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別れと出会い

 日曜日の午後はよく晴れていた。そろそろ秋の季節も近づいてきて、肌寒い日も出てきていた。街路樹は、まだ紅葉とまでは行かなかったけれど、ところどころ色づき始めていた。通りを往来する人々も、もう秋の装いをしていた。

 由美子は足早に、その通りを歩いていた。

なるべく誰かに出会わないように、と警戒して前からすれ違う人を確認しながら、ひたすら歩いていた。

 荒川のマンションに着いたのは午後4時を過ぎてからの事だった。

 玄関のドアが開くと、中から荒川が顔を出して、無言で由美子を招き入れた。

 相変わらず西日の差すリビングは、だいぶ散らかっていた。

綺麗好きだったのは荒川本人ではなく、藤江明子だったのだ。明子が定期的に来て家事をやっていたから、部屋が片付いていたのだが、明子が来なくなってからは段々と物が散乱するようになっていた。

「ずいぶん、散らかってきたわね」

 由美子は勝手にソファに腰を下ろした。

「まあね」

 荒川は肩をすくめて言った。

「明子さんが来なくなってから、寂しい?」

「いや、どちらかというとホッとしているね。僕はもともと、彼女のようなタイプとは合わないし、お嬢様の我儘に振り回されていた感じだからね。だから、けっこうストレスも溜まっていたし。―それに、開業医の跡取りなんていう堅苦しいこともしたくなかったしね。僕は一人の医者でいいんだ」

「そうかなー。けっこう献身的な人だったと思うんだけど。―でも、あなたはけっこう自由人みたいなところがあるもんね。合わないと言えば、やっぱり合わないかもね。明子さんも、開業医の跡取りも」

「そう思うだろう?」

 荒川は、正直明子にはうんざりしていたのだ。趣味も性格もまるで合わない。どちらかというと、争いごとを好まず、やりたいことをやってのんびりと生きていきたい荒川と、ガツガツとしたところのある明子。やたらと高い明子のプライドにも付いて行けないところがあった。食事はいつも高級フランス料理か、イタリアン、もしくは懐石料理など。荒川がラーメンを食べたい時にでも、彼女のプライドはラーメン屋へ行く事を許さなかった。たまに宿泊するホテルは、有名高級ホテルばかりで、ファッションホテルや、ひなびた温泉宿を提案しようものなら、彼女の怒りを買う。このような付き合い方をしていれば、幾ら医師の給料でも、やりくりは相当に厳しいものがあったのだ。幾ら何でも、年間何千万円もの稼ぎがあるわけではない。彼女が結婚したいのは、荒川でなくても、婿養子になってくれる医師免許を持った優秀な医者で、実家の病院を継いで切り盛りしてくれる人でさえあればいいのではないかと思えた。

 荒川は冷蔵庫から缶ビールを取り出して来て、由美子の傍に立ったまま飲んだ。

「明子さんから、別れた理由を聞いたわよ。―春美と抱き合ってるところを見られたんだって?」

 荒川は少し青ざめて、缶ビールを持った手が止まった。

 その様子を見て、由美子はいたずらっぽく、二ヤリと笑った。

「あなた達がそうなった夜だけど、たまたま道で遭ったのよ。あなたの部屋から出てきた明子さんが、駅へ向かう途中で。そしたら、泣きながらそう言ってたわ。『あなた達って汚いわね』とか言って、私まで一緒にされちゃったわ」

 由美子はソファから立ち上がって、荒川の持っていた缶ビールを取って、自分も一口飲んだ。

「でも確かに否定は出来ないわね。あなたと明子さんの間に亀裂が入ったのを知って、あなたに近づいたら、あなたはあっさりと私を受け入れてくれた」

「ああ、君の事はずっと気になっていたんだ」

「そうかな?私のことも遊びだったりして」

 由美子は少し自嘲気味に笑った。

「そんなことないよ。そんなことがあったことは黙っていて済まなかったけど、君との事は本気だから」

 荒川は弁解するように言った。

 由美子は、少し声を上げて笑った。

「春美のことを利用したんでしょ?毎週休みの日の夕方は、明子さんが家事をしに部屋に来るのを分かっていて、明子さんにそれを見せつける為に春美とそうしたんでしょ。明子さんとキッパリ別れられるように」

 荒川は深く溜息をついた。

「ああそうだ。僕はそういう人間なんだ。何度か別れ話を切り出そうとした事もあったけれど、彼女はきちがいみたいになって聞く耳を持たなかったんだ。どうしてもそれを受け入れられなかったんだろうね、プライドがエベレストのように高い人だったから」

 由美子はまたビールをぐいっと飲んで、ソファに腰を下ろした。

「可哀そうに。春美は相当に傷ついているわよ。明子さんもそうだろうけど」

「明子の事はともかく、北部君には済まない事をしたな」

「でも春美には驚いたわ。大人しそうな感じだけど、あなたを盗れるかもしれないなんていう欲を持っていたのね。そんな素振りは見せなかったけど、春美も一応女だから、条件のいい男には惹かれるでしょう。あわよくばと思っていたのかもしれない。まあ、欲をかいた自業自得といえば、そうかもしれないわね」

 由美子はほとんど空になった缶ビールをテーブルの上に置くと、荒川に抱きついた。

「私が前から狙っていたあなたに、ちょっと横から出て来るからそうなるんだよね」

 荒川は由美子の背中を抱き返した。

「そうだね。―君の気持には、前から気付いていたさ」

 そして、荒川は由美子に立ったまま軽くキスをした。

「でも、春美は一切そのことを私にも言わないのよ。てっきりそのことで悩んでいるのかと思っていたけど、何だかくだらない男の事で悩んでいるみたい。普通、あんなロクでもない男と付き合わないわよね。あんな付き合い方をしていたら、そりゃそうなるわ」

「ん?何の事だい?」

「何でもないのよ」

 荒川と由美子はきつく抱きしめあった。

 西日が二人の姿を照らしていた。


 日が落ちるのもだいぶ早くなり、辺りはすっかり夜だった。もう少し前までは、仕事場を出てもまだ日が出ていたのだが、近頃は仕事場を出ると、大抵日が暮れている。

 春美は仕事からの帰り道、携帯電話を手にとって眺めていた。

毎日、決まったようにこの時間に原田からのメールがあるのだが、今日はまだ着信がなかった。まあ、どうせメールの内容は彼女の事だろうけれど、いつもあるメールが無いと、やはり不安になる。

 今日はスーパーでお弁当を買って行くことにした。近頃は、鍋やフライパンを徐々に揃えて、自炊をするようにもなって来たのだが、今日は何だか面倒な気分になっていた。そのうち、原田が泊りに来た時にでも手料理をごちそうするのにいいかもしれないと、料理本を買って極力夜は自分で作るようにしていたのだ。

 部屋に着くと、手を洗ってうがいをしてから、テーブルの上に買ってきた弁当を出して、テレビを見ながら食べ始めた。

 一人暮らしの女の子の寂しい光景だ。しかし、段々と一人の空間にも慣れ、最初ほど違和感もなくなっていたし、一人の虚しさというものも感じなくなってきていた。やはり、人は慣れる生き物なのである。

 ただ、それは完全に一人だからという訳ではなく、一応、原田という恋人がいるからであって、今は物理的に一人でいるが、心の支えになるような人がいれば、一人の空間もそれほど寂しくはなくなる。こちらへ来てから、由美子という親友も出来たし、そこそこ仲の良くなった職場の看護師達もいる。要は、物理的に一人でいることが寂しさを誘因するわけではなく、心を通じ合える人間が近くに存在しない事が孤独感を引き寄せ、心を寂しくしていくのだ。その点、今の春美は来た当初よりも、かなり環境が改善されてきたと言えるだろう。

 弁当を食べ終わって、片づけをして、少し休んでから、ユニットバスへ行ってシャワーを浴びた。

 シャワーから上がって、また携帯を確認しても、まだ原田からメールの着信はなかった。

 原田だって社会人なのだから、たまには付き合いくらいあるのだろうと思った。

 春美はそれから、特にやる事もなかったので、寝る時間になるまで本を読みながらテレビを見た。時々、携帯が気になった。

 午前12時になったので、春美は電気を消してベッドに入った。テーブルの上の携帯を眺めるのだが、まだ着信を知らせるランプは光らない。そして、それを眺めているうちにいつしか眠りに落ちた。

 静かな夜だった。今日は外からの道行く酔っ払いの歌声も聞こえなかった。春美のアパートは、商店街の通りから一本入ったところにあるので、商店街で飲んだ客が上機嫌に歌を歌いながら、自宅へ帰っていくことがたまにある。迷惑かと言われれば、逆だった。その歌声は、春美の寂しさを紛らわせてくれる子守唄になっていたのである。楽しく飲んで、いい気分で我が家に帰っていく人を思い浮かべると、自分も少しだけ幸せな気分になる事が出来たのだ。

 朝、6時を知らせる目覚ましの音で目を覚ますと、テーブルの上の携帯の着信ランプが光っていた。

 ランプが点滅しているのを見ると、春美は自然と嬉しくなる。そのランプは、自分が一人ではなく、誰かが自分と連絡を取りたがっているという事を告げる、嬉しい魔法の光だった。誰かと繋がっているという証の光なのだ。

