6 変と恋はわずかな違い
これが、あの気弱なレンのお母さん? なんて無礼なおばさんだろう。
僕がむすっとしていると、レンのお母さんは「それで?」と聞いてきた。するとモリセンは、僕の背中をグイッと押して前に出させた。
「この生徒が救急車を呼んだ鐘梨です」
「ああ、あなたが。どうもありがとう」
「いえ、僕は当然のことをしたまでで……」
僕の返事が終わるより早く、レンのお母さんは腰をかがめて、目線の高さを同じにしてきた。
「うちの子がお世話になったそうで、ありがとうね。けど『僕』って言い方は良くないわ。子供じゃあるまいし、大人のしゃべり方を身につけなさい」
「はあ!?」
突然の説教に僕は面食らった。何だ、このおばさん!?
「だいたいね、まずデニムのパンツを捨てるべきよ。そんな男の子みたいな服は捨てて、スカートを履きなさい。そうよ、救急車のお礼がまだだったわ!」
お母さん……いや、もうおばさんって呼ぶぞ。おばさんは自分の世界に入りこんで、胸の前で手を組みながらこう言った。
「あなた、レンのスカートで丁度いいのがあれば持って行って履きなさい。そうよ、それがいいわ!」
「な、な、何を……」
「お母さん!」
僕が金魚のように口をパクパクしていると、ゴホンという咳払いが割りこんでくれた。
隣にいたモリセンが、おばさんとの会話を引き受けてくれたのだ。
「鐘梨には学校から必要な指導を致しますので、どうかお気になさらないでください」
「あら、そう? でも、こんなデニム捨てたって取り換えがきくでしょう?」
「こんな……!?」
こんなってなんだ、うちが貧乏だってバカにしてるのか? 頭に来た!
ガツンと言ってやろうとしたとき、僕の体は後ろへ引っ張られた。足がもつれて倒れそうになるのを、弾力のある感触が受け止める。
後ろを見上げて驚いた。僕の背中をモリセンのぽっこりお腹が支えてくれたのだ。モリセンは断固たる口調で告げる。
「お母さん、今の言葉を取り消してください。あなたにとっては無価値なデニムでも、鐘梨にとっては価値のある一着です。他者の感覚を決めつけないでください」
先生が、僕を、守ってくれている。そう思った途端、頭がカッと熱くなった。
――そうだ、こんなおばさんに負けるもんか。僕は、これから起こるであろう舌戦を想像した。きっとおばさんは目を三角にして、ツバを飛ばして反論してくるのだろう。来るなら来い、こっちにはモリセンがついてるんだ!
ところが、僕の予想は奇妙な方向に裏切られた。
見る見るうちに、おばさんの目じりに涙が盛り上がってゆく。あれよあれよという間に、彼女は身も世もなく声の限りに泣き始めた。
「うえぇああぁぁあ、うおぉぉおん!!」
それはレンによく似た、透き通った泣き声だった。むしろレンより体がしっかりしている分、張りがあって僕好みの美声だと言えるかも知れない。
けれど、僕はその泣き声に全く感動できなかった。なぜと問われたら答えに困るが、レンの声と比べて聞いている者をイライラさせるような、子供じみた泣き声だと思った。
すぐさま看護師さんが飛んできて「病室ではお静かに!」と注意してきた。それでも、おばさんの泣き声は止まる気配が無い。
と、看護師さんが開けたドアの隙間から、女の人が手招きしているのが見えた。どこかで見たような顔だが、すぐには思い出せない。
モリセンも気づいたようで、これで失礼しますからお大事になさってくださいと場を切り上げて病室を出た。
僕も後を追いかけようとしたとき、レンが「ちょっと」と呼び止めてきた。
「私の部屋、どうなったか見てきてもらえませんか。特にレンタルDVDが心配なんです」
「はあ!? そんなの、お母さんに聞けよ」
「鐘梨、行くぞ!」
モリセンに手招きされて、僕は慌てて廊下に出た。
廊下で手招きしていた女の人は、モリセンと合流するなり彼の腕を取り、建物の外へと引っ張り出した。病院玄関を出て横手へ周り、何度も後ろを振り返りながら喫煙所に入る。そこまで来て女性はようやく安心した様子だった。
だがモリセンは何かが不満だったらしく、女性に向けて教師の口調で言い聞かせた。
「一番遅く来て、病室にも入らずに帰るのは失礼だぞ」
「ざけんな! わざと私に何も教えなかったでしょ。次こんなことしたらマジギレするから!」
「しかし、お互いに話し合わないと、いつまで経っても平行線だぞ」
「冗談でしょ、アキちゃん! なんで入院してるのがアホタレだって教えてくれなかったのよ!? クソババアはギャン泣きしてるし、ホント信じらんない……」
女性はモリセンをキッと睨み、大声で怒りをぶつけまくる。先に喫煙所に来て一服していたお兄さんたちが、嫌そうな顔をして外へ出て行った。
そのとき、僕は彼女の正体に思い当たった。初めてレンの住む201号室を訪ねたとき、暗くなってから僕に声をかけてきた女性だ。あのときもカラフルなボーダーの服を着ていたが、今日も派手な花柄のワンピースを着ている。
モリセンは――恐ろしいことに自分の何が悪いのか分かっていない表情で――僕に向かって語りかけた。
「紹介が遅れたな。コイツが羽水の姉だ」
「私の話はまだ終わってないだろ!? それに呼ぶときはヒロミって呼んで。もうアキちゃんの生徒じゃないんだから」
「初めまして……ええええっ!?」
僕は、すっとんきょうな声を上げてしまった。ヒロミって、まさか、いつも電話している……
「この人が先生の、カノジョさん?」
「あら、私のこと知ってるの? そうよ、高校を卒業してからアキちゃんと街で再会して、付き合うことになったの」
「な、な、な……」
ねー、とモリセンに腕を絡ませるヒロミさんを見て、僕は二の句が継げなかった。
分からない。モリセンも、羽水家の親も娘も、みんな何を考えているのか分からない。こいつら全員、狂っている。
ドン引きしている僕を見て、ヒロミさんは「あれ、どこかで会ったっけ?」とテンポのずれたことを言っていた。