖かったあ!!!」
暁の魂のこもった叫びにみんなが次々と賛同する。
逃げようとした矢先、彼らは不幸にも勇吾の母に出くわしてしまったのだ。
普段は垂れぎみの目がみるみるうちにつり上がり、口は耳まで裂けていく(ようにみえた)。
そこから先はただ闇雲に――走るととっ捕まるので、まだ未発達な脳みそをフル回転させて道なき道を逃げまくった。捕まったら最後、間違いなく死ぬ。
お化けを信じてはいなくとも、子供たちは怪物モンスターを知っていた。
「…雲間がいてよかった」
勇吾の母親がどれだけ恐ろしかったかを存分に語ってから、ぽつんと改がつぶやいた。
「雲間いなきゃ死んでた…」
「うんうん」
心のこもったうなずきは勇吾だ。母親をこの世の何よりも恐れていると公言してはばからない勇吾は、逃げるときも一番すごい悲鳴を上げていた。だから、居場所があっさりばれてなかなかまけなかった。
迷惑だ。
まあ、それはさておきなんとか動けるようになった雲間がのろのろと起き上がると、すでに残りのメンバーは「これからどうするか」を真剣に話し合っていた。
「やっぱり…やめとくべき?」
「だと、思う」
珍しく鋭い目の暁に慶利がこく、と頷く。
「だよなあ、…無理かあ」
「まあ、仕方ないな」
心底残念そうに勇吾が相づちを打つ。改だけは淡泊な反応だったが、全く残念がっていないわけではなさそうだ。
「じゃあ、ざんねんだけど…」
その場の面々をぐるっと見回して、慶利がまとめにはいった。
「暁、改、勇吾合同発案のロッククライミングはなしっていうことで。おっけー?」
「ん…」
暁が不承ぶしょう、勇吾は若干不服そうに顎を突き出して頷く。
「まあ、こうなるわな」
始めからこうなることを予測していたのか、改の反応は至って単純だった。
「…分かってたけどさ」
「お、雲間起きた」
「雲間ちゃん?おはよ」
身を起こしてぼそっと雲間が呟くと、改と暁が反応した。その声にかまわず、独りごちる。
「次はどうやって畑に入ろうかとか、もうはいっちゃいけないんじゃないかとかいう相談じゃないんだよねえ…」
「そんなこと考えてたのおまえ?偉いな!」
「ちょっと勇吾は黙っててね?」
好き放題しゃべりかけてくるミスター特攻隊長を制しつつ、雲間は慶利へ視線を向けた。
「慶利と改はさすがにその辺のことも考えてたよね?」
「んーまあぼちぼち」
「一応ね」
期待を裏切らない答えに雲間はほっとした。
さすがにこれで慶利も改もなにも考えていないと、ダメージが大きい。たかが小1と侮るなかれ。二人とも、そんじょそこらのがきんちょとは格が違うのだ。
ひらがな、カタカナはお手の物。慶利は難しそうな本も読むし、改はXとかYとか、とにかく訳の分からない計算もすらすらこなしてしまう。
つまり、頭のできが一般的な六歳児ではない。どころか、中学レベルにも下手すれば収まらないかもしれない。特に改は、その傾向が顕著だ。そもそもがすべての可能性は計算すれば分かるなどとのたまうこいつに、五歳児的なかわいげを期待してはいけないのだ。
「まあ、考えてはみたけどいつもと変わんないよ」
「おなじく」
「あ、うん。全然それでいい」
要は考えることが大切なので、それで答えが変わらなくても全然かまわないのだ。
全く考えないと色々と困ると言うだけの話で。
「じゃあ、いつも通りに?」
「「ああ」」
異口同音に頷いた二人に、うなずき返す。
次の畑への入り方、決定。
「勇吾、頼んだ!」
「おかしいよな何かが!」
「そう?」
「そうだよ!」
勇吾が一番勇吾母に近づくことが多いのだから、たとえちょびっとばかしの危険があろうと、別に全くおかしい役回りではないと思ったのだが。
「おかしいなあ、勇吾がごねるせいで」
