帰郷
「うわさの発信源は、由美子みたいだよ」
看護師の幸子が言った。
病院の食堂で、ひとりで昼食を摂っていた春美に、食事を終えて春美を見つけた幸子が教えてくれたのだ。
「まさか」
春美にはとても信じられなくて、笑うしかなかった。由美子がそんなことをする意味がないではないか。まして、由美子はここへきてからの一番の親友なのだ。
「でもね、あのうわさ、由美子から聞いたっていう人が一番多いのよ」
春美が荒川を寝盗って、藤江明子との縁談を破談にしたという例の噂だ。
「それもただのうわさじゃないの?」
「でもね、荒川先生、今度結婚するみたいだよ。由美子と。それはうわさじゃなくて本当よ。荒川先生が、理事長に報告したみたいだから」
春美には初耳だった。
あの噂が広まって以来、春美は周囲に冷たい目で見られて疎外されていたので、あまり病院内での出来事などは耳に入らなくなっていたのだ。
唯一、まともに会話を交わせる相手は、由美子か、この幸子くらいになっていた。
荒川先生と結婚することになったのはおめでたい事だとは思ったが、由美子は荒川と自分に起こったことを知っているのだろうか?そして、この噂をどんな風に捉えているのだろう。
とにかく、一度由美子と話をしてみようと思った。荒川と結婚する事が本当ならば、お祝いも言わなければならない。荒川とのうわさも当然、由美子の耳に入っているだろう。その事についても、必要があれば支障がない範囲で説明しておかなければならないと思った。下手な事を言うと、今度はまた荒川と由美子の仲を壊しかねない。
勤務に戻ると、春美は合間を見て由美子に今晩飲みに行かないかと誘ってみた。
「いいよ。例のイタリアンでね」
由美子は無表情でそう答えた。
チーフはあのうわさを知っていてかどうか、相変わらず淡々と冷静に仕事をこなしていた。春美に対する態度も変わらなかった。以前と変わらずに、色々な指示を受けたし、業務に関係のない事を話さないのも同じだった。
定時になると、春美は由美子よりも先に着替えて職場を出た。由美子の方は、まだ仕事が片付かないようだった。由美子は同い年だったけれども、職場では先輩だったので、仕事量は春美よりも多かったし、もっと経験が必要な業務も担当していた。
春美は行きつけのイタリアンレストランで先に待っていることにした。由美子と会う時には8割方いつもこの店だ。そして、いつもの、通りが見える窓際の席に着いて、由美子を待った。
しかし、ここ最近は由美子と一緒に夕食に出る機会もめっきりと減っていた。由美子から以前と比べてあまり誘いが来なくなっていたこともあったし、春美もどこへ行くにもここ最近はずっと和田とばかり行動していたので、由美子とはなかなか行く機会がなかったのだ。
和田とは短い期間だったが、本当に色んなところへ連れて行ってもらった。随分と愛情も注いでもらったような気がする。仕事が終わったあとにもよくおばさんの居酒屋で一緒に飲んでいたが、休日はほとんど和田と過ごしていた。たくさんの事も語り合った。他愛もない冗談も交わした。そして、自分の心を覆っている氷を少しずつ融かしてくれていたのだ。和田はきっと、春美の心に影のようなものがある事には気がついていたに違いない。きっと、それに光を当てようとして、必死に頑張ってくれていたのだ。彼はそういう献身的なところがある人だった。春美も年相応の恋愛はしてきたけれども、一緒に過ごしていてこれほど心が和む相手は初めてだった。
ひとりになると、やはり和田の事を考えてしまう。自分はまだ、彼に未練がたっぷりと残っているのだ。そのうちに、ひょっこりとまた春美の前に現れて、笑顔を見せてくれるのではないかと心のどこかで期待している。
あれ以来、原田は春美の前に姿は見せなかった。
原田の事は、別れた際の出来事が心の傷として残ってはいたものの、彼の事はもう何とも思っていなかった。改めて付き合うというような恋愛感情もない。ただ、別れた彼女との事は可哀そうだと思った。遊ばれていたと原田は言っていたが、彼の気持ちを考えると心が痛んだ。だが他にも女はたくさんいる。彼には何とか幸せになって欲しいと願うばかりだった。それ以上でも、それ以下でもなかった。
30分経っても由美子が来ないので、春美はとりあえずビールを頼んで飲んでいることにした。
ウエイトレスを呼んで、ビールを頼もうとしているところへ、由美子が店に入って来た。そして、荷物を空いている隣の椅子に置いて、春美の向かいの席に腰を下ろした。
「何か頼もうとしてた?」
由美子がウエイトレスを見て言った。
「うん。ビールを」
「じゃあ、とりあえずグラスビールをふたつ」
代わって、由美子が注文した。
「遅かったね。何かあったの?」
「うん。ちょっとした事務ミスみたいのがあって、なかなか終わらなかったんだよ」
由美子はコートを脱ぎながら言った。そしてそれを隣の椅子の背もたれに無造作に掛けた。
「そっかあ。どこの部分で起こったのか調べるのに、けっこう大変だもんね」
「そうなのよ。―分かって来たじゃない」
由美子はちゃかすように言った。
ビールが運ばれてくると、とりあえず乾杯した。
「―で、どうしたの?珍しく、春美から急に飲みに行こうだなんて。また何かあった?」
由美子はいつもと同じような調子のように見えたが、何かしら違う距離感のようなものを感じた。何か、いつもと同じように振舞おうと意識してそうしている、そんな感じを受けるのだ。何となく流れるぎこちない空気感のようなものを、春美は敏感に感じ取っていた。
「―私のうわさを知ってる?」
春美は単刀直入に切り出した。
