友人
あれから二人がどうなったのか、春美には分からなかった。気は重かったが、病院にはいつも通り毎日出勤した。
荒川も何事もなかったかのように病院には毎日出勤していた。あの日の荒川との出来事から、もう3週間が経つ。何度か荒川と顔を合わせる機会もあったのだが、あの日の事は何もなかったかのように、当たり障りのない会話をするだけだった。普通の医師と事務スタッフのような関係だった。
それがまた春美にはショックであり、複雑な心境でもあった。少なくとも表面上はわだかまりもなく、何事もなかったかのように、毎日職場生活を送ることが出来るのはありがたいことだが、少なくとも二人は一時、特別な関係になったわけで、春美は問題の当事者の一人でもあったわけだ。
それが、まるで何事もなかったかのようだ。
自分の罪に対する気持ちと、この不安定な心持ちはどこへ持っていけばいいのだろう。傷ついてもいいから、せめて何かのリアクションが欲しかった。
それとも、もう気にしなくてもいいよ、という荒川なりの気遣いが、そういう態度として返ってきているのだろうか。それならそれで、「うまく収まったよ」とひとこと言って欲しかった。
まあ、自分が抱こうとした女に向かって、「収まったよ」などというのは、相手に向かって貴方は遊びでしたよ、と宣告するようなものだ。荒川の性格からして、そんなことを出来るはずもないのだろうか。
春美はそのことを由美子に話そうかどうしようかと悩んでいた。由美子の事だから、きっと話せば親身になって相談に乗ってくれるに違いない。しかし、いかんせん職場内での出来事だ。いくら友人関係にあるとは言っても、なかなか職場内の人間には話しづらいものがあった。
荒川先生の方も気にしていないみたいだし、もう忘れよう。ここは職場なのだ。
そうは思ってみても、あの日の藤江明子の恨むような眼が頭から消える事はなかった。
自分は遊ばれたのだろうか?
そんな想いも、繰り返しよぎってくる。
「ねえ、春美」
パソコンを打つ春美に、由美子が上機嫌で寄ってきた。そして、春美の耳にそっと、
「今度の金曜日、コンパがあるから行こうね」と囁いた。
その様子をチーフが見て、二人をキッと睨んだ。
「じゃあ、そういうことだから」
由美子は素知らぬ顔で離れて行った。
全く人の気も知らないで、と春美は苦笑いをした。
金曜日のコンパには、病院の女子職員ばかりが5人来ていた。例のごとく、春美と由美子の他は、病院の看護師達だ。医療事務の女の子は意外に病院にも数が少なく、勤めるほとんどの女の子は医師か看護師だ。おまけに内科の医療事務は、春美と由美子の他にはチーフだけだったので、他に女の子はいないし、他の診療科の事務の女の子とはあまり関わることがないのだ。それよりも、何かの用事や伝達事項などで、同じ診療科の医師や看護師達の方が関わりが深くなっていく。
女の子はみんな同年代の、20代の半ばだ。
春美はコンパというものに、少しだけワクワクしていた。学生時代にも何度かコンパの経験はあったのだが、飲みなれない学生達がだんだんと酒に呑まれて騒ぎ出し、ただの乱痴気騒ぎの飲み会のようになって好きではなかった。
しかし、社会人になってからのコンパ、取り分けテレビなどでよく見かける都会のコンパは出会いの花形だ。少なくとも春美の中ではそういうイメージだった。
個室の座敷で、女の子が5人、横に並んで相手の男性陣が来るのを座って待っている絵は、さながら獲物を迎え撃つハンターのように見えなくもなかった。
「おっそいわねー」
由美子がイライラしたように呟くと、彼女の携帯電話が鳴った。
「もしもし?何をやってるの?―あと5分?分かったわよ。早くしないと帰っちゃうわよ。こっちは美系ばっかり揃えてるのに、ヘンなの連れて来るんじゃないわよ」
そういうと電話を切ってカバンに仕舞い込んだ。どうやら、相当親しい間柄のようだ。
その会話を聞いていた他の3人がプッと噴き出した。
「友達なの?」
春美が訊いた。
「うん、高校の時の同級生だよ。来るのはそいつの友達ばっかりだから、素姓の分からない変なのは来ないよ。安心して」
由美子は優しく言った。
何だか、最近の由美子は自分に優しいような気が、春美にはしていた。この前も病院でのランチも奢ってくれたし、仕事中も何かと細かい事を気にかけてくれるようになった。
ただ、毎週のように金曜日の夜に飲みに行く事もなくなったし、休みの日に会う回数も、以前と比べてずっと減っていた。それなので、由美子は自分に距離を置き始めたのかと春美は思う事もあったが、一緒にいる時には以前にも増して優しくなった。特によそよそしくなったという訳でも、距離を置いているというような感じでもなさそうだ。
―ふと、何だか、少し自分が人を疑り深くなっている事に気がついた。人の行動に関して、勘ぐるようになってきているのだ。
あまり人を勘ぐっちゃいけないね。
春美は自分にそう言い聞かせた。
「いやー悪い、悪い」
入口の襖が開くと、男が一人そう言いながら入ってきた。
「遅いわよ!レディを待たせるんじゃないわよ」
由美子が言った。
「悪いな。一人遅れたやつがいて、場所も分からないだろうから駅で待ってたんだよ」
