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蛍のアカリ

作者: 秋乃雨月

数日前に土の中で羽化した私は、しばらく土まゆの中で休んでいた。

 今夜は、初めて土の中からはい出た。

外の世界は辺り一面真っ暗で、静かに川の水が流れる音がしていた。そして私は頃合いをみて、暗い夜空の中に飛び立った。

 川の水面(みなも)に沿って”スゥー”と、飛んでいた私が最初に見たのは、仲間たちの優しい淡い光だった。

 それはとても美しく黄色く光っていた。その光はみんな同じ間隔で灯りを放っていた。やがて私もその光の間隔に同調して、仲間と同じ光を放った。

 私の名前はゲンジ蛍の「アカリ」。一年前に、ここの日陰にあるコケに母親が産卵してくれた。きっと去年はこの土地で、私の母親も美しい光を放ちながら、自由に舞った事だろう。

 私には兄弟もいる。しかし、多くの兄弟が同じ年に成虫になるわけではない。私は早い方だった。同じ幼虫になったものでも、餌などの条件がそろわないものは、今年ではなく来年のこの時期に、成虫として羽ばたくことになるかもしれない。

 羽化した私はすこし上の方を飛んでみた。すばらしい景色が見えた。

 あたり一面に淡い黄色い光が放たれて、水面はそのささやかな灯りをわずかに反射させている。 そして「スゥー」と音もなく飛んでいる光のショーのバックミュージックは、蛙たちの大合唱だった。 

「ゲロゲロ」

「こんばんわ。蛙さん」

「あー、こんばんわ。新人さんかい?」と、蛙の親分みたいなのが応えた。

「はい。でも、にぎやかな大合唱ですね。ちょっとうるさすぎませんか?」

「そうかな?この時期はこのぐらいの鳴き声がちょうどいいだろ。おまえさんたちもこのBGMで、光のリズムが取り易いんじゃないのかい?」

「蛙さんたちの鳴き声と、私たちの光のリズムは関係ないけど、人間たちには風情があるかも知れないわね。」

 そう言いながら私は、蛙さんの集団から飛び去った。

 あたり一面を飛び回った私は、静かに元にいた場所に止まった。そして藪の中で少し休憩することにした。

 私たち雌は雄ほど飛び回ることはない。川面に近い笹の葉の先で光を放ちながら、雄の来るのを待っている。次の世代に繋ぐ命を一緒につくってくれるパートナーと一緒になること、それが私の使命。でも、もう一つ重要な使命がある。それは、この時期になると、私たちを観賞しに来る多くの人間がいる。その中には、心が非常に疲れきっていたり、何か悩みのある者達がいる。その人間の心を、この灯りで癒してあげることが、私たちが神から与えられた使命でもあるのだ。

 私たち蛍は雌よりも、雄たちは概ね十日ぐらい早く羽化し、夜空を飛び回っている。人間たちが「蛍がそろそろ見頃になりました。」という頃に、私たちが羽化する。

 今夜も、疲れた心を持った人間が私たちを見に来る事だろう。

 成虫となった私たちの命は、あと一週間程度。

 その間に食事を取ることはしない。少しの露を飲み、パートナーと出会い、そのパートナーと交尾をし、産卵をする。そして人々の心に安らぎを与える。やることがいっぱいあるんだ。

 ふと、上を見上げた。空には私たちと同じような光の瞬きがあった。でもそれは私たちの光より弱く、そして線も作らない。つまり動いてはない。

「あれは何?」と思った時、別のゲンジ蛍の雌が私の隣にやってきた。

「どうしたの?不思議そうな顔をして」と彼女は言った。

「あの、空の光は何?私たちの仲間?」

 私は隣にとまった雌の蛍に聞いた。

「あれは星というものよ。私たちのような生き物ではないのよ。それにずっと遠くで光っているんだって。だから弱いの。それに一年中夜になると出てるって聞いたわ。雨や曇りの日以外わね。」

「そう、星・・・。あれもきれいね。」

「そうね。だから私たちが光を灯すこの時期は、地上も空もきれいになるわね。人間が喜ぶのもわかるわ。」

 私は、この命が与えられた約一週間精一杯生きていく事を誓った。

「私はレナ。よろしくね。あなたより二日先輩よ。」と、その先輩ホタルは言った。

「私はアカリ。こちらこそ。」

「あっ、月が出てきたわ。今日はいい雄とは出会えそうもないわね。

「えっ、月?!」

「そう、月よ。あの山かげから登って来た、白く輝くもの。あれが強い光をだすのよ。でももう満月をすぎたから、少しはいいけど。」

 レナの向いている方を見ると、円が少しだけかけたような、白く輝く光が出ようとしていた。

「あれが月・・・。」

「あの光に惑わされて、わたしたちはお互いを確かめあう光を、うまく認識できないこともあるの。」

「こんな日でも、人間達は私たちを見に来るの?」

「そう・・・みたいよ。」

 いくらレナが先輩と言っても、二日先輩なだけだからわからない事も多いようだ。

 その時、

「そうじゃの。人間もいろいろ都合があって、雨の日だろうが、満月の日だろうが、来る奴は来るようじゃ。」と、突然私たちの上から話しかける者がいた。

「誰?!」

「わしか?わしはフクロウじゃ。ここには数年前からおるんでな。いろんな事を知っておるわい。」

「フクロウさん?鳥なの?私たちを食べるんじゃないの?」

「食べやせんよ。失礼だがお前さん達、ちと臭いでの。」

 本当に失礼である。レディに向かって臭いとは。確かに外的から身を守るために、ちょっと臭う粘液は出しますけど。

「それよりクモの巣に気をつけなはれや。あれがあんた達の体に絡むとどうにもならんからな。短い命じゃ。十分に天寿を全うしてくれ。そしてワシの目も楽しませてくれよ。」

と、少しフクロウさんは笑った。

「それから、他に気をつけないといけないのは、人間の乗り物にも気をつけるように。」

「乗り物?」

「そう、乗り物。大きな道がある所には人間は鉄で覆われた乗り物に乗ってやってくるのじゃ。それはいいが、たまにその乗り物の一部が光ったり、点滅したりする。特に点滅じゃ。雄達は、それを雌と勘違いして近づいて行くことがある。あんたたちにとって強い光は迷惑であり、繁殖をじゃまするじゃ。」

「なんか、怖いね。」

 私とレナは不安そうに顔を見合わせた。

「だから、あんた達も大きな道沿いじゃなくて、もっと川の上流に行ったがいい」。

「それじゃ、人間達に見てもらえないじゃない。」

「そんな事はない。多くの人はあんた達の光をただ観賞するだけかもしれないが、本当に心の安らぎを求めている人たちは、たくさんの見物客から離れて静かに見ていたいものらしい。なんだか自分の心と向き合うだとかどうだとかの理由で。わしにはよくわからんがの。」

フクロウさんは少し首をかしげながら、私たちに上流に行くように勧めてくれた。

「ありがとう。フクロウさん。またわからないことがあったら聞くね。」

「おー、そうじゃな。わしも上流にはしばしば行くのでまた会おう。」

 とフクロウさんは大きな翼を”バッサ、バッサ”と羽ばたせながら飛んでいった。

「うわ!すごい風。吹き飛ばされるかと思っちゃった。」

 二人は、草の葉に必死でしがみついて言った。

「レナも物知りだけど、フクロウさんはもっと物知りね。」

「ううん。わたしのはフクロウさんの受け売り。みんなフクロウさんから教えてもらったの。」

「そうなんだ。」

 本当に受け売りではあるが、確かにそうかもしれない。わたしはもっと上流の川の草むらで、雄たちを待つ事にした。

 上流に行くと、多くの仲間たちが歓迎してくれた。そこには無数の仲間達がいてみんな同じリズムで光を放った。そして飛んでいるもの達は美しい光跡を作っていた。

「ねえ、レナ。すごいわね。」

「そうね。私も下流の方ばかり飛んでいたから、上流がこんな風になっているなんて思わなかったわ。」

 そんな素晴らしい光景を見ながら私はふと考えた。

「でも、人間たちの悩みって何なのかしら?」

「さあ、そこまではフクロウさんに聞かなかったわ。」

「寿命もものすごく長いし、食べ物に苦労しているわけでもないし…。う~んわかんないなぁ。」

「たぶん、わかると思うわ。人が悩みや癒しを求めてくるときは、声に出さなくても私たちはわかるようになってるって…」

「…って、フクロウさんが云ったの?」

「そう。」

私とレナはお互い顔を見ながら笑った。

そして、しばらくすると誰かがこの場所にやってきた。若い男女のようだ。どちらかと云えば女の後を男がついてきているようだ。どんな悩みなんだろう。それとも心が疲れているのかな?でも、あんなに若いから心が疲れているという事はないだろうけど、ちょっと不思議な感じがした。

「瞬君。こっちだよ。」

 女の方がそう言った。

私たちは光の帯を引きながらその若い男女の心の中を聞きたいと思った。

そして私の仕事はスタートした。


    1・淡い初恋 八木瞬


 今日は、梅雨空が一層恨めしい気がする。

 さっきまで降っていた雨は止んだが、やはり空は曇天模様だった。この湿った空気が、僕の感情を余計焦らすような気がした。

 校舎から少し外れた木造の部室の中に僕はいて、彼女はその部室から表に出るところだった。

「泉!ちょっといい?」

「なに?」と、同級生の泉陽香が僕の方を振り返り、彼女のセミロングの髪が、シャンプーのテレビコマーシャルのようになびかせながらこちらを向いた。

 僕、八木瞬は高校二年生。勉強はそこそこできるが、いわゆるいい大学に進学となると今のままの成績ではちょっと厳しい。

 同級生の泉陽香は、クラスは違うが僕と同じ演劇部で、女子としては何でも気兼ねなく話ができる数少ない一人だ。

 今、僕たち二人以外は、まだだれも来ていない演劇部の部室で、泉は発声練習のために外に出ようとしていたところを呼び止めた。

「あっ、いや、ちょっと。」

「どうしたの?」と、言いにくそうにしている僕に対して、彼女は穏やかに、入り口に立ったままこちらの方を向いていた。

 僕は意を決する気持ちで言った。

「同じクラスの最上さくらのことなんだけど。泉と幼なじみだろ?」

 彼女は「ん?!」って云うような顔をしたが、すぐさま、

「幼なじみっていうか、そうね、幼稚園、小学校、中学校、高校とずっと一緒よね。クラスが違う時もあったけど、だいたい一緒だったわね・・・それが何か?」

 彼女は上を見つめながら、右の人差し指を顎の先にあて思い出す素振りをした。

「いや、まあ、その、最上って彼氏とかいるのかな?なんて思って・・・ハハハ。」

 なんかバレバレな空気に、内心「しまった!」と思った。

「そんなの自分で聞いてみれば?そうね、今はいないみたいだけど、どうして?瞬君、さくらの事気になるの?」

 泉は僕の顔をのぞき込むように言った。

「いや、そういう訳じゃないけど・・・。うん、わかった。それだけわかればいいから。」

 それを聞くだけなの事だが僕はものすごく恥ずかしいかった。また同時になぜだか少し後悔もした。

 しかし、この泉には、なんとなく他の人には相談できないような事でも聞ける間柄だし、最上とは幼なじみと知っていたので、他の人に聞く余地もなかった。

 また、彼女は穏やかで優しい性格だが、芯の強い感じもあった。そして、昨年の演劇部の大会では、彼女と夫婦という設定で舞台もこなしていたので、同級生・同期というかちょくちょく会っている従兄弟のような感じもしていた。

 一方、同じクラスの「最上さくら」は、ぱっと見て目がクリッとしていて可愛いし、ショートカットでボーイッシュな感じで、性格も明るい女子だ。いわゆる"華"がある。なので男子生徒からも人気があった。しかし、そんな事は鼻にもかけず、バスケットボール部で毎日汗を流す姿が、一層好感を持てた。そんな彼女に僕は特別な好意を寄せていた。

「とりあえず彼氏はいないか・・・。」と一人つぶやきホッとした。

「それはそうと、瞬君も明日は三者面談でしょ。」と泉は、さっきの話は関係ないという感じで僕に言った。

「あっ!そうだ。忘れてた。」

「いい気ね。で、どうするの進路?」

「どうするって、まあ、とりあえず進学かな?大学へ。」

「へぇ~。やっぱり、そうなんだ。瞬君頭良いもんね。」

「いや、そんなに頭は良くないけど。まだ二年生だろ。希望は上の方にしておくっていうか。」

「いい大学?」

「まあ、希望だけは国立理系で。」

「やっぱりすごいね。」

 本当は全然すごくない。あくまで希望なのだから。

「泉はどうするの?」

「わたしは、就職かな?勉強するよりお金を稼ぎたいから。」

「現実的だね。」

「そうかなぁ~。でも明日の面談では瞬君、『国立大学に行きます』って云う事で話し合うんだ。」

「そこがね、微妙だけどね。」

「なんで?」

「だって、そこまでの成績じゃないし。また先生が、親にどうこう言うんだろうな?『このままじゃダメですね』とかなんとか。」

「そりゃ言うだろうけど、でも瞬君ならなんでもできそうだよ。」

 そんな事を話しているうちに、他の部員たちも集まり始め、泉は他の女子部員達に誘われて、発声練習のために外に出かけて行った。


 今日の演劇部の練習は、体育館の壇上、つまりステージでそれぞれの俳役の立ち位置と立ち回り方を決めた。これは三ヶ月後にある、高文連の大会に向けての練習の為である。

 高文連の大会はうちの高校であるわけではないが、ステージ大きさは概ね同じようなものだし、ステージでの位置関係は予め決めておかなければならない。

みんな台本を片手に持ちながら、役者担当は小さい声でボソボソと台詞を言いながら、自分の位置を決めていく。

 照明担当の僕は、その役者にどのように照明を当てるのかを考えてマーキングしたり、背面のアッパー・ロアホリゾントの色を、舞台監督をつとめる三年生と打ち合わせをしながら決めていた。