「うわさ?ああ、荒川先生と春美がどうのっていうやつ?」
「そう。やっぱり知ってるんだね」
「けっこう広まってるからね」
「なぜ、あんな噂が広まっちゃったんだろう」
「さあね、うわさなんて、どうにでもしてたつからね」
由美子は素っ気なく言った。
「―由美子、荒川先生と結婚するの?」
由美子の顔色がサッと変わった。
「そのうわさ、知っていたんだね。―春美は知らないかと思ってた」
「うん。ちょっと人に聞いて」
職場で春美が疎外されているのを分かっていて、春美の耳にはうわさが届いていないと由美子は思っていたのだろうか。そういえば、その状態にある春美に、由美子は援護射撃のようなことを全くしてくれていないように感じた。普通、友達がそんな目に遭っていたら、出来る出来ないは別として、少しでもなんとかしてやろうと自分なら思うのではないだろうか、と春美は思った。
「そうなんだ。―それでなんなの?」
由美子は不機嫌そうにビールをのどに流し込んだ。
これまでの付き合いで見てきた由美子の雰囲気と明らかに違うことに、春美は戸惑いを隠せなかった。
「本当なら、おめでたいことだから、お祝いくらい言わなくちゃと思って」
「本当よ」
春美はその短い由美子の返事を聞いて、驚いた。やはり本当だったのだ。
おめでたい事ではあったが、心の中では引っ掛かるものを感じていた。それならば、荒川とのあの噂はどう思っているのだろうか。いや、噂だけれど起こった出来事は真実に近いのだ。内容が違うだけだ。確かにあの日、自分と荒川は一瞬だけれども男女関係にあった。結婚相手にそんな噂があるのであれば、普通は由美子の方が噂の当事者である春美に確認したいはずだと思えた。
それとも、噂などというものは、端から信用していないのだろうか。春美は、どうもしっくりとこないものを感じた。
「どうしたの?ショックなの?」
由美子が訊いた。
「いや、うわさって結構怖いよね。あっと言う間にみんなに知れ渡っちゃうんだね。―荒川先生と私のうわさも、由美子が流したっていううわさだしね。そんなことあるはずないのにね」
「それも本当よ」
「え?」
さすがに春美は耳を疑った。
「そして、荒川先生とのことも本当でしょ?」
由美子の口調が嫌味をたっぷり含んだものになって出てきていた。これまでに由美子から自分に向けられたことのない嫌悪感に満ちた言葉だった。
「私は、ずっと前から荒川先生の事が好きだったのよ。あなたがうちの病院に来るずっと前から。荒川先生だけを見ていたのよ。知っていたでしょ?こんな大都会のデパートのレストランなんかで偶然逢うわけがないじゃない。ちゃんと逢えるように調べていたのよ。荒川先生との距離を縮める為に、色んな努力をしていたわ。それを、ちょっと最近やってきたあなたが、荒川先生を横からかすめ盗ろうとしたのよ。なぜ荒川先生の部屋へなんて行ったの?あなたにそんな欲があるとは思わなくて、正直ショックだったわよ。まあ、人間はみんな、あわよくばというような欲は持っているのかもしれないね。でも、あなたはそんなタイプじゃないと思っていた。純粋で素直で、そんな子だと思っていたから仲良くしていたのに。だけど、荒川先生を盗れるかもしれないと思って部屋へ行ったんでしょ?ガッカリだったよ。それを聞いた瞬間、あなたへの友情はなくなったわね」
「―由美子・・・」
春美は、信頼していた由美子にそう言われて、涙を堪えるのに精いっぱいだった。
「ついでだから、全部教えてあげるわ」
そして、由美子は堰を切ったように話し始めた。
「あなたと荒川先生のうわさを流したのも、そうよ私よ。だって、私が縁談を壊して藤江さんから彼を強引に奪ったと思われるじゃない。実際にはあなたが壊したのに。そんな罪まで被りたくないわ。私は縁談が壊れて可哀そうな荒川先生と付き合い始めて、それで意気投合して結婚することになるの。その方が周りの祝福度合いも、職場での居心地も全然違うでしょ?むやみやたらに強引に奪ったって、ダメなのよ。―最後にね、私はあなたとの事は荒川から聞いているわ。だから全部知っている。だけど許せるの。何故だかわかる?」
春美は無言で首を振った。もう何も言う気はしなかった。体中を絶望感が駆け抜けていく。
「あなたは荒川に対して欲があったかもしれないけれど、彼にはなかった。彼は藤江さんと別れたくて、わざとああいう状況を演出したのよ。何もあなたに気があったからではないの」
由美子はそう言うと、ビールを一気に飲み干して、テーブルの上にグラスをドンと置いた。
ウエイトレスがその物音でこちらを見た。
「分かった?」
由美子が念を押すように言った。
春美は、頷いた。もう頷くしかなかった。
「そう言う事だから、じゃあね」
由美子は財布から千円札を三枚出すと、テーブルの上に置いた。それからちらっと春美を見てから、コートを着て、無造作に荷物を取り上げ、足早に店を出て行った。
由美子に言われた事が頭から離れなかった。由美子自身から言われた事に強い衝撃を受けた。まるで頭から冷水を浴びせられたようだった。こちらへ来てからの一番の親友だと思っていた由美子に、そんな風に思われていたことが耐え難いショックだった。そして、その由美子が自分を陥れるようなうわさの首謀者だったのだ。自分がどれだけ職場で辛い思いをしているのかを知っているはずだ。由美子から発せられた何重もの衝撃波が、時差を置いて春美の心をどんどん揺さぶって来た。
自分をそれほどまでに憎んでいたのだろうか?もしかして、自分が悪かったのではないだろうか?この行ないは、自業自得なのではないか?