男がそう言うと、別の男が次々に4人入ってきて、奥から順番に座り始めた。
由美子は幹事なので、入口に一番近いところに座り、春美はその横に座っていた。
由美子は襖から顔を出して、
「すいませーん」と大きな声で店員さんを呼んだ。
ほどなく店員さんが来て、生ビールを人数分由美子が頼んだ。
そして、宴会が始まって、ビールを飲み始めても、誰も口を開こうとする者はいなかった。静かなコンパの滑り出しだった。
一番お互いの事を良く知っている、由美子とあの男が、部屋の入り口と一番奥で離れているのがまずいのではないか、などと余計な事を春美は考えていた。
それでも、みんな段々と酒が入ってくると徐々に会話も出始め、打ち解け始めた。最初の暗い雰囲気はどこへやら、笑い声も上がり始めて、楽しい宴会の雰囲気になって来たのだ。酒は人の距離感を縮め、警戒心を解いて行くのだ。
特に由美子は、相変わらず宴会の女王様ぶりを発揮していた。会話を盛り上げ、話を繋げながら、幹事として飲み物や食べ物の注文を取ったりと、その働きは目を見張るものがあった。従って、男性陣の会話と視線がだんだんと由美子の方に集まってくるのである。
仕事もこれだけ頑張れればいいのにね、と春美は思った。由美子は仕事に関しては至ってマイペースなのである。仕事が出来ないわけではないのだが、ひょうひょうと自分の役割をこなしていくだけで、飲み会の時みたいに様々な事に目を配ったりはしない。やれば出来るのだろうが、そこまでやる気がないのだろう。彼女は、どこか仕事を生活の糧だと割り切っているようなところがあった。
「ねえ、何歳なの?」
春美の向かいに座って、みんなの会話に入るわけでもなく、一人で静かに飲んでいた男が春美に話しかけてきた。
春美は男が急に口を開いたので、ちょっと驚きながら、
「23歳ですけど。―何歳ですか?」と訊ね返した。
「25歳だよ」
男はぶっきらぼうに言った。
男はそれからまた口を開かなかったが、しばらく経ってから、
「名前はなんていうの?」と訊いてきた。
「北部春美です」
これが男のペースらしい。
「ふーん。看護師さんなの?」
今度はすぐに次の質問が飛んできた。
「いえ、事務です」
「そっか」
「仕事は何をされているんですか?」
男の方のことも何か訊かないと失礼なのではないかと思って、ありきたりの質問をした。
「営業だよ。ただの営業。得意先の工場を回って、ペコペコ頭を下げて、注文をとってくる仕事だよ」
「嫌なんですか?その仕事」
「嫌だけど、まあ、生活していかなきゃならないから、仕方ないね」
「そうですか・・・」
普通、コンパでの男性は、やたらと自分の仕事を自慢したり夢を語ったり、自分を大きく見せたり、時には良い人をアピールしたりと、そんなものだと春美は思っていたが、こんな男は初めてだった。
「趣味とか、夢とかはないんですか?まだ若いんだし」
春美が訊ねると、男はちょっと笑って、
「今のところないね。今の生活を維持することで手いっぱいって感じだし。ほら、夢とか何とかって、けっこう自分に余裕があるか、今の自分に満足していない人が持つものなんじゃないのかな。今に満足していないから、夢という形で未来の自分を見つめているんだよ」
「今の自分に満足しているんですか?」
「まあ、満足はしているね。俺にしちゃ良くやっている方だと思うし、今を一生懸命生きているつもりだしね」
不思議な男だと春美は思った。この男は現状が嫌なのだけれども、自分に満足はしているのだ。
「ちっちゃな満足だろ?いいんだ」
男は少し笑ってビールを飲んだ。
「いえ、ちっちゃいなんて、そんな・・・」
春美は慌てて言った。
「俺は俺の出来ることを頑張って、嫌な仕事だけど、頑張って、大して面白くもない毎日だけど、それでも頑張って生きて、それであわよくば幸せにしてあげたい人を見つけて、守りたい家庭を作って、頑張って守っていくんだよ」
不器用な人なのだ、と春美は思った。なぜだか、男から自分と同じ匂いを感じた。不器用だけれども、一生懸命生きようとしているのだろう。自分と同じだ。
大きな事を言って実は中身のない人間はたくさん見てきたが、こんなにストレートに自分の事をいう人間を初めて見たような気がする。そして、それを悲観しているのではなく、堂々と受け止めているのだ。その、今の自分と自分の現実を。
人の長所をみつけて、すぐに良い風に捉える事が出来るのが春美の良いところでもあったし、必然的に騙されやすくなるところでもあるのだ。
しかし、何だか応援してあげたくなるような男だった。そんなこと言わずに、もっと欲を持って頑張って!と。中身は腐っていないのだから。
「そっちは、なんだかたまに凄く思い詰めたような顔をしているよ。明らかに何かあったんじゃないかって感じで。失恋とか?」
男の指摘にドキリとして、一瞬由美子の方を見た。
そうなのだ。春美にはいつもあの日の出来事が胸に圧し掛かっている。荒川の部屋での出来事だ。いっとき意識から消えていても、胸の奥ではその傷がしっかりと残っているのだ。
初めて会った男がすぐに気付くのだから、由美子はとっくに気付いているのではないのだろうか?