 舞台の下の体育館のコートでは、バスケットボール部とバレー部がコートを分けて、それぞれの練習を、男女分に分かれてしていた。みんな夏の大会に向けてがんばっているようだった。

 そのバスケットゴートの中から、僕は最上さくらを他人には悟られないように目で探していた。

 多くの部員たちが練習している中でも、簡単に最上さくらを見つけることはできた。そしてその姿を見つけると僕の心は少し熱くなった。

そこで見つけた彼女は、ユニフォームがピンクのタンクトップに、同じ色のハーフパンツが良く似合っていて、その上一足一挙動が非常に美しいように見えた。でも、それを他の人に気づかれてはまずいので、演劇部の部員達と一生懸命打ち合わせをしている振りをした。 

それでも心は『さくら』に向いており、時折彼女を見つけては胸をときめかせていた。

 照明位置の確認をしてはさくらをさがし、台本で打ち合わせをすればさくらをさがして、いったい僕は、なにをしているんだろうと思った。

 放課後の二時間の練習はあっと言う間で、僕の心の中での『さくら』への応援は、今日は終了だ。

 練習後、部室に引き上げる為、部員みんなで体育館からの渡り廊下を歩いていた。

その時、僕の隣にいた泉が

「さくらの事気になるの?」

と話しかけてきた。

 まさか、気づかれていたのか?しまった!と思い、慌てて冷静を装いながら

「えっ、なんの事?」と、とぼけたふりをした。

「だって、瞬君、ずっとさくらのこと、目で追ってたよ。」と、泉は少しからかい気味に、そして意地悪そうに言った。

「違う、違う、そんな事ないよ。」と僕は彼女の言葉を制した。

「それより明日は進路相談だから大変だなぁ~」と、独り言のように言って、話を逸らしながら早足で部室に向かった。


「瞬。明日の進路相談、なに着ていこうかしら。」

「はっ?別に母さんのファッションショーじゃないんだから、何でもいいんじゃない。普通でいいよ。」

「女はね、そういうわけにはいかないの。それよりもあんた、もう進路は決めてるの?」

僕と母親の家での会話である。明日の進路相談は母親が来る予定だ。この年で母親っていうのも気恥ずかしいが、銀行員の父親は仕事で来れないっていうので仕方ない。

親には一応国立大学へ進学とだけは伝えているつもりでが、成績の事もあって詳しいことは何も言っていない。

「まぁね、夏休み前にキチンと進路を決めて、夏休みにはしっかり勉強しないとね。」

「そうだね。」と、僕は気のない返事をした。

 今の僕はそれどころじゃなかった。僕の頭の中は最上さくらのことでいっぱいだった。


「八木君のお母様ですね。初めまして。担任の(あま)井澤(いさわ)です。」

 母親と担任の教師は机を挟んで深々と頭を下げた。母親の隣にいた僕もつられてちょっとだけ頭を下げた。

 担任の天井澤先生は、ちょっと気の強そうな感じの女性の先生である。

 今日は、三者面談があるからだろうか、きちんとしたパンツスーツを着ている。普段はもう少しラフな格好をしているのだが、やはり教師でも親と会う時は構えるのかなと思った。天井澤先生は、年齢は三十歳をちょっと過ぎたぐらいだと思うのだが、そのしっかりした雰囲気からもう少し年齢は上に見える。どちらかと言えば和風美人なんだろうが、未だに結婚していないのは、その気の強さからではないかと、勝手に想像していた。

「ところで八木君の進路希望は国立大学の理系ですが、お母様はご承知ですよね。」

「えっ、進学とは聞いてましたが国立ですか?経済的には助かるんですが・・・。」

「俺、国立志望って言ってたじゃん!」

「そうだったかしら?」母親には、何回も『国立』と言っていたし、そもそも「どうせ大学に行くなら国公立を狙いなさい。」と言っていたのは、親の方ではないかと思った。

「それで先生、どうですか?行けそうですか?」

 母親は心配そうな顔で、先生に尋ねた。

「そうですね。大学にもよるでしょうが、国立となりますとはっきり言いまして今の成績ではかなり厳しいですね。しかしまだ二年生の一学期ですし、挽回しようかと思えばできなくはないですけど。」

「けど・・・?」

「まあ、かなり頑張りが必要って事です。特に英語です。私が英語の教師だからと言うわけではないのですが、理系といえども、特に国立となりますと英語は必須です。頑張ってもらわないと…。」

 だいたいこのような展開になるとはわかっていたものの、あまりいい気持ちではない。

 その後、生活態度や部活の事など、短い時間によくもまあたくさん話すことがあるもんだと感心した。しかし本論は進路の事である。

 「先生はいいよなぁ。生徒の文句を言ってりゃいいもんな。」と半ばふてくされながら、黙ってうつむいていた。

「あ、お母さん。もうあまり時間がないので最初の話になるのですが、進路のことです。もちろんこれから八木君ががんばって国立の理系に行ければそれが一番なんですけど、もしもの事を考えて私立の理系も視野に入れていただけたらと思います。」

「でも、私立の理系となるなるとお金がかかりますでしょ?」

「そこは奨学金制度とかありますので、もしそのようになればまたご相談に乗ります。」

 なんだかんだと言って、三十分もの面談だった。また帰ってから父親を交えていろいろ言われるのかなと思ったら、少し憂鬱になってきた。

 面談が終わり、教室を出ると母親は「お買い物に行ってからうちに帰るから」とそそくさと行ってしまった。

後ろ向きで手を振る母親とは反対の方向を向き、僕はとりあえず部室に向かった。

他の部員はもうすでに昨日練習した体育館の舞台に行ったらしく、部室には人気がなかった。僕はもう古くなっていた部室の戸を「ガラ」と開けると、泉が椅子に座って台本を確認していた。

「えっ、泉。もう面談終わったの?」

「うん。なんか簡単に終わっちゃったよ。」

「早かったんだね。どのくらいで済んだ?」

「十分くらいかな。」

「早や!」

「瞬君は?」

「俺?結構かかったな。三十分ぐらい。」

「ちょっと長かったね。」

「うん、まあ。進路がね。」

「そう。瞬君、難しい大学を希望だもんね。私は就職だし。今は前ほど就職も厳しい時代じゃないから、あまり話すこともなかったみたい。」と、泉は淡々と言った。

「泉は優等生だしな。親も楽だろうな。」

「優等生じゃないよ。確かに問題を起こすような子じゃないけど。それにわたしだってうまく行かないことがいっぱいあるしね。」

「うまく行かないこと?」

「そりゃそうよ。思っていることがみんなうまく行けば、そんな楽しいことないでしょ。」

「そりゃそうだ。」

 僕は、泉の前の椅子に腰を掛けながら、彼女の言った「思っていることがみんなうまくいけばそんな楽しいことはないでしょ」という言葉を噛みしめて、最上さくらの事を考えていた。さくらとうまくつき合えたらこんなにうれしいことはない。しかし現実はそうそううまく行かないよな…と。

 

 今日の部活は我々が進路相談をしていた事と、舞台での打ち合わせが長引いたため少し遅くなった。僕は体育館の舞台での練習と打ち合わせが終わって、部室に戻るとそのまま帰るつもりでいた。しかし、カバンを教室に置いていたのを思い出して、一人で自分の教室に戻った。

 教室に戻る廊下を歩くと、日が長いこの時期は放課後の遅い時間でも明るいのにあまり人気がなく、そして静かだった。それはいつも賑やかな校舎とは違い、何となく感傷的な感じがした。

 そして、だれもいないと思っていた教室に入ろうと、取っ手に手をかけて戸を開けると、僕は教室のある一点に目を奪われて、一瞬足を止めてしまった。

 教室の窓際に女子が一人だけいて、自分の机で帰り支度をしている所だった。

それはあの『最上さくら』だった。

 放課後の遅い時間の教室。最上さくらと僕の二人だけの空間。

 緊張した。僕は教室に入るのを一瞬ためらった。

 そして瞬時にいろんな事が頭の中を駈けめくった。

「今がチャンス!」「何がチャンスなんだ。何も言葉を用意していないじゃないか。」「今は無難にして次回のチャンスを待つ」「次回ってあるのか?」頭の中では様々な意見を持つ自分が討論していた。

二人だけで話せる唯一のチャンスでもあるが、僕としてはこのようなシチュエーションを全く想定していなかったので、心の準備は全くしていない。

なので、もし次回このようチャンスが必ず巡って来るならば、次回にしたいくらいだった。

 しかし、このようなチャンスが僕の在学中に訪れる可能性は極端に低い。

 僕は一旦止まった足を、何事もなかったかのように踏み出し、意を決して教室の中に入っていった。

 すると『最上さくら』のほうも僕に気づいたようだった。

「あら、八木君も遅かったのね。ごくろさま。」

 先に声をかけてくれたのはさくらの方だった。相変わらずハキハキとした澄んだ声だった。

「う、うん。ごくろうさま。最上さんの方こそ遅くまで頑張っているね。」

 僕は、やっとの思いで言葉を返した。

「ううん。わたしはちょっと練習のあとに友達と話し込んじゃったから、それで。」

「そうなんだ。」

 せっかく話してくれているのに、次の会話が続かない。

 今は一年で一番日が長い時期だ。窓際にいた最上さくらの制服姿は、まだ明るい日の光をあびて、白いブラウスが赤い陽に染まって一層輝いて見えた。

「八木君も部活一生懸命やっているよね。いつも舞台の上で打ち合わせみたいな事をして走り回っているよね。だって、たまに見ているもん。」

「そう。ありがとう。」と、僕はさして感心もなさそうに答えた。しかし内心は全く違っていた。

 最上さくらが、僕の事を見ていたなんて思いもしなかった。見てくれているだけで最高にうれしかった。

「今、照明効果の担当だから、いろいろ立ち位置とかを見ないといけないんだ。去年までは役者だったけど、照明みたいな裏方の方が俺には似合っているみたい。それより最上さんも、一生懸命にバスケットやっているよね。たまに見ているから。」

 僕の声は少し震えてた。このことは彼女に伝わってしまっているのだろうか?とにかく平静を装い、言葉を選びながら話した。

「たまに?ありがとう。ふふ。」

 彼女は少し笑って見せた。本当はたまにじゃない。いつも見ているのだ。

今、この時この瞬間。最上さくらと僕だけの空間。今はいい感じになってきたと勘違いをした。「告白するなら今か!」いや、勘違いとかではなくて頭の中が真っ白になってしまい、判断力がなくなってしまったのだと思う。

 お互い少し沈黙した後、

「あの、突然でごめんなさい!最上さん。俺と今度、映画でも見に行きませんか!」

僕は唐突の割には、やっとさくらに聞こえる程度の声で言った。

 再び時間も空気も止まった。彼女は無言だった。僕は、まだ日中の暑さが残るこの教室で凍りついた。

 少しの期待と不安、そして大きな後悔の念が残り、心臓の鼓動はさくらにも聞こえるのではないかと思うほど、バクバクしていた。手にはびっしょり汗をかいていた。

 時間にすれば数秒だったかもしれない。しかし長い時間が止まったかのように思えた。

 しばらくして

「それは二人っきりでっていう事?」彼女の声はさっきと違って、どことなく声のトーンが落ちていた。

 僕は小さく頷いた。

「ありがとう。・・・でも私、他に好きな人がいるの。だから二人きりっていうのは…ごめんなさい。でも、これからも仲良くしてくださいね。」

 彼女のそのやんわりとした断り方は、僕には非情な通告であったが、そのかわり僕を傷つけまいとする彼女の気遣いも強く感じた。

 彼女は僕の方を見ずに教室の隅の方を見つめて言った。僕も彼女の顔を直視することができず、表情を読みとることはできなかった。

 そして再び時間が止まった。

「あ、いや、じょ、冗談だよ。冗談。ごめんね、変なこと言って。じゃ先に帰るね。お疲れさんでした。」

 最上さくらに今の僕の気持ちを察して欲しくはなかった。そしてこの告白によって明日から、同じ教室で会うのが気まずくならないようにとも願った。

 僕は、最上さくらの言葉を待たずに足早に教室を出た。

 しかし、心はズタズタだった。そしてなんであんな事を突然言ってしまったんだろうと、自分の浅はかさを深く後悔をしていた。

 帰りはどう歩いて帰っていったかは覚えていない。

 うちに帰ると、母が今日の面談について何か言ってきたが、聞く気にもなれない。

「瞬!聞いてるの?」と母の声。

「聞いてるよ。今日は疲れたから。」と僕は二階の自分の部屋に閉じこもった。

 その日の夕食は食べなかった。

「なんであの時、あんな事をいったんだろう」と、後悔の言葉が頭の中をぐるぐると回っていく。なにか胸の奥に鉄の重りを抱えているように気持ちが沈んだ。

 しばらく目を瞑り、そして起きて暗い部屋の中を見渡し、また目を瞑る。それを何回か繰り返していた。

 ふと、スマホに手をやった。

 特に新しいメーッセージもないのだが、なぜかアドレス帳を見て、泉のところで手が止まった。

 なにも考えずに電話を掛けた。

「トゥルル、トゥルル・・・はい、陽香です。」

 泉が明るい声で電話にでてくれた。

「あっ、俺だけど。遅くにごめん。」僕は沈んだ声で言った。

「どうしたの?瞬君。」

「別になんでもないけど。」

「そう。」

 こんな時間に突然電話をかけてきて、何でもないわけがない。それは泉も十分わかることだ。でも、彼女はそれ以上のことはなにも聞かなかった。僕は彼女に今日の面談について再び話した。さっき学校で面談の事は話したばかりなのに、彼女はいつものように静かに聞いてくれた。泉には最上さくらの事は言えなかった。