そんな風に自問自答してみた。
しかし、自分は決して荒川先生とどうにかなりたいという下心を持って部屋へ行った訳ではないし、藤江明子との仲を壊そうとしたつもりもない。まして、由美子が荒川先生のことを好きだったなどという事は気づきもしなかった。そして、その荒川先生を横取りしようなどとも思ってはいなかったのだ。
由美子が言うところによると、逆に、荒川先生が藤江明子と別れる為の道具として、春美を利用したというような事を言っていた。自分はそんなに都合の良い道具だったのだろうか。人を傷つける為の道具だったのだろうか。そんな残酷なことが許されていいのだろうか?それでは自分は、自分を辱め、藤江明子に心の傷を植え付けさせた、誰かれ構わずに傷つける残酷な殺傷道具ではないか。
自分は、何も後ろめたいような行動をしたつもりはなかったのだ。その時その時の自分の良心に従って行動して来ただけなのだ。ただ、結果的に自分が藤江明子を傷つけ、荒川先生との破談の引き金になったことは間違いない。そう考えると、自分はとても罪深い人間のように思えた。
藤江明子の恨むような眼が、また脳裏に蘇った。春美によって幸せな結婚を奪われた藤江明子の眼だ。自分はこれから一生、この呪縛に苦しめられて生きて行くのだろうか。
由美子の言葉にひどく傷ついていたものの、涙は出なかった。涙はもう、和田との別れの時に使いきってしまって、心にある涙の溜め池は枯れてしまっているのかもしれない。その涙が出ない事が辛かった。泣きたい時に泣けない事のほうが苦しい事を、春美は和田との別れの際に思い知っていた。
苦しい。
辛い。
泣きたい。
由美子も、荒川先生も、幸せになる為に必死だったのかもしれない。その手助けを自分がしたのかもしれない。皆、幸せになる為に必死なのだ。原田も和田も北島も。そして、藤江明子も幸せになりたかったに違いない。幸せになる為に、必死に生きていたに違いないのだ。しかし、誰かの幸せのためには、誰かの犠牲が必要なのかもしれない。春美にはその答えは分からなかった。少なくとも、自分の幸せに誰かの犠牲が必要だとすれば、自分はそんな幸せは望まないだろう。
分からなかった。何が起きていたのか、ちっとも分からない。受け入れられない。
心が凍っていく。
心が泣いている。
でも、流す涙がもうない。
翌日の朝は辛かった。ほとんど眠れないまま、朝を迎えた。
体が鉛のように重たくて、なかなかベッドから起き上がる事が出来なかった。
それでも何とか起きて身支度を整えると、重い足を引きずりながらいつもの職場へと向かった。途中、軽やかに駅に向かうサラリーマンやOL風の女性達とすれ違った。春美は駅とは反対方向の病院へと向かう。いつもの朝と同じ光景だ。今日も空は晴れている。
この人達もみんな、日常生活の中で色んな問題を抱え、傷つき、悩んでいるのだろうか。春美はそんな風に考え、いつもとは違う目で道行く人を見ていた。
職場に着いて、着替えを済ませていつもの持ち場の内科受付へ行くと、チーフがもう来ていた。だいたいいつも最初に来るのは、春美かチーフのどちらかであった。
「おはようございます」
春美が挨拶すると、チーフは春美に視線を合わせないように、
「北部さん、ちょっといいかしら」と言った。
「はい」
春美はドキリとしながら、チーフの後に着いて行った。
いったい何だろう?
チーフは春美を事務室の奥にある応接室へと招き入れた。
「座ってちょうだい」
チーフの口調は相変わらず冷静で、何の用なのかが見当がつかない。良い事なのか、悪い事なのか、チーフの口調からは分からないのだ。
黒の革張りの大きな3人掛けの椅子が、向かい合わせるようにふたつ置いてあった。その間にテーブルが置いてある。よくあるような、来客用の応接室だ。壁には、理事長と院長先生の写真が額縁に入れて飾ってあった。
春美はドアの近くの下座に腰を下ろした。
回り込んで、チーフは春美の向かいに座ると、今度はじっと春美の顔を見ていた。
「北部さんは、真面目だし、物覚えが早いし、よく頑張ってくれているわ。私も期待していたのよ」
チーフから褒められるのは初めてだった。口調は相変わらず冷静だった。顔も表情を崩さずに、真意は分からない。わざわざ春美を褒める為に呼んだとは思えなかった。
「いえ、まだまだなんですけど」
春美が謙遜して言った。
今は仕事で褒められたところで、とても喜ぶような気分ではない。
「―でもね。うわさは知っているでしょ?」
「え?」
春美は驚いたように聞き返した。
「荒川医師とのうわさよ。もうこんなに騒ぎになっていたら、どうしようもないじゃないの。なぜこんなことになったの?」
それはこちらが聞きたいくらいなのだ。
春美は目を伏せた。
「ここは職場なのよ。そんなことで病院中を引っ掻き回されても困るの。理事長の耳にまで入っていて、私にはどういうことなのだ?といって訊かれるけれど、私にも分からないじゃない。うわさは本当なの?」
「はい」
春美は静かに答えた。
事細かに弁解しても仕方がない。この件に関しては、自分は悪者なのだ。半分は事実なのだから。全てを話しても信じてもらえるかどうか分からないし、もし信用してもらえたとしても、今度は由美子と荒川先生の縁談に傷がつくかもしれない。せめてそれだけは避けたかった。自分は利用されたままでもいい。その代わりに、幸せなカップルが一組誕生するのだ。
チーフはふうと息を吐いた。
「これ以上は、病院の風紀が乱れるし、人間関係も悪くなっていて業務にも支障が出始めているじゃない。ここは、人の命を預かる病院なのよ。―私の言っている意味がわかるかしら?」
「それは、辞めろってことですか?」
チーフはまたふうと息を吐いた。冷静な表情をしてはいても、心の中では葛藤しているのかもしれない。誰でも、そんなことを通告する役目はやりたくないだろう。
「私にもかばい切れないの。かばう人もいないでしょう?このままでは、どんどん雰囲気が悪くなるばかりなのよ。まして、どうやら今度、土井さんと荒川医師は婚約するみたいだから、あなたが居れば、これからもっとややこしい事態になることも考えられるわ」
これは解雇通告なのだ。
あなたはこの病院には要らない。いや、邪魔だと言われているのだ。
何という重たい話だろう。ここまで一生懸命に頑張って来たこの職場から、もう要らないと言われているのだ。何があっても一生懸命頑張ってきたのに。
これからどうすればいいのだろう?
