すがくん
無理矢理注意
「ごめんね、皆。今日は再テスト中止にする」
生徒全員固まって個々の胸の中で文句の嵐であろう。
僕はその中で一番ひどい嵐であっただろう。バーゲンセールの恨みは深いぞ、先生。
それか再テストなくなって喜んでいる人もいるかもしれない。
案の定怖い田中先生を前に「やったー」と声に出して喜んでいる生徒がいた。
それを先生がどついて冗談っぽく怒っている。ムードメーカーだからできる技である。
僕には100年かかっても無理だけれど。
真っ先に動き出したのは僕の横に座っていた男子だった。
立ち上がって僕の前を通りすぎる。僕もそれに習うよう一歩踏み出す。
「だが山田と須賀は残れーあとは部活や帰宅してよし」
先生のその一言で僕は足を止める。
驚いて先生を振り返ると先生はこっち来いと手招きしていた。僕には勿論心当たりあった。
ついに先生に直々に呼ばれるという不良になってしまった。それは仕方ないがバイトの時間までに終わるか唯一の気がかりだ。
先生の手招きに応じ進路指導室の中に入る。中はエアコンがかかってあり温かい。中心には木製の深い茶色をしたテーブルに向かい合うよう少し広いソファーがおいてある。
下は一段高く作られていて灰色の絨毯が敷かれている。
この上をスリッパで歩くのはいけないだろう。
横に置いてあるやわらかい緑のスリッパに履き替える。先生はすでに奥のソファーに腰を据えていた。僕はその前にあるソファーに腰を落とす。
「須賀、早く来い」
そういえばもう一人呼ばれていたことを思い出した。
後ろを振り返ると少しいやそうな顔をしたさっきの男子がまだ廊下に立っていた。
(この人すがくんっていうのか。)
人名をすぐ忘れる僕は心でそう呟く。
しぶしぶ進路指導室に入ってきてドアを閉めるのを確認した先生は手元にある二枚を表にし机の上に並べる。一方は名前と出席番号が書かれた小テスト用紙、もう一方には何も書かれていないそれ。
両方とも0点と書かれていた。
須賀がソファーに座ると先生はまず僕に話の矛先を向けてきた。
「山田この点数は何だ」
「すみません、テストに集中できませんでした」
正直に答えた。この先生は嘘をついてもばれてしまうのを感じていた。この先生は確かに怖い。
しかし生徒をよく見ているし、この間息が詰まるほど踏み込んだ質問を投げ掛けられたのは記憶に新しい。
「集中できなかったとしてもこれは駄目だ。山田、貴方は学校を何だと思っている」
「勉強を学ぶ所です。」
「なのにたかが小テストだろうがお前は手を抜いた。それが山田の甘さだ。」
その言葉に体を強張らせる。そう、あの時僕は自分に甘えた。辛い夢を見た直後だからという理由は言い訳に過ぎない。まだ過去が怖いとかただの甘えだ。僕は昔と何も成長していない。その事実を突きつけられ息が詰まる。
悔しさ、情けなさで全身がまた震えそうになった。
喉にせり上がってきそうな嗚咽を必死に抑える。
「山田おれは…」
「分かっています。」
先生の声音が和らげた。その言葉の続きを聞きたくなくて先生の声を静かに遮った。ただ優しい言葉をこの人から聞きたくなかった。
「先生の言葉はいつも正しいです。いつも先生の言葉は僕を的確についています。」
大きく息を吸って先生と正面から向き合う。目をそらさない。
「先生の言葉いつも届いています、痛いほどに。だから慰めなんていりません。」
先生は一瞬呆気にとられ珍しい顔をした。そして「そうか」と優しく、けれどどこか痛がっている、そんな複雑な顔をした。
「山田、今日はもういい。帰っていいよ」
今まで聞いた中で一番優しい声でそう言った。
バイトに向かうと懸念通り遅れてしまった。
今日のバイトはゲイバーだった。
間が悪くマスターが不在のようでこっぴどく先輩に絞られ残業させられることとなった。
マスターにはこの店で働くこと勧誘され最初は性別を理由に断った。