 僕がひとしきり話をした後、少しの間無言になった。再び話を切り出したのは彼女の方からだった。

「実はね。今日の面談で私も少し滅入ちゃってね。」

「えっ、何かあったの?」

「就職を県内でするのか、県外でするのか、っていう事でね。親とちょっとね。」

「泉はどっちがいいの?」

「私は県外って言ったんだけど、親は県内で、それも自宅から通える方がいいていうのね。まあ、親の気持ちも分からないでもないけどね。」

「そうなんだ。」

「だって、県外で暮らせるなんてこんな時ぐらいしかないじゃない。なんて思って。どうせ年をとれば帰ってくるかもしれないしね。」

「そうだね。俺も大学は県外になるだろうから。」

 また、少し無言に時が過ぎた。

「ねぇ、瞬君。今から気晴らしに蛍を見にいかない?」

「蛍?」

「そう、蛍。今すごいんだって。阿香川の上流の方。あそこに少し広場があるでしょ。わたしの家から自転車なら十分ぐらいなんだけど、一緒に行かない?」

 普段、大人しい彼女がさらに明るい声で僕に言った。

 泉と蛍鑑賞か。別にそれも悪くないなと思い。

「わかった。泉はすぐに出掛けれるの?」

「うん。大丈夫。」

「じゃあ、現地で会おうか。」

そこは、僕の家からは自転車で十五分ぐらいのところにあった。

僕は、すぐに家を出て彼女の指定した阿香川の上流に向かった。


 阿香川の上流の広場には、すでに何人かの家族連れやカップル、写真愛好家らしき人がたくさん集まっていた。

 広場には街灯が一つ灯っていたが、少し離れると蛍の光を妨げない為か、結構暗かった。

 また、今夜の月も下弦の月というのだろうか半月で、たまに雲に見え隠れしていたので月明かりもままならなかった。

 みんなが見ている方向には、たくさんの蛍が美しい光を灯しながら舞っていた。その光景は本当に幻想的だ。小学校の頃から蛍など見たことのなかった僕は、その光景を見た驚きを表情には出さなかったものの、心の中では大きく感動していた。

 近くに家がある泉は、広場の端の方にすでに来ていた。

 街灯の下にいた泉は「瞬君。」と、泉の口元がそう言っているように思え、そして彼女は僕に向かって手を振った。

 僕も泉に手を振った。

 彼女は僕の方に近づいてきて、

「ねぇ、すごくきれいでしょ。」と彼女も感動するように言った。

「本当だね。なんか幻想的だよ。子供の頃も蛍を見ていたけど、そのころ見ていたものとは違うって言うか、その頃記憶しているものよりももっとすごいよ。蛍ってこんなに明るいんだね。」

 それに、蛍が飛んだ光跡も川面添っていて本当に綺麗だった。

「私は家が近いから、毎年見に来てるよ。でもいつ見ても感動するの。嫌なことなんかあっても忘れてしまうの。」 

 淡く黄色い光跡が、水面のあたりを音もなく無数に交錯している。

 しばらく見ていると泉が僕に向かって、

「もう少し、上流に行こうよ。ここは人がいっぱい居て落ち着かないし、上はもっとたくさんの蛍がいて綺麗に見えるよ。」

 泉の顔は周りが薄暗いのではっきりとはわからなかったが、なんだかすごく嬉しそうだった。

「そうなんだ。じゃ、行ってみよう。」

 僕たち二人はここに自転車を置いて、持ってきた懐中電灯を燈しながら、人が一人歩けそうな上流への山道を歩きだした。

 遠くでカエルたちが鳴いている声以外は、僕たちが土と草を踏む音しかしないほど、あたりは静かだった。そして梅雨の湿気が草木の匂いと一緒に運んでくれると、夏が来る予感に少しうれしくなった。

 彼女はその道をよく知っているのか、僕の方を気にしながら「こっちだよ。」とたまに声を掛けてくれながら小さな畦道を五分ほど歩いた。すると、ちょっとだけ丘になっている所があった。それを登りきった先は、急に視界が開け、突然たくさんの蛍、いや蛍の光跡が乱舞していた。

 遠くでカエルの鳴き声以外は非常に静かだ。何の音もなく無数に交錯する蛍の光跡がとても不思議な空間を作り出し、まるで違う世界に来たようだった。

「すげぇ~!」と思わず大きく心の中で叫んだが、その神秘的で厳粛な雰囲気を壊したくなかったので、僕は囁く(ささやく)ような声で叫んだ。

「ね。すごいでしょ。」彼女は僕に向かって微笑んだ。

 すると一匹の蛍が僕の方に飛んできた。蛍っていうのは人を怖がらないのだろうか?僕の胸元に止まって淡い黄色の光を繰り返し灯した。

「瞬君の所に留まったね。」と、優しく彼女は僕に止まった蛍を見ながら言った。

「うん。」

 僕たちは、しばらくその蛍の乱舞を見つめていた。

 その光を見ているうちに、さっきまであった僕の胸の中の鉛の塊が、少しずつ小さくなっていくようだった。そしてここに誘ってくれた彼女が不思議に思えてきた。

「ねぇ、どうして俺と一緒に蛍を見に行こうって言ってくれたの?」

 僕はどうして泉が誘ってくれたのかが気になった。

 彼女はちょっと上を向き少し考えながら、

「う~ん、そうね。『なになにだから』と言う理由はないけれど、なんか瞬君、辛そうだったから。一緒に蛍を見れば少しは元気が出るのかな、って思って。」

「でも、俺、泉になにも言わなかったよね?」

「なにも言わなくても何となくわかったの。何となくだけどね。」

「なんとなく?」

「うん。なんとなく。」

 僕の体にとまった蛍はずっと光を放っていた。

「でも、なんでそんなに優しいの?」

「なんでだろ?わからないけど。電話を受けたときに、そうしなきゃ、って思ったの。っていうか、今夜、瞬君から電話があるって予感がしたから。」

「俺から電話があるってわかってたの?」

「わかってはいなかったけど、なんかそんな予感がしたの。」

 僕たちは、少し広くなっている地面に二人並んで腰を降ろして、お互いの顔や姿は見ずに、じっと目の前の蛍の灯りだけを見つめて話をした。

「蛍って癒されるよね。」泉はじっと前を見て、何か安心したように呟いた。

「そうだね。こんな素敵な光景を見ていると、辛かったことも忘れてしまいそうだよ。」

「現実はなにも変わらないけど、傷ついた心は時間がたてば、少しづつ修復されて行くの。蛍の灯り(あかり)にはそんな力があると思うの。」

「蛍の灯り(あかり)?蛍の光じゃないの?」

「灯りなの。道を照らしてくれる灯りだと思うの。」

「泉は詩人だね。」

「そんなことないけど。」

 また、しばらく沈黙が続いた。

「ねえ、県外の就職って、どこに行こうとしてたの?」

「どこって?別に・・・。でも、瞬君と同じ所だったら卒業してもたまにはあえるかなって思って。」

「えっ。」

 と、僕は隣にいる彼女の方を見た。彼女はやっぱり蛍の集まりをじっと見ていた。そして、彼女にも一匹の蛍がとまり美しい光を灯していた。

「泉も光っているよ。」

「瞬君と同じね。」

 大人から見たら、僕の進路の悩みや恋愛の悩みなど、大したものじゃないと笑うかもしれない。でも今の僕にとっては、おおげさだけど、人生最大の悩みでもあり挫折でもあった。ただ、僕にはその悩みの深さを知ってくれる人がいる事がわかり、それが幸せだと感じた。

「泉、もう帰ろうか。」

「うん。」

 僕たちが立ち上がると、それぞれの体にとまっていた蛍は一斉に離れていった。

 来たあぜ道を帰ろうと歩いていると、さっきの二匹の蛍が僕らの所に飛んできて、あたりを回っている。

“よかったね。”

「えっ!!」

 僕たちはお互いの顔を見つめあった。

「泉、いまなんか言った?」

「ううん。瞬君の方こそなんか今『よかったね』とかなんとか言わなかった。」

「いや。何かの音を聞き間違えたかな?」

 そういえば、泉の声ではなかった。でもなんとなく女性のやさしい声が聞こえたような気がした

 暗い畦道を歩いていた時に聞こえたその声は、幽霊ドラマに出てくような声ではなく、いつまでも聞いていたい、心休まる声だった。

すると泉が

「ありがとう。」といった。

「だれに、ありがとうって言ったの?」と僕が聞くと

「声の主。」と、嬉しそうにいった。

再び歩き出したとき、僕は彼女が躓かないよう、手を差し伸べ、彼女の手を握りながら歩いた。

 彼女は、また「ありがとう」と、今度は僕に向かって言った。

「うん。陽香が転ぶといけないから」と僕は小さな声で言った。


   2・仕事と恋愛 天井澤麻子


「えっ、遅れるの?それは仕方ないけど、どうして?」と、私は電話の向こうにいる彼に聞き返した。

「だから、そこの待ち合わせ場所に行こうとしてたら、急用ができてしまって。」と電話で彼が言い訳をしてくる。

「だから十分・・・いや二十分かな?待っててくれる。ごめん。」と、電話は彼の方から一方的に切ってしまった。

「ちょっと!どういうことよ。」

 私は、既に切られている電話に向かって少しイラつき気味に言った。

続いて「私とその急用と、どっちが大切なのよ」と喉元まで出かけたが、ドラマの見すぎみたいなので、口から引っ込めた。

 彼は三歳年下の二十九歳で、県庁に勤めている公務員だ。

 私、(あま)井澤(いさわ)麻子(あさこ)は高校の教師をしている。そういう私もまた公務員だ。この年になるまで、色々浮いた話もあったし、付き合った彼氏もいたけど、結局は結婚までたどり着けなかった。

 しかし、年齢を思うとゆっくりもしていられない。でも、そうかと云って親が勧めるお見合い相手などで将来を決めたくなかったが、だからと云って安易に結婚もしなくはなかった。

そんな時、大学時代に仲の良かった友人が婚活パーティーに参加するというので、興味本位で彼女と一緒にとある婚活パーティーに参加した。二か月前の事だった。そこで知り合ったのが、今日デートする坂口(さかぐち)純一(じゅんいち)だ。

彼は、身長や容姿が申し分ないというわけではないがそんなことはどうでもよかった。彼の少しふざけた感じの所や、私より彼が年下という事もあってか、なんとなく母性本能を擽られるような雰囲気にひかれ、そして話していても楽しく、何となく安心もした。

そもそもそんなに本気で参加した婚活パーティーではなかったので、わりと気楽な気持ちで彼と付き合い始めたのだが、少しチャラいのと素直なところが、デートを重ねるたびに「この人がいいのかも」という気持ちになってきた。

 今日のデートは、簡単な食事のものを含めれば既に五回目だが、デートに行く途中で急用ができたから遅れるって、どういう事なの?と思った。まさか他の若い女の子に声を掛けられてっていう事もないだろうが、理由くらいきちんと説明してもらいたい。そもそもわたしだって休日とはいえ、授業の準備など忙しいのをやりくりして来ているっていうのに。

 私は彼の不誠実さを垣間見るような気がし、今までの彼の姿は演出だったかもと少し不安になり、そして彼の身勝手さにも不機嫌になっていた。

 夏の前の少し蒸し暑い昼下がりだった。空は今にも泣きだしそうだったが、グレーの空は何とか泣き出さず頑張っていた。しかし梅雨特有のあの肌にまとわりつくような湿気が、さらにイライラを増してしまうようだった。

駅前で待たされてしまった私は、外にいるのも嫌なので仕方なく近くにあったコーヒーチェーンのショップに入った。生クリームがのったアイスコーヒーを注文し、席に着くと暇つぶしにスマホをいじった。

 いじりながら「あの人はやっぱり年下だし、結婚対象じゃないかもね。」などと思っていた。

 世の中のカップルや夫婦は、すべて相性がいいわけではない。それでもお互いそれぞれ足りないところを補いつつ生きているのだ・・・ということはわかっている。しかしそれは建前だ。そもそも結婚前からそんなことを思うようでは先が見えている感じがした。

 コーヒーショップで待つこと約三十分、私のスマホが鳴った。

「ごめんね、今着いた。何処にいるの?」

 純一は急いできたのを演出しようとしたのか、それとも本気で急いできたのか、少し呼吸が荒いようだった。

「今、駅前のコーヒーショップにいるわ。私もすぐに店を出るから。」と、私も一応急ぐふりで返事をした。

 店を出ると、通りを挟んだところで純一が乗って来た車を降りて、あたりを見回して私を探していた。

 彼は小走りで近づく私を確認すると、満面の笑顔で手を振った。

「いや~、ごめんね。待たせちゃって。」と、彼は両手を合わせ、拝むポーズで頭を少し下げ、照れ隠しのようにして私に謝った。

「急用は終わったのかしら?」と、少し皮肉っぽく言ってやった。

 本当は、急用の内容も聞きたかったが、そんな事は「私は関心ないのよ。」というような感じで無関心を装った。

「うん、まあ。」と、彼は少し口ごもった。

 なんか隠している雰囲気は十分わかった。

 その場で問いつめても良かったのだが、せっかくの楽しくなるはずの時間が無駄になってしまうし、さっき無関心を装ってしまったので問い詰める機を逸してしまった。 

「さあ、乗って。」と純一が言うので、私は彼の赤い車の助手席に乗った。

 私はこの彼の車が気に入っていた。今どきのSUVと言うのだろうか?国産車だが少し車高が高く静かで、それでいて加速感もある。それよりなによりこの赤のボディカラーが気に入っていた。このボディーフォルムにぴったりの色だ。

