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御前崎石油施設防空隊

作者: 高橋広和

 今日の御前崎は快晴だが、午前中の今はまだ暑さも我慢できるほどだった。千恵子は同僚三人と託児所の子ども達を散歩に連れ出していた。今日は海側ではなく、畑が多い内陸コースである。

 手に持った草花を差し出して、不思議な言葉で話しかけてくる幼い子ども達に、笑顔で相槌を入れつつ畑道をテクテク歩いていると、男の子の一人が空を指差して飛行機だと教えてくれた。

「本当だ、飛行機だね、たくさん飛んでるね」

 みんなで遠く陰になっている航空機に向かって、万歳をしたが、千恵子の表情は優れなかった。きっとあの飛行機は特攻に行くのだ。あの人のように還ってこないのだ。そんな気持ちが強かった。

「先生、あっちにも飛行機」

 腕白な男の子が、千恵子の腕を叩いた。

「たたかないでよ、ああ、本当だね」

 千恵子はその機を確認して少し驚いた。西の方から単機で飛んできたそれは、あまりに低空で、さらに自分達に向かっていたからだ。これに気付いた同僚の一人が注意を呼びかける。近くに海軍の飛行場があるので、子ども達は飛行機に慣れているはずだが、エンジンの爆音に驚いて泣き出したり眠れなくなったりするかもしれない。

 千恵子はこの飛行機に違和感を感じた。詳しい訳ではないが、見慣れぬ形だったからだ。見ているとふいに怖くなった。

 漠然と危機感を感じていると、その飛行機の両翼が光った。頭の上を空気を切り裂いて物凄い量の銃弾が飛んでいく。みんな声も無く立ちすくんだ。

爆音を轟かせて頭上を航過する銀色の機体に、星のマークがあるのを、千恵子はボンヤリと見ていたが、子ども達が大混乱を起して泣き叫んだり走り出したりし始めて、正気に返った。

「逃げて、だめ、逃げて」

 正気に返ったつもりでも、頭の中は真っ白だった。『落ち着いて、先生と一緒に逃げるよ、こっちだよ』そう言いたかったのだが、口から出てくるのは単語だけだった。

同僚の悲鳴に千恵子は振り向いた。敵機が旋回を終えて、またこちらに機首を向けてきたところだった。

「隠れて」

 もうどうしていいか解らなかった。ただ、すぐ隣にいたと言うだけで、最初の銃撃からずっと自分にしがみついていた子ども二人を抱きかかえてしゃがみこみ、千恵子は目をつぶった。

機銃弾の着弾が立てる盛大な土ぼこりが降ってきた。


 移動命令を受けて朝から列機の富岡敦志飛行兵長と百里原基地を飛び立ったが、ちっぽけな御前崎基地に到着してみると、基地司令はしばらくぶりに会う近所の人だった。

「よう、のぶ坊、元気だったか? お、まだ飛長のままかい、まだ二飛曹に出世できないのか」

 唖然とする佐野信夫飛行兵長に、御前崎基地司令の樫崎少佐はじゃがいものような顔で大笑いして見せた。

「地元だからって理由でここの隊長にされてさ、家には近いが、地元だといろいろあってさ、寂しいからお前も巻き込んだのさ」

 樫崎少佐は地元出身の海軍パイロットで、佐野飛長は近所に住んでいた彼に憧れて海軍に入隊した経緯がある。

 樫崎少佐は二人を自ら案内してみせた。

「最近出来た基地なんだ。滑走路は一000メートルが一本。あれが本部、あっちが宿舎、小さいだろ。人員は三0名ほど、機材はお前等が乗ってきた零戦が二機だけだ」

 いったい何のための基地なのか、あまりに規模が小さすぎる。近所のよしみで佐野飛長が疑問を口にすると、樫崎少佐は口を濁した。

「まあ、あれだ、御前崎には海軍と陸軍の電探がある。これの防空のためだ。米軍の偵察機やらが飛んできて、この頃はうるさくてさ」

 本部から兵士が走って来て、町長から電話だと告げた。

「おいでなすった、今度はなんだろう」

 樫崎少佐は付いて来い、三歩以上はみな駈足と、駈足で本部へと向かった。本部と言っても木造一階建ての小屋である。

「俺が地元で近所で昔から知ってるからって、なにかあるとすぐ言ってくるんだ。もしもし」

 樫崎少佐は困ったようなうれしいような感じで説明してから受話器を取ったが、顔色が悪くなった。町長と思しき電話の向うの声が、佐野飛長にまで聞こえてきた。なにか怒鳴っている。

「近くで米軍機の地上掃射があったらしい。死傷者は出ていないらしいが、散歩中だった託児所の子が何人か行方不明だ」

 受話器を置いた樫崎少佐は、青い顔で家族の立場がとか、海軍の面子がとか呟く。

「いつの間に来てたんです? 警報もなかったし、警戒隊の電探はどうしたんですか」

 佐野飛長と富岡飛長は仰天した。

「解らん、電探は精度が低い」

 樫崎少佐は悔しさでじゃがいも顔を歪めている。

「ともかくお前、子ども探しに行ってこい、地元なんだから他の奴を案内しろ。俺はここを離れられん。富岡飛長は待機、残りは上空警戒」

 基地のすぐそばで起こった空襲だけに、それを防げなかった地元出身の樫崎少佐は悔しがりつつも手早く指令を出し、捜索隊を組織して出撃させた。

 

現場は畑の真ん中だった。すでに捜索が開始されていて、あちこちで消防団や婦人会の人達が子どもの名前を呼んでいる。

 現場に残っていた土まみれの千恵子は、悪いとは想いつつも、役に立たない連中だと感じつつ、基地から来た海軍の兵隊達に行方不明になった子どもの名前と特徴を説明した。

「まだ二人、見つかってないんです」

 散らばっていく兵隊達だったが、一人、パイロットらしい男がぼんやりと千恵子の前に残っていた。

「チエちゃん。俺だよ、佐野だよ」

「佐野君、なんでここにいるの」

 二人は小学校以来の友人だった。佐野飛長は千恵子が地元を出たと聞いていたので驚いたし、千恵子は外地にでもいると思っていた佐野が、地元にいるので驚いた。

「ひさしぶり、元気だった? いや、それどころじゃないか。子ども捜さないとね」


 御前崎は静岡県の南端にある岬の周辺を言う地名である。近世から灯台があることで有名だが、特に何も無い田舎だった。

 灯台のある岬の南側は岩だらけの海岸で、それに向かって山がせり出したような急な地形になっている。

 岬から少し離れた所に陸軍の電波警戒機があり、そのすぐ隣に縄張り争い的に設営された海軍の電波探信儀がある。

岬の西と北は砂浜になっていて、内陸部は山がちである。


 昼近くになって、一人は見つかった。だが、まだ一人、女の子が見つからない。ようやく手がかりを掴んだのは昼を回ったあたりで、事件発生現場からかなり離れた場所だった。農作業中の老人が、小さな女の子が山の中に入って行くのを見たと教えてくれたのだ。