「ううん、違うの。ほら、人生いろいろじゃない。だけど、私は今の自分には全然満足していない」
「そうか。そうだな。人はそんなにスムーズには生きられないから、そんな事がある時もあるさ」
普段の春美であれば、そんなに感じることでもないだろう男のありふれた言葉が、今は心に良く染みた。
それから、男は自分の身の上話を始めた。どんなにくだらない内容でも、今の春美には有難かった。男の話を意識して夢中で聞いた。そのほうが、自分の中にある重しが少しでも軽くなるような気がしたからだ。
男は中学生の時に両親が離婚して、弟ととともに母親に育てられたらしい。母一人と子供二人の家庭だったので、とても貧乏だったという話をしていた。育ち盛りだったにも関わらず、家に米が全くない日がたまにあったという。そして中学生時代はアルバイトも部活動もせずに、小学生だった弟の面倒を見ていて、自分のことはロクに何も出来ない青春時代だったらしい。高校生になると、何とか自分もアルバイトをしながら学校は出させてもらえたものの、それ以上はどうしても学費の都合がつかずに難しく、今の会社に勤め始めたという。母親は、自分が無事に社会に出た時、涙を流して喜んでいたのだと。
だから、どんな仕事をしてでも、普通に生きて行ける事の有難さがわかっている。少なくとも、今の仕事は好きではないけれど、生活の心配をせずにやっていけることが男には大事なことなのだそうだ。
とても平凡と言えば、平凡な考え方だ。聞く人が聞けば、若いのに夢のない男だと思うかもしれない。夢などという大それたものではなくても、それは、荒川のような医者であれば、金持ちの素敵な婚約者を得られたり、高級マンションに住んだりとそれなりの贅沢は出来るのかもしれない。でも、この世の中では、自分の夢を考えるゆとりもなく、こうして必死で毎日を何とか生きようとしている人間もいる。自分もそうだ。
そんな男に、春美は共感した。こういう人間には頑張って幸せになってもらいたいと心底思ったし、自分も励まされたようで気持ちが少し楽になった。
人は大きなものを追い求めるばかりに、目の前にある小さなものを忘れてしまう時がある。それは、小さいけれど、自分にとってはとても大切なもののはずなのに。この男はそのことを知っているのだ。
飲み会が終わると、春美はその男と携帯メールアドレスの交換をして別れた。男の名前は原田省吾と言った。見たところ、誰もカップルが成立したような形跡はないようだった。男達が先に駅の方へ向って歩いて帰っていくのを女性陣が手を振って見送ると、残った春美達は、近くの喫茶店で「今日の反省会」を行なうことになった。
「いやー。ごめんごめん。今日はハズレだったか」
喫茶店に入ってコーヒーを注文した。ほどなくコーヒーが5つ運ばれてくるなり、由美子が口を開いた。
誰も良い雰囲気にならなかったことを気に掛けたのだろう。
「そんなことないよ。楽しかったよ」
看護師の一人がコーヒーを飲みながら言った。こういう場合の楽しかった、といのは逆に言うと恋愛対象になるような人はいなかったという意味合いでもある。
「うん。楽しかったよね。でも、なんだか平凡な人ばかりだったわね。何とか普通に生きてます!みたいな。―春美はどうだったのよ?向かいの人とマンツーマンでずっと話していたじゃない」
別の看護師が言った。
「うん。平凡て言えば、平凡だったかもね。でも、一生懸命生きていて、良い人だったと思うよ。何だか励まされちゃったし」
春美は、みんなどんな人を求めていたのだろう?と不思議に思った。エリート商社マンか、金持ちの息子とか?それか何か夢に向かって走っている芸能人の卵とか・・・。
「うん。まあみんな普通の会社員だからねー。いい奴もいたと思うんだけどな」
残念そうに由美子が言った。
「そうだよね。普通、そうだもん。ほら、私達ってどうしても、普段は病院で30代半ばの、バリバリと患者を診察しているエリート医師ばっかり見ているじゃない?車は高級車に乗っていて、高いマンションに住んでいてさ。普段着はブランドもののスーツを着てたりなんかして、それを見て、あっいつもとまた違って格好いい!みたいな感じになるし。だから、そういうのを見慣れているから、どうしてもあのクラスだと色褪せて見えちゃうんだよね」
また別の看護師が言った。フォローのつもりだろうか。
春美は「あのクラス」という言葉に少しムッとしたが、黙っていた。せっかくセッティングしてくれた由美子にも、男達にも失礼だ。
「ごめんね、また今度いいの連れて来るから」
由美子が手を合わせて言った。
「ううん、いいのいいの。気にしないで。飲み会としては楽しんだから。こちらこそありがとうね」
一人の看護師がそう言うと、みんなうんうんと頷いた。
それから、コンパであの男がこう言っていたとか、真ん中の男が自分の事をさりげなくアピールして気を引こうとしていたが、その男に魅力が感じられなくて、話を聞いても、とても惹かれなかったというような話をしていた。平凡な自分を何とか良く見せようとする男達の必死さに、内心笑いを堪えながら聞いていたという看護師もいた。それをネタにみんな笑い、盛り上がっていた。男性陣の努力は虚しく、女性陣には届かなかったようだ。
「どこまで頑張っても、未来がない人はないのよねー。あの調子じゃ、未来なんかたかが知れているじゃん。とても将来の事を考えると、お付き合いなんて出来ないわ」
看護師の一人が笑いながら言った。
みんな、感謝の気持ちが足りないのではないかと春美は思った。せっかく集まってくれた男性陣やセッティングしてくれた由美子、それに新しい人と出会う機会をくれた神様に。
どんな人だって一生懸命生きているし、誰だって幸せを求めている。その事に対して「クラス」も何もない。
ふいに、春美の携帯にメールが着信したことを知らせるバイブレーターが鳴った。
春美は鞄から携帯を取り出すとメッセージを確認した。―先程のコンパの男、原田省吾からだった。内容は一言、『駅で待っている』とだけあった。
その場にいるのも、何だか気分の悪い話題ばかりだったので、春美は反射的に席を立った。