 春美はベッドから起き上がると、携帯電話を開いてメールを確認した。寝起きで、何だかまだ頭がふわっとしている。

 原田からだった。由美子からも届いている。

『春美、遅くにごめんね。再来週の金曜日、デートじゃなかったら飲みに行かない?近くでいい店出来たんだ。看護師の幸子と裕子も呼んであるよ。あっ、ちなみにコンパじゃないからね!女だけの飲み会だよ、よろしくー』

 これが由美子からのメールの内容だった。時間は午前12時35分に着信している。由美子からはそういった伝達事項が多いので、何となくまた飲み会かもしれないというのは予想がついていた。それにしても、毎回当たり前のように誘ってもらえるのは有難いことだ。

 原田からのメールを確認すると、着信が午前4時45分になっていた。朝方のメールだった。そんな時間まで飲んでいたのだろうか。

 春美はワクワクしながら、メールを開いた。

『春美!やったよ!ついにやった!今、ホテルからの帰りなんだけど、ついに彼女と結ばれたんだよ!昨日は会社の飲み会でさ、それで酔った彼女を、思い切って勇気を出して介抱していたらそういう関係になって、付き合おうってことになったんだ!まさか、そんな事が現実に起こるなんて信じられないよ。やっぱり人間は勇気を持って行動を起こすべきだね!春美の言うとおりだ。ありがとう!今度の土曜の夜に行くから、その時にまた詳しく話すよ!』

 その内容に、春美は愕然とした。そうなる可能性がある事も分かっていて付き合っていたし、容認もしていた。しかし、心は一瞬で凍りついてしまった。

 なぜだろう?

 これで良かった筈ではないか?原田の幸せを一番望んできたはずだ。こんなに嬉しそうに原田はメールを送ってきている。原田の願いが見事に叶ったのだ。これで良かったのではないのか?

 原田が送ってきた、喜びに満ち溢れた内容を読み返して、自分達がそういう脆い関係だったことを改めて認識した。

 そして、涙が頬を伝って流れおちた。とめどもなく、涙が流れ落ちた。それは、喜びの涙などというものとは全然違った。深い悲しみの涙だった。

 なぜ?どうしてなの?

 春美は何度も自分に問いかけたが、流れて来る涙は止まらなかった。


 それ以来、原田からメールは来なかった。最後のメールの内容では、今日の夜に会いに来るような事が書いてあったが、果たして来るのだろうか。それとも、もう自分のことなど忘れて、彼女との事に夢中なのだろうか。春美には、憧れの彼女とうまくいった原田がわざわざ会いに来るとは到底思えなかった。

―来るとしたら、いったい何をしに来るというのだろう?

 このところ、春美は仕事が終わると真っ直ぐに部屋に閉じこもるようになっていた。あれほど人恋しさがあったのに、今は一人でいる方が気楽だったのだ。

 今日も休みだったのだが、どこにも出かけなかった。ずっと部屋に閉じこもってテレビを見たり、雑誌を読んだりしていた。悲しみの風も、心を凍らせたまま一通りが過ぎ去り、その凍った心が、春美に物事を深く考えさせないようにしていた。

 もう、どうでもいいんじゃないか。あまり深く考え込むと、心が壊れてしまう。

 それは、人として備えている心の防衛本能だったのかもしれない。

 ―携帯の着信音が鳴った。

 携帯のディスプレイを確認すると、原田からだった。

 春美は、少し出るのを躊躇ってから、通話ボタンを押した。

「―はい」

 聞こえてくるのは、やけに明るい原田の声だった。

「おお、春美。今から行くからな。今、乗り継ぎの電車を待っているところだから、あと10分くらいで着くと思う。いつものレストランで待ち合わせしようぜ。分かった?」

「うん。分かったよ」

 どう考えても、自分の声は暗かっただろう。

 正直、原田に会ってしまったら、いつもの自分でいられるだろうか、と不安で会いたくはなかったのだ。もしかして、原田を傷つけてしまうかもしれないし、自分も傷ついてしまうかもしれない。

 曲がりなりにも付き合っていたのだ。それが、他に女が出来たと言いう原田の話を、笑って聞いていられるだろうか。とても普通じゃないような気がした。

 重い体と心を気力で何とか持ち上げて、行きつけのイタリアンレストランに入った頃には、原田はもう席に着いて待っていた。

 店内に入る春美を見つけると、原田は嬉しそうに手を振った。

 春美は、それを見て静かに原田の前の席に座った。いつもの、表通りが見える窓際の席だった。

「元気だったか?」

 原田が訊いた。

「うん」

 元気なわけがない。この人は、なぜこんなに平然としていられるのだろう、と春美は不思議に思った。

 もう少し、自分に対して申し訳ないなとか、普通は思うのではないだろうか。それか、もっと言い辛そうにするか、バツが悪そうにするか、そういう態度になるのが普通じゃないのだろうか?

「とりあえず、何か頼もうぜ」

 原田は店員を呼ぶと、春美がいつも好んで食べているパスタとピザと、ビールをふたつ頼んだ。

 人の気も知らないで、原田は本当に生き生きとしていた。やっぱり単純馬鹿だったのかもしれないと春美は思った。

「メールは読んだわよ。それで、何?彼女とうまくいって良かったね」

 春美は極力平静を装いながら言った。

「ああ、それでさ、これからどうしようかと、お前の意見を聞こうかと思ってさ」

「私の意見?」

「俺達は付き合っていて、お前は彼女な訳だ。でも、俺には好きな人がいて、幸運にも上手く付き合う事になったんだ。でも、正直言うと、お前の事もまだ好きなんだよな。なんていうか、なかなか今の世の中には居ないタイプだと思う。優しくて思いやりがあって、まず人の事を考えるだろ。だから、けっこう好きなんだ。別れるのも何だか辛い気がする」

「―でも、彼女の事が好きなんでしょ?」

「ああ、彼女が一番好きだな。やっぱり女としての魅力が半端じゃない。お前の前で、あんまり彼女の事を詳しく言うほど、俺は非常識な人間じゃないから省くけど、とにかくそうなんだ」

 ウエイターがビールを運んできて、二人の前に手早くジョッキを置いて立ち去った。

「とりあえず飲もうぜ」

 原田がうまそうにビールをガブッと飲み始めたので、春美もジョッキに口を付けた。

「―それで?分かっているわよ。彼女の素晴らしさは、今まで散々聞かされたわよ」

 原田は少し照れたように笑った。自分の心境とはあまりに違うことに、春美は少し腹が立った。

「だからさ、お前にどっちがいいのかを選んでもらおうと思って。―ひとつはさ、今まで通り、このまま付き合い続ける。もちろん、彼女が一番だから、お前は2番手だけど、それで良ければ付き合えない事もないんじゃないか?」

 春美は溜息を吐いた。

 それでは、誰も幸せになれない。自分は、あくまでも2番手として付き合って行くわけだが、それは最悪の場合、自分が我慢していくしかないとしても、彼女が可哀そうだ。彼女の気持ちを考えるととても平気な顔をして、これまで通り原田と付き合う事は出来そうもなかった。

「彼女に、2番手が居るって話すの?」

「まさか!もちろん、彼女には内緒だよ。言ったら可哀そうだし、許してくれないだろうな、彼女の性格からして。残念ながら、そこまで懐は広くないからな」

 春美だってそうだ。そんなこと、平然と許せる訳がないし、それが懐の広さというのなら、自分もそんなに広くはない。

「もうひとつは?」

「うん」

 原田は、少し言いにくそうに、

「このままキッパリと別れる」と言った。

 別れという言葉が春美の胸に突き刺さった。現実的にそれしかないと頭では分かっていたのだが、その言葉が現実的に発せられると、やはり研ぎ澄まされた矢のように胸に突き刺さる。

 別れ。寂しく、重たい言葉だ。

 でも、それしかない。彼女のために、原田の為に、そして、自分の為にも。

「じゃあ、別れよっか」

 春美は少し微笑んで言った。

「え?そうなのか?」

 原田は意外そうな顔で訊き返した。

「うん。それがいいと思う。彼女と幸せになりなよ。原田君の気持ちは有難いけれど、二人と結婚出来る訳じゃないし、未来が見えるお付き合いをしていったほうがいいよ。彼女の事がそんなに好きなら、きっと幸せになれるよ。彼女を大事にしてあげてね」

「いや、でも、いいのか?お前はそれで」

「うん、私はいいよ。もともと彼女の事は聞いていて付き合っていたんだし、原田君がより幸せになれるのなら、その方がいいよ。2番手なんかいたら、彼女が可哀そうだし、何かの拍子にバレちゃったら、彼女に振られるかもよ。私は、それでいいから」

 春美は深く頷いた。涙が出てきそうだったが、凍りついた心が辛うじて涙腺を押しとどめている。

「わかった。今までありがとうな。春美がこの幸せを運んできてくれた気がするよ。俺、春美と遭ってから、何だか幸せな気分で毎日を明るく過ごしていたように思うんだ。生い立ちとかも色々聞いてもらって、気が軽くなっていたっていうか。それが、周りにいい影響を与えて、彼女も俺を見る目が変っていったんだと思う。お前の言うとおり、希望を持って、前に進めばやっぱりいい事が起こるんだな。本当にありがとう。―でも、またいつか縁があったら、付き合おうな」

