1 羽水レンの部屋
早く春休みになって欲しい。学生なら誰もが考えることだ。けれど僕にとって、今年のそれは極め付けだった。
決して高校二年生が終わるから憂鬱だとか、そんな理由では無い。
……告白して、振られた。それが僕、鐘梨波瑠にとって世界の全てだった。
なのにモリセンときたら、お構いなしに僕を職員室に呼び出したのだ。
「鐘梨、進路調査票は持ってきたのか?」
「進路だったら、僕は就職します。これで調査票いらないですよね?」
「鐘梨。お前はふたつ勘違いをしている」
進路指導のモリセン――森田先生は、大げさな溜息をついた。
僕はスカートの裾をギュッと握った。廊下につながる木製の引き戸から、3月の寒気が忍び込んできたせいだ。
「まず進路調査票は学校が書類として使うものだ。お前には『自分の意思でこの道を選びました』と報告する義務がある」
「義務ですか」
「それから『僕』ってのを止めろ。社会に出たとき恥をかくぞ」
「卒業したら止めますよ」
「いいや、今すぐにだ。人間の癖は簡単に直るもんじゃない。卒業まで、あと一年あるうちに直しておけ」
……うるさいなあ、もう。女子が僕って言って、何が悪いんだよ!
モリセンは、生徒の話をよく聞いてくれるナイスガイだ。ぽっこりしたお腹と口髭がよく似合う。顧問を務める自転車部での評判も高く、もはや紳士という呼び方がしっくり来る。
けれど小言を始めたときの頑固さたるや、並大抵のものではない。「話せば分かる」が信条とだけあって、何としても生徒を納得させようとするのだ。
僕は仕方なく、ハイハイと相槌を打つ。けれど納得していないのがバレバレだったようで、モリセンは眉間にシワを寄せて何かを考え始めた。
ややあって。
「鐘梨、お前に頼みがある」
「なんですか、藪から棒に」
モリセンは机の引き出しを漁ると、数枚のプリントを僕に手渡した。
「これ、何ですか?」
「生徒の欠席で余ったプリントだ。これをな、休んだ羽水に、渡しに行ってこい」
「えーっ」
僕が不満そうにしていると、モリセンは机を指で叩いてこう言った。
「羽水は今日こそ欠席したが、成績優秀な生徒だ。お前も羽水の家に行って、高三に上がる直前の緊張感というものを分けてもらってこい」
「…………」
「イヤか?」
モリセンは、しっかり僕の目を見て訊ねてくる。
――構いませんよ。僕は目をそらしながら、小さな声で承諾した。
振られてすぐ貴方をキライになれるほど、僕は器用じゃありませんから。
今日は金曜日。土日を挟んで期末試験が始まる。学校から大通りでつながる、夕暮れの住宅街を、僕はひとり歩いていた。こんなことに巻き込めるほど、仲のいい友達はいない。
モリセンから教わった住所は、学校から程近いアパートの一室だった。両親と離れて、ひとり暮らしをしているそうだ。
「えーと、ハイツ清水……ここかな。表札を確かめておくか」
そんな独り言を呟きながら、何気なくアパートの入り口に並ぶ郵便受けに目をやったときだった。
郵便受けの中に、ひときわ異彩を放つ受け口があった。201号室――何束もの新聞紙がギュウギュウに詰め込まれている。
分かるだけで受け口から四束、新聞紙が外へ飛び出している。開いて中を見れば、もっとたくさんの新聞紙があるはずだ。
背中を嫌な汗が流れる。この部屋の主は、いつから新聞を取り込んでいないのだろう?
刹那、僕の脳裏を悲惨なフレーズがよぎった。
――アパートの学生あわれ孤独死!
――気づかなかった家族・学校の責任とは!?
インタビュー攻めに遭う僕たち、謝罪会見で頭を下げるモリセン。ダメだ、そんなのは絶対にダメだ!
僕はアパートの管理人室に飛び込むと、郵便受けの異変を訴え、合鍵を持った大家のおじさんと共に羽水レンの部屋に向かった。
「羽水さん! 大丈夫ですか、入りますよ!?」
「鍵開けますからね!」
「えっ!? あっ、ちょっと待って! 新聞が……」
ガチャリ。錠が回る音。バタン。ドアが開く音。
その後のことは、忘れようにも忘れられない。部屋の入り口脇には、人の背の高さほどにも積み上げられた新聞紙の山があったのだ。そこに大家さんは突っ込んでしまった。
崩れ落ちる新聞紙。目と口をまん丸にした大家さん。悲鳴。振動。悲鳴。
新聞の下敷きになった大家さんを前に、部屋の主は、たどたどしく警告した。
「だから、ドアを開けると新聞が崩れて危ないですよぉ……」
「なんなんだよ、このトラップは」
僕が眉をしかめてみせると、羽水レンは――思い返せば、場をなごませようとしたのだろう――顔を赤くして、上目遣いでこう言った。
「忍び返し……忍者が潜入してきたとき、ここでひっくり返る……」
「大家さんをひっくり返してどうする!?」
僕のツッコミは、アパートの廊下で少しだけ反響して、虚空に消えた。
――なにが高三の緊張感だよ。僕は心の中で、ここへ行けと命令したモリセンに悪態をついてしまった。
幸い大家のおじさんは良い人で、新聞紙に埋まったにも関わらず、
「大事が無くてよかったよ」
と手を振って帰って行った。僕は引きつった笑いを浮かべて、おじさんの背中を見送った。
すると、いきなり背中をぐいと押された。……誰に? ひとりしか居ない、羽水レンだ。
「……って……さい」
「何するんだよ!? いきなり押すなって!」
「帰ってください! 私は忙しいんですぅ!」
「はあ!?」
この時になって、僕はようやく羽水レンの顔を見た。月並みな言葉で申し訳ないが、人形のような美しい顔立ちの人だった。わずかに吊り上がった切れ長の目と、真一文字に結ばれた唇は、白木の幹から削り出したかのような整い方だった。
背はすらりと高く、手足はマネキンのように細い。一体、何を食べていたら、こんなに綺麗になれるのだろう?
質問してみたかった。部屋の入り口で、背中を押されているという現実さえ無ければ。
「お願いだから帰ってぇ! 今から部屋を掃除するんですぅ!」
「いや待ってよ、まだ僕の用件が済んでないんだよ」
「私は用件なんてありませんからぁ! きっと何かの間違いですよぉ!」
「人の、話を、聞けッッ!」
僕は、ありったけの力で羽水レンを突き飛ばした。すると彼女は、あっけなくコロンと倒れてしまった。
あまりの手ごたえの無さに呆然としていると、グゥ~ッと間抜けな音が鳴り響いた。倒れた彼女に、恐る恐る声をかける。
「……あの、羽水さん? もしかしてお腹すいたの?」
「は、はい……」
なるほどね、スタイルがいいのは絶食してるせいか。
僕はとりあえず、羽水さん――いや、さん付け必要無いな。レンを近くのファミレスまで連れて行った。