「ごめん、ちょっと用事が出来たから、お先にします。今日はありがとう」
「お疲れ様―!」
みんなのその声に送られて春美は店を出て、駅へと急いだ。
きっとこれからあと1時間は、コンパの男達をネタにした笑い話が続くのだろう。春美はもう辟易していた。
駅の入口を出たところで、原田省吾は待っていた。
「やあ、よく来てくれたな」
原田は春美を見つけると、大きな声で言った。
春美は原田に駆け寄った。
「どうしたの?」
原田は照れたように頬を掻きながら、
「いや、ちょっとまだ飲み足りなくてさ、もう少し付き合ってくれないかと思って」
「うん、いいよ」
春美は、原田がわざわざ自分を呼んでくれた事が嬉しかった。それに、このままトボトボと、いつもの一人の虚しい部屋へ帰るのではなく、もう少し気分が晴れてから帰りたかったのだ。
春美も由美子の案内がなければ、まだこの辺りの店はよく分からなかったので、以前に由美子と行った事がある居酒屋へ原田を連れて言った。
ピークが過ぎたのか、だいぶガランとした店内のカウンター席に並んで腰かけると、原田は出されたおしぼりで手を丁寧に拭いていた。
そして、原田は春美に何か食べるかを確認してから、注文を取りに来た店員さんに生ビールをふたつと枝豆を頼んだ。
「来てくれるとは思わなかったよ」
原田が静かに言った。
「どうして?呼んだから来たんじゃない」
「うん。ありがとう」
ビールが来て、二人で飲み始めても、なかなか会話は弾まなかった。飲み会の席で、自分の事を一応は語りつくした原田は、もう何を話していいのかが分からない様子だった。
春美の方も、元来口下手なせいもあって話題が見つからずに、黙っていた。
でも、春美はこれでいいと思っていた。会話だけが全てではない。誰かといれば、今の春美は落ちつく事が出来たし安心出来た。会話がなくても、こうしてしっとりと一緒に酒を飲んでいる空気も、春美には心紛れる幸せな瞬間であった。誰かと一緒に穏やかに酒を飲んでいる。それも今の春美には癒しのひとときなのだ。
春美は、原田がそれほど饒舌ではない事ももう分かっていたから、気まずい空気のようなものは感じなかった。原田はそういった空気を苦にさせないような雰囲気を持っていた。それに、その考え方や一生懸命生きようとしている姿に共感もしていたので、多少の好意のようなものも持っていたのである。
ビールを二杯、三杯と飲み進むにつれて、二人は段々と酔いが回って来て、軽く冗談を言い合いながら笑いあって飲めるようになってきた。
この人とは波長が合う。春美はそう感じていた。まだ好きなのかどうなのかは、出会ったばかりでしっかりとは分からなかったけれど。
「一人って寂しいよな」
原田がしみじみと言った。春美は自分の事を言われたのかと思って、原田の顔を見た。
原田も春美の顔をちらっと見返して続けた。
「ん?いや。俺はずっと一人だった気がするよ。だから、何だか怖いんだよな。そりゃ、今まで付き合った彼女もいるし、弟も母親もいるけど、ずっと誰にも自分の事を分かってもらえていない気がしていた。女なんて特に、もっといい男や金を持っている男を見つけたら、喜んでそっちへすっ飛んで行ってしまう。これまでに二人で培ってきた歴史や思い出や、愛着なんかよりも、そういう付加価値に女はコロっといってしまうからな。女って、現金だなと思うよ。その時楽しく付き合って、色んな事を語り合っていても、心底通じ合えないんだなって感じがするんだ。真実の付き合いじゃないんだよ。情に流されているのは男だけ。女との付き合いには、いつもそういう打算的なところが絡むよな」
「そうかな?そうじゃない人もいると思わない?」
春美が訊いた。
「もしかしたら、いるんじゃないかとは俺も思っている。そんなに冷めてはいないさ。でも見分けが付かないよ。そういう女も、そうじゃない女も付き合っている時には、さも運命を感じているような話だけど、でも実際は違う事が多いからな」
春美はさっきまで居た喫茶店での「反省会」のことを思い出していた。確かに、女の本性なんてあんなものかもしれない。きっと、相手の男性陣が、もっと世間で認められているような仕事をしていて、お金を持っているような人だったなら、また違ったコンパになったに違いない。
「確かにそういう人が多いかもしれないね。でも、きっと原田さんに合う素敵な人はどこかにいるよ。でも疑って掛かっていたら、ずっとその人の事は見つけられないかもしれない。信じてあげなくちゃ。例え失敗したって、それで全てを失う訳じゃないんだから、信じないと始まらないと思う」
春美がそう言うと、それからまた原田は口を閉ざした。様子からして気分を害した訳ではなさそうだ。ただ、自分の中で何かを考えているのだろう。
こんなに純粋な人なのに、なかなか幸せにはなれないのがこの世の中なのだろうか。春美は少し切なくなっていた。原田みたいな人間こそ、幸せになってもらいたいと思った。
店の壁に掛かっている時計を見ると、もう11時半を過ぎていた。
「そろそろ出ようか」
原田が言った。
二人は店を出ると、もう人がまばらになった商店街をどこへ行くわけでもなく歩いた。多くの店のシャッターが閉まっていて、開いているのは飲み屋の類ばかりだ。
「もうすぐ夏だね」
春美が空を見上げて言った。
星は見えなかったが、雲のない黒い空が広がっていた。その中に、ポツンと黄色い月が光っていた。
「この時間じゃ、もう家まで帰れる電車がないな」
原田もそう言って空を見上げた。
「うん。いいよ。じゃあ、家に泊まりなよ」
春美がそう言うと、原田は驚いたように春美を見て、
「いいのか?」と確認した。
春美はまだ空を見ていた。田舎ではあれだけ綺麗に見えた星が、こっちではほとんど見えないことに初めて気がついた。
「いいよ。タクシー代なんて持ってないんだろうし、それにね、私も今、実は少し寂しいんだ。だから、いいよ」
好きかと言われれば、好きになってきていたし、少なくとも確かに原田に好意を持っていた。それに加えて、一人の部屋には帰りたくないという思いが原田を引き留めたのだった。誰かと一緒に居たかった。