「さっきだよ。見かけない子だったな、遠かったけど。女の子だと思う。他の人に知らせてあげるよ」

 佐野飛長と千恵子は、農具を置いて歩き出した老人とは反対方向へ駆け出した。

「この獣道だ」

 農道の脇に山へと入る細い道があった。

「なんだって小さな子がこんな所に一人で入って行くんだ」

 先を行く千恵子を佐野飛長は追った。

「子どもって、謎な行動を結構やるんだよ」

 覚えあるでしょうと問われて、佐野飛長は自分が幼かった日を思い出して、曖昧な返事を返した。

「ねえ、静岡で事務員やってたんじゃないの?」

 枝を払いながら千恵子を追いかけて、佐野飛長は訪ねた。千恵子は聞き取れなかったのか、振り返りもせずに聞き返してきたので、佐野飛長はもう一度言った。

「ああ、辞めて戻ってきた。今は託児所で働いてる」

 女の子の名前を呼びつつ、二人はかなり進んだ。

 木々の向うに建造物が見え隠れしだしたと思ったら、子どもの声が聞こえた。千恵子が走り出す。

 行方不明の女の子は、山の中に唐突に現れた柵にもたれてしゃがみこんでいた。千恵子が抱きしめる。疲れて泣いていたが、外傷は無いようだ。

 一安心した佐野飛長は、辺りを見回した。

「これ、油井のやぐらだよな」

 山の中で柵に囲まれたそれは、石油を汲み上げる施設であった。御前崎の北隣にある相良には太平洋側で唯一の石油採掘場が存在し、明治の初めからこれの採掘がおこなわれていたので、佐野飛長にもお馴染みの物であったが、このやぐらはまだ新しく、最新式のように感じられた。そしてなにより見慣れたものよりも大きかった。

「誰何!」

 突然硬い声で怒鳴られたので、三人は身を硬くした。田舎の山奥には不似合いな、短機関銃を構えた憲兵が二人、銃口をこちらへ向けていた。


 夜になって樫崎少佐が基地の自動車で迎えに来てくれるまで、三人はどこかの施設の一室に拘束されていた。

「のぶ坊、迎えに来たぞ。女の子も無事で良かった、あれ? 一緒にいる『先生』ってのは岡島さんとこの娘さんだったか」

 非友好的に黙っている憲兵に、どーもどーもと笑いながら挨拶をして、樫崎少佐は三人を車に乗せた。

「すまなかったな、遅くなって。陸さんと話が長くなってさ」

 その子の親御さんや関係者には連絡しておいたと、樫崎少佐は明るい。

「あんちゃ、いえ司令、あの憲兵と施設はなんですか。こんな田舎の山の中に」

 助手席から佐野飛長は身を乗り出した。

「ん、あれな、軍事機密な。そうだ、今日は無理だけど、明日か明後日に時間やるから、家に帰れよ。親御さんが喜ぶぞ」

 樫崎少佐は話題を変えた。


 女の子と千恵子を家に送ってから、二人は基地に戻った。それから富岡飛長も呼んで、司令室で樫崎少佐は御前崎の現状を説明した。

「知っての通り、この辺りじゃ明治の初めから、石油が採れてる。資源小国日本にあって、石油はめずらしい。新潟で採れることは有名だがな。ここは太平洋側で唯一、石油が採れる場所だ」

 相良油田と呼ばれるこれは、明治五年に徳川家の元旗本、村上正局が発見したことに始まり、日本の石油王こと石坂周造が開発したことで発展した。最盛期の明治一七年には年間七二一キロリットル、ドラム缶にして約三六00本分の石油が産出され、六00人が働いていたが、昭和八年には年間四六・八キロリットルまで産油量は落ちていた。

落ちたとは言え、かなりの量に思えるかもしれないが、一日の産油量にするとわずかに一二八リットルである。自動車やバイクの数台分ならば十分かもしれないが、たとえば零戦二一型は落下式増加燃料タンクを含めると、その燃料搭載量は八五五リットルであるから、零戦一機を満タンにするには六日半もかかる計算である。

「で、質もかなり良い。普通なら掘ったら精製するんだが、ここのは掘りたてをろ過して土を取り除けば、車がすぐに動き出すほどだ。この燃料不足の世の中で、車で迎えに行けたのも、そんなわけだ」

 ここで採れる原油の成分は、ガソリン・ナフサ材が三四%、灯油材三四%、軽油材二二・五%、重油材九・五%である。サウジアラビアで採れる『アラビアンライト』と呼ばれる原油はガソリン・ナフサ材二五%、灯油材一三・五%、軽油材一三・五%、重油材四八%であるから、かなり良質である。

 ちなみに日本が手に入れたインドネシアの原油『スマトラライト』

はガソリン・ナフサ材一二・五%、灯油材八・九五%、軽油材一二・四六%、重油材六六・0九%であるから、重油を燃料とする艦船には良いかもしれないが、軽油を燃料とする車両やガソリンを必要とする航空機には不向きである。

「ひょっとして、石油が大量に出たのですか、戦局を有利にできるとか」

 佐野飛長が身を乗り出した。富岡飛長も目を丸くする。それに対して、樫崎少佐は少し間を置いた。

「それがな、まだ今のところ、量が十分に採れないんだ」

 『今のところ』という言葉に二人は飛びついたが、樫崎少佐は手でこれを制した。

「不利な戦局を引っくり返すほどの量が出るのかどうか、まだ調査中なんだ。中央でも疑問視されててな。だが、量が出たとしたら大変だ。そこで、陸海軍で協同警備をすることになった。のぶ坊が捕まったように、施設周辺は陸軍が警備している。で上空は我々、海軍航空隊が守ってるってわけだ」

 守っているのが零戦たった二機というのが、中央の期待の大きさを示していた。

「表向きは陸海軍の電探施設の防空なんだな。ま、あれだ、もしも石油が大量に噴出した時のための保険なんだよ、この基地は。一応参加しておかないと、分け前がもらえないからな」

 情けなさそうに溜息をついてうな垂れた樫崎少佐だったが、顔をあげた瞬間には怒りで鬼のような形相になっていた。戦闘員でもない、子どもの集団に二度も機銃掃射を浴びせかけた米軍に対する憎しみだった。かなりの時間、樫崎少佐は米軍に対して怒鳴り散らし、佐野と富岡に対して、鬼畜米軍機を見たら絶対に撃ち落せ、生かして還すなとツバを飛ばして言い放った。

「明朝より哨戒と特訓だ、また奴等が来るかもしれねぇ、月月火水木金金だ、だからもう寝ろ」

 樫崎少佐の勢いに押されるように二人は本部を出た。宿舎への途中、富岡飛長が辺りを見回した。

「なあ、俺は埼玉者でこの辺のこと良く解らんけど、なに、石油採れんの。わざわざ南方に行く必要無かったな」

 知らなかったと富岡飛長は腕を組んだ。

「バカ、そんなに採れたら苦労しねぇよ」


 朝、樫崎少佐の気合の入った訓示のあと、佐野飛長は暖機運転をおこなっていた整備兵と交替に操縦席に潜り込んだ。回転良し、発動機他問題なしと、交替した整備兵が耳元で叫ぶのを聴きながら、座席帯を締めながら素早く燃料計に目を走らせる。胴体燃料タンクのみ燃料が満タンに搭載されている。あとはカラだ。落下式の増加燃料タンクは最初から付けない。他の計器を確認して『はずせ』の号令と共に両腕を上げて左右に降ろすと、脚に取り付いていた整備兵が車輪止めを取り除いた。

 佐野飛長は富岡飛長の機と共に滑走を開始、二機の零戦は御前崎の空にフワリと浮かび、急上昇していった。高度千で水平飛行。発動機はうれしいくらいに快調だった。

「さすが地元の燃料、高品質だ」

佐野飛長は笑い出してしまった。燃料不足の昨今、あまり飛ぶこともできなかったし、飛んでも質の悪い燃料のため、機体の性能もガタ落ちであった。

 見ると富岡飛長も上機嫌で、佐野飛長の視線に気付くと、手を振って、さらに翼を振ってみせた。そんな彼に笑いかけて、佐野飛長は改めて故郷を見下ろした。そうするのは移動当日より二度目だが、故郷はきれいで小さかった。

