2 サイアクな日、最高の声
――キャハハハ! 小さな子供が足元を駆け抜けていく。するとレンは「ひえっ」と声を上げて飛び跳ねた。ファミレスに慣れていないのか、キョロキョロと周囲を見回している。
見かねた僕は、レンを突っついた。
「ほら、座って。なんでも好きなもの注文しなよ」
「あっ、はい! ありがとうございます!」
「お礼はいらないよ。あなたの自腹だからね」
レンは眉毛をハの字にしたものの、すぐグランドメニューに目を通し始めた。
レンの食べっぷりたるや女子のものではなかった。よほど飢えていたのか、まずハーフカットのピザを、続けて半熟卵とベーコンの入ったシーザーサラダを平らげ、さらに三皿目が届くのを待っている。
僕はと言えば、財布に余裕が無かったのでドリンクバーだけの注文となった。ドリンクサーバーへと歩いてゆき、少し迷ってメロンソーダを入れる。
席に戻ると、レンは届いたばかりのカツカレーをがっついていた。僕は小さく溜息をつくと、さっきからの疑問を投げかけた。
「それで、あの郵便受けは何なのさ? どれだけ新聞を取り込まずにいたの?」
「あへはへふへ、ふふはらへ……!」
「汚い! カレー食いながらしゃべるな!」
レンがカツカレーをかきこみながら答えようとするのを、押し留める。服がシミになったら、どうしてくれるんだ。
ややあって、レンの喉がゴクリと動いた。口の中のものを飲み込んだらしい。
「……あれはですね、風邪をひいて二日だけ取らなかったんです」
「はあ!? 二日であんな一杯になるわけないだろ!?」
僕は大声を出してから、慌てて自分の口をふさいだ。周囲の席に座るママさんとお子様たちが、いぶかしげに僕らのほうを眺めている。
いきなりレンが、こう言った。
「大声出さないでください、恥ずかしい」
「お前のせいだろ!」
「ひっ! すみません……」
……まあ、いいよ。それで?
「実は私、新聞を五紙、取ってるんです」
「……正気か?」
再び叫び出しそうになるのを、なんとかこらえて言葉を返す。本当は、もっと辛辣な言葉を投げかけてやりたがったが、公衆の耳目があるので我慢した。
僕が視線で「なんでそんな愚行を?」と問いかけると、レンは偉そうに胸を張って答えた。
「知識というものは邪魔になりません。新聞は捨てても、知識は残ります。私は情報化社会の最先端を走りたいんです」
「殺すぞ?」
おっと。『本音は?』と聞こうとして、うっかり言い間違えてしまった。
するとレンはスプーンを置いて、やたら乙女チックな仕草で体をクネらせながら、こう言った。
「……笑いませんか?」
「答えによる」
「新聞勧誘が……断れなくて……」
――ブホッ!
僕は飲んでいたメロンソーダを噴き出してしまった。レンが『うわ、汚い』とか言っていたが、無視をする。
この女に常識というものを教えなくてはならない。僕は咳払いをすると、早口でまくしたてた。
「あのさあ……『一つ契約したから他は要らない』って言えばいいじゃん!」
「だって、あの人たち帰ってくれないし、何度も来るんですよぉ!? それが一日100円の支払いで静かになるなら、Win-Winの関係じゃないですかぁ!」
「一ヶ月にしたら三千円、五紙で一万五千円の一人負けだ! どアホウ!」
……聞いていて頭が痛くなってきた。早くプリントを渡して帰ろう。僕はカバンから紙を取り出して、ほら、とレンに突きつけた。
「これ、今日のプリント。森田先生に渡せって頼まれた分」
「あっ、ありがとうございます」
「それじゃ、僕は帰るから。来週の期末試験には学校に来てね」
そう告げて立ち上がった瞬間、ファミレスの店内にダースベイダーの曲が鳴り響いた。何かのイベントかと辺りを見渡したが、店員の動きに変化は無い。スピーカーからの店内放送ではないのか?
耳を頼りに音源を探す。だいぶ近い。まるで目の前から聞こえてくるようだ。
例えば、そう、このアホタレの持っているスマホから――
「お前の着信音かよ!」
「あ、あ、あああああああああああ!」
レンは奇声を発しながら、ダースベイダーの曲が鳴るスマートフォンを握りしめていた。なぜだか体が小刻みに震えている。
やがて彼女は震える指で着信応答の操作を行い、通話を開始した。
「もしもし、お母様。はい、存じております。明日のお越しをお待ちして――えッ!? もう着いたって、駅にですか!?」
嫌な予感がする。
「じゃあ、僕はこれで――」
「は、はい! お母様をお迎えする準備は出来ております! すぐ駅に参りますので、少々お待ちください!」
「ちょっと、何するんだ!?」
レンはいきなり僕のスカートの裾を、ぎゅっと握りしめる。他人のフリをしてさりげなく立ち去ろうという目論見は、脆くも崩れ去った。
「お母様が来るのに、お部屋のお掃除が終わってない……」
「おい、離せよ」
「こんなことを頼めるの、同級生の女の子しかいない……」
レンは涙でぐしゃぐしゃになった顔で、僕に迫ってきた。
「お願いします、私のお部屋をお掃除してください!」
「嫌だよ!」
「そこを何とか! 時間を稼ぎますから、お母様が来るまでに綺麗にして! でないと私、怒られちゃいますぅ!」
「知らないよ、そんなこと!」
「う、う、あぅおぉぉ、ぅあああああああ!」
夕食時の、のどかなファミレスにレンの絶叫が響く。その刹那、僕は彼女の泣き声に、心奪われた。
この美声をどう表現すれば良いものか、僕は適切な言葉を知らない。
ゴスペルを歌う黒人歌手が、ありったけのビブラートで声を張り上げるような。
バックコーラスが曲の終わりを盛り上げるべく、張り上げる高音のような。
それは僕自身、いまだかつて聞いたことのない魂を震わせる泣き声だった。
ほんの少し、至福の時間が流れた。やがてひとりの店員さんが寄ってきて「他のお客様のご迷惑になりますので、お静かに」と、しかめっ面で注意してきた。
それをきっかけにレンは泣くのを止めてしまい、僕はしぶしぶレジに向かったのだった。
「お願いです、私の頼みを聞いてください。えーと……」
そそくさと会計を済ませた後、歩きながらレンは眉をひそめてみせた。
「えーと……」
「なんだよ。何を悩んでるんだよ」
「あの、あなた誰ですか?」
「そこかよ!」
僕は反射的に彼女の頭を張り飛ばした。これが僕と羽水レンとの出会いだった。