7 恋は炭火のように静かに、けれど断固として燃え続ける
帰りのバスは、行きの倍くらいの時間を体感した。
ヒロミさんはバスの後方、椅子が2つ並んだ場所に座りたがった。モリセンは余計な気を遣って、一番後ろの4人がけに座ろうとした。けれど、そのときの僕は病院で起こった色々なことに呆れ、疲れ果ててしまっていた。
なのでカップルのお2人にだけ並んで座ってもらって、僕自身はバス前方の1人がけの椅子に座った。
チラリと座席後方を見る。ヒロミさんは抱きついたり、自分のスマホを見せて何かを自慢したり、遊びたい盛りの子猫のようにじゃれついていた。
一方のモリセンは子猫を守る親猫のように、じっと前を見ていて、時折ヒロミさんの方を振り向く程度だった。
だんだん憂鬱になってくる。なんで片思いの相手がイチャついてるところを見なきゃいけないんだ。ああ、そもそも、どうしてモリセンを好きになってしまったんだろう。僕は4ヶ月前の出来事を思い出していた。
子供の頃、読書感想文の課題で読まされた児童書では、猫というのは文字が読める生き物だった。彼らは給食の献立を読み、肉が食べられる日を狙って給食室を訪れていた。
けれど現実では、動物は特に何も考えていなくて、人間がキャーキャー騒いでいることの方が圧倒的に多い。あのときも、そんな感じだった。
12月の終業式が済み、帰ろうとしていたときだ。教室の真下、グラウンドの一角でキャーキャーと生徒たちが騒いでいるのが目に留まった。中には陸上部や自転車部のユニフォームを着た生徒も見える。
僕は――正直、無視して帰ろうと思った。前に話した通り、うちにはお金がなくて部活に入る余裕がない。まさか高二の冬になって勧誘されることは無いだろうが、なんとなく人が集まっている場所に顔を出すのは気が引けた。
ところが校舎を出たところで、クラスメイトの京子が声をかけてきたのだ。
「ねえ、波瑠。波瑠の家ってペット禁止?」
「禁止ではないけれど……」
……ないけれど、お金が無い。そんな情けない言葉が口から出る前に、かろうじて飲み込むことができた。
すると京子は「じゃあペット飼えるよね!? 大丈夫だよね!?」と僕を拝み倒し、人だかりの中心へと連れて行ったのである。
そこには一匹の猫がいた。体の上半分が黒と灰色の縞模様、口元からお腹にかけて白い毛が生えている、いわゆるハチワレと呼ばれる種類だった。
けれど、なんだか元気が無くて、座り込んだまま動こうとしない。陸上部の生徒が喉をなでると、猫は足をもつれさせて横になった。さらけ出されたお腹は、うっすらとあばら骨が見えている。お腹がすいて動けないようだ。
「ね、かわいそうでしょう?」
京子は猫を指さして言う。
「陸上部の先生がね、授業や部活の邪魔になるし、うんちして汚いから保健所に電話するって職員室に行っちゃったの。波瑠、なんとかならない?」
「なんとかって言われても……」
次の瞬間、猫を囲んでいた生徒たちが、一斉に僕の方へ集まってきた。皆「お願い!」とか「この子を助けてあげて!」とか、無責任な言葉を投げかけてくる。
僕は小さく溜息をついた。これだけの人数がいて誰も猫を飼おうとしないのだから、どう見ても保健所送りが妥当である。
――こんな無責任な連中、放っておいて帰ってしまおう。
僕が人混みから抜け出そうとした、そのときだった。
「騒がしいぞ。帰るやつは帰って、部活に行くやつは部活に行け!」
低くてよく通る声がする。人垣が二つに割れると、現れたのはぽっこりお腹を揺らしたモリセンだった。すると生徒たちはモリセンのところに殺到した。
「先生! さっき陸上の山田先生が保健所に電話しに行っちゃったんです!」
「知ってる。職員室で聞いた」
「じゃあ、電話を止めてください! この子は飼い主が見つかったんです!」
――え、誰が?
そんな言葉を口にする間も無く、たくさんの目が僕を見つめてきた。京子が僕の手を取って、この子をお願い、と恐ろしいことを平然と口にした。
モリセンが訊ねてきた。
「鐘梨、お前がこの猫を飼うのか?」
「えっと、無理です、うちはペット飼えないです」
「そんなこと言わないで! さっき飼うって言ったでしょ?」
――言ってないよ!?
そう言おうとした矢先、たくさんの視線が僕に集まる。どうしよう、こんなことになるなんて考えてもみなかった。一人の生徒が猫を抱えて近づいてきた。猫のトパーズ色の瞳が僕を捉える。
嫌だ、止めてくれ、見ないでくれ。僕は助けを求めて視線をさまよわせたが、誰も僕を助けてはくれなかった。
するとモリセンは、何を感じ取ったのか、ふむと頷いてみせた。
「鐘梨。お前、本当にこの猫を飼えるのか?」
「む、無理です。うちはペット飼えない、です……」
「そんなぁ……」
「裏切り者!」
「さっき飼うって言っただろう!?」
「静かに!」
僕を罵ろうとした生徒たちを止めたのは、誰であろう、モリセンの鶴の一声だった。
「お前たちは鐘梨を責めるが、誰か猫を飼えるのか!? 責任を取れない者が、他人に責任を押し付けるんじゃない! 保健所に電話した山田先生のほうが、よっぽど責任を取ろうとしているじゃないか!」
「先生……」
僕はと言えば、予想外の方向から差し伸べられた救いの手に、呆然とするばかりだった。
モリセンは誰からの反論もないのを確かめると、有無を言わさず猫を受け取った。
「この猫は俺が預かる。お前ら、いつまでもここに固まってないで、帰るなり部活に行くなりしろ。分かったな」
「……はぁい」
「そんなぁ……うっ、うええぇぇぇ……」
突然、京子が泣き出す。
――わざとらしい。泣き声ソムリエの僕に言わせれば、聞き苦しくて耳をふさぎたいような声だ。こんな声を聞かないためにも、僕はさっさと家に帰ることにした。
かくして、僕はモリセンに助けられたのだ。とは言え、この時点では、まだ先生を好きになっていなかったが。
モリセンを本当に好きになったのは、冬休みが始まってからだ。夕飯の食材を買いにスーパーへ行ったときに、両手に荷物を抱えたモリセンと会った。
なぜだかモリセンは、僕を見ると気まずそうに目を逸らした。
「先生、こんばんは。夕食の買い物ですか?」
「ああ、まあ、なんというか……」
「にゃー」
不意に聞こえた声に、僕はモリセンの手荷物をまじまじと覗き込む。
彼は右手にキャットフード、左手に水色のケージを持っていた。猫の声がするのはケージの中からだ。
「先生、この猫って……」
「体の模様がハチワレだからな、ハチって名付けたんだ。問題あるか」
真っ赤になり、視線を逸らしながら告白するモリセンを見て、僕はとても可愛いくて強い人だと思ってしまった。
そしてそれが恋の始まりだった。