もしかすると、原田に軽い女だと思われるかもしれないと思ったが、春美にとっては自分の事をどう思われようと大したことではなかった。帰りの電車がないという原田の言葉が、春美の良心を後押ししていた。帰れないと言われて、じゃああとは好きにしたら、とは春美にはとても言えない。それに、家に泊めたからといって、必ず何かあるとは限らないのだ。不器用な原田が積極的に自分に手を出してくるとも思えなかった。
そうして春美と原田は、ほろ酔いのいい気分で、ゆっくりと春美のアパートの方へと並んで歩いた。
春美が玄関のドアを開けて中へ入ると、原田はまだ玄関に突っ立っていた。
「どうしたの?入っていいよ」
春美に促されて、原田は何となくバツが悪そうに、靴を脱いで上がってきた。
「おじゃまします」
二人ともけっこう飲んでいたはずだが、そんなに酔ってはいなかった。
春美は慌てて部屋に転がっている雑貨やら雑誌やらを片付け始めた。なんだか改めて見ると、色々なものが無造作に散らかっていて恥ずかしかった。この部屋に人を上げたことはなかったし、そういうことも考えたことがなかったので、あまり人に見せられるような状態ではなかった。
洗濯した下着まで置いてあることに気が付くと、また慌てて小さなタンスに仕舞い込んだ。
―ふいに、背後から原田が春美を抱きしめてきた。春美はタンスに手をかけたまま身動きが出来なかった。
―やっぱりそうなるのか。
原田であれば、そうなる事はないのではないかと、勝手に春美は思っていた。なるかもしれないけれど、たぶんならないのではないかと感じていたのだ。しかし、現実は原田も男だ。きっと、春美が部屋へ誘った事で、そうなる事を期待していたに違いない。
「ひとつ言っておきたい事があるんだ」
春美を抱きしめたまま、原田は静かに口を開いた。
春美は黙っていた。
「俺には好きな人がいる。まだ付き合ってはいないけれど、想いを寄せている女はいるんだ。会社の子だけれど、向こうは俺の事をどう思っているのかは分からない。でも、俺は好きなんだ」
春美は自分を抱きしめている原田の手をそっと取った。
「うまくいくといいね」
そうだ。頑張って幸せになってほしい。
「でもな、今日会ったばかりだけど、お前の事も好きだ。いい奴だし、気も効くし、なんと言ってもお前の話を聞いていると、優しい気持ちになれる。―じゃあどっちが好きなんだ?と言われると、やっぱりあの子の方が好きなんだ。でも、お前も欲しい。我儘な事を言っているのは分かるけど、そうなんだよ」
春美は胸が熱くなるのを感じた。ちょっとイレギュラーな話だけれど、好きだと言われたのは一体いつ以来だろう。きっと大学時代に付き合っていた彼氏以来だ。少なくとも、ここに自分を求めてくれている人がいる。
「それじゃダメか?」
「私でいいのなら、いいよ」
自分を求めてくれるのなら。そして、それで幸せな気持ちになってくれるのなら構わないと思った。その、原田のいう好きな子と、もしかしたらそのうち上手くいくかもしれない。そしてその時、原田は離れていくかもしれない。でも、それが原田にとって幸せなのであれば、そうなったほうがいい。原田の幸せがそこにあるのであれば、頑張ってそれを追い求めればいいのだ。最終的に傍にいるのが、必ずしも自分でなくていい。原田が幸せを感じるほうが良いに決まっている。そうやって、自分にとって特別な人が、より幸せになってくれたほうがいいのだ。
原田の体の温かな体温が背中に伝わってくる。
自分の方こそ、今のこの空虚な気持を原田に埋めてもらっている。今の春美には、だんだんと、原田がとんでもなく大きな存在になっていった。
原田は春美の肩に手をやって春美を振り向かせると、キスをした。
春美も静かにそれに従った。
そして原田は、ぎこちない手つきで春美の服を脱がせ始めた。
朝、春美が目を覚ますと、原田はもう起きて服を着ていた。そしてテレビのすぐ傍で音量を小さくしてテレビを見ていた。
「おう、おはよう」
春美が目を覚ました事に気がついて、原田が声を掛けた。
目覚まし時計の時針は、午前9時15分を
指している。
「おはよう」
春美はベッドから起き上がって言った。体が少しだるい感じがした。―服を着ていない事に気がついて、慌てて布団を手繰り寄せた。
「今日は何か予定があるの?」
原田が訊いた。
「ううん、特に何もない。休みの日はブラブラしているだけだから」
朝に目が覚めて、一人ではないことの嬉しさが込み上げてきた。起きると会話を交わす相手がいる。なんて素晴らしい事なのだろう。
「コンビニで何か朝飯になるようなものを買ってくるよ。どこか近くにあるだろ?」
「うん、アパートを右へ出て、角を左に曲がったところにあるよ。―いいの?私も行こうか?」
「いいって、いいって。寝起きだろ。買ってきてやるよ。何がいい?」
原田が立ちあがった。
「うん、何でもいいよ。同じものでいい」
「分かった。じゃあちょっと行ってくる」
そう言うと、原田は部屋を出て行った。
原田が出て行くと、春美はベッドを抜け出して服を着た。そして、キッチンでお湯を沸かした。コーヒーでも淹れようと思ったのだが、考えてみればカップがひとつしかない。
図らずも原田とこういう関係になってしまったが、今朝の原田の様子を見ていると、どうやらただ遊ばれただけという訳でもなそうで安心した。
原田には想いを寄せている女の子がいる。そして、自分ともこういう関係になっている。想いを寄せているとは言うものの、まだ付き合っている訳ではないのだから、自分が浮気相手だと思う必要はないのだが、心の配分的には、やはりどうしても引っ掛かるものはあった。
だって、原田はその女の子の事が一番好きなのだから。浮気ではなくとも、原田の心では春美は2番手ということなのだ。
でも、まあいいのだ。原田は自分の事を必要だと言ってくれていたし、原田の幸せの事を考えれば、また、何か変化が起きてから考えればいいことだ。原田が納得のいくようにしてあげたい。春美はそんな風に思っていた。必ずしも、自分が一番でなくてもいいのだ。原田にとっての一番は、原田にしか決められない。
玄関のドアが開いて原田が帰ってくると、ちょうどお湯が沸いた。