「うん」

 春美はにっこり微笑んだ。

 綺麗な別れとしては、こんなものだろう。自分にしては、上々だ。

せっかく別れるのだから、前途を祝した前向きな別れの方がいいと思った。原田は幸せになるだろうし、自分もこれから新しい、曇りのない本当の幸せを見つけるのだ。誰も不幸になるわけじゃない。前を向いて歩いて行こう。もともと、ややこしい関係だった。それを清算して、前を向いて幸せを掴みに行くのだ。

「じゃあね」

 春美は一万円札をテーブルに置いて席を立った。まだ頼んだ料理は来てはいなかったが、こんな話の後で、とても和やかに食べる気分ではない。最後の晩餐という言葉もあるが、きっと、とても無神経な人が作った言葉なのだろう。

「おう!頑張ってな!」

 春美は店を出る前に、一度だけ原田の方を振り向いた。原田は笑顔で春美を見送っていた。

 こうして、春美の恋はまたひとつ終わりを告げた。


 それからの2週間というもの、春美は却って仕事に集中して取り組んだ。原田が幸せになったのだから、それでいいとひたすら自分に言い聞かせ、いつも以上に患者さんに笑顔で接した。そうしているうちに、悲しみも葛藤も薄れていくのだ。人は夢中になって何かをやっていると、多少の心の傷は気にならなくなるものだ。意識的に作った笑顔でも、それが自分の心を癒してくれることに気がついた。笑顔でいることというのは、本当に大切なことだと感じた。

 仕事が終わると、由美子達との飲み会が待っている。久々に飲みたかった。このところ、由美子と飲みに行く事もなくなっていたし、プライベートでは誰とも会話をしない日が続いていた。こちらに来てからの知り合いといえば、職場の人間か、原田のような恋人くらいしかいないので、恋人がいなくなると、急にプライベートで話す相手が居なくなってしまうのだ。

 6時に勤務が終わると、春美と由美子は、まだ仕事が終わらない看護師達より一足先に行きつけの居酒屋へ向かった。

 金曜日の夜とあって、いつもながら平日より多くの人が通りを歩いていた。サラリーマン風の集団や、学生風の集団などが、酔っぱらいと化して歩いている。

 この辺りは病院や調剤薬局などの医療関係の施設が数多く点在している街だったが、そんなに大きな会社や大学などはなかった。きっと隣の駅から流れてきているのだろう。この沿線の近隣の駅では、ここが一番飲食店が充実している。

 学生達はともかく、まだ7時前だというのに、サラリーマン達はいったい何時から飲んでいるのだろう?と春美は不思議に思う。

 いつものお洒落な居酒屋に入ると、店内はそんなに混んではいなかった。女の子どうしでも入りやすい、ちょっと落ち着いていて洒落た居酒屋なので、ネクタイなんかを締めたいかにもサラリーマン風の男性客ばかりの集団は少し入りにくいのだ。

 由美子は4人掛けのテーブル席を店員さんに要求した。テーブル席は全部で5つくらいしかない大きくはない店で、そのうち2つは先客で埋まっていた。あとは、厨房の手前にカウンター席が10席ほど並んでいるだけだ。そのカウンター席の真ん中辺りには、カップルと思われる男女が座っていた。

 春美が壁に掛かった時計を見ると、まだ7時になったところだった。看護師の2人はきっと8時くらいにはなるだろう。看護師は終業間際でも色々と用事が入ったり、引き継ぎの打ち合わせが入ったりするので、なかなか時間が読めないのだ。

 春美と由美子は向かい合わせで席に座ると、それぞれがメニューを手にとって眺めた。

「どうしよっか?」

 由美子が訊いた。

「きっと、まだ時間がかかるよね、あの2人は」

「料理は後にして、とりあえずビールでも飲んでようか」

 由美子の提案に、春美は頷いた。

 由美子は店員さんに生ビールを2つ注文して、またメニューに目を戻した。心なしか、由美子が何だか、以前の雰囲気と違うような感じがした。いつもなら、座るなり、マシンガンのようにトークを繰り出してくるのだが、何だか今日は落ちついているように見える。

 たぶん、原田と別れたことには気が付いていないだろうと思った。一度、原田の事では相談に乗ってもらっているので、その結末を由美子に話しておくべきかどうか、春美は考えていた。正直に言うと、聞いてもらいたい気持ちもあったのだ。

 まだ二人っきりの今がいい機会だ。後の二人が来ると話せなくなるだろう。

「―あのね、由美子」

「うん?」

 由美子はメニューから顔を上げた。

「原田君と別れたんだ」

「そうなの?」

 由美子は少し驚いたように言った。

「うん。好きな彼女とうまくいったんだって」

「ええ?うそ!上手くいったの?それで?」

 口には出さないが、あの平凡な人間が、と思っているのかもしれない。

「うん、そうなるかもしれないのは分かっていたことだから、仕方ないかなって思ってるんだ。これで良かったんじゃないかと思う」

「そっかー。まあ、正直、その付き合いは賛成できなかったからね、吹っ切るのが一番いいと思うよ。今は辛いと思うけど、結果的によかったと思う。―けど、その原田っていうのもなかなかやるね。飲み会なんかでも平凡で全然目立たなかったのに。顔も思い出せないよ」

 やはり。平凡だと思っている。

 春美は少し可笑しくなって笑った。

「そうだね」

「―でも、その割には春美はここのところ全然元気だったよね。なんか、逆に最近よく笑っているなと思って、プライベートも上手くいってるんだなと思っていたんだけど。もう吹っ切れてるってことでしょ?」

「んー。吹っ切れてるって言うよりは、意識して明るくしようと思ってる。暗くなりだすと、どんどん暗くなってしまって、そこから加速してまたどんどん暗―い世界になっていくでしょ」

「うん」

「それに、見方を変えると、一人の人が、長い間の願望が叶って幸せになったんだから、それでいいんじゃないかなと思うところもあるし。それが救われてるところかな。だから、案外と抵抗なく諦められているよ。私自身の事ばかりじゃなくて、もっと大きな目で見れば、実はそんなに悲しい出来事じゃなかったんじゃないかなと考えると、気が楽なんだ」

「まあ、春美は人が良すぎるけど、それで心が落ち着くなら、いいかもね。―私なら、相手の男に一発ぐらいビンタを喰らわせてやるけど」

 由美子は苦笑いしながら言った。

 春美も少し苦笑いした。

「そっか、それくらいしても許されたかな」

 ビールが運ばれてくると、とりあえず二人で乾杯した。久しぶりのビールは、喉を良く通った。

 春美は、以前よりも何だか大人しくなった由美子の雰囲気が少し気になっていた。春美に対する人懐っこさのようなものがなくなり、そのせいで少し距離を感じるところもあった。かといって、取り立てて壁のようなものを感じるわけではなかったが、全体的な雰囲気が以前の由美子と違うように思えたのだ。まあ、友人とは言っても、知り合ってまだそんなに長い付き合いの訳ではなかったから、仲が落ち着いてきたのだと考えられなくもなかった。

 看護師の二人、幸子と裕子が来たのは、8時半を回ってからの事だった。春美と由美子は3杯目のビールを飲んでいるところだった。

 二人分の生ビールと料理のオーダーを頼んで、二度目の乾杯をする頃には、春美は酔いが回っていい気分になっていた。酒に強い由美子の方は、まだまだへっちゃらだ。

 同じ職場の4人が集まった飲み会の話題は、当然のように職場での噂話になった。医師の誰それが不倫しているだの、看護師の誰と誰が怪しいだの、本当か嘘かよくわからないような恋の噂話だった。不思議な事に、春美と同じように、そんな噂話には普段はあんまり興味を示さない由美子が、他には?と看護師の二人に積極的に訊いていたのだ。今の職場ではどんな噂が飛び交っているのかを確かめたいようだった。限られた守備範囲の受付よりも、病院を広く動き回る看護師の方が圧倒的に情報量は多いのだ。

 由美子は何かを気に掛けている。

 酔った春美にも分かった。

 店を出たのは、もう11時を過ぎていた。4時間もその店で飲んでいた春美は、すっかり酔ってしまった。いつもよりも酒のペースも速くなっていて、少し飲みすぎたかもしれないと思った。春美とそんなに飲んだ量の差はないはずだったが、由美子の方は、まだまだ余力がありそうだった。

「春美、大丈夫?」

 看護師の幸子が訊ねた。

「大丈夫よ。酔ってるけど、泥酔って程ではないから」

「じゃあ、またね。みんな気をつけて」

 そういうと、由美子は一足先に通りの方へと消えて行った。

「じゃあ、私も行くね」

 春美も、みんなの輪の中から離れて歩きだした。

 少し足元がふらつく感じがしたが、頭は大丈夫だ。まだまだ覚醒している。

「あっ!春美!」

 それを見た幸子が春美を追いかけてきた。

「何?どうしたの?」

 春美が振り向くと、幸子は何かを言いだそうとしていたが、迷っているような感じだった。とても言い辛そうな感じだ。

「どうしたのよ」

「うん。ちょっと、まだそんなに広まってはいないんだけど、病院内で春美の噂があってね」

「私の噂?」

 春美はドキリとした。

「うん。春美が荒川先生を寝盗って、婚約者との関係を壊したって・・・。それで、荒川先生は婚約が破談になったんだって」

 春美は、後頭部をハンマーか何かで殴られたような衝撃を受けた。

「そんな・・・」

 自分と荒川しか知りようがない事実が、病院内で広まり始めていることに愕然とした。いったいどこから?そもそも荒川が誘って来たのだ。それを彼が自分で誰かに言うとは考えられなかった。病院の女の子に手を出して破談になったなんて、荒川にしてみればいい恥晒しだ。

「春美が誘惑して、婚約者から寝盗ったって、嘘だよね?春美の性格からして、そんな事をするなんて考えられないもの。でもね、職場って、根も葉もない噂が飛び交う事があるから、気をつけた方がいいよ。火消しするなら、今のうちに消しておかないと面倒なことになることもあるから」

「うん」

 春美は言葉が出なかった。

 また藤江明子の恨むような眼が脳裏に蘇ってきた。

「私達が極力、火消ししといてあげるけど、春美も知っておいた方がいいと思って。勘ぐられないように、意識して行動したほうがいいよ。疑いだすと、みんなそういう眼で見始めるから」

「うん、ありがとう」

 やっとそれだけ言うと、春美は幸子に背を向けてフラフラと歩き始めた。

 ショックだった。―自分が誘惑して、荒川先生と明子さんの仲を壊して破談になった?

