5 その幸せは許されない
さて。同級生の見舞いに行くのはいいが、着ていく服が決まらなかった。
しかもモリセンに対する「なんで僕を誘うんだよ」という怒りと「何を着ていこう、ダサイ奴だと思われたくない」という緊張感で、僕の頭は混乱を極めた。
そんなわけで朝から、ありったけの洋服を持って鏡の前で唸っているわけだ。
――まあ、迷うほど服持ってないけど。
僕の家の経済状況は、あまりよろしくない。僕が小学校中学年のとき、両親が離婚したせいだ。父さんが、ヒステリーな母を持て余した末の決断だった。
だから僕と父さんの生活は、母への慰謝料でカツカツだ。
ちなみに母は慰謝料をがっぽりもらいつつ、遠くの街で知らない男とよろしくやっているらしい。親戚のおばちゃんが頼んでもいないのに教えてくれた。
「……僕は違う、あんな女にはならないぞ」
姿見の前で、服を合わせながら呟く。そうだ、今日のお出かけはデートではない。入院した同級生をお見舞いしに行くだけだ。
僕は難しく考えるのをやめて、白いブラウスに淡いベージュのカーディガン、デニムのパンツを手に取った。我ながら無難な選択である。
集合場所の清水駅前バス停では、モリセン――森田先生がジャケット姿で待っていた。日曜の学生街は人出が少ない。そんな中で堂々と立っているモリセンは、恰幅の良さも相まって、割と目立っていた。
……へえ、ネクタイしないんだ。もっと固い服装で来るかと思っていたので、ちょっと拍子抜けだな。
そんなことを考えていると、モリセンも僕に気が付いて声をかけてきた。
「おはよう、鐘梨。集合時間の10分前に来たのは偉いぞ」
「おはようございます。あとは誰が来るんですか?」
「それなんだが、あと一人来る奴が時間にルーズでなぁ……時間になっても来なかったら、携帯の留守電にメッセージ残して先に行こうと思うんだ」
――ふたりきり!? 心臓がトクンと高鳴る。僕は精一杯のポーカーフェイスを作り、なるべく平坦な声を出した。
「あ、そうなんですか。まあ、僕は構いませんよ」
『僕らが生まれて来る、ずっとずっと前にはもう――』
「ん、電話だ。ちょっと待ってくれ」
僕の虚勢をくじくかのように、モリセンのジャケットからポルノグラフィティのアポロが流れてきた。
彼は僕に片手を立てて謝ると、ポケットから携帯を取り出し、通話に出た。
「もしもし、どうしたヒロミ。……俺? 俺は駅でバスを待ってるけど。言っただろう、生徒のお見舞いに行くって。そうだよ、女生徒と一緒だよ。問題あるか?」
ヒロミさんという人は、モリセンの恋人らしい。嫉妬深いんだか何だか、昼休みとかに電話をかけてきては愛の告白を迫るのである。
モリセンもモリセンで、いつも大声で返事をするものだから、熱々のカップルとして学校では有名になっていた。
「え? それ言わなくちゃいけない? ここ駅前なんだけど」
モリセンがチラリと、気まずそうに僕を見た。僕もできるだけ静かに、その場から三歩ばかり遠ざかった。モリセンが軽く頭を下げる。
「嫌じゃない、言うよ、言えばいいんだろう。『愛してるよヒロミ』。これでいいか、もうすぐバスが来る。電話を切るぞ」
それは僕の胸を深くえぐった。何度も教室で、廊下で、職員室で聞いたはずの言葉。だというのに心がざわめいて仕方ない。
モリセンのバカ。こんな女とは早く別れて、僕に乗り換えろよ。少なくとも仕事中に電話したりしないからさ。
僕はモリセンに気づかれないように、下を向いて溜息をついた。
電話が終わったのを見計らって、僕はモリセンのところへ戻る。と、横から小走りでやってきたサラリーマンにぶつかってしまった。
「きゃっ!?」
「うわっ!? チッ、気を付けろ!」
アスファルトの上に横倒しになる。サラリーマンは急いでいるのか、僕の方を見ようともしないで行ってしまった。
ひざが痛い。でも、デニムを履いていて良かった。スカートだったら汚れが目立つ上に、傷も負っていただろう。
「大丈夫か?」
「えっ?」
「立てるか、鐘梨」
突然、目の前にクマのような分厚い手のひらが差し出された。視線を上げると、モリセンがしゃがみこんで、僕を助け起こそうとしていた。
僕がもたもたしていると、モリセンは左の手を僕の背中に回してきた。慌てて、必要ないとジェスチャーで伝える。
「だ、大丈夫ですから! ひとりで、立てます、から……」
「そうか。ならいいんだが」
――ありがとうございます。僕は先生に聞こえないように、口の中で感謝した。
清水駅からバスで15分ほど揺られると、海浜病院に着く。ここは街で一番大きな総合病院であり、外科・内科を問わず救急患者の受け入れ先として有名だ。
なんと贅沢なことに、レンが入院しているのは個室だった。僕とモリセンが病室に入ると、彼女は左足をギプスで固定し、天井から吊るしていた。
「あっ、こんにちは森田先生。それと、えっと……亀梨さん?」
「僕は鐘梨だ! このアホタレ!」
「ひっ! すみません!」
僕が声を荒げると、レンは大げさに首をすくめてみせた。
まあまあ、とモリセンが割って入って、社交辞令みたいな挨拶をする。
「よお。どうだ羽水、怪我の調子は?」
「骨が外から見えちゃってたみたいですけど、くっつくように押し込んで、肉も縫い合わせてもらいました」
「うえっ!?」
……こいつ、グロいことをさらっと言うなあ。モリセンはというと、感心したように頷いている。僕は思わず聞いてしまった。
「先生、こういう話、平気なんですか?」
「自転車部で事故やケガとは隣り合わせだ。いわれもない不幸な苦しみだが、体験しておけば『ああ、こういうもんか』と思えるさ」
――それは、本当に? 母さんの泣き声を聞かされて育った身としては、たやすく納得できる言葉ではない。更に質問をぶつけてやろうとしたときだった。
「そうでしょうか」
「え?」
その問いを発したのは僕ではなく、ベッド上のレンだった。相変わらず表情はおどおどしていたが、その声は確固たる信念を持ってモリセンの言葉に立ち向かった。
「ええと、世の中には避けられない痛みもあって……諦めて下を向いて歩くしかないときもあって……じゃなくて、痛む必要のないダメージは受けなくていいと思うんです」
「つまり羽水は心が痛んでいる最中だということか?」
「えっ!? それは、その、どうでしょうね。あははは……」
レンの勇気が持続したのは、そこまでだった。モリセンが真剣な顔になって問いかけると、彼女は下手くそな作り笑いでお茶を濁してしまった。
と、そこで背後のドアがガラリと開いて、ヒョウ柄の洋服を着た背の高いおばさんが入って来た。
「レン、カルシウム入りのヨーグルトを買ってきたわよ……あら?」
「ご無沙汰しております。進路指導の森田と申します」
「ああ、お久しぶりです先生さん。そっちの子は初めてね。羽水の母です」
丁寧に頭を下げるモリセンに対して、入って来た女性は頭を下げようともせず、堂々と名乗ってみせた。