原田は買ってきたおにぎりやらサンドウィッチを、袋から出してテーブルの上に置いた。とても二人では食べきれそうにない。
「ごめんね、カップが一つしかないから、これ使ってくれる?」
春美が自分でいつも使っているカップを原田に見せて言った。
「ああ、缶コーヒーでも買ってくれば良かったな。―まあいいよ。一つしかないのなら、一緒に飲もうよ」
そう言うと、原田はテーブルの前に腰を下ろした。
春美がコーヒーを淹れて、テーブルの真ん中に置くと、原田が少し笑った。
「なんだか、『一杯のかけそば』みたいな感じだな」
「そうだね」
春美も笑いながら、原田の隣に腰を下ろした。
そして、原田はどれがいいかを春美に訊ねて、春美はサンドウィッチを食べ始めた。原田はおにぎりを手にとって食べた。
朝の朝食を誰かと食べるのは久しぶりだった。隣に人がいて、休日の朝に起きて一緒に食事を摂る。テレビは朝のニュースが流れている。そんな和やかな雰囲気で、原田と朝食を摂っている事に、春美は大きな幸せを感じていた。幸せとは、本当に些細なところにあるものだな、としみじみ感じたのだ。
「今日は、どこかに行かないか?」
「うん、行く行く」
「どこがいいかなー。水族館なんていうのはどうだ?ありきたりすぎかな?」
「うん。水族館へ行く。どこでもいいよ」
二人はのんびりと朝食を済ませると、春美の化粧が終わるのを待ってから、揃って部屋を出て水族館に向かった。大阪市内にある世界最大級と言われる水族館だ。
さすがに、休日の家族連れやカップルですごい人混みだったものの、地方にはないスケールの大きさに圧倒された。春美の田舎の方では、石川県の能登半島に水族館があって、両親に何度か連れて行ってもらった事があったのだが、それと比べるとまるでスケールが違った。水族館とは、カップルや家族連れの手軽な散歩コースだというようなイメージを持っていたのだが、この水族館は全然違う。本当に魚を鑑賞して、楽しむところだった。
ある種のカルチャーショックを受けて、きゃっきゃっとはしゃぐ春美を原田は優しくエスコートしてくれた。
それから二人は近くのグルメスポットで昼食を摂ったあと、ブラブラとその近くのショッピングスポットへ立ち寄って、帰りの電車に乗った。一日精一杯遊んだ後で、二人ともけっこう疲れていた。
原田がもう一日泊ってもいいかと訊ねたので、春美は喜んでOKした。こんなに幸せな一日を過ごした後で、まだ続きがある。なんて幸せな事なのだろうと思った。
しかし、たまに昨日の原田の言葉が蘇えると、春美は一瞬だけ気分が落ちた。こんなに優しく一緒にいてくれるけれども、原田が一番好きな女の子は違う女の子なのだ。もしかすると最初から終わりが見えている恋愛なのかもしれない。原田の為をと思ってはいても、やはりそんな切なさに襲われる事もあった。
人は、幸せであればある程、その後の事が怖くなる。
夕食は春美のアパートの近くのレストランで摂る事にした。帰る家が近いと、食べてからもしんどくなくてゆっくりしていられる。
春美は、由美子と行った事のあるイタリアンレストランに原田を連れて行った。春美はこのレストランの雰囲気が気に入っていたのだ。男性客が少なく、女性同士のお客さんかカップルが多いので、店の雰囲気はとても落ち着いていて、大衆的な野暮ったさがなかった。それでいて、値段はそんなに高くない。まさにデートの締めとしてはうってつけの店だった。
「今日は疲れたねえ」
春美が席に着くなり言った。
「そうか?」
原田が春美の様子を見て笑った。
「人混みって、まだまだ慣れてないから、けっこうしんどいかな。―この辺に住んでると、職場も歩いて行けるところにあるし、買い物とかも近所で済んじゃうから、あんまり電車に乗る事もないしね」
「そうか。俺は毎日、満員電車に1時間も揺られながら通勤してるけどな。人にぶつかったり、押されたりしながら、みんなよく耐えて乗ってるよ。そして、会社に付いたら付いたで、上司の不機嫌な顔に出会い、今日も売上売上って始まる。たぶん、多くの平凡なサラリーマンは、定年までそんな生活が続くんだろうな。そんな毎日変わり映えのない辛い空虚な生活の中で、みんな何を思って生きているんだろう、と心の中を覗いてみたくなるよ」
原田は諦めたように言った。
「だからこそ、人には愛が必要なんだろうね。みんな必死で頑張ってるんだよ。大切な人を守るため。家族とか、子どもとかを養っていく為に。原田君もおかあさんに感謝しないとね。きっとお母さんもそういう思いで原田君を育ててきたんだよ」
春美は実家で働く父と母の事を思い出した。父と母も、実は他にもっとやりたい事もあったのかもしれない。そして、私達家族を守る為に、諦めてきたこともあるのかもしれない。そんな生活を送りながら自分を育ててくれて、今こうして社会人としてやっていけている事に感謝しなければならないと思った。
「俺はあんまりそういう風に考えた事はないな。お袋の努力は認めるけれど、出来ればもっと普通に生活に困らない家が良かったし、もっと欲張れば金持ちの家に生まれたかった。子供は自分が与えられた環境で生きるしかないし、自分では決められない。そういう差って、けっこう不公平だと思うんだよな。その家庭環境の差で、社会に出てからのスタート地点も違ってくるしな。俺みたいな高校卒が就ける仕事と、大学へ行って初めて入れる会社と就ける仕事なんかを比べても、絶対的に違ってくる。結局、育ってきた家庭環境の影響が、社会に出てからの自分が置かれる環境にまで影響してきてしまうんだ。そうすると、今度は結婚できる相手まで変わってくる。女は当然、格好良くて稼ぎのいい男がいいに決まってるだろ」
原田の言葉を聞いて、春美は少し寂しくなった。
「そうかな。少なくともお母さんのお陰で、ちゃんと育ててもらえて、仕事に就けて、生活出来ているじゃない。彼女だって、努力すれば素敵な人が出来るよ。重要なのは、お金や仕事じゃないと思うよ。確かに育ってきた環境によって、有利や不利はあると思う。でも、それで全てが決まってしまう訳じゃない。養護施設で育つ人もいる中で、ちゃんとお母さんの愛を貰って育って来たんだから、幸せな事だと思うよ」