 しかし、そんなお気に入りの車の助手席に乗りながらも、私の気持ちはあまり晴れない。今日の天気と一緒だ。

彼には、今週学校で色々あった理不尽なことなどを、愚痴ろうかと思っていたのだが、デートの最初から気分を削がれてしまって、あまり話す気にはなれなかった。

 そんな私を気遣ってか、純一はいつも以上に饒舌だった。

 運転している彼は、なぜか異常に汗をかいている。一応、急いできてくれたのかな?とも思った。まあ、なんかしらの事情があって遅れて、それが終わると急いで来てくれたのであろうと思うと、あまり怒る気もしなくなってしまった。

 しばらく車で走って徐々に晴れてきた空を見ていると、わたしはふてくされて黙っているのが辛くなり、堰を切ったように学校での不満を話始めた。

「ねえ、ちょっと聞いてくれる!この前なんだけどさぁ~。だいたい書類が多すぎるのよ。役所じゃないんだから。まあ確かに役所の一部ではあるけどね。授業が私たちの本当の仕事なのよ。その時間を削ってまで・・・」

 わたしは、たまらず純一に愚痴を延々と吐いた。

 純一は、真剣な顔つきでわたしの愚痴を聞き、相づちを打ってくれた。

 彼もいつも私の愚痴ばかりじゃたまらないだろうと思う。事実、過去に付き合った彼氏もそれに嫌気がさしていた人もいた。

 しかし、純一はそうではなかった。かと言って適切なアドバイスをしてくれるわけではないけど、少しヘラヘラしながらもきちんと私の話を聞いてくれた。


 月曜日。

 私は公立高校で英語の教師をしていて、二年生の担任を持っている。

 昔と違って校内暴力なんてものはないのだが、子供たちが大人しすぎるっていうか、あまり感情を表に出す子も少ない。もしかしたら私たちの知らないところで陰湿ないじめもあるかもしれない。この思春期の生徒への対応はそれなりに大変で神経をすり減らす。

 教師といえども、子供たちと同様に月曜日は少し気が重く憂鬱だ。やるべき仕事は山積していているが、あまり片づいていない、いやむしろ日々増えていくようにも思える。

 つくづく割の合わない職業だと思う。最初、教諭の仕事を始めた頃は、先輩から「授業の準備は授業時間の三倍をかけなさい。」などと言われたものだが、そんなことをしていては寝る時間がなくなってしまう。その上小テストの作成や採点、学級日誌の確認、生徒達のノートの確認、学校行事など、ほかの事務作業など数えればキリがない。

 そもそも学校といえどもここは役所だ。いちいち提出する書類も山ほどあり、それについていちいち確認印がいるのだ。本当に何が仕事なのかわからなくなる。

「明後日は三者面談かぁ。」

 と思うと、少しため息がでる。今回の三者面談では進路の事が主な話題となるが、そのほか色々デリケートなことも話すし、中にはその場で親子喧嘩を始めたものも過去にはいた。

なにより親御さんに会うっていうのもプレッシャーだ。モンスターがいることだってあるし、それに女性としては、着るものにも気を使う。

 それでも「今週もがんばらなきゃ」と思い、心を落ち着かせるために職員室の奥にある流し台の所に用意してある、コーヒーメーカーでコーヒーを沸かし飲んでいた。

すると、私の淹れ(いれ)たコーヒーメーカーから自分のマグカップにコーヒーを注ぎ

「天井澤先生。先週のあの件についての報告書は、もうできましたか?」

 と、生徒指導部長の飯田先生が言ってきた。

 思わずコーヒーが口から出そうになったのだが、そのままゴックンと飲み、

「あっ、ごめんなさい。まだですが、今週中にはなんと出せると思います。」

「早くしてくださいよ。僕も教育委員会に報告しないといけないんですから。」

 飯田先生は少し苛ついたように言い、マグカップを持って自分の席に帰って行った。この先生も私よりずいぶん年上なのだが、いつも気持ちに余裕がないような感じだ。管理職なんだからもう少し包容力があってもいいんじゃないのと思う。でも、もしかしたら、今の私も人の事は言えないかもしれない。

「あの件・・・」というのは、先週私のクラスの子が他校の生徒と一緒に、市内のとある倉庫で飲酒をしていた件だ。

 他校の生徒とは、その子の中学時代の友達らしく、その子らがバンドをするために、親の経営する倉庫の一部を楽器置き場として使っていて、そこで飲酒をしたらしい。しかしその中で私のクラスの子は酒を飲み過ぎて、急性アルコール中毒で救急車に運ばれて事は発覚してしまった。悪い子ではないのだが、酒の勧めを断れず飲酒したらしい。それももちろんよくない事なのだが、救急車で運ばれたので余計に大事になってしまった。私はその件について本人や親御さんと面会して報告書を作らなければならなかった。

 本当はその事で、昨日デートなどする余裕もなかったのだが、彼にいろんなことを聞いてもらいたかった。でも、わたしは半分ふてくされてしまっていたので、その事は話さなかった。

 私もイライラが募っていた。

「あ~あ、私も学生時代に戻りたい。学生の時は暢気(のんき)でよかったのになぁ~。」なんて思ってしまう。

「学生時代は気楽だった」などと思う事もしばしばだが、今はその反対の立場だ。どうして教師になってしまったのか、今では悔やまれる。

 明日は三者面談であるが、幸い騒ぎを起こした子以外、生活面では大きな問題を抱える子はいない。

 明日の面談リストをペラペラとめくっていった。

「八木瞬君ね・・・。」この子の所で書類をめくる手が止まった。成績は悪くないんだけど、国立の理系って言うのはちょっとね。試験に英語のない私立ならいいんだけど。

 そもそもこの子に限らず、うちの高校は公立にも関わらず、教科にもよるが一部の生徒達は中学を卒業する時点での基礎学力が不足している場合が多い。だから、また高校の授業の中で中学の基礎を教えなければならないパターンも出てくる。そうすると本来の授業が遅れ、負のスパイラルになってしまう。

 この八木君もそう。理系を目指しているので、数学とか物理とかは、確かに良いんだけど、英語がどうも苦手らしい。中学三年生程度の問題も怪しい・・・わたしが英語の教師だから余計に気になるかもしれないのだけれど。

 まあ、そう言うのを指導するのが担任の役目だし、まだ二年生だからやりようによっては希望するところにも行けるかもしれない。進路という面では、悩ませる生徒は多い。

 考えてみれば、この時期って言うのは、その人の人生を大きく左右する時期かもしれない。その指南役をしているのだと思うと、結構責任がずっしりと来る。自分の人生もままならないって言うのに・・・。

 そう思うと、また大きなため息が出てしまった。

 そしてまた次の土曜日。

 毎週デート言うわけではないが、先週の件もあり、彼の方からお詫びがてらということで、今日は彼に誘われた。幸い今年に限っては部活動の担当は「華道部」と言うことで、休日出勤もない。体育会系の部活動の顧問にでもなれば結婚なんて当分先になってしまう。

 当然の事ながら、今日のデートでは彼は遅れて来なかった。

 今回のスケジュールはとりあえず海岸までドライブをして、彼の予約したレストランで食事をすることだった。 

 彼はいつものように、私のお気に入りの赤い車に乗ってやってきた。その車の中で、またもや彼に対して、学校でのグチをたくさん言い放っていた。その中には先日の三者面談の件も入っていた。三者面談では概ね親御さんの方が喋りまくる。それを普段はギャーギャーうるさい生徒たちも隣でおとなしくしているのも何となく腹が立つ。そんなこんな愚痴を、彼は「うんうん」と聞いてくれていた。

 三歳も年下なのに、少しチャラいところもあるが、包容力があるっていうのか、わたしは彼に対して知らず知らずのうちに、なんでもしゃべってしまっていた。

 今日は、梅雨の中休みのような天気で、海岸沿いを走る私たちの車からは、青い海と空、そして綿のような白い雲が水平線から立ち上っていた。そこにはもう夏の海が広がっていた。

「なんだか梅雨が明けたみたいな感じよね。」

「うん、そうだね。でもまだ六月の中旬だから、梅雨明けになるには、まだ一ヶ月近くかかるかもね。」

「早く、梅雨明けしてスッキリしたいなぁ~。」

「麻子さんは、だいぶストレスが溜まっているみたいだね。」

「そりゃそうよ。女性で高校教師やってて担任を持たされりゃ大変よ!教師らしくしているのって結構ストレスなのよ。純一君はストレスないの?」

「あるよ、そりゃ。でも、麻子さんと一緒にいると癒されるかなぁ。」

 この前はわたしと約束をしていたデートに来る途中で、急用とかで、三十分以上も遅れたくせによくもそんな事が言えるもんだと思った。

「へ~。私がこんなに愚痴ばっかり言っててもいいの?」

「うん。なぜだかそうなんだ。」

「純一さんってちょっと変わっているかも」

「そうかもね。」

 彼は何となく満足そうな笑顔だった。

「ねえ、私この車ちょっと運転してみたい…かな。」

「えっ?」

「なんか、ビューンって行くのかなって思って。」

「やっぱり、欲求不満が溜まっているね。」

 なにもかも、風にさらって行って欲しい気持ちだった。

「じゃ、ちょっと運転してみる?」

 彼は助手席にいる私に向かって、興味深そうに言った。

「えっ?いいの?でも、わたし、いつもは軽自動車だから。」

 ちょっと運転したい気持ちもあったけど、少し怖かった。

「大丈夫だよ。少しだけなら。運転席の気分も味わった方がストレス発散になるかも。」

「それじゃ。でも怖いからちょっとだけだよ。」

 と、私は純一にそう言うと、彼は「了解」と言って、車を少し広めの路肩に止めた。

 運転席を入れ替わり、ほんの少しだけその車に乗り運転するつもりだった。

 運転席に座ると、さらに視界が広くなったように思われた。

 発進もスムーズだし、アクセルをちょっと踏んだだけで加速感もあるしハンドルも軽い。わたしの軽乗用車とは大違いだ。

 私が乗っている車よりも車幅もあるし長さもあるが、乗った感じは特に運転しにくいという感じはない。快適に運転できた。

少し気分が良くなったので、しばらく運転させてもらうことにした。

大きな車でも、二車線の道では怖さなど全く感じない。

 心地良いドライブだったが、ずっと運転するわけにも行かないので車を止めるところを探しはじめた。

「そこに止めるといいよ。」と彼は少し先にある大きな待避所を指さして言った。私はウィンカーを出してその待避所に車をいれた。しかし、何を思ったのかすぐに車を止めず、ちょっと場所の良いところでと思って、待避所の奥の方に車を入れたのが間違いだった。

 スピードを緩めながら、ずっと奥まで行き、そこで止めるつもりだったが、急に“ガタン!”と車が少し傾き、それと同時に“ガリ”っと、とても嫌な音がした。

 わたしは“ハッ!”となり瞬間的に血の気が引き思わず「キャッ」と小さく叫んだ。

そして反射的にアクセルを踏んで脱出を試みようとすると、“プシュー”と再び最悪の事を思わせる音がした。

私の運転する車は、前方左側が側溝にはまり傾いしまっていた。

「やっちゃたかな。」と彼はそういうと、ドアを開けて外に出て、車の左側バンパーの下の方を確認している。彼の顔は非常に困った顔をしていた。

 私はハンドルを握ったまま足がすくんでいた。

 それでもなんとかドアを開け、車の外に出てみると、左側片方のバンパーが少し凹んで傷ついており、左側のタイヤはパンクしていた。

「まいったな、こりゃ」と彼は頭をかいた。

「ごめん。わたしのせいで。」

「いや、もともとは僕が勧めたのが悪いから。」

 彼は少し怒っているようにも、冷静でいるようにも見えた。

「とりあえずロードサービスを呼ぶしかないね。」

 彼は早速携帯電話で、ロードサービスに電話をした。

「ちょっと立て込んでいるけど、すぐ来るって。」と彼が言った。

 回りに見る景色は、相変わらず空と海は青く澄み渡っていたが、わたしの心はグレーだった。

「そんなに気にしないで。」

 彼の気遣う気持ちが少しうれしいのと、運転なんかしなければよかったという大きな後悔が残った。

 どうしていつもわたしはこうなんだろう?