生活の事も頭をよぎった。転職など考えた事もなかったので、将来のことについて不安にもなった。これまでに病院内でやってきた仕事や、患者さんとの出来事、業務で失敗したことなどが次々に頭の中を駆け巡って行った。
きっと、会社をリストラされる人達もこんな気持ちに違いない。
ショックと、急に目の前から明かりが消えたような先の見えない絶望感。渡りかけている橋が、途中からすっぽりとなくなっているような感覚だ。
母の顔を思い出した。春先に、不安そうな顔で心配しながらも、やっと就職先が決まった事を喜んでいた。そして、一緒にこの病院へ挨拶に来てくれた。『仕事は辛い事もあるけれど、がんばりなさい』笑顔でそう言っていた。旅立ちの日、故郷の駅のホームから、涙ぐみながら、見送ってくれた。自分だけではなく、ここは母が協力して作ってくれた居場所でもあるのだ。
何がなくなっても、仕事はあったのに。
「今週いっぱい、引き継ぎがあればしっかりとしていってください」
沈黙を破るように、チーフが言った。言葉はあくまでも冷静だ。
「お世話になりました」
心の整理がつかないまま、春美は座ったまま深く頭を下げた。
それしかしようがなかった。
応接室を出て、受付へ向かうと、由美子が出勤していた。
「おはよう」
由美子はいつもの調子で春美に声を掛けた。
昨日、あんな会話をしたばかりなのに、由美子がこうもあっけらかんと春美に話かけることができるのが、春美には不思議だった。
職場では、どんな事があってもプライベートの事は持ち込んではならないのだ。どんな事があっても職場の人とは、仕事上では円滑に付き合って行かなければならない。それが社会人の厳しさなのだと春美は思った。
きっと、毎朝すれ違う、あのサラリーマンやOLもそうに違いない。きっと通勤への道すがら、自分を切り替えているのだ。
「おはよう。由美子には伝達事項が少しだけだけどあるから、時間のあるときに引き継ぎお願いね」
春美は、声を振り絞って、極力いつもの様子になるように言った。
「え?」
由美子が訊き返した・
「私、今週いっぱいまでだから」
「辞めるの?」
「うん」
「そっか。お疲れさまでした」
由美子は軽く頭を下げた。
あっさりとしていた。内心、ほっとしているのがありありと分かる。
あれほど色んな事を話しあった仲なのに、それが嘘のような他人気な態度だった。或いは、もう昨日で由美子との友人関係は切れてしまっているのだろう。
職場での最後の1週間はあっという間に過ぎ去っていった。引き継ぎを始めてみると、自分も結構色んな仕事をやるようになっていたものだと改めて思った。一日一日、職場での最後の生活を噛みしめて過ごした。いつからか、とても居心地が良いとは言えない職場にはなってしまったけれど、色んな思い出や懐かしさも込み上げて来て、離れるのは辛かった。その反面、この自分の周りに覆う暗い空気の中から出られるのだと思うと、ほっとするところもあった。
それまでの一週間は、由美子とはただの同僚として、ビジネスライクに引き継ぎを行なった。由美子の方も違和感なく仕事を受け入れ、忙しくなると嘆いてはいたが、精力ある仕事ぶりを見せていた。由美子は幸せなのだ。雰囲気からそれが滲み出ている。春美が居なくなると、由美子は心配事がなくなって、より安心できるのだろう。
別に妬ましいとも思わなかった。恨んでもいなかった。荒川との一件があったから仲がおかしくなってしまったが、それまでは自分を心配してくれる良い友人であり、同僚であった。別に由美子のせいではない。今はただ、由美子の、ひとりの人間としての幸せを願うばかりだった。そうまでして手に入れた幸せだ。必ず幸せになってほしいと春美は思った。
そして勤務最終日の勤務時間が終了すると、各部署へと挨拶回りに病院内を歩いた。みんな一応「お疲れ様」と声を掛けてくれた。途中、看護師の幸子にも会ったが、幸子は少し涙ぐみながら、春美の手を取って「これからもがんばってね」と励ましてくれた。あまり深い付き合いではなかった幸子だが、結局は彼女だけが最後までの友人だったのかもしれない。
病院を出ると、冷たい風が吹いていた。最近はもう建物を出ると、外はすっかりと暗くなっている。北陸は、きっともう雪が舞っている事だろう。
会社を辞めた人間が、最後の日に、今まで勤めていた会社の建物を振り返って眺めながら、涙を流すというシーンをテレビのドラマか何かで見た事がある。
春美も、病院の正門を出ると、振り返って病院の建物を眺めてみた。病棟の窓には明かりが灯っている。たくさんの患者さんがその中で過ごしているのだ。本当なら、ここで涙が出る筈ではないか。
でも涙は出なかった。
せっかくここまで頑張って来た職場を失ったのだ。悲しくて切なくて、どうしようもなかった。しかし、涙は出ない。心が凍ってしまったから、涙が出るはずもないのだ。もう、これからずっと何が起きても涙は出ないのではないかと思えた。涙が出なければ、苦しい時には余計に苦しくなる。寂しい時には、余計に寂しくなる。涙というのは、きっと心の中の老廃物を外へと流してくれる役割があるのだ。