「可笑しくない、オレは絶対におかしくない!おかしいのはおまえらのほうだよ!」
どこかで聞いたような台詞を吐いて、勇吾が恨みがましい目をした。
「なんでオレばっかりいっつもこんな…」
「ところであしたのよていだけど、」
「少しはオレの話も聞けよ!」
勇吾が一人愚痴っている間に、話題はさっさと次のものに移る。子供とはいえども世間は厳しいのだ。
「明日は、裏山に行った方がいい」
「…その心は?」
雲間の発言に対して改が首を傾げる。
「もちろん遊びたいんなら、だけど。さすがに今日の明日で勇吾の畑にはいるのはまずい」
「ふんふん?」
「他のところもあるにはあるけど、明日は今年一暑いらしい」
「ほうほう」
改と勇吾が交互に相づちを打つ。いつもはいがみ合っているくせに、こういうときは抜群の連携力を発揮するから不思議だ。
「それで?」
「ぼくらが普段遊んでるところで、明日命の危険を感じないところは裏山だけだ」
いつも遊びにいく場所は、原っぱ、公園、海岸沿いの浜辺。いずれも一本も木が生えておらず、絶好の熱中症スポットだ。
残る場所はと言えば、畑(怪物;別名勇吾母出没の危険あり。捕まったらまず間違いなく殺される)、裏山(ちょっと暗い)の二択しかない。
どちらを選ぶかと言えばそれはもう間違いなく…
「私、畑行きたい」
「間違ってるやつおるがな!」
ガクッと瞬時に力が抜けた面々とは、やはり改は違った。それでこそ、暁のための永遠の突っ込み役。
「あ、暁…」
「わかってるよ」
もう一度説明をし直そうとした雲間に、暁はにっとわらった。
「雲間は、明日は勇吾ちゃんのママがきたら死んじゃうっていいたいんでしょ?」
「失礼だな、母ちゃんはそこまではしないぞ…タブン」
「めっちゃクチャ説得力ない」
ズバンと改に切り替えされて、ダヨナ、ワカッテタヨ、と勇吾はうつむいた。正論過ぎて、いつもならへりくつの一つも切り返すはずの改相手に、しょんぼりしている。
「ウフン、ゲフン!」
「あ、悪い悪い」
勇吾に移していた視線を、全員が暁に向け直す。
「それでね、雲間は勇吾ちゃんママを警戒してるんだろうけど、明日は多分こないと思うんだよ」
「「「へ?」」」
間抜けな声が三つ重なる。勇吾と改、雲間とで合わせて三人だ。
慶利はじっと黙って、試すような目で暁を見ていた。
「どうせ、多分今日帰ったら勇吾ちゃんは怒られるから、でもって昨日の今日でまたぞろ来るとはさすがに思わないと思うんだよね」
「暁、どした?」
目を点にして尋ねたのは、改だ。改だが、他の全員が同じことを思っていた。
「なんか、変なもん食った?」
「一昨昨日の肉じゃがを少々」
「食ってた!」
勇吾が尋ねて改が突っ込む。素晴らしい連係プレーに、思わず雲間は手を叩きそうになった。
「まあ、それはいいんだよ。私がちょっとお腹痛くなればすむはなしだし」
「痛くなるんだ…、そこは無敵の設定にしといてくれよ」
抱腹絶倒で動けない改の代わりに勇吾が突っ込むが、その声には力がない。
今にも笑い出しそうに、横腹がひくひくしている。
「だから、それはいいんだってば」
「はいはい」
「それで?」
「うん、それでね」
暁がにまっと笑う。
少々意地の悪そうなその笑顔は、暁によく似合っていた。
「そんなわけで、明日勇吾ちゃんのママは、こないとおもうんだ。だから、明日も畑行こ!」
「…どうする?」
暁の発案を受けて慶利が問いかけた。全員に問う形は取っているが、実際にこの質問をされているのは雲間だ。
仲間内での担当、というものがある。
慶利は総括、改は察しとツッコミ、暁は提案、勇吾は特攻。今この場にはいないが、絵廉は空気の緩和。
そして、雲間は立案。