 調子がいいときは羽目を外すぐらいにはしゃいで、ちょっと悪いことがあると必要以上に落ち込んでしまう。しかし今回は少し悪い事ではなく、彼氏といえども他人に迷惑をかけている。かなり落ち込んでしまった。

 やがて十分もしないうちにロードサービスがやってきた。しかしよく見ると全国どこにでもあるロードサービスではなくて、車を積載するトラックの横には「中村自動車工業」と記してある。町の修理屋さんのようだ。

「お怪我はありませんでしたか?今、ちょっとロードサービスの方が立て込んでいまして、代わりに依頼を受けてうちの方がきました。中村自動車工業といいます。」

 自動車修理用のツナギを着たその人は、おおよそ四十代半ばと言ったところだろうか?私たちに頭をペコリと下げた。言い方は丁寧であったが、あまり人の目を見て話さず、心ここに在らずと云った感じで、どこか事務的な感じが拭えなかった。

 その人と助手席に乗っていた従業員らしき若い男は、すぐに作業にかかった。

 持ってきた大型のジャッキで車を上げ、その乗ってきたトラックで1メートルぐらい彼の車を牽引して、溝から車を出した。

 そのあとタイヤを予備のものに変えた。一連の作業は慣れた手つきのようだった。

「ここ結構傷がいってますね。」と、年配の男性は左側のバンパー付近を指さして言った。

「やっぱり…凹んでいますね。」と彼も困った顔で言った。

「修理はどうされます?うちの方でやらせてもらっていいですか?」と修理屋さんは彼に尋ねた。

「ええ、まあ。でも保険の手続きとかは・・・。」彼は相談するように聞いた。

「そこらへんは全てうちの方でやりますので。」

「それではお願いできますか。」

 彼と修理屋さんはその場で簡単な書類を書いたり、携帯電話で保険会社だろうか?電話をしたり、話をしたりしていた。

 すると、若い従業員はトラックからコンパクトカーを降ろして、私たちの前で止まった。

「すいません。これ代車です。」

と言った。

 わたしはずっと海を見ていた。

 彼に申し訳ないと反省の気持ちもあったが、今思っていることは学校での山積した問題や憂鬱な事ばかりが頭を巡っていた。「どうして何もかもうまく行かないことばかり続くのだろう。」そんな事ばかりを考えていたら涙が出てきてしまった。

 やがて、彼と修理屋さんの打ち合わせは終わったようで、修理屋さんは、彼の赤い車をトラックに積んで若い従業員さんと二人でトラックに乗って引き上げて行った。

 彼はわたしに近寄り

「だから気にしなくていいのに」と言った。

 わたしが涙を出しているのを車の件と思ったらしい。

「うん。」

 どうこうも言えないのでとりあえず「うん」と言った。

「こんな代車だけど、食事にでも行きますか?」

「えっ、あ、はい。」

 あんまり食事をする気分でもなかったが、断るのも悪いので誘いにのった。

 私たちはその代車に乗り、予約しているレストランへと向かった。

 食事は最近できたという、お洒落な創作料理の店だった。

 出てきた食事はどれも美味しそうで、一口食べるとさらに食欲が出るような料理ばかりだった。そんな料理を食べていても私はあまり浮かない顔をしていた。

そんな私の気持ちを察してか、純一は

「そうそう、今ね、蛍が綺麗だって。たぶん光のラインがきっとゴージャスだよ。」と相変わらず、言っている意味が分からない。しかしそんな言葉を並び立て、明るくしてくれる気持ちが嬉しく、

「蛍?」と、さも興味があるようにいった。

「そう。蛍の名所っていうのかな?たくさん飛んでいて、絶景だっていうところがあるんだよ。同僚に聞いたんだ。」

 そう言えば、蛍なんて子供の頃に見たぐらいしか記憶がない。私は「少し気がまぎれるかもしれないよ」と云う彼の言葉に押された。

 店から出た私たちは、早速蛍の名所とやらに行くことにした。

 あたりはすっかり日が落ちて暗くなっていたが、日の長い時期である。遠くに見える山の稜線は少しだけ赤く、その赤みが感傷的な気分にさせた。

代車だからだろうか、エアコンから出る風が少し臭う気がしたので、窓を少しだけ開けてみた。

 草木の匂いが湿った空気と一緒に運ばれて、夏はもうすぐそこだと感じられた。

 やがて、その観賞区域らしきところに着いた。時間は夜八時すぎ。そんなに遠い場所ではなかった。辺りは、蛍目当ての人たちで、静かに賑わっていた。

 車を降りてすぐの私達からも、距離は少し離れているが蛍が飛び交っているのがわかった。

「へぇ~。結構蛍いるのね。」と、わたしは感心するように言った。

 辺りは、それなりに人がいる割には静かだった。話をするときはみんなヒソヒソ声で話すと言うより、語り合うと言った感じで親子やカップルが寄り添うように会話をしていた。

 たまに、蛍を撮りに来たカメラマン同士が地声で話すときなどは、そんなに大きな声で話しているわけではないけれど、喧しいと思うほどだった。

 今夜はまだ月が出ていなかった。照明がほとんどないせいか、空には満天の星空が見えた。 

 そして、川面に沿って優雅に飛ぶ蛍の光跡は、その星空と相まって不思議と心を落ち着かせてくれた。

 また、川の向こう側の岸は、多くの笹などが茂っていたが、その茂みから見え隠れする蛍の光は、まるで蛍の住みかのようにも見えた。

「もう少し上流の方に行こうよ。もっと蛍が綺麗らしいから。」と彼が言った。

 わたしは無言で頷いて、彼の手に引かれるままに付いて行った。

 彼はしっかりと手を繋いでくれて、それはとてもたくましく感じられた。

 少し上流の方に行くと、人影はほとんどなかった。暗いので、彼は人指サイズのキーホルダーの付いた小さなLED懐中電灯で、私の足下を照らしてくれながらゆっくりと歩いた。

 ちょっと丘になっているところを上りきった時、急に視界が開けた。

 視線を上げてみると、そこには驚くほどの蛍が群をなしており、幻想的な光を灯していた。

「すご~い!」

 それはなんだか厳かな蛍の儀式のようで、とても大きな声を出すわけにはいかなかった。

 わたしは小さな声で、しかし心の中では最高の歓喜の声を上げた。

「すごいよね。なんか神秘的だよね。」

「そうだね。」

 私たちは、しばらく無言でその光景を見つめていた。

「純一さんは毎年、こんな光景を見ているの?」

「いや、この光景は初めて。さっきいた下までは来ることがあったけど、ここ来たことはないな。でも、話には聞いていたから、いつか大切な人と見に来てたいと思ってたんです。」

「大切な人って、私の事?」それともいつもように、調子のいいことを言っているだけなのだろうか?今、彼にとって私はどんな位置にいるのか、よくわからないでいた。

「ずっと見てたいね。」

「うん。」

 わたしたちは蛍の芸術的な光に見入ってしまい、その場に腰を下ろしてしばらく無言でいた。

 やがて彼がつぶやくように口を開いた。

「麻子さんはどうして教師になろうと思ったの?」

「えっ?」

 そういえば彼とそんな話はした事がなかった。彼に向かって言うのは、いつも学校での愚痴や嫌な出来事ばかりだったので、彼がそう思うのはあたり前かもしれない。

「そうね。特に子供の頃から教師になりたかったわけではないの。大学生の時、得意な英語を生かせる職に就きたくて本当は通訳とかになりたかったの。特に同時通訳なんて恰好よくてあこがれたわ。でもね、わたしにはハードルが高すぎたみたい。そんな時に受けた教員採用試験にたまたま受かったの。公立高校の教員と言うことであれば、英語も生かせるし、安定している。それになにより両親の受けがよかったわ。うちは三人姉妹で、わたしは末っ子だったの。普通のサラリーマン家庭だった我が家は、長女、次女、そして末っ子のわたしまで大学に行かせてくれた事に、少し後ろめたい気持ちもあったの。だから親が安心して喜んでくれる職業というものを、何となく選んでしまったんだと思う。」

「そうなんだ。」

「純一さんこそ、どうして今の仕事に?」

 ちょっと考え込んでいる彼に、私は同じ質問をぶつけた。

「そりゃ、夢とかそんなじゃないですよ。小さい頃から県職員を目指していたわけじゃないですからね。本当は靴屋さんになりたかったんです。」

「靴屋さん?」

「靴屋さんといっても激安シューズを売る店じゃないですよ。靴の修理とかメンテナンスとかきちんとできて、できればオーダーメイドでその人に合った靴を作るような、そんな店を自分で持ちたかったんです。」

「あら、素敵じゃない。でもどうしてあきらめちゃったの?」

「現実を見てくださいよ。そんな理想的な店で食っていけると思います?もちろんそれで生活している人もいるかもしれませんが、たぶん、僕にはそういう経営センスはないと思います。」

「でも、やってみなくちゃわからないじゃない。」

「そうですよね。確かにやってみないとわからないけど…でも麻子さんと一緒かな?たまたまだと思うけど公務員の試験に受かちゃって。それを両親が喜んでくれたので…。」

「私と同じようなものね。」

「僕は長男で一人っ子だから、親の期待もあったと思うんです。その期待に添わなくちゃと柄にもなく思ってしまって。いや、親はそんな期待するような事は言わなかったけど、何となく肌で感じたりしたっていうか、こっちが勝手に気を使ったっていうか・・・そんな感じです。」

 いつも明るく、あまり物事を深く考えていないようなイメージのある彼とはちょっと違う姿をみて、私は返答に困った。

 すると彼は一息間を置き、さらに言った。

「自分の身の丈を知るって大切な事じゃないですか。でも、それはある意味自分の限界を決めちゃうっていう事と紙一重なんですよね。僕は僕の限界を勝手に決めちゃったんでしょうね。でも、たまに後悔をするんです。いろいろと。」

 いつも会うたびに、私の色んな愚痴を黙って聞いてくれる彼だけど、でもいろんな話を聞いてほしかったのは彼の方かもと思いながら、私はその話を黙って聞いていた。

「でも、麻子さんは通訳にはなれなかったかもしれないけど、教師だから何か夢がありそうな感じですよね?」

「ううん。そんな事ないわよ。実際は。ドラマみたいにはいかないわ。」

 確かにそうだ。今は毎日の仕事に忙殺され、もしかしたら教師という仕事にも夢があったのかもしれないけど、それを思い出すことは今はもうない。

 すると、一匹の蛍がわたしの方に近づいて、胸元に止まった。

「あっ、蛍・・・。」

「本当だ。近くで見るとさら綺麗だね。」

 とまった蛍はわたしの胸元で淡い光で照らしてくれている。灯りが点る度にわたしの白いブラウスが浮き上がって見える。

「それでも純一君は、その仕事でも毎日充実しているって感じだよね。」

 わたしは、隣に座っている彼の横顔を見ながらそういった。

「そんな事ないですよ。僕も毎日、仕事でつまずいていますよ。」

「へぇ~、純一君でも?」

思わず出た言葉だった、彼はそのキャラで何となく毎日を無難に要領よく過ごしていると思っていたので「つまづく」という言葉が不思議に思えた。

「僕なんかまだペーペーですしね。それに人間関係にも疲れちゃうし。」

 彼のように、なんとなく要領よくやってそうな人もそうなんだと。みんな一緒なのかもしれないと思った。

 その時もう一匹の蛍が彼の胸元にとまった。

 彼は下を向き、そのとまった蛍を見ながら、

「大学や高校時代からの友人で、民間企業に勤めた奴なんかからは『おまえは贅沢すぎるよ』なんて言われるけど、これはこれで、彼らにはわからない悩みもあるんですよ。」

「同感。」と私は言い、今の自分とかぶせていた。

「去年のこの時期もそうでした。仕事で大きな失敗をして。心が大きく落ち込んで。そんなとき、ここの蛍を見に来たんです。」

「ここの蛍?」

「ええ、ここの…場所はさっきの下の所ですけどね。単純に綺麗なんです。今みたいに、遠いところにいた蛍がスゥーとこちらに来て、自分にくっついた時なんかは、蛍が慰めてくれているんじゃないかと、勝手に思ってしまうんです。だから、今日麻子さんがなんか辛そうだったから、ここに来れば少しは元気になるのかなって思って。」

「ありがとう。純一さんって優しいのね。」

 彼は私の方を見て少し微笑んだ。

「でも確かに教師という仕事はやりがいはあるわ。この仕事ってある意味、その人の人生を決めてしまうターニングポイントの案内役のようなものでしょ。そんな重要な事、本当は私にはできないのかもしれない。そもそもわたしが人生の迷子みたいなものだから・・・。でもね、生徒たちが毎年成長するように、私も成長しないといけないと思うの。それに今はこれが私の仕事だから。」

「僕もそう思います。今はこれが自分の仕事だから。自分の好きな仕事なら精一杯できるっているのは詭弁だと思います。自分の好きな仕事でも、色んな困難は押し寄せてくるわけだし。」

「そうね。」

「そうです。」

「でも、ちょっと安心した。」

「なんで?」

「蛍に精神安定剤的な役割があるかどうかわからないけど、純一君今日ここに来て良かったわ。」

「なら、いいですけど。」

「だから、ちょっとしたことで悩まないような力をつけないとね。」

「そうですよ!だから僕の車のことも忘れてください。」

「あ~、今忘れていたのにぃ。また思い出しちゃった。ちょっと意地悪ね。」

 彼は苦笑いをしながら、軽く手を握ってくれた。

 私の胸元と彼の胸元に止まった蛍は、私たちが話をしている間中、胸から腕へそして手へと移動した。そして私たちが立ち上がろうとすると、2匹の蛍は同時に飛び立ち私たちの周りを旋回するように飛び始めた。

「そろそろ帰りましょうか。」

「はい。」

 彼に促されて、返ろうとしたとき。

“くじけないで。”“いい相手が見つかって良かったね。”と女性の声がした。

「えっ?」

「麻子さんどうしたの?」

「いま、声がしなかった?女の人の声。」

「やだなぁ。こんなところで。なんか怪談話みたいじゃないですか。」

「ううん。そんなんじゃなくて、すごく優しい声だったの。」

「やさしい声?」

「なんだか励ましてくれた。」

「あ…麻子さんの事をですか?」

「うん。たぶん。」

純一さんは不思議そうな顔をしていたが、やがて

「ホタルの精かもしれませんね。」

「まさか。」

「きっとそうですよ。」

蛍の精などいるわけはないのだが、私はそう思う事にした。それほど心にしみる声だった。

わたしは小さくうなずいて、彼に手を引かれ道を下って行った。


 再び、人が集まっているところまで着いた。やっと街灯があるところまできたので比較的明るかった。

 彼と車の所まで一緒に帰ろうと歩いていると、少し先の方から年輩の女性が、何か気が付いた様子で、若い夫婦らしき人達と一緒に、私たちの近くまで少し急ぎ歩きでやってきた。

「あの~、すいません。失礼ですが先日助けてもらいました・・・あの県庁の方じゃないですか?」とその年輩の女性は言った。

 わたしは何のことかわからない。「県庁って言うことは彼の事かしら」と、彼の方を向くと彼はその女性に向かって

「あっ、あのときの!それでご主人様の様態はどうですか?」

 と、彼はその年輩の女性に優しく訪ねた。

「その節は大変にありがとうございました。おかげさまで主人の命も助かりました。今は用心の為に入院しております。ここにいるのは息子夫婦です。もともと今夜はみんなで蛍を見に行こうと思っておりましたが、あの事がありましたので主人は病院で養生しております。今帰ろうとしたら、偶然にも先日助けていただきましたあなたに似た方を見つけたもので・・・。その節はお名前も聞かず申し訳ございませんでした。あのときはお礼も出来ずただ呆然としていたもので。」