けれど女でもいいよとまで言ってもらい時給も良かったので働くことにした。最初は男の子と勘違いしたようだけど、今は性別が女であることを容認したうえで優しくしてくれるマスターには本当に感謝している。
ほかのバイト生にはそのことは言っていないようだけれど、マスターに気に入られ客受けも良かったら気に食わないのだろう。これで女とばれたら先輩たちに八つ裂きにされるに違いない。
バイトの時間も終わりバイト生のトイレを掃除していた。
これもはじめの頃何度も先輩たちに任され、こなしてきたので慣れたものだ。
しかし、ある時急にぴたりと止んだので疑問を感じていた。
もしかしたらマスターが気をまわしてくれたかもしれない。あの人僕にかなり甘いからなぁ。考えて知らず知らずのうちに笑みがこぼれていた。
その時人が入ってきて驚いて顔を上げる。そこにいたのは先輩の一人だった。
名前は忘れたがかっこいい分類入るであろうという風体だ。
肉食動物を思わせる体躯と雰囲気を兼ね備え持つ。今日は嫌に機嫌が良いようで絵になる笑みを浮かべている。
まるで獲物を見つけた肉食獣のようで…
(こわぁぁああぁ)
「せっ、先輩はもう上がりですか?」
声が裏変えってしまい恥ずかしくなる。
気を取り直し営業スマイル全開でこちらに向かってくる先輩を迎えうつった。
さっさと用事を済ませて出て行って欲しい。
僕の目の前に来たら先輩は何故か足を止め見下ろしてきた。
(え?なんで…)
疑問に感じつい営業スマイル忘れてきょとんとした顔で見上げる。それに心なしか息を荒げて僕の両腕をつかんできた。
「えっ!?」
(これはまずいんじゃないか!?)
「せせせんぱい!?」
「ハル君のことが好きだ」
「ぇ!?」
「ごめん、我慢が出来ない」
僕の挙動不審極まりない行動と答えを無視して何故か和式のトイレに連れ込まれる。驚きすぎて抵抗もできなかった。気が付いたら両手首を後ろに一纏めに掴まれ胸を便器のふたに押し付けているような感じになっていた。後ろだと力が入りづらい。そもそも僕は足は速いけど腕力は女性平均を下回る。この状況を打破するのは難しいかもしれない。
しかし諦めきれずに思いっきり抵抗する。両手を動かそうとしてもピクリとも動かない。両足ばたつかせようとしてもいつの間にか足で挟まれて動かすこともかなわない。
(くっそこの人何考えて…)
いろいろな記憶が蘇り恐怖で体が震える。でもこの人は僕の事好きだといった。好意を持っているのなら交渉できるのかもしれない。震えはまだ収まらない。喉が凍りついたようで声が出なかった。気を抜けば恐怖に負けて奥からせりあがる涙に身をゆだねてしまいそうだ。全身全霊を掛け踏みとどまり声を上げる。
「な、んであなたは、こんな」
叫び声が出てもおかしくはない力を込めてたのに出てきた声は蚊が泣くような声だった。
「俺ねハル君の事好きなんだよ?」
言いながら変な手つきでお尻を撫でられる。この手つき痴漢の人と同じだ。
「ずぅっと好きだったのに気付いてくれなくて。ついにこんな手段とっちゃった」
手がどんどん上に這ってきて上着の中に器用に入り込む。
「、ぅ」
嫌悪感で吐きそうになる。僕にそれ以上触れないでくれ。
「す、すごくかわいいいよぉハルくぅん」
怖い怖い怖い怖い。あの時と違う怖さ。不快感。もぅいやだった。
「た、すけ」
その時ドアが荒々しく開かれる。先輩は驚いて手を止め身を固くした。僕は微動だにせず人形のようになっていた。
次の瞬間先輩が離れて行って身が軽くなる。
解放感に安心をし、おそるおそる起き上がる。
そして後ろを振り返った。逆光で顔がよく見えなかった。しかし、その人は僕を冷たく見下ろしているのが分かる。
雰囲気のせいだろうか。
その人は僕を見下ろしながら冷たく告げる。
「うせろ、長島」
その声に目を見張る。
そして世界の音が消えた。
その声知っている。
息を詰め震える口でその声の主を呼ぶ。
「す、がくん」
心に灯がともるのを感じた。