 今回の飛行は御前崎の地理に『慣れる』ことと空戦訓練と哨戒を兼ねていた。戦況逼迫にともなう時間欠乏のためである。

 まず基地を中心にグルグルと地域を大きく周り、地上物を確認していく。ついで沖へ出て海上も飛んでみる。打ち合わせ通りのコースを飛んで、最後に基地上空に戻ると、機上無線から樫崎少佐の指示が雑音と共に流れ出した。

『こちら菊川、ネコ塚、ネズミ塚は模擬空戦を開始せよ。まずネコ塚が高位に付け』

機上無線は『無線』と言うより『ラジオ』と表現した方が良いかもしれない。工業水準の低さから無線機の性能は低く、僚機ともほとんど会話はできないし、こちらの声が地上にも届きにくいのだが、出力が大きい地上基地からの通信は聞くことができた。『カーラジオから流れる渋滞情報を聞きながらドライブする』そんな感じだろうか。だから命令を聞いた二人は、お互いが会話することも無く、手を振って合図をしあい、模擬空戦を開始した。

「下手クソですなぁ」

 樫崎少佐にどうかと話かけられた叩き上げの中年准士官、整備班長の的場兵曹長はうなってからこう答えた。基地上空では佐野達が空戦訓練の真っ最中である。

「あの二人、昨年末に練習航空隊を卒業してから、台湾、朝鮮、本土と飛んできているが、訓練不足だし実戦経験もあまりないんだ」

「まあ『この頃のやつ』よりはマシですが。あの二人の飛行時間はどのくらいですか」

 樫崎少佐からおよそ五百時間と聴いた的場兵曹長はうなだれた。数年前までは八百時間ほど飛んでから初陣が常識であったのだ。


 離陸から一時間後に補給と休憩のために着陸した二機は、二時間後にまた飛び立った。樫崎少佐は豊富なんだか豊富でないんだか解らない燃料で、ともかく二人を特訓するつもりらしかった。結局夕方までに一時間の飛行を三回やらされた。

「人手不足で整備も手伝わされた」

 愚痴を言う佐野飛長に、富岡飛長は疲れた笑いで答えた。

「こんなに飛べたんだから文句いうなよ」

「まあな、たった一日で三時間も飛行時間を稼げたなんて、今じゃありえないもんな。しかし慣れてきたら夜間訓練もするって言われたけど、寝るヒマも」

 不意に佐野飛長が言葉を切ったので、富岡飛長は彼の視線の先を追った。基地の柵の向うに千恵子がぽつんと立っていた。

昼間、付近の小国民達や千恵子達が連れて来た託児所の幼児達が見学にきていたことは知っていた。昨日の地上掃射の影響で、味方機に対してまで恐怖心を抱かないようにとの配慮だったが、はたしてそれが成功したかどうかは解らない。

「誰だ、知り合いか、紹介してくれよ」

「押すなよ、近所の人だよ」

くわしくは樫崎さんに聞けよと、いきなり元気になった富岡飛長の背中を無理に押して宿舎へと向かおうとしたが、そうか近所の人かと富岡飛長は千恵子めがけて走り出した。

「こんちは、佐野になにか用ですか。彼は忙しくて来られないんで、代わりに俺がご用件をお聞き……」

「勝手なこと言うなよ」

 二人がバタバタともみ合っていると、柵の向うで千恵子が明らかに不快な表情をして立ち去った。

「海軍パイロットの方はこの時局にずいぶんとお気楽なんですね。さよなら」


 海鳴りと風が耳を圧倒した。目の前に狭い砂浜があるが、波が高くて遊泳禁止である。

 後ろからやってきた佐野飛長に気付いて千恵子が振り向いた。

「許可もらって出てきたよ。家に行って親に顔見せに行くんだけどさ、様子がおかしかったから追っかけて来てみた」

 佐野飛長は無粋だと思いつつ、海鳴りに負けないようにある程度大きな声を出した。目の前は砂浜だが、狭いそれの左右は岩場で、これに波が当たって騒々しい。

「子ども達、飛行機怖がってた?」

「平気な子は平気だけど、だめな子は今も泣き出すよ」

 しばらく他愛ない世間話をしてから、千恵子は唐突に自分の恋人について話し出した。大学出の海軍中尉のパイロットで、優しくてかっこよくて気が合って、少し前に特攻に出たと言う。

 『特攻』と聞いて佐野飛長はいたたまれなくなった。同期で特攻に志願、出撃した者も数多い。どうして自分はまだ特攻に行かないのだろうと強く思ってしまう。千恵子がそう言った訳ではないが、お前はまだ死なないのかと責められているように感じてしまう。まだ海に沈みそうに無い太陽を、佐野飛長は黙って見入った。

「それでさ、その人と出会った静岡が嫌になっちゃてさ、戻ってきたわけだ。会社辞めてさ」

唐突に千恵子は空を飛ぶ感じとはどんなものか、自分も飛行機に乗れないかというような事を言い出した。佐野飛長は死んでいった戦友や上官を思い出していたので、反応が遅れた。

「いや、零戦は一人乗りだから乗れないよ。あと、富岡にはそんなこと言うな、チエちゃんを膝に乗せて飛んでくとか言い出しかねないし実行しかねない」

「違うよ、私が運転するんだよ」

 佐野飛長はつい馬鹿言うなと頭から否定してしまった。搭乗員になるまでの、自分達の苦労をしらない女が何を言うという気持ちがあったのだが、千恵子は怯まなかった。

「戦争前に女性操縦士だっていたんだから、理論上は私でもいけるんじゃない? 視力と体力には自信があるんだ」

 呆れてものが言えない佐野飛長をそのままに、千恵子はもう帰ると歩き出した。

「気を付けてな、俺も実家に帰る。待った、これ、砂糖。持ってけよ。うちの土産の分は別にあるから気にすんな」

 砂糖の小さな包みを渡して、彼女と反対方向に歩き出すと、千恵子が呼びかけてきた。

「空襲から守ってよ、頼りにしてっから」


 翌日も朝から哨戒兼訓練だった。その翌日は曇量が多くて飛行中止、その間は米軍潜水艦を警戒して沿岸見張り。その次の日からは夜間飛行の準備として夕暮れ時にも飛んだ。

樫崎少佐は高高度飛行もやらせたがっていたが、これに必須の酸素ボンベが御前崎にはほとんど無かった。

御前崎に着てから六日目。今日は高度二千メートル前後で、二機編隊で急上昇・急降下を繰り返していた。編隊空戦の練習である。

何度目かの降下の時に、富岡機がふいに翼を振って降下を取りやめた。富岡飛長は佐野飛長と並ぶと、しきりに南方を指差して、次に耳を指した。

 意味を理解した佐野飛長は無線を操作しつつ南方に眼を凝らした。十数機の機影が見えた。雑音が酷いので音量を絞っていた機上無線は、敵の小型機編隊が静岡方面に北上していることを伝えていた。