確かにあの日、藤江明子が見た光景は、彼女にとっては悲惨だったろう。荒川と一瞬だがそういう関係になった事も事実だ。しかし、荒川を寝盗ってやろうとか、そう言う事は思ったことはない。ただ迫ってくる荒川との成り行きでそうなってしまっただけだ。しかし、結果的に自分が起こしたその出来事のせいで壊してしまったという事も事実なのだろう。

 職場で見た感じでは、破談になったとか、そんな素振りを見せずに、荒川はいつも通り勤務しているようだった。それで、あの後、どうなったのか気になるところではあったけれど、荒川の様子を見ていると上手く収まったものだと思っていた。

 それが明子との婚約が破談になっていたとは・・・。

 もしそうだとしたら、内容の誤差はあるけれど、それは自分の責任ではないか!

 春美は、その事をどういう風に受け止めていいものか分からなかった。ただ、また強い自責の念が出てきていた。そうすると、自分は2人の幸せを奪ってしまった事になる。

 そして、通り沿いにある小洒落たバーが目に入った。いつも前を通るのだが、いつか一度入ってみたいと思っていたのだ。

 春美は、あまり考えもせずに店のドアを開けて中へ入った。まだまだ頭が冴えている。もっと頭の中が真っ白になるまで、とことん飲みたい気分だった。

 ひとり酒っていうのも初めてだな、と思った。飲まないとやっていられない夜って、こういう夜の事を言うのだろう。

 春美の心は、もうパンクしそうだった。

 誰もいない店内のカウンターに座ると、マスターからおしぼりを手渡された。静かな店だった。

 春美はマティーニを注文した。

 マスターは静かに頷いて、そのカクテルを作り始めた。

 心の中には、もうどうしていいか分からない、これまでの色んな物が入り混じった複雑なカクテルが出来あがっていた。たぶんそれに色が付いているとしたら、濃く濁った紫だろう。

「マティーニです」

 マスターがそっと目の前にグラスを置いた。

 この透明な液体で、自分の心のカクテルも澄んだ透明になればいいのにと思った。

 春美は一杯目をあっという間に飲み干すと、お代わりを注文した。強いアルコールが喉を熱くした。

 それからどのくらい飲んだのだろう。気がついた時には、店の外にいた。頭がフラフラして、目がぐるぐると回っている。

 春美は近くのジュースの自動販売機まで、やっとのことで辿り着くと、その横に座り込んで、自動販売機に寄りかかった。

 そう言えば、ここへ来る時に会った詐欺師、北島も酔っぱらって自動販売機の横で寝た事があるとか言っていたな、と思いだした。実際にやってみると、なるほど、けっこう気持ちがいいかもしれない。機械の温かみが伝わってくる。冷たい心を持った人間よりも、こうやって体に熱を伝えてくれる機械の方が温かいのかもしれない。

 そして、春美はそのまま眠りに落ちてしまった。


 朝目が覚めると、見慣れない部屋の中にいた。明らかに寝心地が違う寝具。ベッドではなく床に布団が敷いてあった。その布団で眠っていたのだ。

 体を起して、部屋の中を見回すと、一見して男の部屋だとわかるような殺風景な部屋だった。綺麗に片付いてはいたものの、飾り気がない。壁にはスーツや、男物の服がハンガーにかけて吊るしてあった。

 けっこう古い木造のアパートだろう。部屋の内装が、だいぶ古びているのが分かった。

 頭が少し痛くて、春美は顔をしかめた。

 ここは一体どこなのだろう?

 どうやってこの部屋に来たのか、まるで分からない。確かバーで飲んだ後、外へ出て自動販売機の横で休んでいたはずなのだが、それ以上の記憶がなかった。

 しかし、こうして見慣れない部屋にいるという状況を考えると、誰かと一緒に誰かの部屋へ来たのだろう。それとも酔っぱらって訳が分からなくなって、勝手に人の家に入って寝ていたのだろうか?まさかそんな筈はあるまい。

 幾ら思い出そうと思っても、無理だった。

 記憶がなくなるほど酒を飲んだのは初めてだった。これまでは、どんなに酔ってはいても、起こった出来事はちゃんと覚えていた。それが、まるで記憶がないというのは、初めての経験だった。まだあまり酒を飲みなれていない学生時代、『記憶がなくなって朝気が付いたら、知らない男の人と一緒に寝ていた』などという話を友人に聞いたことがある。

 春美は立ちあがって、自分の服装を直してみた。変わったようなところはない。昨日着ていたジーパンとセーターで、そのまま眠っていたのだ。特に何かされたという形跡も見当たらなかった。

 玄関のドアがガチャリと空いて、若い男が中へ入って来た。

「ああ、気がついた?」

 男は立ちあがって、きょとんとしている春美に向かって言った。

「あの、私・・・」

「ああ、まあ座りなよ、朝ご飯を買ってきたから。パンとコーヒーでいいかな?」

 春美は言われるがままに、布団を少し横にどけてその場に座り込んだ。

 見た感じは20代後半くらいの好青年といった印象だ。明るい声のトーンといい、原田とはま逆のタイプの爽やかな感じがする男だった。

 しかし、人間見た目では分からない。春美は女性としての警戒心を少し持っていた。

 男は布団を畳んで部屋の隅に片付け、壁に立てかけてあったテーブルを春美の前に出した。

「狭いからね、こうしないと布団が敷けないんだよね」

 男は苦笑いしながら言った。そして、買ってきた「朝ご飯」を春美の目の前に並べた。袋に入った色んな種類のおにぎりが十個ほどもある。缶コーヒーは2本だけだった。

「ありがとうございます」

 春美は頭を下げて言った。

 ―でも、こんなにはいらないだろう。

「そんなに警戒する事ないよ。昨日の夜からいるんだから、何かするならとっくにやっているよ」

 男は笑いながら言った。

「いえ、そんなつもりでは・・・」

 春美は男に悪い気がして、思い切って懐に飛び込んで色々と訊いてみようと観念した。親切にしているのに警戒されては男もたまらないだろう。拾ってきた犬に噛まれるようなものだ。

「さあ、どれでも食べて」

 春美はその中の一つを適当に取り、袋を破って食べ始めた。腹は全く減っていなかったので、なかなか喉を通らなかった。この状況のよくわからない緊張状態で、食欲が湧くはずもなかった。

「なぜ、私はここにいるのでしょうか?」

 春美は遠慮がちに訊いてみた。

「やっぱり覚えてないんだね」

 男は面白そうに笑って、缶コーヒーを一本手にとって飲み始めた。

 春美はじっと男を眺めていた。

「自動販売機の横で寝たのは覚えてる?」

「はい。まあ、寝てたというか、休んでたんですけど」

 男はまた愉快そうに笑った。

「熟睡していたよ。それで、肩を叩いて起こそうとしたら暴れ始めてねー。確か『もう私に構わないでよ!』とか何とか言って、手足をバタバタ。凄い暴れっぷりだったよ。それで、しばらく様子を見ていると今度は泣き始めたんだ。『どこでもいいから、どこかへ連れて行って』って言っていたよ。ただ事じゃないなと思ったけど、通りの人の視線が気になってきて、半分担ぐようにしてこの部屋へ運んだんだよ。途中からもう寝ていたんじゃないかな。布団に寝かすと、もう全然意識がないみたいだったから」

「そうだったんですか」

「繁華街みたいな危険な街ではないけど、それでも女の子が酔っぱらって道端で寝てるのなんて危ないし、この辺りじゃ見た事なかったからさ。俺もちょっとびっくりしてどうしたらいいものかと思ったんだけど、結局、連れてきちゃったな。―そう言う事だから、別にヘンな事もしてないし安心して」

「そうだったんですか。どうも、ご迷惑をおかけしまして」

 春美は丁寧に頭を下げた。

 話を聞くと、自己嫌悪で一杯だった。顔がほてって、耳まで赤くなりそうだった。まさか、自分がそんな絵に描いたような酔っ払いになっていたとは。とても両親には見せられない。

