8 捨てられた部屋
バスが清水駅に着いたのは、午後1時を回ってからだった。ロータリーに降り立つと同時に、ぐぅとお腹の虫が鳴いた。
――今のモリセンに、いいや、ヒロミさんに聞かれなかったよね!?
僕は反射的に背後を見やる。しかしヒロミさんは相変わらずモリセンに抱きついていて、僕のお腹の音なんて聞こえてもいないようだった。
モリセンは優しくヒロミさんを引き離すと、自分が先にバスから降り、後から降りて来る彼女に右手を差し伸べる。日の光を背に受けて、カツン、とヒロミさんのヒールがアスファルトに降り立つ音が響き渡る。まるで、おとぎ話のナイトとお姫様みたいに、お似合いの2人だと思った。
「ちょっと、どうしたの?」
僕がぼーっとしているとヒロミさんが声をかけてきた。見とれていたと言う訳にいかず、けれど言い訳に困った僕は「いえその」と下を向いてモゴモゴ呟いた。
「どうした、鐘梨」
「あっ、違うんです! なんでもないです!」
「そうか? それにしちゃあ顔が赤いが……」
僕がうろたえていると、モリセンまで近寄ってきた。マズい、これじゃあ僕がモリセンを意識してるのがヒロミさんにバレちゃうじゃないか。
チラリ、と上目遣いにヒロミさんのほうを見やる。すると彼女は、僕の顔を見てジッと何かを考え込んでいた。
「決めた。ねえ僕ちゃん、ご飯食べに行こうよ」
「はい?」
ヒロミさんが、いきなり腕を組んでくる。僕は文字通り飛び上がった。モリセンは「おいおい」と後頭部を指でかいた。
「ね、いいでしょ? アキちゃんとは、いつもご飯食べてるし。今から2人で女子会ってことで」
「そりゃヒロミはいいだろうが、鐘梨、お前はいいのか?」
――嫌です。断ろうとした瞬間、ヒロミさんが僕に耳打ちした。
「アキちゃんとのご飯はお預けよ。いい子にしてたら、ご褒美上げるから、ね?」
「ふぇっ!? はい、ヒロミさんと一緒に行きます!」
「……そうか。じゃあ俺は牛丼でも食べて帰ってるぞ」
「バイバーイ、また後でねー」
僕という女は安価に出来ているらしい。またしても、自分が悪魔に魂を売り渡す音を、心の耳で聞くはめになった。
どこに行くのかと思ったら、ヒロミさんは妹――羽水レンの部屋を目指した。
どうしてそんなところへ行くんですかと聞くと、意外にも「うちらのこと、僕ちゃんにも知っておいて欲しくてね」と素直な答えが返ってきた。
不意にヒロミさんは、とても寂しそうな顔で呟く。
「たぶんね、今なら鍵かかってないと思うんだ」
「はい……?」
僕がその言葉の意味を知るのに、さして時間はかからなかった。
僕たちが着いたとき、ハイツ清水の201号室は信じられない状態になっていた。丸テーブルとベッドを残して、部屋中のモノというモノが無くなっていたのだ。どこへやったものやら、テレビすら無くなっている。およそ人が住める状態では無かった。
「やっぱりね。あのババア、またやりやがった」
「ババアって、お母さまのことですか?」
「あのババアに『さま』なんて付けなくていいよ」
吐き捨てるようにヒロミさんは言う。
「場所を変えましょ。事情を説明するにしても、こんな辛気臭いところ居られたもんじゃないわ」
僕はヒロミさんに連れられるまま、商店街のファミレスへと移動した。偶然にも、いつかレンと来た店だった。
「昔からね、うちのババアは何かあると家の中のモノを捨てるの。まあ、自分のモノを捨てるなら分からなくもない。けど私たち娘のモノまで捨てるのよ」
「捨てるって、テレビでも捨てちゃうんですか?」
ランチセットの前菜が届くなり、ヒロミさんは野菜にフォークを突き立てた。
その勢いに押されて、僕は彼女の話を聞く形になってしまう。
「そう、新品だろうが記念品だろうが借り物だろうが関係無し! それで、無くなってから新品を買わなきゃってなって、毎日デパートへ出かけるの。バカでしょ?」
とりあえずカップのスープを一口すする。飲み慣れたコンソメの塩味が、しみるようだった。
「私も子供の頃は、それが普通だと思っていた。だから小学校に入ったとき、自分の教科書を全部捨てちゃって、大騒ぎになった。あー、もう忘れたい!」
「そんなに捨てちゃって、お金が無くならないですか?」
「いっそ無くなったら良いのよ。ウスイ食品って知ってるでしょ? あれ、私の実家」
「ウスイ――!?」
その言葉は僕の脳みそを、思いっきり殴りつけた。ウスイ食品と言えば、冷凍食品の最大手だ。少なくとも関東圏で知らない人間はいないだろう。
レンとここへ来たときを思い出す。ファミレスを珍しがっていると思ったら、奴め、大金持ちのお嬢様だったか。
「そんな訳で金だけはあるから、ババアはモノを捨てるのに抵抗が無いの。どう言えばいいかな、感情の起伏があるたびに捨てる。怒ったとか悲しいとかじゃなく、嬉しいときや楽しいときにもフツーに捨てるんだよね。計画性が無い感じ?」
「なるほど……」
言われて僕は、病室でのやり取りを振り返った。
僕にデニムを捨てろと言ったのは、おばさんなりの感謝の気持ちで、娘のスカートをやると言ったのは、帰りに着るモノが無くなると思ったからか。
――なんて、はた迷惑なおばさんなんだ!