春美は諭すように優しく言った。
「まあ、いいけどな」
原田は苦笑いした。
そのレストランで軽く1時間程食事をして、店を出た。二人とも少し疲れていたので、そんなに酒を飲もうという気にもならずに、グラスワインを1杯ずつ飲んだだけだった。ここの飲食代を含めて、今日のデートは全て割勘だった。
商店街はもう暗くなっていた。ここの商店街は、個人の小さな店の集まりなので閉まるのが早いのだ。午後7時くらいには、ほとんどの店のシャッターが閉まっている。その中で、電柱に取り付けられた街灯が、夜道を照らしていた。他にも店の看板や、まだ営業している飲食店から漏れる光などで道はそんなに暗くならないのが、ありがたかった。
人影もまばらな商店街を、春美の部屋へと向かって歩いた。原田は今日も泊りたいというので、春美は喜んでOKしていた。別に追い返す理由もなかったし、一緒にいたいと思ってくれて嬉しかったのだ。
―ふと、前から歩いてくる女性に春美は目を止めると、心臓が破裂するかと思うほど速く脈を打ち始めた。
女は俯いて、道の端を急ぐように歩いていた。ワンピースを着てセーターのようなものを羽織っているが、明らかにこの商店街には不釣り合いな品のある女性だ。
そして、女性は涙を流しながら口を押さえている。
春美には一瞬で分かっていた。それは、荒川の婚約者、藤江明子だった。
―泣いている。泣きながら、夢中で歩いている。
藤江明子は、春美に気づく様子もなく、すれ違って反対の駅の方へと向かって行った。
また罪悪感と、自己嫌悪のようなものが心の底から湧きあがってくるのを感じた。きっと荒川のところへ行った帰り道に違いない。そして、何かあったのだ。たぶん、自分も絡んだ結果のことなのだろう。あの様子では、ただ事ではない。
春美は振り向いて藤江明子を見る余裕はなかった。ただ茫然と立ち尽くし、また明子の自分を見る恨みの目が蘇ってきた。
自分は最低の事をしていたのだ。思い出したくもない、みっともなく惨めな過ちの記憶がまた鮮明に蘇ってきた。
涙が出て来るのを抑えきれなかった。心が痛んだ。心が悲鳴を上げた。
「おい。どうしたんだよ?」
原田が驚いて、春美の腕を掴んだ。
春美は、原田にしがみつくのが精一杯だった。
原田と出会ってから3週間ほどが経った。春美が驚いたのは、原田が意外にまめにメールをしてくる事だった。仕事の合間や、仕事が終わってからも、よく携帯にメールが来る。春美の方は勤務時間中には携帯に触る事はできなかったのだが、仕事が終わって携帯の着信を確認すると、決まって5、6通、原田からのメールが入っていた。
春美にとっては嬉しいことだったが、反面、内容的には複雑なものがあった。メールの内容は、原田が想いを寄せている会社の事務の女の子に因んだものが多かったからだ。今日は、その子にお茶を淹れてもらえたとか、雰囲気良く会話が出来たとか、笑顔が可愛かったとか、そんな内容だ。
『もしかしたらイケるかも!』などと書いてあったので、思わず、
『イケるよ!頑張れ!』などと送り返すようなやり取りもあった。
まるで、その彼女との恋愛相談のようだった。
原田は、ちょくちょくと春美の部屋へ遊びに来ていた。週末や、たまに平日などに来る事もあった。もちろん、男女の関係にあったのだが、彼女の事が話題に出て来ることも多くなっていた。
ベッドの上で、「今日は彼女ったらさー」という具合に始まるのだ。
春美は基本的には、原田が幸せになればいいと思っていたし、また、原田にはそういう風に声を掛けたりもしていた。どちらがいいのかは、原田が決めることだと思っていた。自分に人の幸せを奪う権利はない。原田がそれほど想いを寄せるその女の子と結ばれるならば、その方がいいに決まっているのだ。しかし、そうは思っていても、女としてやはり心は傷ついていた。自分と男女関係にありながら、相手は他の女性を見ている。どんなに会っている時に笑い合っていても、心は離れているのだ。
原田を応援したいと思う反面、今の自分と原田との関係にある葛藤が、どうしても心を押しつぶしてしまいそうで、辛かったのだ。人としては原田を応援していても、女としては傷ついている。
そんな表情が、また勤務中に出ていたのだろう。由美子が寄ってきて、「今晩一緒に飲みに行くからね」と強引に春美を誘った。何か悩みを抱えていると、由美子にはまるっとお見通しなのかもしれない。
そんな由美子の優しさが嬉しかった。
その日の勤務が終わると、二人はお気に入りの、いつものイタリアンレストランに入った。始めて来る金曜日以外の平日だったが、お客さんはけっこう入っていた。
窓際の4人掛けのテーブル席に案内されると、由美子は店員さんに差し出されたメニューを手にとって覗き込んだ。
「パスタでいいかな?」
由美子が春美に訊ねた。
「うん」
この前の休日に、原田と一緒に食べたばかりだったが、別に何でもよかった。
「それとワイン?それともビールにする?」
「ビールでいいよ。なんだか喉が乾いてるし」
「わかった」
由美子は店員を呼ぶと、何だか名前が複雑なパスタとピザと、ビールをふたつ頼んだ。
「で、どうしたのよ?」
由美子がいきなり切り出した。
「え?」
「完全におかしいじゃない。ここのところの春美は。最近だけじゃなくて、コンパの前からずっと何か思い詰めてるような感じがするよ。何かあったんでしょ?まだ騙されたとか?」
「いや、そんなんじゃないんだけど」
「じゃあ、何?」
春美はどこまで由美子に話してもいいものか考えていた。荒川との情事を婚約者の藤江明子に直接見られてしまったこと。原田との関係、全部事細かく話すと泥臭くなってしまうし、いくら友人といえどもそこまであからさまに全てを話すのは、何だか気が引けた。
少なくとも、荒川の事は話さない方がいいのではないのか。由美子も職場の関係者だし、そういうことがあった事を由美子が知って、荒川とギクシャクしたりでもしたら、職場がおかしくなってしまう。職場に関係のある事は言わない方が賢明だ。
「どうしたのよ」
由美子が急かすように言った。