「でもね。何があったのかは知らないけど、もっと自分を大切にしなよ。飲んで笑って、発散して気が済むなら大いにやればいいけど、ヤケになったらいつまでも負の連鎖からは逃げられないんだ。そうすると、また新しい不幸がやってきてずっとその繰り返しになってしまう」

「はい」

 自分はヤケになっていたのだろうか?そんなつもりはなかったけれど、確かにここのところ、心に重たい出来事がいくつも重なって落ちてきていた。自分は強いつもりでも、心には大きな負担が掛かっていたのかもしれない。

 朝ご飯を食べ終わると、春美はその男に丁寧にお礼を言ってから部屋を出た。古い木造のアパートの2階から階段を下りていく春美を、男は笑顔で見送ってくれた。

 そしてそのまま自分のアパートへと帰った。見覚えのある道だった。春美のアパートより駅から離れたところだったが、ゆっくり歩いて10分もかからない距離だった。

 部屋へ帰ると、春美はすぐにシャワーを浴びた。家に着いたのは、もう午前11時前だった。

 頭が少し痛かったが、不思議と酒は残っていないような感じで、体はすっきりとしている。きっと、よく寝たせいだろうと思った。

 シャワーから上がって、新しい服に着替えて一息つくと、ドッと疲れが出るような感じがした。疲れている。心も体も。

 原田と別れることになったのはもちろんショックだが、こちらへ引っ越してきてからの色々な疲労が溜まってきているようだった。そのうっぷんが昨夜一気に爆発したのだ。思えば、旅立ちの電車での北島との出会いから始まり、それが詐欺師だった事にも純粋な春美は衝撃を受けたが、傷が癒えないうちに今度は荒川との情事、それが引き金になって起こった問題。そして、やっと出来た恋人、原田との複雑な関係。よくこんなにも色々と起こるものだと思った。

 都会は受け入れられやすいが、流されやすい。少し油断をしていると、どんどん深みにハマっていってしまうということを春美は痛感した。田舎では、良くも悪くも起こっているその物事が、内容の全てだ。大した裏も複雑さもない。しかし、こちらは人間模様が複雑なのだ。きっと、田舎と違って数多い出会いの機会、オープンな人の気質、刺激、そんなものが人間の性質を変えていくのだろう。

 しかし、名前を聞いてはいなかったが、自分を拾って介抱してくれた今朝の男、あの男には何かお礼をしなければならないと思った。きっと、夜中に意識も朦朧とした自分を、心配して部屋まで運んで、苦労して布団に寝かせてくれたのだ。見ず知らずのこの自分を。そして、何も手を出さずにただ介抱してくれたのだ。きっと、自分が布団を占領してしまったせいで、あの男は寝る場所もなかったに違いない。それでも、文句ひとつ言わず、恩着せがましい事も言わずに、部屋を出る自分を笑顔で見送ってくれた。これで知らんふりを決め込んでいては、人としてどうなのかと思う。

 どうすればいいのかを考えた結果、春美はありきたりだが菓子箱でも買って、改めてあの男の家にお礼を言いに行こうと思った。

 春美は部屋でひと眠りした後、夕方になると商店街の和菓子屋で菓子箱を買って、男の家へと向かった。曲がり角をひとつ間違えたせいで、20分ほど掛かってしまったが、男の家には午後5時前には着いた。

 ギシギシと音の出るアパートの外階段を上って、2階の男の部屋の前まで来ると、呼び鈴を鳴らした。ブーッというブザーの音が、外にまで聞こえてくる。

 ほどなく玄関のドアが開いて、男が顔を出した。

「ああ、どうも。何か忘れ物でもした?」

 男は意外そうに春美の顔を見て言った。

「いえ。今日はありがとうございました。ちょっとそのお礼にと思いまして。―これ、つまらないものですけど、召し上がって下さい」

 春美は持っていた菓子箱を袋から出して男に手渡した。

 男は少し驚いたような顔をした。

「いやいや、別にいいんだよ。そんなに気を使ってくれなくても。ただの人助けだから。お礼を期待していては人助けにならないよ」

「いえ、お礼なんて程の物でもないので。―もう買ってきちゃったので、どうか受け取ってもらえませんか」

 男は春美から菓子箱を受け取ると、軽く春美に頭を下げた。

「―分かった。じゃあ、有難く頂いておくよ。ちょっと上がって行ったら?お茶でも淹れるよ」

「いえ、そんなつもりではないので」

 春美は何だか嫌な予感がして言った。男の部屋に安易に上がるとロクな事がない。

「いいから、折角来たんだから、ちょっと上がって行きなよ。このまま帰すのも忍びないし」

「はい。じゃあ」

 少し躊躇ったが、そう言われては、春美には断れなかった。

 春美は男の部屋へあがると、男に促されて今朝座っていたテーブルの前に座った。

 男はキッチンでお湯を沸かし始めた。

 テーブルの上には、何かの専門書が何冊も広げてあった。医療関係の本だ。曲がりなりにも病院に勤めている春美には、すぐにそれが分かった。ちらっと見ただけでも、医薬品の専門用語が並んでいる。

「ああ、ごめん。散らかっているね」

男がそれに気付いて、慌ててテーブルの上を片付けた。

「お医者さんですか?」

 春美が訊いた。

「いや、薬剤師だよ。常に臨床で新しい効果や副作用の情報が出るし、新薬なんかも出て来るから常に勉強しておかないとね」

「そうなんですね。私も病院に勤めているんですよ。ただの受付ですけど」

「ああ、そうなんだ」

 男は驚いたように言った。

「はい」

「この街は病院の関係者が多いからね。このアパートにも一人看護師さんが住んでいるし。まあ、こんな汚いアパートだから、男の人ばかりだけど」

 男は苦笑いしながら言った。

「そうなんですか」

 男は春美の横に屈みこむと、不意にゆっくりと顔を近づけてきた。キスをしようとしているのだ。

 ―またか。

 ここまで来てしまって拒む事はできない。やはり男と部屋に二人きりで一緒にいると、こうなってしまうのだ。男というのは、きっとそういう生き物なのだ。自分が単にお礼を言いに来ただけだなんて相手は思ってはいないのだ。自分がそういうことを期待してここに来たのだと思っているのだろう。春美は半ば諦めにも似た絶望した気持ちで静かに目を閉じた。

 しかし、いつまで経っても男の唇は春美には届かなかった。目を開けると、男が顔を離して春美をじっと見ていた。

「なんか、暗い顔をしているね。昨日も何かヤケになっているような感じを受けたけど。―自分をもっと大切にしないといけないよ」

 やかんのお湯が湧く音がして、男は立ちあがってキッチンに向かった。

 春美はただポカンとしていた。

 男がコーヒーを淹れて、そのまま手でカップをふたつ持ってきて、テーブルの上に置いた。

「どうぞ。インスタントだけど、我慢してね」

「ありがとうございます」

 春美は座ったまま頭を下げて、カップを手にとって飲み始めた。苦いコーヒーだった。

 そのコーヒーの熱さと苦味は、春美の凍りついた心を少しずつ融かしていくようだった。体が温まっていく。そして、男の淹れてくれたそのただ苦いだけの美味しくないコーヒーが、心の芯を凍らせている氷を外側から徐々に融かしていくのだ。

 春美は少し笑顔になって言った。

「今度、軽く飲みに付き合ってもらえませんか?」


 汚いアパートに住む薬剤師の男は、和田吉久と言った。部屋でコーヒーを飲んだ後、男の部屋を出た春美は、少し救われたような気分で自分のアパートへと帰った。

 幾分か、心の周りに張り付いていた氷が融けた出したことで、心は少し軽くなったような気がした。

 月曜日からの勤務も何とか卒なくこなす事が出来た。ただ、以前のように、患者さんに満面の笑顔で、という応対は出来なくなっていた。やはり凍りついた心はなかなか綺麗にもとには戻らない。永久凍土のように、どんどんと固まりつつあった氷が、少し融けだしただけのようだった。以前のようにがむしゃらに笑顔を作る事など、今の春美には到底無理であった。

 そして、金曜日の勤務が終わったあと、春美は和田と飲みに出ていた。今夜は春美が行きつけの店ではなく、男の家の近くにポツンと一軒ある小さくて汚い居酒屋だった。

 もうすぐ初老かという風の女性が一人でやっている店で、カウンター席が8席程度あるだけだった。他に客はいなかったが、席に座ると通路が塞がってしまうくらい狭いので、誰かが通る時には立たなくてはならないだろう。

「おつかれさま」

 和田とビールのグラスをカチンと付き合わせてから、飲み始めた。

 生ビールのサーバーというようなものがなかったので、瓶ビールを一本注文して、グラスで分けあっていた。

 和田は上手そうにビールを一気に喉に流し込むと、手酌で2杯目をグラスに継ぎ足した。

「ちょっと喉が乾いていてね」

 その様子をじっと見つめる春美に向かって、照れくさそうに言った。

「もうすぐ冬になるね。近頃はだいぶ寒くなって来た」

「そうですね」

「病院はどこの病院に勤めているの?」

「大崎総合病院です。すごい人が来るので、最初は驚きました」

「そっかー。あの病院はここら辺の中枢病院だからね。そりゃたくさん来るだろう。高度救急医療病院としての評判も高いしね。凄いところに勤めているんだね。―僕は葉山台病院の近くにある調剤薬局で働いているよ。病院ほどではないけれど、毎日けっこう忙しいね」