「あ、いや、どうかお気になさらずに。当然の事ですし、AED操作や救命救急法は県庁の方で講習を受けていますので。それよりご主人が無事で良かった。」

 何のことかわからないが、彼は心の底から安堵しているようだった。

 その家族連れ三人と彼は、しばらく立ち話をした後に別れた。別れ際、その家族連れは何度も何度も頭を下げて彼にお礼を言って帰っていった。

「どうしたの?どう言うこと?」

 なにもわからないわたしは彼に訪ねた。

「うん、先週の日曜日だったかな。車で走っていたら、歩道であのおばあさんが助けを求めていたんだよ。車を止めて見ると、その横でご主人と思われる人が倒れていて、僕は人工呼吸をしながら、人を呼んで救急車を呼ばせたりAEDをもって来させたりしていたんだ。一応、救急車が来るまでに何とか蘇生はしたんだけど、病院に行った後はどうなったのかな?って気にはしてたんだ。」

「先週の日曜日って、あのデートに遅れたとき?」

「あっ、そうそう、ごめんね。なんかそういう事って、話づらくてね。嘘付いちゃった。」

「そうならそう言えば良かったのに。」

「本当にごめん。」

 ごめんって言うのはこっちの方だった。彼を信用していないどころか、あらぬ疑いを掛け、そして勝手にふてくされていたのである。

「わたしの方こそごめん。」

「えっ、なんで?」

「だって純一君、人助けをしていたのに、わたしったら一人で勝手にふてくされちゃって。」

「そんな事・・・いいよ。」

 わたしはわたしの浅はかさにあきれていた。それと同時に、この坂口純一って人に改めて好意を抱いた。

 今夜のホタルは一生忘れることはないだろう。


    3・事業再生 中村一郎


「はぁ、そうですか。」

 一郎は、ため息混じりに疲れきった声で言った。

「とりあえず、直近の決算書と試算表、それと経営計画書を持ってきてください。経営計画書は絵に描いた餅ではだめです。きちんと裏付けのあるものでお願いします。」と、その黒縁眼鏡の男は冷たそうに言った。

「わかりました。それでいつまでに・・・。」

「希望の決済日から逆算すると早い方がいいですね。しかし、かなり厳しいと思いますよ。」

 一郎は頷いた。

 中村一郎は、自動車販売修理業を営む経営者だ。いわゆる町の社長さんであるが、従業員は本人の一郎と妻の裕子(ひろこ)、それと若い修理工の松田君の三人しかいない。昔はもっと従業員もいたのだが、経営不振が重なり辞めていったり、辞めてもらったりして今はこれだけになってしまった。

 一郎は二代目だった。先代の時代は景気もよく羽振りもよかった。しかしそれに気を良くした先代は、過剰な設備投資で別の土地に新工場まで作った。しばらくはそれでよかったのだが、徐々に地方に活気がなくなり、不景気の風が押し寄せる頃に一郎が社長となった。時代はすでに景気の停滞期に入っていた。それとともに若者の車離れも進み、新車の販売も不振になってくると、その過剰な設備投資の返済金が重くのしかかるようになってきた。

 追い打ちをかけるように、消費者の嗜好や購入方法の多彩になってしまい、売上の柱であった車検も今では、車検専門のチェーン店に押されるようになり、経営は一段と悪化の一途をたどって行った。

 既にメインバンクからも見放されていた。

今、一郎が融資を申し込んでいたのは、中村自動車工業としてはメインバンクの次の銀行だった。何とか公的保証で融資をお願いしたかった。

 銀行からの帰り道、今は梅雨の時期だったが、今日は梅雨の中休みらしく、空は青く白い雲が浮かんでで、暑い夏を連想させるようだった。しかし一郎の心はそれと反対に暗く沈んでいた。

「ただいま。」と言って事務所のドアを開けて入った。

「あら、おかえり。」と事務所でパソコンに向かって経理の処理をしていた、妻の裕子が手を休めて言った。いつものように明るい声だった。

「ご苦労様でした。」

「ああ。いや、大した仕事はしてないよ。銀行で融資を申し込んだだけだから。」と、一郎は気落ちした声で言った

「でも、あなた、ひどく疲れた顔をしてるわよ。」

「大丈夫だよ。それより、直近の決算書と試算表を出しておいてくれ。経営計画書も作らないといけないけど、それは俺がするから。」

 経理は妻の裕子に任せていたので、試算表などは彼女にお願いをした。

 なんとか会社を建て直さなければ、工場も自宅も既に借金の抵当に入っているので、もしもの事があれば大変な事になる。とはいえ、これと言った解決策は見つからず、一郎は途方に暮れていた。決済の日は確実にやってくるのだ。

 どこから手を付けるか?この工場以外処分するものは処分したつもりだ。経費もできる限り節約している。自分の給与などほとんどない。やはり売り上げを上げるしかなさそうだ。特に利益をどうあげるかが大きな問題となる。今回の融資が受けられれば、今回の決済を乗り越えられ、そして新車の販売にも力を入れたいところだ。しかし、その融資がなければ、新車を仕入れる余力どころかたちまち資金がショートしてしまう。車なんて売りたくても売ることができないのだ。かなり厳しい状態だった。

 翌日は土曜日だった。しかし土曜日と言っても休むわけには行かない。もちろん日曜日だって経営計画書などの作成に追われる。月曜日には銀行に持っていかないといけないのだ。

 

土曜日。 

一郎は会社を立て直すための経営計画書を作るために、朝から事務所で必死にパソコンに向かっていた。

 一口に売上を上げる計画といっても、部門ごとに計画を明確しなければならない。新車をどのくらい売るのか?中古車をどのくらい?車検は?修理は?板金塗装は?はたまた自動車保険の手数料まで表計算ソフトにデータを入力して計算をしていた。

 そんな時に、契約しているロードサービスから電話があった。なんでも自損事故をした車を積載車で一旦引き取り、代車を貸して欲しいとの依頼だった。ロードサービスではたまたま今、みんな出払っており、事故現場は一郎の会社から近いと云うことだった。車の回収自体は売上げにはならないが、うまく行けば自分のところで修理も依頼されるかもしれない。

 早速、一郎は回収するための積載トラックに代車を載せて、従業員の松田君と一緒に現場に向かった。


 ロードサービスから指示された現場はすぐにわかったのだが、こんな大きな待避所で側溝にタイヤがはまるとは、初心者なのかと思った。

 そこではカップルなのか、若い男と女が赤いSUV車のところで立っていた。なんとなく男が女を慰めているようにも見えた。

 運転操作を誤ったのは女の方だと、その場の雰囲気でわかった。

 到着した一郎たちは、そのカップルに簡単な挨拶をして現場の状況を確認して作業に取りかかった。

 従業員の松田君と一緒に、脱輪している車をジャッキで持ち上げ、積載トラックで少しだけ牽引してタイヤを溝から出した。そしてパンクしているタイヤをスペアと交換した。

 それが終わると、松田君は積載車から代車を降ろす作業をした。

 あまりの手際の良さに、見ていたカップルは感心しているようだった。

 溝から出した車を見ると、落ちた側の左部分はかなり傷ついていて凹んでいるところもあった。修理しなくても走行は可能だが見栄えは悪い。できればうちで修理してもらいたいと思った。

 「車の修理はどうしましょう?うちでさせて頂いてもよろしいでしょうか?」

 溝から引き揚げられた車の左側を、自分と従業員の松田君、そしてその男の方と一緒に見ながら傷の具合などを確認しながら言った。

一郎は、営業はあまり得意ではないのだが、その男の方に向かって積極的にお願いをした。

 男の方は保険の手続きがどうこうとか言っていたが、それらに関しては全てうちですると告げたら「それじゃ、お願いします。」と承諾してくれた。

念のため身元の所在などの確認をすると、その男の方は県庁に勤める公務員のようだった。任意保険もキチンと入っている。またこれは別に聞かなくても良かったのだが、女の方は県立高校の教師と言うことが男との話の中でわかった。

この事故の張本人であろう、その女は海の方を見つめていた。「今日は天気も良く眺めがいいので海でも見ているのか。いい気なものだ。」とも思ったが、どうやらそうではないらしい。少し泣いているようにも見えた。

「なんか反省しているのだろう。まあ大したことなかったからいいじゃないか。」と一郎は心の中でつぶやいた。

「公務員同士のカップルが真っ赤なSUV車か・・・。」と、一郎は頭の中でつぶやいた。

「俺も給料取りのままでいたらよかった。そしたら今頃こんな苦労をしなくても済んだのに。」

それは自分の後悔と云うよりも、彼らに対しての(ひが)みであると自分でもわかった。

「いい気なもんだ。」とまでは言わないまでも、一郎の気持ちの中には「あの人たちは高い給料をもらっている上に、土日祝日は休みと来ている。こちらは年中無休の上、給料も無給に近い。人ってあまりにも不公平だ。」と言う気持ちでいっぱいだった。

 しかし、そんな事を思っても顔に出すわけにはいかない。自分では出来る限りの営業スマイルで対応した。

 簡単な手続きを済ました後、修理をする車を積載車に積み、松田君と一緒に、そのカップルに軽く頭を下げ、トラックを発進させた。

 隣に座った松田君に対して

「修理は月曜日でいいから。」といった。

「はい。でも、すぐにもできそうです。」と、彼は返した。

うちに入ってまだ四年目だが、短期間で板金修理塗装は特に上達した。それはとても頼もしかった。

 松田君は車の窓を開け、潮風を顔に受けながら、短い髪を風になびかせていた。車から見える青い海と海岸の景色は既に夏であり、今年の来る夏を想像しながら楽しんでいるようだった。恐らく彼にも、今の会社の経営状態は薄々感じているだろうと思う。彼が独身なのがせめてもの救いなのだが、いろいろ会話をする中で、彼にはつき合っている女性がいるようだった。

「結婚しないのか?」と、たまに冗談を交えて言うと彼は「ええ、まだちょっと。」と、恥ずかしそうにも困ったようにしながら言う。なんでもない会話なのだが、そのときは「うちに勤めている間は経済的に不安定ではないかと思って結婚しないのでは?」と勘ぐってしまう。

 それでも、自分に給料を支払わない分でも、彼にはそれ相応の給与は出しているつもりだ。しかしボーナスは厳しい、将来もわからない。それでは結婚出来ないだろうと思われても仕方ないだろう。

「さっきのカップルはきっと幸せな結婚をするだろうな」と、云う思いが頭をかすめた。

 

 会社に帰ると早速、その修理車を降ろした。

「それじゃ、その車を板金修理場に置いといて。修理は月曜日でいいから。」と、車の中で松田君に言った事をまた繰り返した。俺は再び事務所で経営計画書の作成に入った。

 最近はパソコンの文字がだんだん見えづらくなっていた。はじめは疲れ目だろうと目薬をさしてごまかしていたが、どうも少し老眼が入ってきたらしい。

「俺もそういう年か・・・。」と思ってしまう。

 同時に、自分の同級生で「公務員や大手企業に勤めている奴らは、これぐらいの年になるとそれなりの出世をしているんだろうな。」と、考えてもしょうがないと思いつつも、そのことが頭の中にチラつく。

 一郎が大学を卒業して勤めたのは、有名な一流ホテルだった。

 そこのホテルマンとしてバリバリ仕事をやっていた時には、家業の自動車修理工場など継ぐつもりなど全くなかった。しかし、家業を継ぐだろうと思われていた一つ上の兄が、遠く離れたところに婿入りする事になり、なんとなく親戚や周りの人の雰囲気で一郎がこの工場を継ぐことになった。

 そういえば次男なのに一郎と云う名前は、あらかじめ決められていた事だったかもしれないと、たまに思うことがある。

 しかし、一郎も嫌々ホテルを辞めて自動車工場を継いだわけではない。確かにホテルマンとしての仕事は充実していた。しかしそうは云っても所詮はサラリーマンだ。自動車工場を継げば一国一城の主だ。当時の若い一郎には野心があった。

 妻の裕美とはそのホテルでの同僚だった。裕美は三年後輩で、職場で色々教えているうちに仲良くなった。職場恋愛は御法度と云うわけではなかったが、やはりバツがわるい。そろそろ結婚しようかと云う時と、家業を継ぐと時期が重なって、ホテルを辞める時期としてはちょうどよかった。

 妻には「俺は社長になってお前は社長夫人だ。きっと楽をさせてやる」と大見得をきった。正直な気持ちでもあり、そうでなければならないと思った。この会社を受け継いだ時は大きな夢も希望もあった。

 あれから二十年数年経った。

 妻には、何一つ約束を果たせてはいない。

 日曜日の朝、工場に出かけてみると、板金修理場に昨日回収した赤いSUV車の板金の修理が進んでいた。

「あいつ、月曜日でいいって言ったのに・・・。でも板金修理は得意のようだ。さすがに仕事が早いな。」

 松田君は職人肌と言うか、手先は器用なようで、このような技術を伴う仕事は得意のようだった。

「そうか。その手があったか。」と思わずポンと手を叩いた。この会社を立て直すには、今はこれしかないと閃いた。

 早速、一郎は売上を改善できる方法はこれしかないと思い、その策を経営計画書に反映させてシミュレーションをしてみた。シミュレーションでは、とりあえず二年後には単年度黒字。三年後以降からは累積赤字を減らすような計画書ができあがった。ただし、これが現実となるとそううまくは行かないはずだ。しかし決して『絵に描いた餅』ではない。

「これで何とか・・・。」

 希望を繋ぐ書類をプリントアウトした。

 夕食の時、あてもなくテレビをつけてニュースを見ていた。すると、内閣府の発表にではGDPは名目0.3%の伸びで、実質は0.1%の伸びだという。「名目」だの「実質」だというのは、何の事かはわからないけど、どうも経済は少しずつだが成長しているっていうことを言いたいらしい。

「日本の景気の底は脱しており・・・」

「賃金・所得は前年を上回り・・・」

などど、男性のキャスターが感情を殺して言っている。

「世の中そうなの?」「どこの国の話だよ。」と思ってしまう。あまりに自分の生活とかけ離れていると、おかしささえこみ上げてきた。

 そういえばもう少しで国政の選挙だ。政治家たちは、自分たちの政策に効果が出始めてきたといい、選挙演説ではその効果を全国津々浦々に実感できるようにすると言う。

 また、ほかのニュースでは、大きな経済団体の偉い人が

「消費税は福祉のため、上げるべきです。」などど、もっとも顔で言っている。 

 いったい、どこの国の話なんだと思ってしまう。そんなにこの国は裕福な人が多いのか?それとも俺が極端に金がないのか?