きっと、これから心がどんどんと重たくなって、自分の心はいつかその流されない老廃物によって押しつぶされてしまうのだろう。
アパートの部屋に帰ると、電気も点けずに、ベッドの横に座り込んだ。何となく今日は部屋が暗い方が居心地が良かったのだ。カラ元気というものがあるが、あれは却って寂しくなるだけだ。暗い時には、うんと暗い方がいい。それが人として自然なのだ。
母に電話をして、病院を辞めた事を伝えなければと思った。
しかし、携帯電話を手のひらで弄んでばかりで、なかなか掛ける気にはなれなかった。旅立ちの日に見た母の最期の顔を思い出すと、なかなか掛ける事が出来なかった。きっとガッカリするに違いない。
―その時、携帯電話の着信音が鳴り、イルミネーションが光った。暗い部屋の中で光るその携帯電話のイルミネーションは、ほたるのように儚く見事な光を放っていた。
画面を確認すると、実家の電話番号だった。
春美は躊躇いながら、通話ボタンを押した。
「―もしもし。春美?」
母の声だ。なんてタイミングの良い母なのだろう。こちらへ出てきてから何回かしか掛かってこなかったのに。
「うん」
「元気かい?」
「うん」
「変わりはないかい?」
母の声は優しかった。
「うん」
「うんじゃないよ。どうしたんだい?」
娘の声色で、何かあったことくらい母はお見通しだ。
「―今日、病院を辞めちゃったの」
意外とあっさり言えた。母の電話をとった時から、ある程度の覚悟が出来ていたのだ。
「そうかい」
母は驚いた様子もなく言った。
「うん」
「これから、どうするんだい?」
「まだ考えてないよ」
「頑張り屋さんのお前が辞めたんだから、何か辛い事でもあったんだろうねえ」
「うん」
春美は言葉に詰まった。母の優しい声に、涙が出てきた。
なんだ、涙、出るじゃない。
「ちゃんと食事は摂っているの?」
「うん」
春美は涙を手の甲で拭きながら、言った。もう完全に涙声になっていて、母の方にも伝わっているだろう。それでも、春美はなるべく冷静に答えようとした。
「そうかい、そうかい」
久しぶりに人の温かさに触れたような気がした。離れていても、両親というのは、こんなにも温かいものなのだ。何気ない言葉のひとつひとつに温かみが詰まっている。あんなに涙が出なくて辛い思いをしていたのに、母の声を聞いているだけで、こんなにも素直に泣けるものなのだ。
「―ねえ、お母さん」
「なんだい?」
「そっちへ帰るの、早過ぎるかな?」
そう言うと、更に多くの涙が溢れだして来た。母には分からないようにとなるべく、涙を押し殺して話していたつもりだが、もう止まらなかった。
「いいよ、帰っておいで。あんたの家なんだから。仕事なんて、こっちにもあるよ。病院だってあるさ」
「うん」
突然帰りたいと言い出しても、何も聞かない母の優しさに救われた。
まだ最後の仕事を終えて帰宅したばかりで、今後のことなどは何も考えていなかったのだが、母の声を聞くと、自然に実家へ帰りたいと思ったのだ。
本当にこれでいいのだろうか?こちらへ出てきて、まだ1年も経っていないのに、もう逃げ帰ってもいいのだろうか。そんなに簡単な決心で出てきた筈ではないではないか。その言葉を口に出してみると、そんな思いが頭をよぎった
しかし、今の春美には、ここでもう一度踏ん張って、イチから仕事を探して、一人で生活をして行くだけの気力がなかった。凍ったままの心で、どうやってこれから新しい道を歩んで行けばいいのだろう。今の自分には、とにかく安らげる場所が必要なのだ。例えどこか、新しい職場で勤めたところで、これではとてもやっていける自信がなかった。心が凍って、ミシミシと音をたてている。もう限界だった。
人と付き合う事にも疲れてきていた。一人のこの暗い部屋にも、心が押しつぶされそうだった。とても居心地なんて良くはない。この暗い人生の毎日を、これ以上ひとりでは歩いて行けない。
「―どうしたんだい?」
「うん、何でもない」
「じゃあ、待っているよ。他に何かあるかい?」
「ううん、何もない。準備が出来次第帰るね」
「ああ、待っているよ」
「じゃあ」
そういうと春美は自分から電話を切った。
ベッドに突っ伏して泣いた。母に見送られながら希望を抱いて旅立ってきたのに、あっさりと帰る事になった無念と情けなさに、胸が張り裂けそうだった。そして、母の優しい声で、余計に切なくなって、悔しさを増幅させた。
お母さん、お父さん、ごめんなさい。
私、ちゃんとうまくやっていけなかった。
次の日、春美はさっそく引っ越し業者の手配をして荷造りを始めた。半年と少しばかりの間の部屋だったけれど、荷物はけっこう色々と増えていた。部屋を借りる時に母に買ってもらった冷蔵庫や、電子レンジやテーブルやベッド、テレビなどの家電製品もあった。
実家にはもちろんひととおり揃っているので、持っていっても置き場所に困るだけだったが、まだ買って新しいのでもったいなくて捨てる訳にもいかなかった。