 樫崎少佐からは敵機発見の際はこれを攻撃せよと言われているが、さすがにたった二機であの大編隊に突っかかる気にはなれない。

どうするか悩んでいると、無線から樫崎少佐の声がしてきた。自分達への指令だ。

『菊川よりネコ塚、ネズミ塚へ。敵機編隊が南方より接近中。北西へ退避せよ。北西へ退避せよ。多勢に無勢だ』

 情けないと呟いて、二機は北西に進路を変更し増速した。振り向くとゴマ粒のような敵機が八機、追撃してきていた。気付かれたのだ。

「速い」

つい口に出してしまったが、敵機の接近が早かった。ゴマ粒がぐんぐん大きくなっていく。富岡飛長も気付いて慌てている。

『ネコ塚、ネズミ塚、追われているぞ、後ろに気を付けろ。相手は八機だ、機種はP51ムスタング』

 ムスタングの編隊はもうかなりの所まで接近してきていた。追いつかれるのは時間の問題だ。高度は向うのほうが千ほど高い。

「地元上空を逃げ回ったら恥じだが」

 佐野飛長はチラリと眼下に広がる地元を見てから富岡飛長に合図した。『了解』の合図が返ってくると同時に、佐野機を先頭に減速して右急旋回に移った。地面が右に来る。旋回に伴い速度計と高度計の針が低下していく。

 逃げるなら全速力、と言うのはこの場合間違いである。零戦が急降下して速度を上げても、米軍機の方がはるかに優速で、簡単に追いつかれてしまう。さらに設計上、高速だと零戦の運動性能は低下した。一番小回りが効くのが時速三00キロ以下である。

 低空を低速で、急旋回・横転し続けることによって高速の敵機に捕捉されないようにする。今の佐野飛長達にはこれが精一杯である。あまり考えられないが、敵機が致命的判断ミスで、張り合って速度を合わせて格闘戦を挑んでくるかもしれない。そうなれば、ならないだろうが、佐野飛長にも勝機はある、と思われた。

 もはや編隊を組んでいられない。富岡飛長と手を振って分かれると、単機になって飛び続けた。

 敵編隊は二手に分かれて追尾してきた。佐野飛長が驚いた事に、自分を追ってきた四機は、一000メートルも離れているのに射撃を開始してきた。一機につき両翼合わせて六丁の機銃が黄色く光って、曳光弾が飛んでくる。四機分だから二四丁。すごい弾量だ。米軍機が装備するブローニング一二・七ミリ機関銃は高性能で有効射程距離が長く、加えて弾数も多いから、やたら遠くからバリバリ撃ってくるとウワサでは聴いていたが、目標に五0から一00メートルまで接近して短く撃てと教わった佐野飛長にはちょっとした衝撃だった。あんなに遠くから撃つとは下手な素人かと一瞬思ったが、弾は届いていた。

「冗談じゃねぇよ」

 後ろから追い越していくとんでもない量の曳光弾に逆上しつつ、全速で逃げたい気持ちを抑えながら、佐野飛長は必死になって横転を繰り返した。すぐ近くの大地が、何度も回転する。

 不意に銃撃が止んで機影が視界に写った。敵編隊が自機を追い越したのだ。敵機は銀色の機体を輝かせて高速で旋回上昇していく。

「速い・・・・・・」

 敵が不注意にも自分を追い越したら、素早く後方に付いて銃撃、撃墜するつもりでいたが、無理なようだ。

 敵機の動きから眼が離せない。編隊宙返りをして、もう一度後ろに付くつもりらしい。佐野飛長は自棄になった。

「何度でも来い、全部避けてやる」

 何度も後ろを振り返って、タイミングを見計らって佐野飛長は機を横転させた。今度もはるか一000メートルの距離から射撃してくるかと思ったら、さすがに残弾を気にしているのか六00メートルまで接近して射撃を開始してきた。射撃時間はたっぷり五秒。命がけの佐野飛長には永遠とも思える五秒だ。銃弾が向こうを飛んでいく。

敵は速度を合わせる気は無いようで、また高速で離脱していった。相手は高速だから旋回半径が大きくなる。よって再攻撃まで時間があり、その間に佐野飛長は呼吸を整えた。考える余裕も生まれる。ただし手足は痺れている。

「逃げ回れば生き残れるかな、こりゃ。やっぱり攻撃して一矢報いたいんだけど、打ち合わせ通り基地まで行くか」

 後世『最優秀レシプロ戦闘機』の称号が付くムスタングにも弱点はあった。それは滞空時間である。長距離を飛ぶことができるムスタングであったが、東京から約一二00キロ離れた硫黄島を基地として作戦しているため、遠くからきてまた遠くまで還らねばならない。このため日本上空に長居すると、帰途で燃料切れとなり、墜落することになる。

 さらに搭載弾量である。六丁の機銃を装備していて、翼の内側の銃には四00発、中・外側には各二七0発で実に合計一八八0発もの搭載量だが、さっきからの無意味な長時間の遠距離射撃により、すでに半分以上は消費したはずである。弾切れになった戦闘機は、もう帰るしかない。

 ちなみに、零戦二一型は両翼に一丁づつの二0ミリ機関銃に各六0発、胴体に二丁装備された七・七ミリ機銃に各四五0発である。さすがに六0発では少なすぎて一00発弾倉が開発されている。銃の改良はその後も続き、新型の二0ミリは長銃身でベルト給弾式一二0発弾倉となっているが、佐野飛長達の乗機は旧式のままで改造されていない。

 危ないとは思ったが、敵機から目を放して下を見た。自分の出身小学校が見えたのは偶然だったが、これで腹が決まった。どうせ防空壕に避難して、誰も見ていないだろうが、いいところを見せたい。

 佐野飛長は一八0度急旋回で敵と相対、スロットルレバーを目一杯にして発動機を全力運転させた。

「行け」

 突然こっちを向いた佐野機に、敵は狼狽したのか編隊がばらついた。相対速度は一000キロ近い。たちまち機影が大きくなる。

 あまりの速度に攻撃を決意した佐野飛長までが面食らってしまった。当初は先頭機に攻撃を集中するつもりだったが、ともかく『敵編隊』と言う大きな的に向って全火力を発砲した。その衝撃で機体が揺れる。四本の火線が飛んでいくが、どれも見当違いな方向に向っていた。先に零戦には二0ミリと七・七ミリの二種類の武器があると書いたが、実はこれが弱点でもあった。

 一般に七・七ミリで威嚇、牽制し、照準の『あたり』を付けてから機銃の安全装置を切り替えて必殺の二0ミリを放つことになっているのだが、空中戦の最中に安全装置の切り替えなんてとてもやっていられない。それで結局二0ミリも七・七ミリも一緒に撃つことになるのだが、二0ミリ弾は重くて弾速も遅いため、弾道が下向きになってしまう。逆に七・七ミリはまっすぐ飛ぶ。このため遠くからだと照準を合わせてもどちらかが無駄弾になってしまうのだ。結局、敵機に大接近しなければならない訳だが、必死になってグルグルと動く敵機を追尾するのは至難の業で、熟練搭乗員でなければ敵撃墜は困難である。

 さらに二種類の銃弾を補給しなければならないので、この手間もあることを書いておく。なおここでは『ななてんなな』ミリと書いているのだが、旧海軍の方に話を伺ったところ『ななみりなな』と呼称していたようであるが、定かではない。