 自分には全くわからないが、およそどの時代でも、あまりお金に困っていない人を中心に世の中は回っているようだ。

 うちの融資を決める人もきっと、あちら側の人なんだろうな。

と思った。


 翌日の月曜日。

 俺は、先日言われた一連の書類を持って銀行へ出かけた。

 融資の担当は、同じあの黒縁眼鏡の男だった。

「そちらへお掛け下さい。」

 とりあえず、物腰は柔らかいが、顔には感情がないように思えた。

「先日お願いしました書類はすべてお揃いでしょうか?」

「はい。」

 一郎はそう言うと、バックの中から用意した書類を机の上に出し、男が確認できるように、相手側に向けた。

「それでは確認させていただきます。」

 決算書と試算表はサッと見て、書類があることを確認しただけだった。すでに会社の数字はわかっているので、いちいち内容までは確認をしない。問題は経営計画書だ。

 計画書では、本年度、次年度、次々年度と売上がV字復活になるようなことは書いていないが、利益はキチンと出て年々増収していく予想になっている。では、どうしてこういう数字になるのか?と云うことなどを、いちいち説明をする。相手もまた質問をしてくる。黒縁めがねの男が少し首を捻っただけで、こちらは不安になり怯えてしまう。

 売上が上がれば当然、仕入れや経費は増えていく。その中でも経営改善をして、なんとか減らされる経費は減らす。また、自分が考えた新たな販売・営業計画も説明する。

 一通り説明するのに三十分もかかってしまった。

 終わった時には、手のひらに冷や汗をかき、疲れがどっと出ていた。

「経営計画書の方はとりあえずわかりました。これで提出して見ましょう。ただ、そうは言っても現在債務超過の状態に変わりはないですので、今のところはどうとも言えませんが・・・。」と彼は言った。それは、一郎に希望を持たせるような言葉ではなかった。

「よろしくお願いします。」

 俺は頭を下げ、本当にお願いするつもりで言ったが、その言葉には力がなかった。

もう、どうすることもできない。すべて手は打ったのでこれでダメなら・・・と思うと目の前が真っ暗になった。

「経理の方は奥様がされているのですか?」

 話は終わったのだと思ったが、その黒縁眼鏡の男は世間話をする感じで言ってきた。

 一郎はカバンを手に取り席を立とうとしていたが、その言葉にもう一度腰を下ろした。

「ええ、まあ。妻の方に任せていますが、決算だけは税理士さんの方に任せています。」

「いや、きちんと試算表も毎月作られているようですし。失礼ですがこの手の相談…つまり運転資金の相談に来られる方は、案外、どんぶり勘定というか、試算表をキチンとされていないところが多いんですよ。でも中村さんはきちんとされてます。それが経営計画書にも反映されていますね。」

 ほめ言葉と受け取ったがいいのだろうか?一郎はお礼を言っていいのかどうか迷った。

「はあ、まあ。恐らく独学なんでしょうが経理の勉強もしたようで、簿記検定二級も取ったようです。そんなこと私にはできませんので、それにつきましては頭があがりません。苦労を掛けてばっかりです。」

「もし、融資が決定したら奥様に感謝してください。」

「あっ、ありがとうございます。」

 なんだか初めてその人と事務的な会話以外の話をした感じだった。

「あっ、それから…。」

 黒縁眼鏡の男は、なにやら書類を出して俺の前に置いた。

「まだ、何か記入する書類があるのだろうか?それとも何か書類に不備があったのだろうか?」と思い、

「なんでしょうか?」

「まだ、先ほどの結果がでるまではもう少し時間がかかりますので、何とも言えないのですが、それはそれで早めに処理をします。それとは別にこれは個人カードローンの書類です。幸い中村さんは、個人的にはうちの銀行と取引もあり、特に個人的な債務もない。この個人ローンなら審査は通りますので、この書類を書いていただき捺印されたら少し金利は高いですが、個人的に借り入れが可能ですよ。ただし五十万円までしか借り入れができませんが。それとこれは事業用の用途に使うものではありませんので・・・それ以外でしたら中村さんのご自由に。それ以上は申し上げません。」

「それって・・・。」

「私もいままでいろんな事業主様を見てきました。でも、その中でも役に立てた人もいれば、立てなかった人もいます。残念ながらお役に立てなかった人にはどうしてあげれば良かったんだろうと悩むこともあります。この仕事はある意味人の人生、いや人の生き死を分ける仕事でもありますからね。中村さんの結果はまだわかりませんが、これが私のさせてもらえる精一杯の事です。」

 この人は、今まで事務的で冷たい人と思っていた。しかし、こんな手を差し伸べてくれるとは。

「ありがとうございます。」

 一郎は深々と頭をさげ、しばらく頭を上げなかった。

 社交辞令ではない、心からのお礼だった。


 その日の夜、突然妻が「蛍を見に行こう!」と俺を誘った。

「蛍?もうそんな時期なのか?」

 よく考えてみればそろそろ夏至が近い頃だった。

「ええ、車でちょっと行ったところだけど、今、蛍が見頃なんだって。今日来たお客さんが話してたの。」

「でも、俺はまだ仕事があるしな。」と忙しそうな口ぶりで妻に言った。

「あなた、最近、根を詰め過ぎじゃない?たまには息抜きも必要でしょ。」

 そんな事は百も承知だ。しかしやらなければならない。車輪の中を回るハムスターのように、出口の見えない成果を目指して、働き続けなければならないのだ。

「いや、今日はいいよ。」

「今日はいいよって・・・じゃあ明日ならいいの?」

「そういうわけじゃないけど・・・お前だってわかっているだろ、今のうちの状況を。」

「だから言ってるの。あなたこのままじゃ死んじゃうよ。」

 別に死んでも構わないと思っていた。いやむしろ死んだ方が、保険金が入ってきて会社としては、結果オーライではないかとも思う。よく考えれば最近はそんなことばかり思うようになっていた。

 しかし妻の「行こう!行こう!」攻撃にあえなく降参をしてしまい、渋々出かけることになった。妻もそんな俺を察していたのかもしれない。

 外に出てみると遠くに見える山の稜線は少し赤みを帯び、まだ月の出ていない濃紺の空には一番星が見えていた。会社が順調ならばこの光景を見て、情緒豊かに感傷的になったかもしれないが、今の自分にはそんな気持ちになる心は既に疲弊していた。

車のハンドルは妻に任せた。

 しばらく車を走らせ、やがて川に並行する道に来た頃、窓を開けると夏を思わせる湿った風が、草木のにおいと一緒に運んできた。懐かしい匂いだった。

「もうすぐ夏がくるな。」

「そうね、昔はよく蛍を見にいったわよね。」

 ハンドルを握った妻は懐かしそうに言った。

「そうだったかな?」

「何言ってるの?わたしが小学生の頃の話よ。あなたは子供のころ蛍を見に行かなかったの?」

「たぶん、行ったと思うけど。」

 たぶん、子供のころは親に連れられて蛍狩りに行ったのだと思う。しかしそれはものすごく遠い過去のように感じられ、現実だったのかな?と思うほどだ。

 しばらくすると、その蛍の観賞地という所に着いた。

 蛍を見るためだろうか、街灯が一つあるだけでそれ以外は真っ暗だった。

 平日の夜の割には人が多いと思った。車を降りようとするそばから、蛍の美しい光があちこちで見えた。

「蛍って綺麗ね。素敵!ここからでも十分に楽しめるわ。」

 と妻は、いささか興奮気味に声を潜めて言った。

「結構、明るいんだな。蛍の光って。」

 思いのほか明るい光とその美しさに、静かに見るのは当たり前のように思えた。

 しばらく、川沿いにあるフェンスに身体を前のめりになりながら預けて、その美しい光景を眺めていた。すると妻が、

「ねえ、もっと奥の方に行かない。上流の方に。なんかすごく綺麗っだって、今日来たお客さんが言ってたわ。」

「せっかく来たんだからもっと綺麗に見えるところがあれば行ってみるか。」と思い、

「じゃあ、そこへ行こうか。」と、一郎は妻に案内してもらって歩いた。

 暗い田んぼの畦道を、妻が持ってきた小さなLEDの懐中電灯を頼りに歩いた。少し高くなっている丘を越えると小さな光の集合体が見えてきた。

「あれ、蛍なのかよ!」

 俺は小さな声で、驚きを隠せない様子で言った。

 それは、今まで見たことのない蛍が集まり、たくさんの光跡が上下左右に飛び交い、光の集合体ではあるが、クリスマスのイルミネーションと違う淡い黄色い光が気持ちを穏やかにさせてくれた。

 また、ふと見上げると漆黒の空に満天の星が瞬いている。その背景と蛍の光跡が幻想的だった。

「蛍、すご~い!でも、私が子供の頃見たのと変わらない。」

 妻はヒソヒソ話をするような声で言った。

「子供の頃と変わらない?」

「そうよ、ここは昔と一緒のように感じるわ。」

「昔からこんなに綺麗なものが続くなんてすごいな!」

「ううん。昔から続いていた訳じゃないらしいの。三十年位前には、蛍が少なくなってたらしいって聞いたわ。こんなに綺麗にたくさんになったのはつい最近だそうよ?」

「そうなんだ。地元の人も増やす努力をしたんだろうな。」

「そうね。いつでも続くなんてものはないわ。この世はいつもスクラップ&ビルドよ。」

「スクラップ&ビルド?」

「そう、スクラップ&ビルド。」

「いや、それって経済用語だろ。たしか意味は、老朽化したものを廃止して、新しい設備や組織に置き換えるとかと云う意味だろ。」

「そうかもしれないけど、私は『壊れてそしてまた再生する。』っていう意味に解釈しているわ。」

「あ~そういう事。まあ、そうだな。その方が分かりやすい解釈かもな。」

 二人は草の上に腰を下ろし、しばらく音もなく光とその光跡を作っている蛍の群れを静かに見つめた。

 やがて、一郎がつぶやくように口を開いた。

「うち、融資されなかったらもう終わりかも。」

 間をおいて、裕子も口を開けた。

「あなたにしては弱気ね。でも終わりじゃないわよ。」

「そうはいっても、今の家や工場は既に銀行の担保に入っているから、もしもの時は人手に渡って住めなくなるよ。」

「じゃあ、ほかの所に住めばいいじゃないの。だいたい、ちょっとあの家大きいのよ。今は、子供も大学生で家を出てしまって、あなたとお義父さんお義母さんの四人暮らしじゃない。」

「いや、それはそうかもしれないけど・・・。」

「それより私は、あなたがいつも辛い顔をして働いている毎日より、笑顔で"蛍でも見に行こうか”って言っている毎日の方がいいわ。最近のあなた疲れきっていて可哀そうだもの。」

 毎日会社の事ばかりを考えていたものの、妻がそんな風に思っていたとは全く知らなかった。

 再び二人は、静かに蛍を見ていた。

 その時、ふと妻の横顔を見た。

“いつからか妻はたくましくなっている。”と感じた。

 すると一匹の蛍が、俺の胸元にとまった。

「あなたの所にとまったわね。懐いているのかしら。」

「まさか。蛍が懐くわけないだろ。」

「あなた、背中にも一匹留まったわよ。」

「蛍にばっかりに好かれてもな。もっとほかのものに好かれるといいんだけど。」

「例えば?」

「例えば・・・お金とか。」

「お金かぁ~。そうね、お金は大事よね。」

「だろ。」

「でも、お金って云うのはどうかな?確かにここ何年は、お金に悩まされているのも事実よね。いや、これからもずっと悩んでいくかもしれないわね。」

「すまんな。」

「別にそういうつもりで言った訳じゃないわ。でも、確かにお金がないからあなたは疲れきっているし、家の雰囲気もなんとなく暗いし。」

「そうだな、はっきり言ってなんの為に働いているのかさっぱりわからない。返済のみのために働いているような気がする。そして今、その返済も正常にできるかどうかとなると・・・生きている意味も分からない。」

「ダメだからね。変な事考えちゃ。あなたには私がいるから。」

続いて妻は言った。

「あなたの所にとまったその蛍の光みたいにちっちゃなものでも、希望がそんな小さな灯りしかなくても、私はあなたに着いて行くわ。」

 よほどできた嫁をもらったと思った。

「ありがとう。」と、俺は妻に聞こえるか聞こえないぐらいの小さな声で言った。

「ねえ、もし今の仕事がダメになったら、今度は一緒にパン屋さんをしない?」

「パン屋?」

 俺は、どこからそんな発想がでるのかと思った。

「そう、パン屋。昔、あなたと同じホテルで働いてた時、厨房からパンの焼ける香りがしてたでしょ。」

「ああ、そういえば。いい匂いがしてたな。」

 一郎たちが前に働いていたホテルは、自前でパンを焼いていた。オーブンからパンを出すときの香りは、不思議と気持ちが幸せになったものだった。

「あの時は、あなたともう付き合っていたけど、将来はパン屋さんを開業できたらなって思ったの。」

「そんな話、初めて聞くぞ。」

「そりゃ、そうでしょ。初めて言ったんだもん。でも、あなたはあの時既に自動車屋さんを継ぐって決めてたから何も言えなかったの。だからもしも、今の仕事がダメになったら、パン屋さんがしたいなって思ったのよ。」