一人暮らしとはいっても、引っ越すとなると結構な荷物になるものだ。重い物や捨てるものも結構ある。少し荷物をどかしてみると、部屋もかなり汚れているところがあったので、丁寧に掃除もした。
春美はそうやって、夢中で汗を流している間だけ、色んなことを忘れる事が出来た。だから、必要以上な真剣さで荷造りと掃除に励んだ。こうやって、心の垢も簡単に落ちてくれればいいのにと思いながら。
それから3日後に、春美はサンダーバードに乗りこんだ。荷物は午前中に、引っ越し屋さんのトラックに積み込みが完了したのを確認した。
今度は、帰郷の電車だ。
こちらへ来る時に乗ったときの気分とは、当たり前だがまるで違う。都会への旅立ちの電車に乗った7ケ月前には、意気揚々としていて、これからくる新しい生活に胸が高鳴り、期待と希望が大きく膨らんでいた。しかし今回の旅は、壮絶な戦場から戦いを終えて帰還する兵士のような心境の旅だった。
自分は思い上がっていたのかもしれない。
このまま実家に帰れば、凍りついた心の氷も溶け出していくのではないだろうか。今度はそちらのほうの期待を持っていた。明らかに自分の心は凍ってしまっている。そして、無数の切り傷のようなものが付いている。
かといって、自分が不幸だとは思っていなかった。もうどうでも良かったのだ。誰が悪かったのか、何が悪かったのか。何も考えられない。どう考えたらいいのかもわからない。心の感受性を司るようなものが、凍りついてしまって機能しなくなっているのだ。
自分には希望は残されているのだろうか。
このまま、実家に帰らずに途中で降りて、東尋坊へでも行って自殺でもしたらどうなるのだろう?
きっと、両親は悲しむだろう。しかし、この凍ったままの心をひきずって人生を歩いて行くよりも楽なのかもしれない。
春美は動き出したサンダーバードの車窓から、流れて行く都会の景色を眺めながら、そんな風に思った。
大きな街だ。
さようなら、大阪。
ある晴れた日に
冬の高岡の空は、今日も分厚い雲に覆われていて、時折雪が舞うような天気だった。家の屋根には雪が積もり、道路の融雪装置に融かされた雪以外は、一面、白銀に覆われていた。
春美は朝目が覚めると、いつもと変わらない暗くて重い空にうんざりした。北陸の冬の大半は、そんな空なのだ。どんよりと分厚い雲が空一面に隙間なく広がり、太陽の日差しを遮っている。たまには雲に隙間が出来て、陽が差す事もあったが、ほんの短時間だ。またすぐに雲に覆われて、薄暗い風景へと変わる。カラッとした晴天に恵まれるような日は、12月から3月までの冬の間では、そんなにないのだ。
実家に戻ってから2週間、春美はようやくそこでの生活リズムに慣れてきたところだった。一度ひとり暮らしをしてしまうと、全ての行動が自由になるので、帰った直後は家族の中にある規律や決まりごとが面倒くさく思える事もあった。それが元々、一人暮らしをしてみたいと思った理由の一つでもあったので、改めて家庭に入るとやはり親元での不便さを感じるような事もある。家庭も社会なのだ。家には決まりごとがあり、家族はそれを守らなければならない。田舎の家では、尚更その規律は厳しいのだ。朝夕は仏壇を拝む。お風呂に入るのは、父からと決まっているし、夕食は6時からだ。その他にも、細かい決まり事はたくさんある。
春美は、帰って来てからというもの、ほとんど家からは出ていなかった。家の中の片づけをしたり、家事を手伝ったり、表の雪かきをしたりして、それ以外の時間はほとんど部屋に籠って本を読んでいた。久しぶりの友人に会って騒ぐような気分でもなかった。そんなことで心は晴れないだろうし、そうやって無理にはしゃぐことで余計に疲れてしまう事が分かっていたのだ。どうせ、心から笑えはしないのだから。
久々に家族との生活を営み、母の作った温かいご飯を食べて、大して興味もない父のくだらない話に付き合う事も新鮮ではあったけれど、春美には、まだひとりの時間も必要だった。
心の氷はまだ溶け出してはいないのだ。いくら家族のいる故郷に戻って来たとはいっても、そんなに急に心が晴れる訳もなく、何をしていても、気分は憂鬱だった。寂しくて、虚しくて、どうしようもない気分だった。顔は笑っていても、心は全然笑えない。母と会話していても、父と会話していても、それは変わらなかった。両親には申し訳ないけれど、心というものはそんなに単純なものではないのかもしれない。
藤江明子の恨むような眼差しも、時折脳裏を過って春美を苦しめた。和田の笑顔も度々思い出してはいたが、思い出すと、もう二度と会えないのだという現実が心に跳ね返り、絶望感という余韻を残すだけで、却って辛いだけだった。自分の心を融かしてくれたのは、和田だけだった。せめて和田がいてくれれば、心の重さは全然違ったはずだ。起こった物事の結果は変わらなかったかもしれないが、少なくとも大きな支えにはなって、こんなに虚無感に襲われる事もなかった筈だ。
住む場所が変り、こんなに環境が変化しても、起きた出来事が無くなるわけではないし、心までどこかに移動する訳ではない。どこへ行こうとも、心や記憶はいつまでも自分に付いて回るものなのだ。