「そうですか。なぜ薬剤師になられたんですか?」

「うん、なぜだか子供の頃から医療関係の職業に就きたくてね。昔から、そんなに夢とか希望とかを持って生きてきたほうではなくて、それよりも地道でいいから、人の役に立つような仕事で生きていきたいなと思っていたんだよ。その最たる分野が医療だと思ったんじゃないかな、その子供の頃は。ただ単に営利的に生きているだけじゃ、自分の人生を生かしている事にはならないな、と思っていた。自分を社会の為に役立ててこそ、自分が存在している意義があると思っていた」

「へえ」

 春美は感心したように相槌を打った。

「でも、本当は医者の方が良かったのかなとも思うんだけど、そんなに頭も良くなくってねー。幾ら人の役に立ちたいとは言っても、こんな馬鹿が医者になったんじゃ却って人に迷惑をかけちゃうよ」

 男は屈託もなく笑った。別に自分を卑下している訳でもない、爽やかな笑顔だった。

「薬剤師も馬鹿じゃ困ると思いますけど」

 春美がそういうと、また和田は楽しそうに笑った。

「そうだね」

 それから和田は、春美の緊張を解きほぐす様に、色々なことを話してくれた。最近身の周りに起こったことや日常的なことを楽しそうに話したと思えば、今の日本の医療体制を見ていて感じることなどを真面目な顔で話し出したりもした。

 春美は専ら和田の話を、時折相槌を打ちながら聞いているだけだった。

 そして、和田というこの男の話しを聞いていると、心が和んだ。この男には澱みを感じないのだ。話していてもストレートに物事を考えていることがわかる。世の中のことも考えながら真面目に、率直に生きている。多くの男性に見られるような、ある種男独特の見栄や心の歪みのようなものを感じないのだ。

 春美は、その和田という人間の空間の中にいると、大きくて穏やかな海にそっと抱かれているような感覚で、安心感のようなものが心を包むのが分かった。

 しかし、もしかすると、自分の心の隙間を埋める為に、心が勝手に和田の幻影を作り出し、受け入れようとしているのかもしれない。心のヒビに染み込んでくる水のように、実はどんな水であってもそう感じたのかもしれない。

 春美にはどちらかなのかは分からなかった。

 ただ、どちらにしてもこれまでに感じた事のない心地よい協和音のようなものが、春美の心にどんどんと響いた。

 思えば、これまでは無理をして傷つきながら人と付き合ってきたような気がした。しかし、和田と付き合えば、そんな心配は発生しないように思えた。

 居て安心できる。

 春美はもっとこの男と一緒にいたいと思った。今、自分の凍りついた心を融かす事が出来るのはこの男しかいないのではないか。そんな気がした。

 しかし、和田にも彼女がいるかもしれないし、そんなつもりはないのかもしれない。少なくとも、話の中からは彼女の存在を匂わせるようなものは出て来なかったが、和田の態度からは分からなかった。

「彼女はいるんですか?」

 酒の勢いも借りて、春美は思い切って訊いてみた。

「いないよ」

 和田は少し目を伏せて言った。

 その質問に、今まで楽しそうに話していた和田の雰囲気がガラリと変わったので、春美は少し動揺して、

「すみません。余計な事を訊いちゃいましたね」と慌てて言った。

「いや。いいんだよ。君になら、話したら気が楽になるかもしれない。―君は不思議な雰囲気を持っているね。話していると、僕のくだらない話をどんどん吸収してくれるようで、話していて楽しいんだ」

「そうですか?」

「うん。僕の故郷は青森県なんだ。青森から4年前に出てきた。―言ってなかったね。今、地元の大学を卒業して4年で、27歳だよ。―それで、故郷を出てこっちに来たんだ。彼女を一緒に連れて」

「そうなんですか」

 男はちらっと春美を見た。

「僕はこっちの今の調剤薬局に就職して、彼女は梅田の繁華街の中にあるアパレルショップで働き始めたんだ。いつか、二人でこっちで自分達のマンションを買って結婚しようと話していて、あの家賃の安い汚いアパートを借りて二人で住み始めたんだ。だけど、こっちへ来てから彼女はどんどん変わっていった。こっちで出来た友人と付き合うようになって、都会の華やかさに心を奪われ始めたんだ」

 和田は話しながら、ビールの入ったグラスを眺めた。

「だんだんと服装が派手になって、服や装飾品にお金を掛けるようになった。休みの日になると、毎週誰かと遊びに行くようになったし、飲みに行って帰ってこないことも増え始めたんだ。僕も心が狭かったのかな。それで、彼女ともよく喧嘩をするようになった。―結局、新しい男が出来た事が分かって、その人と出て行ったよ。固く誓いあって、故郷から出てきても終わりはそんなものだよ。もう3年も前の話だ」

 男は寂しそうに、ビールの入ったグラスを手に持って眺めている。

 まだ心の傷として残っているのだろう。自分だけではない。こと恋愛ごとに関しては、なかなか上手く行かずに傷ついている人もいるのだ。

 それから和田は無口になって、さっきまでのようには話さなくなってしまった。

「私じゃ駄目ですかね」

 春美は沈黙を破るように言った。

「え?」

 和田が驚いたように春美を見た。

 自分でもよくそんなに大胆な事が言えたものだと思ったが、自分の心を融かすような和田の雰囲気というか安心感と、酒の勢いのせいだろう。和田に対する強くなっていく思いも、後押ししただろうし、前の彼女との話を聞いた哀愁のようなものもあったかもしれない。

 そうなのだ。自分はこういう恋愛に引き込まれて行ってしまうのだ。

「私と付き合いませんか?」

 春美は一度言ってしまった勢いを借りて、更に問いかけた。

 和田は戸惑っているようだった。

「彼女の事が忘れられないんですか?」

「いや、彼女の事はもういいんだ。それは、昔の古傷としては残っているけれど、いつまでも彼女の幻影を追いかけていても仕方がないとは思っているし、もう心の整理は付けたつもりだ」

 春美は和田の様子を見て、和田は迷っているのだと感じた。

断るのならば、手っ取り早く、「彼女の事が忘れられない」などと言うはずだ。急な話で、どうしたものか考えているのだろう。和田の真面目な人柄が迷わせているのだ。

 春美は何も言わずに、和田の次の言葉を待った。

「―僕でいいのかい?」

 やがて和田は意を決したように言った。

「はい」

 春美は静かに頷いた。

「でも、あまりにも知り合ったばかりで日がないし、すぐにどうのこうのという事は出来ないよ。まずは徐々にお互いの事を分かり合っていけるような付き合いをしたほうがいいね。そうだろう?」

「そうですね」

「じゃあ、そうしよう。君のその顔を、いつも笑顔に出来るように頑張るよ」

 和田は春美に握手を求めて、右手を差し出した。春美も右手を差し出して、握手を交わした。なんだか付き合いというよりも、何かの商談が成立したかのようだった。これも和田なりの不器用なやり方なのだろう。

 突然、カウンターの向こうからパチパチと拍手をする音が聞こえた。カウンターの向こうの店主の女性が手を叩いている。

「おめでとう。これから二人で頑張って行きなよ」

 その女性が言った。狭い店のカウンター越しのわずかな距離なので、会話はまる聞こえだったに違いない。

 春美は会話を聞かれていた事を初めて意識して、頬を赤らめた。

「この子はいい子なんだよ。あたしが保証するよ。もう4年も前からウチの店に通ってくれていてね。最初はその彼女と一緒に来てくれていたんだけど、そのうちちょくちょく一人で来るようになって、今はもうはずっと一人さ。長い付き合いだもんね、本当に生真面目で思いやりのあるいい子なんだよ」

「おばさん、やめてくれよ」

 和田は照れくさそうに言った。

「さあ、じゃあ今晩はもう一本大瓶サービスするから、二人で飲んで行きなよ。それで、酔った勢いでコトを済ませちゃいなよ。アパートは近いんだから」

「おばさん・・・」

 和田は頭を抱えた。

「それくらいしないと、この子は真面目すぎるからなかなか話が進まないよ」

 春美に向かってそういうと、そのおばさんは豪快に笑った。

 春美も少し恥ずかしかったが、釣られて笑ってしまった。和田を見ているとそんなタイプだろうと思った。

 春美は家庭的な雰囲気の中で、穏やかな幸せを感じていた。

 おばさんがサービスしてくれたビールを飲み終えて店を出ると、和田は、今日はお互いにこれで家へ帰ろうと言った。春美も同意した。

 来週また会う約束をして、二人は店の前で別れてそれぞれの家路に着いた。



 誤解と噂。誤解の噂。


 和田と付き合うようになってから1ケ月が経った。

季節はもう11月に入って、そろそろ冬の寒さが徐々に近づいてきていた。昼間はまだ温かい日もあったが、夜は冷たい風が吹くようになっていた。街路樹の葉は全て落ちてしまって、丸裸になっていた。その光景が少し寂しげではあったものの、春美の心は温かかった。