何かあったときに計画を立てて、万全の態勢でそれに挑めるよう考える。
慶利や改に頭の回転で勝てるわけはないのだけれど、計画を立てることにかけては雲間の右にでるものはいなかった。
与えられた情報をパズルのように切り貼りして、なにが最善かを確かめる。別にそれが好きというわけではなかったけれど、得意という自覚はあったし、参謀役としての自負もある。
「止めた方がいい」
ちょっとだけ考えて、雲間は首を振った。
「えー、なんで?」
「…ごめん、勇吾」
「は?」
目をぱちくりさせる勇吾にかまわず雲間はちょっと頭を下げた。
「普通の人ならそう考えると思う。暁の判断は正しい」
「じゃあ」
「でも、考えてみてよ。相手は…勇吾のお母さんだぞ」
「………」
暁はなにも答えなかったが、うっとひるんだのははっきり分かった。
他の子供たちも反応は似たり寄ったりだ。普段は優しくとも、怒った勇吾ママは世界一の規格外ピープルに変貌を遂げる。正直なところ、もうあれは人間ではないとあの慶利が断言するほどに。
つまるところ、次にどう動くかなんて全く読めない相手なのだ。
「……じゃあ、とりあえず明日は山に行こう」
凍り付いた雰囲気のままで固まることしばし。恐る恐る慶利が唱えた提案に、子供たちは一も二もなく頷いたのだった。
★
「…でも、暁は私の考えは合ってるはずだっていってさ」
「あー、そうだった。あいつだけでも畑に行くって言うから、みんなで乗り込んだんだよな」
「おれが寝込んでた間に、そんな壮絶なことがあったんだ…びっくり」
いつの間にか、全員で暁の思い出を語っていたこと。
僕は全く気づかなかった。暁は、生き生きしてて、何年後であっても今ここにいるかのような錯覚を覚える。
死んだなんて、とても信じられない。
「…暁、そんなことしてたんだね」
おれ、全然知らなかったや。ちょっと淋しげに絵廉が呟く。
「オレもぜーんぜん知らなかった。多分そもそも、その頃オレ、暁とであってないと思う」
「そうだっけ?」
苑がのんきな告白をして、みんなの目がぱっとそちらを向いた。
「え、そうだったっけ」
「だった」
「うん、だった」
改と慶利が頷き、他はみんな首を傾げる。
「なんでそんな細かく覚えてんだよ、ばけものかよおまえら…」
勇吾が半眼でぼやいた。口には出さないけれど、全員の思い(除く、慶利と改)は今、確かに一つになった。
「確か、その次の次の日くらいに絵廉が復活して、その二日後に苑が拾われたんだと思うけど」
慶利は、ちょっと怖い。
「もうそれ、人間業じゃないからな?」
勇吾が突っ込んで全員がどっと笑った。と、絵廉が首を傾げてはっという表情を見せる。
「あ…」
「どうした?」
改の方へ顔を向けて、絵廉はちょっと笑った。正確には、笑おうと、した。
その顔が、ぐしゃりとゆがむ。
「足りないなって、思った。みんなで笑ってんのに、なんできゃらきゃらした笑い声が聞こえないんだろうって」
暁がいないから、だったんだね。
「絵廉っ!」
絵廉がそういうなり、苑が勢いよく立ち上がった。一瞬前の明るい雰囲気が、あっという間にどこかへ消えていく。苑は、ゆっくり口を開いた。
「言うなよ、そんなこと。おれが泣くだろーが」
絵廉がはっとする。
傍で見ていた僕も、息をのんでその光景を見つめた。
「おれは、とりあえず泣かないって決めてんだ。邪魔すんなよ?」
「…ごめん」
「いいよ、まだ泣いてない」
そういう苑の目がちょっと赤いのは、気のせいだと思うことにした。そうでないと、やってられない。
暁がいないことを認めたら最後、みんなで泣いてしまう気がした。
まだ、泣くわけにはいかないのだ。
「なあ、雲間」
「?」
改の問いかけに顔を向けると、うおっと仰け反られた。…なんで?