とにかく今は、平穏が欲しかった。せめて、なるべく心に波風をたてたくはなかった。穏やかに過ごして嵐が過ぎ去るのを待つのだ。せっかくこんなに穏やかな町の実家に戻って来たのだから、待っていれば、いつかは過ぎ去る日が来るかもしれない。そんな春美の気持ちを察するかのように、両親も春美に大阪での生活の事には何も触れないで、そっとしておいてくれていた。病院を辞めた理由や、こちらへ戻って来た訳なども聞かずに、ただ、春美を家族として温かく迎え入れてくれた。
「春美、これが来ていたわよ」
夕食が終って、母と後片付けをしている時に、母に一通の手紙のような白い封書を渡された。
宛先は大阪に住んでいたアパートの住所になっていたが、転送されてきたのだ。こちらへ戻る際に、届かないと困る郵便物があったので、転送届だけは出しておいたのだ。消印は大阪市内の郵便局になっている。裏を見ると、差出人は無記名で、真っ白だった。
春美はとりあえずその手紙をズボンの後ろのポケットに入れて、母と一緒に片づけを続けた。
そして、片づけが終わって自分の部屋へと戻り、部屋着に着替える時にその手紙がポケットから落ちて、その手紙の存在を思い出した。
春美は、その手紙を手で破って、中を見てみた。―便箋が1枚だけ入っていて、汚い手書きの文字でぎっしりと書いてあった。
『春美、元気か?久しぶり。あれから一度、お前のアパートに行ったんだけど、お前はもう引っ越した後だった。電話も解約したんだな。ぜんぜん連絡の取りようがなくてどうしようかと思ったけど、手紙なら届くかもしれないと思って、これを書きました。うまく届いてくれるといいなと思う。勘違いしないでくれよな。もうストーカーみたいな真似はしないから。ただ、いくつか伝えたい事があったんだ。思えば、俺はお前に甘えて傷つけてばかりだった。お前は俺にたくさんのものを与えてくれていたのに、俺はお前から奪うばかりだった。自分のことしか頭にない俺の話を、いつも良く聞いてくれて、大きな心で俺を受け止めて包んでくれていた。だけど、俺の方はどうだ。お前の気持ちも考えずに、すごく自分勝手な奴だったと思う。そんなお前の大事なものまで奪う結果になってしまった。もしかして。引っ越したのはそれが原因か?本当にすまなかった。馬鹿で我儘で自分勝手な俺を許してくれ。その代わりに、近々、お前のもとに贈り物を届けるから。きっと喜んでもらえると思う。これから、俺は頑張って前向きに生きて行くし、お前に貰ったいろんな嬉しかった言葉と思い出を胸に抱いて生きて行く。お前が、俺を強くしてくれたんだ。だから応援していてくれよな。そして、俺もお前の幸せを心から願っている。必ず、必ずお前には幸せになって欲しい。お前ほど優しくて、人の気持ちが分かるような人間はそうはいない。今でも、俺にとって、お前は大切な人だから。じゃあ、元気でな。色んな事、本当にありがとう 原田省吾』
原田からの手紙だった。まさか原田がこういう手紙を送ってくるような人間だとは思ってもいなかった。最後に会ってから、まだそんなに経ってはいないはずだったが、妙に懐かしく感じた。春美は、手紙をもう一度読み返してから、便箋を封筒に戻した。
どう受け取って良いものか分からなかったが、とりあえず原田は前向きに生きて行こうとしている。頑張って生きて行ってほしいと思った。そして、自分も原田の幸せを願っていくのだ。
原田には振り回されっぱなしだったし、そのせいで和田と別れることになってしまったのも事実だ。しかし、恨んではいなかった。原田も自分の幸せを追いかけることに必死だったのだ。ただ、不器用なだけだったのだ。なんとなく、自分と似ているような気がしていた。そんな人間を恨む事など春美には出来なかった。
それよりも、自分に関わった人間が、新たに自分を見つめなおし、また自分の幸せに向かって歩き出そうとしているのだ。そして、自分に感謝してくれて、応援してくれると言っている。有難いことだった。
春美は、その手紙に少しだけ救われたような気がした。
その日は、見事な快晴だった。
昨日までの暗い空が嘘のように、太陽の光が降り注ぎ、町を照らしている。雪国に住む住人には、久々の貴重な晴れ間だった。
春美にとっても、帰って来てから初めて見る明るい空だ。太陽の光というものは、こんなにも神々しくて、人の心まで明るく照らすものなのだと思った。
大阪にいた頃には、当たり前の日差しに、大して気にも留めはしなかったが、冬の高岡での日光は貴重だ。気温は低くても、陽が出ているのと、出ていないのとでは気持ちが随分と違う。
春美は、神様がくれたせっかくの天気なので、電車に乗って少し出掛けてこようと考えていた。家に閉じこもっているだけでは、ちっとも心が晴れないのだから、ここは思い切って外出することにした。
母に車で高岡駅まで送ってもらう。サンダーバードが停車する富山県西部のターミナル駅だが、下りは新潟方面、上りは大阪方面へ向かう北陸本線がある。あとは支線が2本しかなく、氷見と城端方面に向かうローカル路線だけだ。