 和田はそれほどマメなほうではなかったが、仕事が終わった後に電話をくれるのは2日に1度ほどで、休みの日にはほとんど毎回会うようになっていた。彼は出会った時とそのままの人間で、変わった癖もなく、ストレートな性格で、真面目で包容力があり、相変わらず春美の心の氷を溶かし続けていた。こんなに穏やかな恋愛をしているのは、いったいいつ以来だろうと思った。

 たまにお互いの家も行き来するようになり、無事にそういう男女の関係にもなることが出来ていた。そうなってからも、和田の態度はそれまでと全く変わらずに、春美の心を癒していたのだ。

 もしかすると、この人と結婚することになるのかもしれない。春美はそんな風に思う事もあった。

 和田のほうの気持ちは正確には分からなかったが、彼の性格上、こういう付き合いをしていること自体が結婚前提なのだろうと思えた。

 そんな風に、プライベートでは幸せな日々が続いていた。しかし、職場では例の噂がだんだんと広がりを見せ、春美は職場での居心地が悪くなってきているのを感じた。

 春美が荒川と浮気をして、その現場を大病院のご令嬢、藤江明子に見つかって、彼女との結婚を破談にしたという噂だ。

 その噂は心ない看護師によって、春美の耳にも直接入るまでになっていた。「荒川先生の結婚話、壊したんだって?」とある看護師から嫌味たっぷりに言われた事もある。また、「身の程を知っている?」などと女性医師からも言われた事があった。その度に、春美の脳裏には藤江明子の憎しみの眼が蘇ってくる。

 周りの春美を見る目は、明らかに白くなって、春美が看護師や医師に何かを相談したり依頼をしても、冷たい態度で帰ってくるだけであった。中には、そうでない人もいたが、噂はかなり広まっているようだった。しかし、不思議と荒川のほうはお咎めなしのようで、皆彼に対する態度は好意的だった。

 普通はこういった話の場合、男性側の方が攻められそうなものだが、いつのまにか、春美のせいで大切な縁談を壊された可哀そうな医師と、それを壊した身の程知らずな悪女という構図になっているようだった。荒川は将来を嘱望されている優秀な医師で、春美は今年入ったばかりのただの受付の女の子だ。やはり社会的な立場の違いが影響しているのかもしれない。

 何とかその噂を止めて、真実を伝えたいと思う事もあったが、藤江明子に荒川と抱き合っているのを見られたことは確かだし、そういう行為をしていた事も事実だ。だが、それは自分が誘惑した訳ではなく、荒川の方から求めてきたのだ。しかし、それを事細かに説明したところで皆に分かってもらえるとは思えなかった。元々の見方が違うし、結局、荒川の部屋まで自分で行ったわけだから、何かしらの思惑があって行ったと思われるに決まっている。

 春美は、自分だけが悪い訳ではないと自分に言い聞かせ、和田の優しい顔を思い浮かべながら、やりづらい環境で何とか耐えて仕事を頑張っていた。

 その事には触れなかったが、由美子の春美に対する態度はいつもと変わらなかった。一緒に仕事をする一番近い仲間が変らずにいてくれている事が、春美にとっては仕事を続けている上での大きな救いになっていた。

「どうしたの?」

 和田が春美に心配そうに訊ねた。

 平日の夜ではあったが、春美は何だか耐えられない孤独感に襲われ、仕事が終わった後に和田をおばさんの居酒屋に呼びだしたのだ。和田は快く駆けつけてくれた。

「うん。何でもない」

 そんなこと、和田に言える筈もなかった。和田なら分かってくれそうな気もしたが、やはり彼でも、聞けば良い気はしないだろう。

 聞いてもらってどうにかなるものでもない。ただ一緒にいてくれれば良かった。

「なんだかまた暗い顔をしているよ。大丈夫?仕事のこと?」

「うん。仕事の事だけど、大丈夫」

「そっか。何でも言ってみなよ。そんなよそよそしい関係でもないだろ?」

「うん。本当に大丈夫だから。言うほどの事でもないの」

「―そう。まあ、働いていると色々あるからね。不満でも愚痴でも何でもぶつけてくれていいから、言いたくなったら遠慮なく言いなよ」

 春美はその言葉に胸が熱くなった。この人がいれば、自分は何があっても大丈夫。職場での事など、小さな事だ。和田と過ごす事が出来るこの時間の為に、他の全てを我慢して生きていたっていい。そんな風に思えた。

 おばさんの満面の笑顔に見送られて店を出ると、二人は腕を組んで歩いて春美のアパートへと向かった。初めての事ではなかったが、和田が部屋に来てくれることに胸が躍った。これで和田の胸の中で、今晩一晩、幸せな気持ちで眠る事が出来る。そうしたら、また明日も仕事を乗り切る事が出来るだろう。

 春美にとっては、和田とともにアパートへ向かうその道のりは、幸せへと向かう深紅のバージンロードだった。

 アパートの前に着くと、暗がりに男が一人立っていた。

 それが誰なのか、すぐには分からなかった。

「春美・・・、久しぶりだな」

 その男に声を掛けられると、春美はびっくりして少し後ずさりした。この話し方、この声、忘れもしない原田だった。

 まさか今頃、こんなところに原田がいるとは思わなかったのですぐには気付かなかったが、暗がりから浮き出てくる顔は、紛れもなく原田だった。

 春美は、どうしてここに原田がいるのか理解できずに、どんな言葉を発していいのかが分からなかった。気軽に久しぶり!と言えるような気分でもなかった。

 原田はなんだか、切羽詰まったような顔をして、春美の方をじっと見つめていた。

「―春美、元気か?」

 以前の原田より、声のトーンが幾らか優しくなっていた。そして、彼女を追いかけ、彼女と上手く言ったと喜んでいた時のような、声に躍動感がなかった。

「どうしたの?」

 春美は何が何だか分からずにとりあえず訊くしかなかった。

 原田が近くに寄って来た。

「決まってるだろう。お前に会いに来たんだよ。お前も俺に会いたいと思っていると思ってさ」

 和田は春美と組んでいた手をほどいた。

 春美は、原田の言葉と、和田のその行動に気がついて、気が動転してどうしていいものか分からなくなってしまった。

「どうしたの?なんだかよくわからないんだけど」

「好きなんだよ、お前が。お前だってそうだろ?」

 原田は縋るようにそう言って、春美の手を取った。

 春美がちらりと和田の方を見ると、和田の顔が強張っていた。

 まずい。明らかに誤解をしている。それはそうだろう。見知らぬ男が手を取って愛を語っているのだ。

「じゃあ、僕は帰るよ」

 和田はそれだけ言うと、春美に背を向けて歩き始めた。

「ちょっと、違うのよ!」

 春美が言うと、和田は振り向いて、

「言ったじゃないか。俺はそういうのは嫌いなんだよ。他にも誰かいるのなら、僕に気を使わずにそっちでやってくれていいよ」と投げやりに言ったあと、またすぐに背を向けて歩いて行った。

 追いかけなければならないと春美は思った。追いかけて誤解を解かなければ。和田は明らかに誤解している。和田は昔の彼女が他の誰かに取られた事を非常に傷ついている。知らぬ間に、彼女が違う男を作っていて、自分が捨てられた事を心の傷として背負っているのだ。きっと、この光景を見て失望しているに違いない。

原田とはもう終わっていて、今ここに彼がいるのは何故だが自分も良く分からないのだ、とちゃんと説明しなければならないと思った。

「春美!頼むよ」

 原田が、和田の後を追おうとする春美の手を強く引いて、また縋るように言った。

「離してよ!」

 春美は声を荒げてそう言って、原田の手を振りほどいた。

 すると、原田はその場でしゃがみこんで泣き崩れてしまった。春美は男の涙は見た事がなかったが、号泣している原田を見ると、とても放っておけるようなものではなかった。今の彼氏は和田であって、原田は自分の都合で離れていった昔付き合っていたことがあるというだけの、ただの男だ。今の自分は、和田の方を追いかけなければならない。

 しかし、頭ではそう分かっていても、泣き崩れる原田を見ると、春美には原田をそのまま置いて和田を追いかける事は出来なかった。

 春美は、歩いて行く原田の後ろ姿をちらっと見た。後でちゃんと説明すれば分かってくれるはずだ。それに、原田の方が尋常ではない。きっと、何かあったのだ。人として、困って自分に会いにきている人間を、置き去りにすることは出来ないと思った。しかも、原田は昔、愛を語り合った仲だ。話くらい聞いてあげなければ、自分は冷たい人間だという烙印を、自分で押して後悔するだろう。

 和田ならばきっと大丈夫だ。そんな気がした。彼ほど包容力のある人間はいないし、自分を愛してくれている。自分もまた和田を信じている。

「いったいどうしたの?」

 春美は冷静になって、しゃがみこんで原田の顔を見た。気持ちを大きく持って、原田の話を聞いてみることにした。

「春美。別れたんだよ、彼女と。彼女にとっては、俺は初めからただの遊びだったんだよ。ただその時に彼氏がいなかったから、手近な男と遊んでみたかっただけだって・・・。でも、いい男が現れたから、あんたはもういらない。そう言われてさ」

「そう」

 何だか原田が哀れになってきた。

「一番大切なのはお前だって気がついたんだ。俺とお前はやっぱり合っていると思う。お前ほど人に優しくて、包容力のある女は他にはいない。だから、お前のところに戻って来たんだよ。俺達はまだ別れてないだろう?元々付き合っていたのだから、また上手くやっていけるはずだ」