ともかく相対して僅か三~四秒で彼我はすれ違った。

「生きてる、畜生、生きてるぞ」

乱れる呼吸がおさまらない。手応えはなかった。恐怖に駆られて振り向くと、敵編隊は全機そろっていた。上昇旋回して逃げていくように見える。時間切れのようだ。

大きく息を吐き、しばらくボンヤリと飛んでから、疲れきった身体をようやく動かして、彼は基地へと戻った。


 着陸すると、基地の人間が総出で担架だの消火器だのを持って佐野機に駆け寄って来た。

 よくぞ生きて還ってきたとかなんとか、賞賛されつつ操縦席から引っ張り出された佐野飛長は立つのもやっとだった。

「報告、佐野飛行兵長は御前崎上空で敵戦闘機編隊と遭遇、これと空戦。敵撃墜にはいたらず」

 一番に駆けつけてきた樫崎少佐に直立不動で報告しているつもりだったが、佐野飛長の身体は左右に揺れた。うれしそうに樫崎少佐がうなずく。

「富岡はどうなりましたでしょうか」

 富岡飛長の姿がなかった。彼の零戦は先に着陸していて、すでに駐機場所に置かれていたのだ。

「お前と同じでフラフラで、向うで寝てるよ、お前も休め。おい、こいつを宿舎に連れて行ってやれ」

 樫崎少佐は肩を貸されながらフラフラと宿舎に行く佐野飛長の後姿をボンヤリ見ていた。

「司令、佐野の機体に損害なし」

 的場兵曹長がそっと報告する。

「大戦果ですな、損害ゼロで敵一機撃墜です」

 佐野飛長と分かれた富岡飛長は、打ち合わせ通り機を基地上空まで操った。追って来た敵編隊に基地の対空機関砲が銃撃し、この罠にかかった編隊のうち一機を見事撃ち落していた。

「ああ、だが操縦者が、な」

 樫崎少佐は空を見上げた。


 富岡飛長には佐野飛長ほどの幸運がなかった。基地上空まで飛び、防空班に戦果を挙げさせたまでは良かったのだが、この時に彼の機は被弾してしまった。本人に直撃こそしなかったが、弾け飛んだ機体の一部が彼の脇腹に深く突き刺さった。

 薄れる意識でなんとか基地に着陸したのには、すごいとしか言いようがない。佐野飛長が降りてきたのは、富岡飛長が担架で医務室に運び込まれたあとだった。

「よう」

 呆然と立つ佐野飛長に力なく笑いかけて、富岡飛長は自動貨車の荷台に担架ごと乗せられて、もよりの病院へと搬送されていった。担架を乗せたうちの一人は防空班の人間だった。班を代表して礼を言いに来たのだ。

「おかげで一機撃墜だ、また敵を連れてきてくれよ」

応急処置はしたが、まだ失血が続いている富岡飛長を気遣って、自動貨車はゆっくりと田舎道を進んでいった。話を聞いた地域住民が駆けつけてきて、英雄を激励しようと沿道に並んで万歳を連呼する。

「めげるな、すぐにあいつは良くなるよ」

 バンと樫崎少佐は佐野飛長の背中を叩いてやった。


「御前崎憲兵分遣隊の島江憲兵大尉であります。先日はどうも」

午後、警備隊の副官でまだ若い小柄な将校は、一人で自動二輪を運転してやってきた。樫崎少佐は佐野飛長と千恵子と幼児が拘束された時に、この憲兵大尉と会っている。

「我々は、ここが狙われていると考えています」

樫崎少佐始め、基地の主だった者は司令室で黙り込んで客の話を聴いた。彼が持ってきた情報によると、今日来た敵編隊は戦闘偵察隊で、空戦に参加しなかった半数は石油関連施設の上空をかなりしつこく旋回していたと言う。ムスタングにカメラを搭載したタイプで、武装はそのままだから剣呑な偵察機だ。

「あなた方が撃墜した米軍機は不時着しました。操縦者は負傷しているところを捕虜にして尋問、所持していた書類からも情報の確度は確かと考えます」

 御前崎に米軍機が始めて現れたのは二週間ほど前である。最初に来たのも偵察機だったのかもしれない。石油施設は厳重に偽装されていたが、この偽装を見破られたのか、ここ数日は頻繁に出現しだしていた。

「明日あたり、攻撃があるかもな」

 樫崎少佐が口を開いた。

「航空戦力は半減なのですか」

 憲兵大尉の問に、樫崎少佐は的場兵曹長を促して返答させた。

「尾翼の昇降舵索が被弾で切れかかっていました。あれが切れていたら、富岡は今頃二階級特進でした」

富岡飛長の機体は特に操舵系をやられていた。全てを直すには部品も足りず、修理に二日はかかる計算だった。

「聞いた通りだ。半減と言っても、もともと二機しかいないんだ、たいした違いは無いだろうが」

やはり一と二では大きいなと独り言のように樫崎少佐はつぶやく。

「大規模な空襲が予想されます。しかも今度はベテランが多数来るはずです。いままでは実戦経験を積むために、少数のベテランが新米を率いて来ていたようです」

「敵さん、遠足気分かい。そのおかげでウチのは二人とも助かったが」

「ところで、こちらの対空兵器の状況はいかがでしょうか」

島江大尉は質問に続けて陸軍側の対空火器の状況を説明した。一方的に聴くと海軍側に不快に思われると考えたようだった。

「二五ミリ単装機関砲が二門しかないこちらが言うのもなんですが、陸軍さんの方は歩兵用の重機関銃に対空用の銃架をくっつけただけのを一つしか持ってないとは」

 島江大尉の話を聴いた防空班の中尉がつい声を出した。

「お恥ずかしい限りですが、もともと我々は秘匿施設の警備が任務ですから、派手に対空砲火を撃ちあげるわけにはいきませんし、こちらの戦闘機を当てにしていたものですから」

 薄笑いを浮かべる島江大尉は、薄笑いのまま、ではと静かに続けた。

「陸戦兵器はどの程度、あるのですか」

 樫崎少佐は言葉の意味をすぐに悟った。

「敵の上陸が、その可能性があると言うのかね」

「はい、あくまで可能性ですが、敵が上陸、あるいは落下傘で降下してくることが考えられます。大規模な兵力かもしれませんし、少人数のスパイかもしれません。そうなった場合、地上戦となるでしょう。また潜水艦が夜間に浮上して砲撃してくる可能性だって捨て切れません。そうなった場合、我々陸軍は比較的内陸に配置しています。海岸線の防衛はそちらのご担当ですが、いかがでしょう」

 樫崎少佐は腕を組んで、しばらくしてから答えた。

「残念ながら沿岸砲の類は無い。監視哨があるだけだ。ま、いざとなったら零戦を爆装して俺が出撃するよ」

 樫崎少佐は武器係の兵曹長に六番(六0キロ爆弾のこと)が何発かあったろうかと問いかけた。

「少佐殿が自らですか」

 眉を上げる島江大尉に樫崎少佐は微笑んだ。

「そうさ、俺も飛行時間三000時間のベテランだ。夜間飛行も計器飛行も爆撃だってこなすぞ」

 偉くなったからこの頃は飛ぶ機会がなかったが、と武勇伝を語り始めた樫崎少佐に、島江大尉は頼もしい限りですとお茶をすすった。

「では、そろそろ帰隊したいと思います。ところで、ポツダム宣言について、なにかお聴きになっておられませんでしょうか」

ダツダム? 新聞に載ってたあれかと樫崎少佐は聞き返した。

「なにも聴いていないが、なにかあるのか」

「いえ、特にありません。お邪魔いたしました」

廊下を歩きながら、樫崎少佐は何気なくそちらはどうなっているかと話しを振った。

「相変わらずです。隊長は歩兵出身の少佐殿が勤められ、憲兵の自分ともう一人の大尉の二人が副官を勤めております」

 陸軍御前崎警備隊で一番人数が多いのは歩兵であるが、重きを置いている防諜では憲兵が、潜入してくるかもしれない敵の破壊工作員に対しては、同じく破壊工作の教育を受けた中野学校出の兵員が当たっていた。一応一本化されていたが、指揮系統が三つ存在することになり、発足当初からギクシャクしたものになっていた。