春美は、氷見線に乗って海を見に行こうと思った。氷見線の電車は、海岸線のすぐそばを走るので、日本海を一望できるのだ。こんな日にその景色を見れば、きっと絶景だろう。
大阪ではコンクリートの塊のような風景しか見ていなかったので、帰ったらそういった自然をゆっくりと堪能したいと思っていたのだ。
高岡駅のロータリーに着くと、春美は母にお礼を言って、車を降りた。
駅とはいっても大阪とは違って、人影はまばらである。ここでは車がないと移動範囲が限られてしまうので、どこへ行くにもマイカーなのだ。車がなくては、とても生活ができないところなのである。電車には何かの都合がある人以外は、ほとんど好き好んで乗る人はいない。サンダーバードやはくたかなどの長距離列車で観光に行く人や来る人、運転免許の取れない学生か、お年寄りぐらいしかここでは電車には乗らないのだ。
春美は駅の中に入って時刻表を確かめると、
次の氷見線の発車までは30分以上あった。だいたい氷見線の発車間隔は1時間置きなので、まだましな方だった。
春美は一旦駅を出て、ビルに隣接する喫茶店へ入って電車を待つことにした。
駅の入口を出たところで、一人の男が立っていた。
その男は、にこにこと微笑みながら春美の方を見ている。
その男は、和田に似ていた。
春美は、自分の目を擦ってから、もう一度その男を見た。和田なのだ。最初に視界に入った時から分かっていたのだが、そんなことは簡単に信じられるはずがない。和田本人がここにいる確率よりも、和田に凄く似ている別人がここに偶然立っている確率の方が高いように思えたのだ。
男は相変わらず微笑みながら、春美の方へとゆっくり歩いてきた。
「久しぶりだね」
男は言った。忘れもしない和田の声だった。
春美が茫然としていると、和田は続けた。
「偶然だね。―いや、ここに僕がいることは偶然ではないけれど、来た初日に会えたのは幸運な偶然だった。これは運命かな」
春美にはまだ良く分からなかった。
「どうして。どうしてここに?」
春美は挙動不審者のように、訳もなく辺りをキョロキョロと見渡した。
そして、視線を和田に戻すと、和田は少し声を出して笑った。
「実家は富山県の高岡だと聞いていたけど、家までは分からなかったから、駅に居ればいつか春美に会えるんじゃないかと思って期待して待つことにしていたんだ。今朝、5時半発のサンダーバードに乗って大阪を出てきたばかりだよ。最悪の場合、一週間くらいは待ってみようと思っていたけれど、初日で会えてラッキーだったよ」
和田は自分に会いに来たと言っている。
「どうして?」
和田は急に真剣な顔になった。
「全部、原田君に聞いたよ。彼がうちに押し掛けてきて、あの時の真実を全て話していった。僕の前で泣きじゃくりながら、自分が一方的にストーカーのような事をしてしまったのだと。だから、春美を迎えに行ってやってくれと言っていたよ。―もちろん、言われたから来た訳じゃない。僕が春美の事を信じて上げられなくて、勘違いしてしまったんだ。本当に済まなかった。許しておくれ。僕は完全に誤解をしていたんだよ」
春美の頬を涙が伝った。驚くほど、簡単に涙が出た。
「そうなの、原田君が」
「それに、改めて気がついたんだよ。春美は僕にとって大事な人だ。ずっと守っていきたい。今もそう思っている。迷惑でなければ、もう一度付き合ってもらえないか」
春美は言葉が出なくなって、口を手で覆った。涙だけが、ただ勝手に出て来る。心の氷が溶けだして、涙になって出てきているのが分かった。
和田は真剣な眼差しで春美を見つめながら、
「言いに来た事は、それだけだ」と言葉を締めた。
こういう場合はどういう対応をしたらいいのだろう。春美には分からなかった。幸せには慣れていないのだ。言葉にはならなくて、涙だけが溢れ出てきた。そして、ついに我慢しきれなくなって声を出して泣いた。
切なかった。
あれほど自己中心的だった原田が最後に見せた春美への献身。そして、会えるかどうかも分からないのに、実際にわざわざ自分の為にここまで来てくれた和田。
こんな事があるのだろうか?
春美にはまだとても信じられなかった。
そして、和田はそっと春美を抱き寄せた。春美も和田に任せて、自然に和田の胸に顔を埋めた。
もう涙は止まらない。
どんどん出ろ、自分の涙。心に固まって詰まっている分、全て出ろ。
それから20分もそうしていた。ただひたすら和田の胸で泣きじゃくる春美に、和田はずっとそのままの体勢で抱きしめていてくれた。そして、ようやく春美も冷静になって顔を上げた。
「というわけで、1週間有給休暇を取ってあるから、どこか案内してもらえない?」
和田は笑いながら言った。
春美はようやく和田の胸から離れて、自分の腕にはめている時計を見た。あと5分ほどで氷見線が発車する。
春美は手の甲で涙を拭きながら、
「じゃあ、案内するね。とりあえず、今から電車に乗って一緒に海を見に行こうよ。あと5分で発車だから急いで!」と言った。
そして、和田の手をとって、ホームのほうへ走りだした。
田舎の駅は広いので、ホームまでの距離が長いのだ。