「そっかぁ~。パン屋さんね。今の仕事と畑違いもいいところだな。でも、俺にはちょっと無理かな?」

「そうかしら。でもやってみないとわからないわよ。」

 妻は、悪戯っぽい風に言った。

 しばらくして俺は、真剣に考えている風に、

「じゃ、ちょっと考えてみるかな?」

「あは!冗談、冗談よ。ちょっと現実離れしているかも。でもわたしが、パン屋さんになりたかったのは本当だよ。でも、さすがにあなたがパンを作っているところは想像できないわ。」

「お前なぁ~」と俺はちょっと、向きになる格好を見せた。

「でもね。こんな時でも『将来はあれがしたい!』って思えるのってすばらしいじゃない。」

「ああ、現実のことをあまり考えなかったらな。」

「すぐ、そんなこと言うのね。でもあなたの作った経営計画書では、うまく行くんでしょ。」

「勝算はあるけど、所詮紙の上での計算だよ。」

「でもどういう計画なの?」

「工場は、車検や修理などする最低限の設備は残しておいて、残りの設備全ては売却処分する。でも、板金棟はいまのままにしておいて、板金塗装に力を入れるんだ。」

「板金塗装に?」

「車検なんかはフランチャイズの店が出て来て利益が確保されないし、新車販売は売っても利益が少なく、それに元手もかかる。板金はそもそもやっているところが少ないし、それにうちの松田君は板金塗装がすごく得意みたいなんだ。彼は職人だよ。それにうちに板金の仕事が来なくても、よその修理工場に板金の営業をして、ほかの工場の下請けもする。その板金の下請けが売り上げの大きな柱となる。といったところだよ。うちの唯一の強みの仕事を一つに絞って、あれもこれもしない。他の店にも営業をして同業他社からも外注させてもらう事を柱にしたんだ。」

「そうね。今までいろんなことしすぎたかもしれないわね。あなたがそういうなら大丈夫よ、きっと。」

「うん。」

「うまく行くようになったら、パン屋を増設してね。」

「わかったよ。」

 妻の冗談ともいえる一言に、俺達は久しぶりに笑った。

「帰ろうか。」

「はい。」

 二人が立ち上がると同時に、俺に留まっていた2匹の蛍はスゥーっと飛び立っていった。

 そして、2,3歩歩いた時、

“きっとうまくいく、心配しないで”

 と声がした。

 一郎は、あたりを見回したが他に人はいない。

「裕子。お前なんか言った。」

「ううん。どうかした?」

 空耳かと思った。

「いや、なんか女の人の声で…」

「え!ホラー?こわ~い。」

「ちがうちがう。そんなのじゃなくて、なんか励ましの言葉つうか…そんなのみたいなのが聞こえたの。」

 妻はちょっと考えて、

「それはたぶん私の心の中の声が聞こえたんでしょ。きっと。」と笑った。

「そうだな。」空耳でも良かった。妻のその言葉が一層勇気づけてくれた。

 融資の結果がどうあれ、死ぬ気でがんばって行こうと思った。


4・夢 八木順太郎


 ここ、「ホタルのツリー」では無数の蛍が飛び交っていた。

 仲間の蛍たちは、私と同じように人の心を癒しながら、それぞれパートナーを探して、次の世代に命を繋ぐための使命を果たしていた。

 私も、羽化してから一生懸命人間たちの思い悩んでいる姿を見つめながら、もう一つの大きな使命である、大切なパートナーを探して産卵をするという事も忘れていなかった。

「レナ、いい人見つかった?」

「そうね。そろそろ本腰を入れなくちゃ。時間がなくなってしまうわ。」

 そういった時、またフクロウさんがバッサ、バッサとやってきた。

「お前さんたちまだパートナーが見つかっておらんのか。」とフクロウさんはあきれた様子で言った。

「ええ。でも、人間って色んな悩みを抱えているのね。」

「そうみたいじゃの。わしら動物にはよくわからんがの。わしから見たらもう少し気楽に過ごせばいいんじゃないかと思うがの。なるようになるもんさって事が判らんのかの。でも奴らの生活はそうもいかなくなっているんだろうよ。」

「色んな人のいろんな悩みや苦しみを聞いてきたけど、とりあえずみんな元気を取り戻して、自分たちで進んでいく道を探し出したみたいだったわ。」

「お前さんの、その淡い黄色い光がその後押しをしているんじゃろ。おお、なんかまたお客さんみたいだぞ。」

 と、フクロウは小川近くの草むらに、中年の夫婦が歩いてくるのを見つけた。

「でも、あの夫婦は悩みとかそういうものじゃないような気がする。なんか一つの仕事をやり終え充実感みたいなものを、あの男の人から感じるわ。」

「そのようだな。彼らは夕涼みがてらに、蛍観賞といった感じじゃな。」とフクロウさんはその夫婦を見て言った。

私とレナは、最後の仕事になりそうなその夫婦のもとに飛んで行った。


「あなた、すごいわね。この蛍の数。光の線に圧倒されそうよ。」

「そうだな。俺も話には聞いていたけど、こりゃすごいわ!」

その夫婦はそういって、しばらく蛍の集団を見つめていた。そして草むらに腰をおろし、再び蛍を見ていた。

「あっ、あなたの肩に蛍がとまったわ。なんか無防備にこちらに来るっていうのは、懐いている感じがして可愛いわね。」

 女が、その男の右肩にとまった蛍を指さして、笑顔で言った。

「蛍が懐くわけないが、でもこれはこれで趣があるよ。でもお前、どうして今夜は蛍を見に行こうって言ったんだい。」

「それがね。先週の事だったかしら。学校で三者面談があったでしょ。あの日の夜に瞬がなんか落ち込んでたようでね。たぶん進路の事で悩んでたかもしれないわね。で、その夜に友達とここの蛍を見に行ったみたいなのよ。そうしたらなんだか次の日から元気になっちゃって。」

「へえ~。蛍には癒し効果があるとか言われているからな。そのせいか?」

「そうかもしれないけど、それから瞬ったら、塾に行くって言いだして。」

「塾?」

「そう、自分は英語が不得意だから、英語の所だけでも行かせてくれっていうのよ。」

「ふ~ん、奴は俺に似て好きなことしか勉強しないと思っていたけどな。少しは大人になったか。」

 とその男は遠くの蛍を見るように言った。

 男の名は八木順太郎。地方銀行に勤めている。今は融資担当だった。

「あなた、今日、機嫌がいいわね。私が『蛍を見に行きましょう。』っていったら、素直に『うん』なんて言うからびっくりしちゃった。何かあったの?」

「別にいいことがあったわけじゃないけど、たまにはお前と二人っきりで蛍でも見に行こうと思ったんだ。でも、『たまには…』じゃなかったな。結婚して以来初めてか。」

「そうね、結婚して十八年。あなたと一緒に蛍なんて見に来たことなんかないじゃない。」

 女の方は笑いながら言った。

 男は、それを笑顔で聞き流し「そうだなぁ~」と何かを考えるようにつぶやいた。

 少し間をおいて、

「先日、融資を申し込みに来た自動車屋さんがいたんだ。経営の内容はかなり厳しくてね。債務も多すぎるし、ちょっとこれではかなり厳しいと思たんだ。融資の条件として当然経営計画書がいるんだが、そこの社長が作った経営計画書はしっかりとしていて、根拠もあった。まだこの会社は希望が持てるって思ったんだ。それに社長の人柄もいいし、奥さんもきちんと経理をしていらっしゃる…まぁ、これは融資の判断には関係ないけどね。」

「珍しいわね。あなたが仕事の事を話すなんて。」

「そうだな。なんだかこの件は話したくなってしまってな。でも、結構この仕事、感謝されるときはいいけど、恨まれることも多いんだぜ。当たり前だけど人に喜んでもらうと嬉しいよ。」

「じゃ、その自動車屋さんの融資は決まったの?」

「うん、たぶん大丈夫だと思う。でもまだ本人には連絡していないけどね。」

「良かったわね。」

「えっ?」

「良かったって言ったの。あなたが嬉しそうで。仕事の事ではあまりうれしそうな話を聞いたことがないから。」

「ああ、いい時もあれば悪い時もある。なんのためにこんな仕事をしているんだろうと思う事がいっぱいあるよ。時には冷徹な人間になって感情さえ忘れないといけない時もあるさ。気持ちだけではどうにもならない。“融資はできかねます”なんていうときは、やりきれない気持ちになるよ。でも、なんだか今回はやっぱりこの仕事をやってて良かったなって思えたんだ。それに、今回内助の功って大切なんだと改めてわかったよ…ありがとう。」

「―ありがとう―」の部分は、声が小さくかすかに聞き取れた。

「あら、めずらしい。あなたがそんな事を言うなんて。雨が降るわ。いや、梅雨だから雨が降るのが当たり前だから、雪が降りそうになるわ。」

女は声を殺しながら笑った。

「そんな事言うなよ。いつも感謝しているんだぜ。」

「はい。」

 その黒縁めがねの男は静かに笑って言った。

そして女が返事をしたとたん、もう一匹の蛍が男にとまった。

 その夫婦は、しばらく前にいる蛍の群れを見つめていた。

「なんか不思議よね。」

「なにが?」

「あれだけ蛍がいて、綺麗に光っているのに何も聞こえない。ただ、点と光跡があるだけ。羽ばたく音も鳴き声も何もない。」

「そういわれてみればそうだな。羽根の音もしないしな。」

「いろんな事を語るには持ってもいよね。」

「そうだな、持って来いだな。」

「でも、そういわれて何か話をしようと思ってもな・・・」

 男の方は苦笑いをしている感じだった。

「別に無理してしゃべらなくてもいいわよ。同じものを見つめて、同じくそれを見て感動できれば心が通じ合うわ。」

「同じものを見て、同じ夢を語る。夢が共有できるっているのは素晴らしいことだよ。俺の仕事もそうだ。」

 男は、納得した感じで頷き、満足そうな顔になった。

 再びその夫婦は静かに蛍の群れの航跡を見つめていた。

「帰ろうか。」

「はい。」

 夫婦はゆっくり立ち上がり、尻の草をパッ、パッと手で払った。

 すると2匹の蛍は、男から飛び立ちしばらくその周りをまわった。

“夢をありがとう。”

「えっ。」なにか女性の声がした。

「どうしたの?」

「あ、いや空耳かな。」

「いやね、年を取っちゃって。」

「そういうお前だって、もういいかげんな年だぞ。」

「失礼ね、レディに向かって。」

「レディって…お前。どう見てもレディじゃなないだろ。」

「本当に失礼ね。」

二人は、久しぶりに大笑いをした

そして二人は、お互い手を携えて元来た道を帰って行った。


5・  終章


「アカリとやら、どうもいいパートナーに出会えたようじゃな。」

「あっ、フクロウのおじさん。うんいいパートナーに出会えたよ。今はいい産卵場所を探しているの。」

 私はやっと素晴らしいパートナーと出会う事ができ、その相手と交尾をし、今はきちんと卵を生むことのできる場所を探している。

声を掛けられたフクロウさんとお話をするために、わたしは近くにあった笹の葉の先に留まった。

「レナはもう産卵が終わったみたいです。」

「そうか。お前さんもいろんな仕事を終えて一安心じゃの。」

「うん。みんな悩みは違っていたけど、少しだけあの人たちの役にはたったみたい。」

「そりゃよかった。お前さんたちの灯りの効果は絶大じゃの。」

「ううん。私たちの灯りっていうより、人間たちが灯りを見ながら、勝手に立ち直っただけだけどね。」

「そのお手伝いをするのが、お前さんたちに仕事じゃろ。」

「そうね。」

「ええ。でも、人間ってとっても不思議。」

「不思議?」

「そう、不思議よ。だって置かれている状況は全然変わらないのに、考え方ひとつで元気にもなったり、落ち込んだりしちゃって。それは頭がいいからかしら。」

「ふぉ、ふぉ、ふぉ、そうじゃな。アカリは良いところに目を付けたな。」

フクロウさんは笑った。

「アカリやレナの灯す光を見て前を向いて歩けるようになった人間たちも、再び色んな壁に突き当たることは間違いない。その時またここに来るかも知れんな。彼らは成長することが必要なんじゃよ。そして困難を克服する力をだんだん身につけるんじゃ。何せあやつらは寿命が長いからの。」

「そうね。私たちみたいにすぐ終わってしまう人生じゃないものね。」

「まあ、そう悲観しなさんな。生き物は全て次に命を繋げていくもんじゃ。」

 またフクロウさんは「フォフォフォ」といいながら翼をバッサバサと広げ、暗い森の中に消えてしまった。


 深夜、私はまっすぐに生えているコケの上で産卵活動をしていた。

 私はこの場所を見つけるために、川面を何度か往復した。そしてやっと日陰になるような静かなでコケがまっすぐに生えている場所を見つけた。その間も私は光続けた。

「おや、産卵かい。ご苦労じゃな。」

フクロウさんは再び私の所に来てくれた。

「あっ、フクロウさん。今、大きな仕事を果たしている最中だわ。」

「それは、立派じゃ!ごくろさん。」

「がんばって卵を生んで、また来年立派な仕事をするんじゃぞ。」

「はい。今日は明け方まで産卵します。」

「がんばれよ。また、来年はお前さんの子供たちがいろんな人の心を救うんじゃろな。」

 アカリはすでに産卵に一生懸命でフクロウの声は届かなかった。

あたりは、カエルの大合唱とともに、空には満点の星が輝いていた。



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