「おまえ、幽霊みたいな顔色じゃねーか!大丈夫…じゃないこれ!ちょ、誰か毛布!」
「え?なに言ってんだよ。平気だって」
笑って改を制すつもりだったのに、何故か体が動かない。頭の中心がそうと悟った瞬間痺れたように痛み出した。
『くもまちゃん、くもまちゃん』
ああ、暁が呼んでる。
泣きそうな顔で笑ってる。
「あか、つき…」
「…い、雲間!?雲っ……!!」
周囲がなんだか騒がしいなと思いながら、僕の意識はそこで途絶えた。
★
「暁!?なんだその子!」
「んー、拾った」
「「「「はあ!?」」」」
「名前は、苑ちゃん!」
「「「「「…はい?」」」」」
「雲間」
「…え、ちゃん付けは止めたの?」
「えー?どうだろ。あ、改ちゃーん!」
「…気のせいか」
「ありがとう」
「なに言ってんだよ」
「だって、もうすぐ会えなくなる。だから、そのまえに言っとかないと。わたし、帰るから」
「なに言ってんだ、熱でもあるのか?」
「んん?」
暁。なんで、笑ってくれない?
なに言ってるんだ、暁。会えなくなるなんて言うなよ。会えるよ、いつだってこの場所で。呼べばいつだって飛んできてあげるよ。
「くもま」
「ごめんね」
言うな、ごめんなんて。ごめんは、すべて僕が言うべきだというのに。
言うな。
★
「雲間!」
はっと我に返ると、慶利の血相を変えた表情が目に飛び込んできた。
「…大丈夫か?」
「慶利」
ぼんやりしていて、何が何だか分からない。
「…暁」
暁は?暁。あの子はきっと一番に心配そうな声で『よかった』というはずなのに。
「暁」
ああ、そうだ。
暁は、死んだんだ。僕の、僕らの知らないところで。
「暁。暁。あか、つき…っ!」
「雲間…?」
改の心配そうな声は、聞こえてはいても心に響かない。
暁。君が、いないんだ。もうこの世界のどこにも、君がいない。
そのことがどうしようもなく悔しくて、哀しくて、痛い。
君がいない。君がいたということを、忘れてしまいそうになるんだ。
暁。君が…
「ばかやろう!!!」
「…かい?」
怒声とともに、頬にバシッと衝撃が走った。改に殴られたのだと気づくまでに数瞬かかる。
「おまえ、なに悲劇のヒロインぶってんだ。男だろ!」
「…それは、そうだけど。」
こんなに改が怒っているのを見るのは、多分生まれて初めてのことだった。
阿呆づらをしている僕に、改はなおも怒鳴る。
「そんで、暁が頼んだのか!?泣いて悲しめなんて、言うようなやつだったか!?あいつは」
違うだろ、とそこだけまるで痛みをこらえるような顔で、改は、暁の一番の突っ込み役は言った。
「…違う。違うよ、改。暁は、そんな子じゃなかった…」
ごめん。
そう呟くと、改は仏頂面のまま微かに頷いた。
「だろ。なら、めそめそしちゃ駄目だろ」
「おれ、泣いてねーよ。雲間泣くなよー」
のんきな口調で、そう聞こえるように気を配った口調で、苑が笑った。
本当に、そうだ。暁をこの目で確かめるまでは、僕は、僕らは泣けない。
「ごめん、みんな」
みんなは、それぞれ笑ったり、苦々しい顔をしたり、表情は違ったけれども確かに、頷いてくれた。
「暁を、見に行こう」
慶利がはっきりそう言う。その瞳に揺れはなかった。
「逃げてちゃ駄目だ。ちゃんと、さよならを言いに行こう」
「…しゃーねーな」
のそ、と勇吾が腰を上げる。改と苑はすでに立ち上がっていつでもいけるように態勢を整えていた。
「…やだなー、やだなー…暁とお別れなんてさ」
絵廉だけがぶつぶつと不満げに、というか泣くのをこらえるようにぼやいている。
人一倍いらんこといいの理由は、人一倍不安だからだ。嫌だからだ。
誰より甘えたで末っ子ポジションだった苑の性格は、十年間たっても変わっていない。
それが分かっていたから、僕はちょっと苦笑して促すことができた。
「…だいじょうぶだって。お別れが嫌なら、またあいにいけばいいだろ。ほら」
「…毎日行くよ」
「暁だから。絶対きゃっきゃきゃっきゃ喜ぶって」
「…そうかな」
そうだと頷くと、絵廉はようやく立ち上がって、ちょっとだけ笑った。