「そうか、ま、頑張れよ」

 三人は外に出た。物珍しそうに自動二輪に集まっていた、若い整備兵達が、クモの子を散らすように逃げていく。島江大尉は何事もなかったかのように自動二輪に跨った。

「失礼いたします」

 防塵眼鏡を装着した島江憲兵大尉は、キック一発、エンジンを始動させて颯爽と走っていった。

「かっこいいですな」

「ああ、飛行機もいいが、あんなので走るのもいいな」

 若い将校がついもらした独り言に、樫崎少佐はそう答えた。


 富岡飛長を見送ったあと、佐野飛長は機体の整備に狩り出された。戦友の負傷で呆然とする彼を見て、悪い考えが加速しないよう樫崎少佐がやることを与えたのだ。

 整備のあとはすぐに風呂(ドラム缶使用)に入れられ、食堂へと連れられた。

「ほら、食えよ」

 食堂に入るなりいきなり座らされて、目の前に赤飯をドンと置かれた佐野飛長は、事情が飲み込めずに赤飯を置いた主計担当の上等兵曹を見上げた。目の前には他にも、天ぷらだの鶏カラ揚げだの煮物だのなんだのと日本酒が多数あり、かなりのご馳走であった。

「なに驚いてんだ、お前等の生還と敵機撃墜を祝っての宴会だ。お前が主役。一人居ないが、あいつも名誉の負傷だ。祝わなくっちゃよお」

 友達のことは心配すんなと上等兵曹は静かに笑って佐野飛長の肩を叩いた。

「はい、それでは遠慮なく」

 富岡飛長の事が頭を離れないものだから、佐野飛長が箸を取る動作は鈍かった。しかし口にする料理がどれもおいしいものだから、だんだんと元気が出てきた。

「ほら刺身も食えよ。トウモロコシもあるぞ。どれも地元で取れたての食材だぜ」

 隣近所の人間が、次々と佐野飛長に料理や酒を勧めてくる。

「飲め飲め、あと食後にはスイカとぼたもちがあるぞ」

 次々と出てくるご馳走に、佐野飛長は目を輝かせたが、ぼたもちがでてくると目を疑った。

「どうしました、なにかありますか」

 不思議そうにぼたもちを見つめる佐野飛長に向かいに座った整備兵が笑いかけた。

「いや、なんかさ、どっかで見たような気がして」

 ようやくそれを一口食べると、佐野飛長は声をあげた。

「これ、これうちの・・・」

「それ、お前のお袋が持ってきた物だぜ」

 隣の二等兵曹がゲラゲラ笑い出し、佐野飛長はぽかんと口を開けた。

「さっき来たんだよ、それ持って。お前に会っていけって言ったけど、仕事中に邪魔しちゃまずいって、すぐに帰っちゃったよ。泣くなよ、うまいか、俺にも一つくれ」


 翌朝、曇り空の下で、佐野飛長は愛機のかたわらでキャンバス製のイスに座って待機していた。今朝から腹が痛かったので衛生兵から正露丸をもらって飲んだ。

 原因はなんとなく解っていた。きっと昨晩の食べすぎと、天ぷら各種とスイカの食べ合わせが悪かったからだ。

「なんか雨が降りそうだし、敵も来ないかな」

 そんな考えをしていると、電話のある事務室の窓から兵が半身を突き出して警戒警報発令と怒鳴りだした。電探情報が電話で伝えられてきたのだ。基地はたちまち騒然となり、樫崎少佐をはじめ将校達が事務室へと駆け込んで行く。

「機種、機数は不明ですが、かなり大規模な編隊がまっすぐこちらに向っている模様です」

 電話を受けた兵は書きとめたメモをもとに、黒板に敵情を書き込みながら飛び込んできた将校達に報告した。

「ここを爆撃に来るんでしょうか」

「そう思うか、そうかもしれんな」

 黒板に書かれた敵情を見て、士官の一人が推測を口にした。樫崎少佐も同じ考えのようで、腕を組んで唸った。

「御前崎を消し飛ばす気かな。よし、役場に電話しろ、警戒警報はすっとばして、空襲警報だ」

兵が役場に電話をかけて空襲警報を伝える横で、樫崎少佐は部下達に指示を出した。そうしていると開け放した窓から、遠くで鳴るサイレンの音が流れ込んでくる。役場が出した空襲警報のサイレンだ。

「速い対応だ。佐野を呼んでくれ。あ、いや、いた。おいのぶ坊」

樫崎少佐は窓の向うに声を出した。飛行服姿の佐野飛長が愛機から状況を確認しようと駆け寄って来ていた。

「天気悪いけど空中退避だ。ともかく北に飛んで、しばらく帰ってくるな。敵の目標がここと決まったわけじゃなから、安全が確認されたら呼ぶから。もし雨が降って着陸できないようならその時も知らせる、どこか他所へ行け」


 この日、千恵子は非番で、家の畑で農作業をしていた。

「空襲警報・・・ みんなが。私行って来る」

彼女は農具を放り出し、止める親の声に耳を貸さずに職場に向って走り出した。

 道の途中で海軍基地から飛行機が飛び出して行くのが見えた。

「佐野君だ。戦いに行くんだ」

 千恵子は少しだけ脚をゆるめて遠ざかる緑色の小型機を見送って、また走り出した。夢中で走れば託児所まですぐだと考えていたが、まだ距離はあった。

「体力落ちたかな、子どもと毎日遊んでるのに」

 日々やんちゃな子ども達を多数相手にしているので、体力にはそれなりに自信があったが、道は遠かった。


 鉄兜をかぶった樫崎少佐は、滑走路脇の簡易陣地に入った。四方を土のうで囲い、すだれを屋根兼対空カモフラージュにした小さなもので、五人も入れば満員だ。

東海地方と関東全域に警戒警報が発令されたことを、気休めで小銃を構えている兵に教える。すでに修理中の富岡機の偽装も終わり、見張りと防空班以外は避難していたが、樫崎少佐は空襲があった場合、陣頭指揮を執る気でいた。陣頭指揮と言っても、特にすることは無い。それ程の兵力を率いているわけでもないし、指揮連絡手段も限られている。防空班への命令も『射程に入ったら撃て』と言う簡単明瞭なものをあらかじめ出しておいた。それでも残ったのは『指揮官先頭』で部下に気概を示したかったからだ。

 空襲がありそうだが、あると決まった訳ではない、そんな緊張感が持続しない時間がずいぶんあってから、司令部の屋根に設けられた見張台の兵が慌しく手旗を振り始めた。もう一人の見張りが敵影接近の合図に鐘を打ち鳴らす。海岸の監視哨から報告があったのだ。

「本当に来たよ。アメさんの情報力はすごいな。合戦準備」

 樫崎少佐は号令と共に手旗を振った。二つある機銃陣地では二五ミリ単装機銃に弾倉を装着し始める。簡易陣地内の兵達も小銃に弾をこめるが、その音がなんとも非現実的に聞こえた。