 涙声でそう訴えかける原田を見ていると、春美は原田が可哀そうに思えた。

 しかし、可哀そうに思えても、哀れに感じても、春美にはもう原田に対する恋愛感情はなかった。自分だって苦しんで、原田の事を忘れたのだ。そして、頑張って新しい恋に歩き始めているのだ。自分にとって今一番大切な人間は和田だ。和田には運命さえ感じている。可哀そうだが、自分はそこまでお人好しではない。ここは突き放すしかないのだ。

「今の人、見たでしょ?私の新しい彼氏だよ。あの人が一番大切なの。原田君のことは好きだったけど、私の中ではもう終わってる過去の人なんだよ。今はそう思うかもしれないけれど、私じゃなくても原田君にはまたそのうち良い人が現れるよ。その人と幸せになってちょうだい。もう会えないけど、ずっと応援しているよ。一度は好きになった人だもん」

「春美」

 原田は顔を上げて、春美を見た。

「そういうことだから、帰ってくれる?」

 春美はそう言うと立ちあがって、自分のアパートの階段を上りはじめた。原田のすすり泣く声が、春美の心を刺激したが、これ以上どうしようもなかった。

 部屋に帰って一息ついてから、和田に何度も電話をしてみたが、和田は出なかった。

 春美はもう一度部屋を出て、和田のアパートへ行くことにした。

 外へ出ると、もう原田の姿はなかった。

 和田の玄関のドアのチャイムを鳴らしても、中からブザーの音が聞こえるだけで、和田は出てこなかった。窓を見る限り、部屋の中は真っ暗なようなので、帰って来ていないのかもしれない。

 春美は仕方なく和田のアパートを出て、おばさんの居酒屋を確かめてみることにした。もしかすると、和田はまたそこに戻っているかもしれないと思った。

 ガラガラっと戸を開けて、店の中を覗き込んだが、知らない中年の男性客が2人、飲んでいるだけだった。

「あら、春美ちゃん。どうしたの?」

 おばさんが春美に気がついて訊いた。

「あ、いえ。―和田さんは来てないですよね?」

「さっき、あなた達が2人で出て行ったっきり来てないけど、一緒じゃなかったのかい?」

「いえ、ならいいんです。また来ます」

 春美は慌ててそう言って、戸を閉めた。

 春美はふうっと溜息を吐き、とりあえず今日は自分のアパートへと帰る事にした。

 心はざわざわと落ち着きがなかった。


 翌日、春美は仕事が終わると、真っ直ぐに和田のアパートへと向かった。ブザーを押してもやはり反応がなかった。部屋の窓から光は漏れていなかったので、まだ帰って来ていないのかもしれない。

 春美はドアにもたれかかってしゃがみこんだ。ここで待つしかないと思った。今日は何時間でも、和田が帰ってくるまで待つつもりだった。そして話がしたいと思った。

 夜の風はだいぶ冷たくなり、春美はその風に吹かれるたびに身ぶるいした。この寒さの中でじっと待っているのは、なかなか辛い事だった。

 春美はじっと腕時計を眺めていた。10分経ち20分が経ち、30分が経とうとしたころ、アパートの階段を誰かが上ってくるギシギシという音がした。

 春美は立ちあがって、その誰かが上がってくるのを待った。

 階段を上り切って、見えた人影は、原田だった。

 春美は愕然とした。

「春美。彼は遊びだと思うよ。今は楽しくても、どうせいつか別れることになるよ。俺の方がお前を幸せにしてやれるんだよ」

 廊下を春美の方へ歩きながら、原田はそう言った。

「どうしたのよ?なんでここにいるの?もう会えないって昨日言ったじゃない」

 春美が怒りに震える声を押し殺して言った。

 その時、アパートの階段を上る足音がもうひとつ聞こえてきた。

「春美、愛してるよ」

 原田の方は、お構いなしだった。

 階段を上り切って、原田の背後の廊下に現れたのは、今度こそ和田だった。

「ここで何をしているの?」

 和田は原田と春美を眺めて言った。その口調は冷静だ。

「あんただな、春美をたぶらかしているのは。春美は俺の女なんだよ。ヘンなちょっかいを出すのはよしてくれ」

 原田は和田の方を振り向いて声を荒げた。

「違うのよ!この人とは終わったの!」

 春美も慌てて、大きな声で言った。

 和田は何も言わずに、原田を手で押しのけて、自分の部屋のドアの前に来て、春美と向き合った。

「もうこういうのはよしてくれっていっただろ?何がどうなのかは僕には分からない。でも、奪ったり奪われたり、そういう変な恋愛をする気は僕にはないんだよ。ちゃんとお互いが一対一の、真っ直ぐな付き合いがしたいんだよ。少なくとも、君はこんなややこしい恋愛関係を持つような女性だとは思わなかった。やっぱり人は付き合ってみても分からないものだね。あの時も、ちょうど男と揉めたことがある。同じじゃないか。そんな曖昧な付き合い、僕には出来ないよ」

 和田の言葉は冷静だった。しかし、溢れる涙は頬を伝っていた。

 そして、続けた。

「僕の事は気にしなくてもいいし、僕は君たちがやっている、熱い恋愛とでも言うのかな、そんなものは出来ない。今までありがとう。もうここへは来なくてもいいから、彼と幸せにやりなよ」

 和田はポケットから部屋の鍵を取りだすと、ドアのカギを開けて部屋の中へと入っていった。

 春美はどうする事も出来ずに、茫然とその様子を眺めていた。

「ほらな!やっぱりあいつは遊びだったんだよ!お前の事なんて、何も考えちゃいないんだよ」

 原田が興奮したように言った。

 春美は愕然として言葉が出なかった。虚無感で涙も出なかった。融け始めていた心を覆う氷が、また固まって行くのを感じた。

 なぜ涙が出ないのだろう。

 あまりの事で、涙を流す装置が壊れてしまったのかもしれない。

 春美は、これからどうやって生きていけばいいのだろうという絶望感と、何もかもを失ってしまったという虚無感で頭の中が真っ白になった。

 そして春美は、原田を無言で押し退け、アパートの階段を下りて、道路へ出た。

「春美!」

 原田が慌てて春美の後を追ってきた。

 春美は原田の方を振り向いて、原田をじっと眺めた。

「春美、また二人で楽しく過ごそうぜ」

 原田が笑顔を投げかけて言った。

 春美は、少し笑った。

「―原田君。ごめんね。どうやら私、もう和田さんとは付き合えなくなっちゃったみたいだけど、原田君とももう付き合えないの。私が好きなのは、和田さんなの。あなたじゃない。そんなにまでして私の事を想ってくれて、考えてくれて、毎日こんなところまで来てくれてありがとう。その気持ちは嬉しいよ。仕事、大変じゃない?体壊してない?頑張って生きて行ってね。さようなら」

「春美!」

「私、和田さんのことをこんなに好きだったのに、もう会えなくなっちゃった」

「春美・・・」

 原田は、それまでの追い込まれたような形相から、やっと冷静さを取り戻したような表情になった。

「さようなら、原田君。原田君も和田さんも幸せになってほしいよ。でも、幸せを手に入れる為には、ある程度の努力が必要だからね。頑張って」

 春美はそう言うと、原田に背を向けて、アパートへの帰り道を歩いた。

 まだ涙は出なかった。

 心を覆う氷が厚くなりすぎて、鈍感になってきているのかもしれない。

 自分の部屋へ帰ってくると、その部屋はまた一人きりの暗く虚しい空間に思えた。寂しいかどうかは、その空間に物理的に人が存在するかどうかではない。誰かと心のつながりを持っていれば、そのとき物理的に一人だったとしても、寂しさは感じないものだ。当たり前だが、孤独感というものは、要は心の問題なのだ。

 その夜は、当然のようになかなか寝付けなかった。

 そして、ベッドの中に潜り込んでいると、携帯のメール着信音が鳴った。

 春美は急いでベッドから出ると、机の上の携帯を手に取った。―和田からだった。

『君と過ごせた時間は、僕にとっては幸せで、宝物のような時間だった。ありがとう。でも、さようなら』

 それだけの内容だった。

 春美は、自分の思いの丈をメールに打ち込んだ。和田が好きだ。和田の事は、これまでにないくらい自分の心を癒し、自分に無償の幸せを運んでくれた大切な人だと思っている。

 しかし、メールを送信しても無情にアドレスエラーになって返ってくるだけだった。和田のメールアドレスが変更されたのだ。

 春美は、もう一度和田のメールを読み返した。

 止まっていた涙が溢れ出て来る。どんどんと止まらないくらいに出た。体中の水分が涙になって出てしまうかと思うくらいに。涙くらい出れば少しは楽になるのに。そう思っていた春美だったが、その一文は春美の願いを叶える和田の最後の優しさのように思えて、涙が止まらなくなった。

 携帯を放り出し、ベッドに潜り込んでも泣き続けた。

 心の雨は土砂降りだった。

 それからの二週間は、魂だけどこかに飛んで行った抜け殻の肉体だけで何とか職場へと通い、真っ直ぐに家に帰ってはベッドに潜り込む毎日になった。


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