その肩が震えているのを、僕は気づかないふりをして外へと歩き出した。
★
「暁が死んだのは、十年前」
歩く道すがらに、何があったのかを話す。
話しながらでも歩かなければならないので、足に意識を集中させれば涙腺が緩むことはなかった。正面から受け止めるには、あまりにも重い話だ。みんなそれぞれに何かをしながら話を聞いている。
「あの辺が立ち入り禁止になったことを、よそからきてた暁は知らなくて。」
僕らの村は、今はもうない。
十年前の夏、ダムとなって水底に沈んだ。
「立ち入り禁止ってあったはずなんだけど、気づかなかったんだろうと思う。暁は中に入っちゃって…」
それから、何があったのかは定かではないのだという。
「崖の下で、見つかったって。打撲が何カ所かあったから、一応転落死ってことになってるらしいけど…雨が降ってたから、体温を奪われたんじゃないかとか、色々言われてて、はっきりしたことはわかってないんだ」
暁は、僕らとよく遊んでいたあの畑で、倒れていた。空を見上げるような態勢で、口元は微笑んでいるかに見えたそうだ。暁はよそから遊びに来た子だったから、もうすぐ帰ると言うことは既に聞いていた。会えなくなったあとに寂しさは感じたけれど、きっとまたどこかで、笑って過ごしているんだろうと。
「だけど、それは全然違った」
暁は、たった一人で彼女の時を止めた。
「そんなこと誰も知らなくて、母さんが知ったのも偶然だったらしい」
それだけだよ。
そう、無理矢理締めくくると自分の顔が泣きそうに歪んだのが分かった。
「…一人で」
「うん」
「雨、ふってて」
「…うん」
改と、勇吾がぽつぽつと尋ねてくる。
「雲間。」
「…ん?」
慶利が、強い目で僕を見ていた。一言一言区切るようにして、言う。
「ありがとう、教えてくれて。おれは、ちゃんと聞けてよかった」
「…な、なに言って」
「約束した」
慶利は、ちょっと笑った。
「暁と、約束した。隠し事はしないって」
ざっと脳裏にあの日の光景がひらめく。暁は、笑ってそう言ったっけ。
「……うん。そうだね」
涙か溢れないように、僕はそう素っ気なく頷くので精一杯だった。
みんなも、同じような顔で、まるで子供のように頷いていた。
★
ずしゃっとすごい音がして、いままでふんでいた足場がなくなった。
「…あ」
悲鳴を上げるまもなく、小さな体が宙に放り出される。
ふわっと体が浮かんだ気がしたのは、気のせいだったらしい。
ものすごい衝撃を受けてぼんやりとかすむ頭で、暁はそう思った。
「…く、もまちゃ…かいちゃん…」
慶利ちゃん、と呼ぼうとすると、ぐっと胸に痛みが走った。こほ、と咳き込む。
ああ、このまま死んじゃうのかな。
向日葵のような少女は、微かに笑う。
「けい、り、ちゃん。ゆうごちゃん。え、れんちゃん…」
切れ切れに紡ぐのは、大好きな仲間一人一人の名前。
「そのちゃ…ん」
涙が溢れて、頬を伝った。暖かさを感じたのもつかの間、すぐに涙は雨と混じって冷たくなる。
あいたかったな、と思った。
生まれたときからずっと一緒にいた家族じゃなくて、この夏、たった何週間かの友達の、彼らに。
「くもま。かい。けいり…」
途切れることなく呼び続けたかった。
自分の命が消えてなくなるその瞬間までずっと、かれらを呼んでいたかった。
「ゆうご、えれん。その。…くもま」
何度も、何度も。
曇天が少しずつ晴れゆく間も、目がだんだん霞んで景色が薄くなっていっても、暁はずっと彼らを呼びつづけた。
ありがとう、と言いたかった。きっとみんなは笑ってそんなのいいよ、と言ってくれるだろうけど、それでも言いたかった。
ありがとう、仲良くしてくれて、一緒に遊んでくれて、笑ってくれて、――暁を好きでいてくれて。ほんとに、ほんとに。
ありがとう。
「…だいすきだよ」
自然にふわりと笑みが浮かんで、幸せな気持ちで暁は目を閉じた。
それきり、彼女はもう目を開けなかった。
★
ここだよ、と言う声に力がこもらなかったのは、ある意味当然のことで誰もそれを責めたりはしなかった。