 ほどなくして南方にいくつもの黒点が現れた。P51の群れで三つに分かれて散開して行く。二つは空爆隊なのか高度を下げ、一つは比較的高空で上空警戒にあたる気らしい。

「一隊はここに攻めて来ますね。もう一つは陸軍の方へ行くみたいだ」

「四、八、一二、一二機も来るのかよ」

「高角砲が欲しいよ」

 兵達が勝手なことを言ううちに、機銃陣地が射撃を開始した。撃ち出される弾丸を物ともせず、米軍機は機銃掃射をしつつ小型爆弾を投下して高速で飛びすぎた。

 一二機合計七二丁の機銃が撒き散らす銃弾と、航過の圧力に思わず首を縮めると、次に爆弾の爆圧と熱風が襲ってきた。簡易陣地の屋根兼カモフラージュのすだれが簡単に吹き飛んだ。


 千恵子は後ろで起こった爆音に振り返った。海軍基地が空襲されている。

「始まっちゃった」

 銀色の飛行機が無数、乱舞している。さらに別の一群が千恵子の横を飛び過ぎ、近くの山に対して爆弾を無造作に投下していった。数日前に女の子を捜して入り、憲兵に捕まった山だ。

 突然山の中央がオレンジ色の爆炎を噴き出した。ナパーム弾である。盆踊りの和太鼓を至近距離で聴いているような、そんな体の中から圧迫されるような音に、千恵子は一瞬身を硬くしたが、あとはボンヤリと突っ立って辺りを見回した。

「どうしようか」

これ以上の移動は危険だと思ったが、特に身を隠すような物の無い、田んぼの真ん中である。

気配を感じて左を見ると、敵機がこちらに機首を向けていた。その両翼が激しく光る。数日前の記憶と今現在が重なり、千恵子は顔を引きつらせた。数十メートル先の田んぼに、水柱の壁が出現した。壁は千恵子に向って凄い速さであっと言う間に接近した。


 米軍機の銃撃はしつこく続いた。基地中のあらゆる物体が目標になるらしい。樫崎少佐は簡易陣地でひたすら頭を低くしていたが、石油採掘施設がある地域がナパーム弾で爆撃された時はさすがに頭を上げてしまった。

 たいした量ではなかったが、それでも良質の石油が採れて、この時局のなか自動車を好きなだけ運転できたのである。正直悔しかった。しかし悔しんでもいられない。樫崎少佐はまた体を丸めた。

 樫崎少佐がよろよろと立ち上がったのは、米軍機が飛び去ってからである。呆然と木々を焼くオレンジ色の大火を見ていると、ついに雨が降り出した。なんとなく雨粒が熱く感じられた。

 部下達が陣地や防空壕から足を引きずるようにして出てきた。それを見ながら、樫崎少佐は誰に言うでもなく呟いた。

「やられたな」

 そうしてしばらくボンヤリ立っていると、聴きなれた爆音がしてきたので空を見上げた。そこに信じられない物を見た。全体を緑に、下部を灰色に塗った単発機。まさしく零戦である。樫崎少佐は瞬時に操縦手の正体を悟った。

「馬鹿、なにしてんだお前、なんで戻って来るんだよ」

 佐野飛長が操縦していると思しき零戦は、飛び去る敵機を明らかに追撃していた。


「曇ってて遊覧飛行には向かない日だな」

 機体は灰色の雲が多い空をゆっくり北に飛行していた。御前崎基地を飛び立ってから二0分、安全が確認されてそろそろ基地から帰還命令が出ても良さそうである。佐野飛長は『ラジオ』こと無線機を操作し、苦労して防空情報と周波数を一致させた。御前崎が空襲されていると言う。佐野飛長は慌てた。まさかあんな田舎が空襲されるとは思ってもいなかったのだ。

「なんで、そうか、石油か」

 『ラジオ』では敵は小型機編隊としか言わなかったので、敵の勢力は不明だったが、佐野飛長は即座に機首を返した。故郷を攻撃されて、逃げる気にはならなかった。スロットルを一杯にして全速を出す。燃費と残燃料はこのさい気にしない。御前崎上空までほんの数分。しかしこの数分が異様に長い。無駄かもしれないとは思ったが、基地を呼び出してみた。

「こちらネズミ塚、ネズミ塚。菊川どうぞ」

応答が無いのは無線の性能のせいでは無い気がする。

「見えた」

 御前崎周辺に上がる複数の黒煙が見えたとき、佐野飛長は思わず叫んだ。石油施設があるはずの山は丸ごと燃えていた。上空からは被害の程度は不明だったが、基地もひどくやられているようだった。

 はるか南方にゴマ粒のような機影群を見つけた佐野飛長はそちらに機首を向けた。空襲してきた米軍機を追撃する。自分一人で何ができるわけでもないとは理解していたが、それでも佐野飛長は飛んだ。

 機はあっと言うまに太平洋に出て、沖へと飛んだ。敵影は上昇して雲に入り見えなくなった。こちらも上昇して雲の上に出てみる。高度三000。雲上に出た。前方少し上に機影が見えた。

 一機の大型爆撃機B29を中心に、P51数十機が編隊を組んで南へと飛んでいた。

 長大な航続力を持つ米軍のP51だが、所詮は一人乗りの戦闘機である。基地である硫黄島は東京から約一二00キロの彼方にあり、その間の広大な海原をはるばるやって来て、はるばる帰って行くとなると、誘導が必要となってくる。これがないと冗談抜きで迷子となり、燃料切れで着水するはめになるのだ。よって通常は専門の航法士と無線士が搭乗しているB29が一機以上付いて、戦闘機編隊の誘導をおこなっていた。

「どうするか」

 無数の敵影を見て、佐野飛長は迷った。このまま雲に隠れつつ接近し、下から突き上げるか、高位を取って降下襲撃をかけるか、多勢に無勢、引き返すか。

 十秒近く悩んだ末、このまま雲に隠れつつ接近することにする。下手に上昇したら発見されるかもしれない。さらに酸素ボンベを積んでいない。雲の下をくぐって急上昇、奇襲、と言うのも目標を視認できないから実行困難。引き返すのは論外。

 佐野飛長は曲技飛行でもしているつもりで、しかし傍目にはぎこちなく機体を操り、雲にそったり通り抜けたりしながら全速で接敵した。

 P51は単座だから後下方視界は悪いはずだ。しかしB29はあちこちに銃座があり、そこから搭乗員が四方を見張っているだろうから、発見される可能性が高い。多勢に無勢、気付かれたら袋叩きだ。

 敵編隊に近付くにしたがい、自機の発動機と風の音でうるさいはずの操縦席で、自分の心臓の音がはっきりと聞こえ出した。

「富岡の奴がいてくれればな」

 今、佐野飛長は独りである。

 これからどう攻撃するか考えた。まずギリギリまで雲に隠れつつ接近、急上昇して敵編隊の最後尾、俗に言う『カモ番機』を攻撃、撃墜。その後さらに近くの敵機に攻撃を加え、背面ダイブで離脱、基地に引き返す。燃料が心配で誰も自分を追撃しないだろう。

他の手も考えてみたが、どうしても頭が回らず、他に考えが浮かばなかった。思考が最初に考えた案を繰り返す。その案が最良とは思えない。どこかに穴があるかもしれないし、もっと効率的で良い戦法があるかもしれない。