ランチのドリアが届く。ヒロミさんはスプーンを手に取ると、何かを探すかのようにチーズとライスをかき混ぜ始めた。
「そりゃ私も人間だからね、あんな親でも愛そうと努力したわよ。けど無理。根っこの部分で何かが違うの。だから家を出た」
「そうだったんですか……でも、どうしてその話を僕に?」
「それはね、僕ちゃんに忠告しようと思ったからよ!」
ヒロミさんは、手にしたスプーンをビシッと突きつけてきた。
「もし今の話をぜーんぶ知っていて、それでもババアと仲直りしろって言う人間がいるとしたら、正直どう思う?」
「お母さんとは逆の意味で話が通じない人だな、と思います」
「でしょ!? それが僕ちゃんの惚れた相手よ」
そっか、モリセンはヒロミさんの家庭の事情を知っているんだ――
「って、えええ!? なんで僕がモリセンを好きだって分かったんですか!?」
「なんでバレないと思ったのよ。ちょっと離れて見てれば丸分かりよ」
ヒロミさんは、程よく冷めたドリアをぱくつき始めた。僕はと言えば、自分の弱点を見抜かれたショックで、スプーンを握ったまま震えていた。
「分かったら、これ以上あの人に近づかないで。あの人、女生徒に告白されるたび全部私に報告してくるの。心配で毎日電話しちゃうわ」
なんだ、これは? つまり僕は、恋敵から勝利宣言を食らっているのか? 恥ずかしいやら悔しいやらで、頭の中がクラクラする。
するとヒロミさんはスプーンを置き、紙ナプキンを手に取って、お嬢様らしい優雅な動作で口を拭いた。それからバッグを開けて白いスマホを取り出した。
「はい、この写真見て」
「これは……!?」
画面を覗きこんだ僕は、あやうく噴き出しそうになった。液晶に映っていたのは、駅前を一緒に歩く僕とモリセンの姿だったからだ。
「……尾行してたんですか?」
「だってぇ、アキちゃんバカが付くほど真面目だから、相手が高校生でもたぶらかされちゃいそうなんだもん。今日なんか『女生徒を連れて、別の女生徒の見舞いに行く』とか言うから、私を入れた四角関係があるんじゃないかと……」
「無いですよ、無い。僕は片思いしてますけど、きっぱり振られましたから」
僕にだって意地がある。ヒロミさんの一途さに負けないように、なるべく何でもない風で「モリセンへの恋は終わった」とアピールした。
「じゃあ、この写真は要らない? 結構良く撮れたと思うんだけどなー」
「うっ……」
「ほら、携帯貸して。データ入れてあげる。捨てるだけなら、いつでも捨てられるんだから」
「……ありがとうございます」
その申し出を断るには、ヒロミさんの目はあまりにも寂しすぎた。
ヒロミさんと別れてから、僕はあることに思い至ってハイツ清水へ引き返した。
ゴミ捨て場を調べる。そこには燃えないゴミの袋に入った、レンタルDVDのケースがあった。幸いにも収集日が違ったらしく「持ち帰ってください」と書かれた紙が貼られている。
「レンが心配してたのは、これか」
しょうがないなあ。散歩がてら、返却しに行ってやるか。
どんな些細なことでもいい、僕は少しでも羽水姉妹に対する優越感を感じていたかった。