「………なんもねーな」
ぼそ、と勇吾が言った。
暁が僕らが過ごした日々などまるで有りはしなかったかのように、そこにはもうなにもなかった。
草が、木が。ただ、所在なげに立っていた。
否。
「…雲間」
慶利が、血相を変えて僕を呼ぶ。改が隣ではっと息をのんだ。
「これ…」
―――――暁は、確かにここにいた。きっと彼女がここにいたときは、雨で土が柔らかくなっていたのだろう。指で書いたのだろうか。
たどたどしい文字で、何事かが綴られている。それを呼んで、僕らは今度こそ息を止めた。
『くもま、かい、けいり、えれん、そのへ。
ありがとう。いうのがおそくなって、ごめんね。たのしかったです。いまはちょっといたいけど。わたしは、みんなとあえてよかった。てんごくにいったら、みんなのことをまっさきにじまんします。
だから、さいごのおねがい。
あかつきのこと、わすれないでください。ずっと、あんなともだちがいたなっておもってください。ありがとう。またね』
ひゅっと息を吸う音が聞こえて我に返る。微動だにしなかった改や慶利も、その音でぱっと顔を上げた。
「絵廉!」
「…だい、じょぶ」
絵廉が、体をくの字におっている。具合が悪くなったのかと駆け寄ろうとして、そうではないと気づいた。
「………ッ、ッッ!!!」
口元を押さえた手のひらから、殺しきれない嗚咽が漏れる。
絵廉は、号泣していた。
堪えきれないとでもいうように、ぎゅうっと口を押さえて、泣いていた。
苑がいないと思って後ろを向くと、小刻みに震える後ろ姿がある。
いつの間にか、慶利も、改も、みんなが泣いていた。天を仰いで、身も世もない慟哭が響き渡った。
泣くなよとは、言えなかった。たった今暁がいない確かな証拠を突きつけられて、泣かないのは無理なことだ。
そこまで考えて、気づく。
どうして僕は、泣いていないのだろうかと。
「あ、れ…?」
声が、かすれていた。喉に手を当てようとして、目を見開く。
涙が伝っている。
幾筋も、幾筋も、まるでずっと泣き続けていたかのように。いや、かのように、ではない。泣いて、いたのだ。
僕はずっと泣いていたのだと、今さらながらに気づく。
「雲間」
慶利が、笑おうとして失敗したみたいな顔で僕に言う。慶利の頬を流れる涙は、なんだか格好いいなと、ばかみたいなことを考えた。
「もう、いい。よく耐えた」
許されたのだと思った。
泣くことを、暁がいないと知ってから初めて、許されたと。
「―――――――――――――」
不思議と声は出なかった。
ただ、許されたという安堵と、暁を悼む気持ち
と、純粋な悲しみとが混じり合って、青い夏の空へと消えてゆく。
……聞こえてるかな。ねえ、暁。どうか、この声がキミに届いていますように。
暁、僕らの太陽だった君に、いっぱいの感謝を捧げます。
どうか、君の眠りが安らかなものでありますように。どうか、君が僕らの太陽であったように、僕らも君の支えであれましたように。
そして、願わくば。
「真っ青だな…」
空を見上げて呟いた改に、頷く。
今日のこの青い空が、ずっと君のものでありますように。
向日葵のような彼女が大好きだった、この抜けるような青空が、ずっと彼女のものであればいい。
心の底から、そう、思った。
変わらない青空のした、響く僕らの慟哭を、流れる雲は黙ったままじっと受け止め続けてくれていた―――。
その後。
みんなで泣きながら僕の家に帰って、その日はもうずっと泣き明かした。
慶利が初めて聞くような暴言を吐いたり、勇吾が大人びたことを言ったり、僕らの間には十年間の溝があることを、それぞれが感じた。
だけど、だからといって僕らのなにかが変わるわけじゃない。
あの頃のようにばか騒ぎをして、変なことを言って笑い転げて、言葉の隙間から暁を思い出して泣いて、その繰り返しだった。
暁は、きっとこの光景を見て笑っているだろう。そうであればいい。
もう戻ってはこない十年間を、そうやって空の上で笑って過ごしてくれていれば。
僕らは、それだけで泣いてしまうほどに幸せだから。