 考えるうちに戦法は思いつかなかったが、機銃の安全装置を解除することは思い出した。

「危ない危ない、いざって時にこれじゃ弾が出ないよ」

 本来ならば試射もするのだが、敵前のためこれはやめた。

 まごまごするうちに、敵までの距離が縮まっていく。諦めてこのまま接近することにして覚悟を決めた。ジリジリしながら佐野飛長は上昇しそうになる自分を押さえつけた。

 あと少ししたら上昇して攻撃しようと思った矢先に、P51の編隊が崩れた。発見されたのだ。恐らく爆撃機の後部銃座が見つけて知らせたのだろう。こうなった場合の事は考えていなかったので、佐野飛長はただまっすぐ飛んでいたずらに様子を見ているだけであった。慌てて背面ダイブで逃げ出すことも十分ありえたが、敵の動きがぎこちなかったので、どうしてだろうとぼんやり考えて逃げ遅れていたのだ。

 どうも自分と似たり寄ったりの腕前の連中が、突然背後に表れた自分に慌てふためき、さらに燃料の残量を気にしてマゴマゴして、それがベテラン達の足を引っ張っているように感じられた。

「なんだ、俺とおんなじヘタクソか」

 そのうちに一機が隣の機に接触して、二機とも墜落していった。どちらの物か、飛び散った翼の破片もクルクル回りながら落ちて行く。

 敵ながら思わず驚きの声を上げ、墜落する機を目で追っていく。すぐに雲に入ったので操縦者が無事に落下傘で脱出できたかは解らなかった。そんな事をしていたので、敵編隊から二機が飛び出したところを見逃していた。

「大丈夫かな、いや、他人のことより自分の心配だ」

 前を向くと、敵編隊は増速して上昇を開始していた。ただし二機のP51だけが、高速で右旋回をしている。編隊主力も気になったが、この二機の動きに注意を集中した。どうやら佐野機と正対して反攻戦を企図しているようであった。

 佐野飛長はよしと声に出して気合を入れると、反撃してくる二機に機首を向けた。敵はかなりのベテランのような感じがした。その編隊の組み方が、なんとも『説得力』のあるものだったのだ。

 佐野飛長は発射把握を握る左手に力を込める。

 予想した通り、敵は遠距離から射撃を開始した。凄い勢いで大量の弾丸が自分めがけて飛んでくる。佐野飛長も釣られて射撃を開始するが、飛んでくる敵弾の恐怖から手足が動いてしまい、機を小刻みに動かしてしまう。光像式照準器の中に敵影が納まらない。

 唐突に衝撃と轟音が佐野飛長を襲った。同時に機の制御が利かなくなり、自分の意思とは関係無しに視界がグルグル回り、真っ白になった。


 空襲終了直後から樫崎少佐は情報収集を開始した。電話も無線機も本部ごと破壊され、車両も燃やされてしまったので、陸軍部隊や電探基地、電話のある近所の家まで、各方面に伝令を走らせたのだ。

出発させてから一時間もしないうちに伝令達が帰ってきて、各地の被害の程が知れてきた。

 民家や納屋のなかにも銃撃された所があったが、一番酷かったのは陸軍が警備していた石油施設で、壊滅。死人が出なかったらしいのが不幸中の幸いだが、火災で火傷を負った者が多数出ていると言う。

「海岸の監視哨は敵機の銃撃を受けましたが、人員に損害なし。なお、佐野飛長の零戦を目撃しておりましたが、米軍機を追って南下し、上昇して雲に入ったとのことです。以後の目撃情報はありません」

 樫崎少佐は戻ってきた部下達をねぎらって、独りふらりと歩き出し、滑走路の真ん中で立ち止まると足元を見つめてから不意に視線を南方の空に向けた。

「のぶ坊、どこまで行ったんだよ」

 時刻は正午になろうとしていた。蒸し暑い。雨はすでにやんでいた。



 昭和二一年夏。敗戦から一年が過ぎていたが、生活状況は戦中よりも悪化していた。食料配給制等の物資統制が無くなったことにより物は偏って集まり、経済は混乱した。御前崎には農業と漁業があるため、食料の自給自足に問題は無かったが、その他の物、たとえば被服や医薬品の入手は困難であった。

 人の声がしたので千恵子は畑の草取りを中断して腰を伸ばした。復員兵らしいのが、隣の畑で吉田さん夫婦になにか話しかけていた。外地に行っていた誰かが戻ってきたのか、それとも買い出しに来た町の人間なのかは判断がつかなかった。

 しばらくして、その復員兵がこっちに声をかけてきた。聴いたことの有る声で、知っている顔だったが、すぐに名前が出てこなかった。

「俺だよ、佐野だよ」

 生きてたんだ、千恵子の第一声はこれだった。

「あのあと樫崎さんから聴いたよ、一人で大勢の敵を追っかけてったんだって、無謀だね、それで未帰還なんだもん、そりゃ戦死したと思うよ」

 なんにしても良かったと笑いながら、千恵子は何度も頷いた。佐野はそんな千恵子の表情に違和感を覚えた。どことはっきり指摘できないが、どこか異様で落ち着かないのだ。こんな笑い方をする人間ではなかった気がした。

「そうなんだ、うん、無謀だったよ。でも故郷を空襲した奴等だ、タダじゃ帰せねぇ。追撃して三十機近い敵編隊に攻撃をかけて、二機撃墜したまでは良かったんだ。算を乱して敵は逃げ出したんだけど、そのうちの四機が挑んできてさ、空中戦の末、一機は墜したんだけど、四対一だろ、俺もついに撃墜されてさ、落下傘で飛び出したんだ。で、海に落ちたところを米軍の潜水艦に救助されて収容所へ。で、今に至る・・・ ところで他の人はどうしたかな、樫崎少佐とか、俺と一緒だった富岡とか」

「樫崎さんは、しばらく進駐軍に捕まってたけど、いまは復員局で働いてる。富岡さんは怪我が治って、春頃埼玉に帰ったよ」

 そっかと呟いて、佐野は視線を泳がせた。千恵子は黙っている。

「ごめんな、守れなくて。あの日、空襲ですごい事になってたでしょ。俺、恥ずかしくてさ、ここに帰るのよそうかと思ってたんだ」

 佐野は視線を千恵子に向けずにそれだけ言って黙った。

「あんたが謝る事無いよ、精一杯やることやって、撃墜されて捕虜にもなって生きて還ってきたんだから」

 千恵子は佐野の背中をドンと叩いて自棄のように笑った。

「あんたは撃墜王でもないし、味方もいなかったんだから・・・ 本当に三機も撃ち落したの?」

 とぼけて視線を逸らす佐野に、千恵子は顔をしかめたが、すぐにまあいいやと笑った。やはりなにかがおかしい、佐野の警戒心が強くなる。

「あー でもやっぱり許せないな、見てよ」

 千恵子は佐野の鼻先に自分の右手を突き出した。

「あの時の空襲でこんなになっちゃったよ」

 千恵子の右手には人差し指と中指が無かった。

「もうお嫁に行けないよ、どうしてくれんの、責任とってよ」

佐野は言葉を失った。ようやく『どうして』とささやく。千恵子は簡潔に『機銃掃射で』とはっきり答えた。

千恵子に感じていた違和感の正体が解った。この怪我と、これを負った時の恐怖が、彼女は精神の均衡を危うくしてしまったのだろう。

「責任取るって、どうやって」

「そりゃあんたが考えなさいよ。さ、行った行った」

 千恵子は農作業に戻った。

 今日の御前崎は快晴だが、午前中の今はまだ暑さも我慢できるほどだった。しかし佐野は寒さを感じていた。今すぐに何かをどうすることもできないと解ってはいたので、彼は逃げ出すように見えないよう、ゆっくりと自宅に向かった。


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