「うん、実は、この前のコンパで知り合った人と付き合ってるんだけど」
観念したように春美は話し始めた。
「えー?本当に?いつのまに?誰?誰?」
由美子が驚いた。
「原田君っていう人」
「原田・・・。そんなの居たっけ?」
「うん。私の前に座ってたの」
「あー。あの人か。あんまり目立たなかったから、よく覚えてないけど。でも、あのコンパで上手くいった人いたんだね。みんな気に入らなかったのかと思ってたのに」
「うん、黙っててごめんね」
「いいのよ。みんなに平凡だのなんだの、あんな風に言われてたら、言い辛いもんね。―でも、それが暗くなる理由なの?そんなの別に気にしなくてもいいと思うよ。みんな、なんだかんだ言って、結局そんなに理想の男ばっかり見つかる訳がなくて、そのうち年齢が来てその辺の平凡な男と結婚するんだから」
春美は首を横に振った。
「違うの。そんなことは別に気にしてないんだけど」
「じゃあ、何?」
「原田君には好きな人がいるのよ。一応、私とは付き合ってる格好にはなっていると思うんだけど、毎日その子の話ばかりなの。たぶん、よっぽど好きなんだと思う。私も、好きな子がいるって聞いていて付き合い始めたんだけど、聞いてると何だか切なくて」
「何、それ?好きな子がいるって言われたのに付き合ってるの?」
「うん、原田君が幸せになるのなら、そうなったらそうなったでいいと思っているんだけど、やっぱり心の中では、他に好きな人がいるのに、そういう関係を維持するのって辛いんだな、と最近気づき始めたんだよ」
「そりゃ辛いわよ。話を聞いてると、ただ都合よく遊ばれてるだけにしか見えないよ」
由美子は憤慨した。
「でもね、私も原田君のことを好きになっちゃったから、どうしようもないんだよね。私からは離れる勇気がないし、原田君も私と一緒に居る時には優しいんだよ。遊ばれてるなんていう感じはしないけど、でも心の中では彼女の事が一番なんだろうなーって思う」
由美子は、ふうと溜息をついて腕を組んだ。
頼んでいたビールがふたつ運ばれてきて、二人の目の前に置かれた。
「理性と感情は別だね。最初から分かってて付き合ったし、原田君がより幸せなら彼女とうまくいってほしいなとも思う。原田君の幸せの為なら。―彼、これまでかなり苦労して生きてきているから、絶対に幸せになってほしいの。でも、心は泣くんだよね。不思議なもんだ」
春美は頑張って笑顔を作って言った。
「そんなに好きなの?その原田君のことが」
「そんなに、ってどのくらいかは分からないけど、好き。とりあえず、今は原田君しかいないし、原田君の傍にいたいと思う」
「その男の事だから、もし、その彼女とうまくいっちゃったら、二股とかになるんじゃないの?」
「それはない。その時は、私が身を引く。そんなことになったら、今度は彼女が可哀そうじゃない」
春美は自分に言い聞かせるように頷いた。
由美子は、またふうと溜息をついた。
「まあ、その彼女には原田君が一方的に想いを寄せてるだけでしょ?必ずしもうまくいくとは思えないけど、でもそれで春美が付き合っているっていうのはねえ。なんか、保険みたいな感じじゃない。冷静に考えた方がいいよ」
「そう考えれば、そうかもね」
春美は寂しく頷いた。
しかし、春美は原田が自分の事も今は本気で想っていてくれていると信じていた。原田は、初めに正直に、好きな人もいるけれど春美の事も欲しいと言っていた。たぶん、彼も自分が我儘な事をしているのが分かっているはずなのだ。ただ、自分と同じように、彼も自分の気持ちがどうにもならないのだろう。
「だったら、もう少し配慮があってもいいんじゃない。その女の子のことばっかり、付き合ってる春美に言う事ないじゃない?」
そんな春美の気持ちを見抜いたかのように、由美子は言った。春美の話を聞いて、腹を立てているようだった。
「そうだね。ちょっと子供だね。でも、それだけ嬉しいんだろうね。彼女との出来事が」
「私が、そいつを連れてきた友達に言ってあげようか?いい加減な事をさせるなって」
「いいよ、そんなこと。私が勝手にやっているだけなんだから。本当に」
春美はびっくりして、慌てて言った。
「そう?」
由美子は腕を組んだまま、考え込んだ。
本当に自分の事を考えてくれているのだ。由美子は春美の事を、自分の事のように考えてくれる。確かに、傍からみれば、ちょっとわかりにくい感覚かもしれない。由美子にも理解し難いのかもしれない。しかし、今はこれでいいのだと春美は思っていた。これ以上はどうしようもない。自分がもっと大人になって我慢すれば、原田は彼女と幸せになるかもしれないし、うまく行かなくて自分とそのまま付き合う事になるかもしれない。誰にとっても悪い話ではない筈だ。
ただ自分がちょっと我慢すればいいのだ。
実際に、春美のほうも、辛いけれども原田といる時には幸せを感じている。
「まあ、春美らしいけどねー」
由美子がやっと口を開いた。
「そうかな」
「春美がそれでいいっていうのなら、どうしようもないけれど。辛いんでしょ?」
「うん。辛いけど、でも幸せでもあるかな。だから、仕方がないの。―でも、由美子に聞いてもらえてよかった、どうしようもないけれど、聞いてもらって知ってもらって、共感してもらうだけでだいぶ心が軽くなるね。ありがとう。かなりスッキリした」
「そう?」
由美子は今度は首を傾げて、
「―まあ、それならあんまり深く考えずに、思い詰めずに軽く付き合う事かな。思い詰めたらダメだよ、絶対。自分も、遊びとは言わないけど、もう少し軽い気持ちで付き合ってるしかないね。春美にも、もっとそのうちいい男が現れるかもしれない、くらいのノリで」
「うん、ありがとう。聞いてもらえて本当によかったよ。助かった!」
春美に笑顔が戻っていた。
由美子は腕を解いて、やっとビールに口を付けた。春美も、それを見てビールを飲んだ。
「悩みはそれだけ?」
由美子が訊いた。
「それだけって?」
「いや、他にはないの?」
春美の脳裏に藤江明子の、あの夜の姿が蘇った。薄明かりの差す商店街で、泣きながら駅のほうへ歩いて行ったあの姿を。
「うん。それだけ」
春美は笑顔を作って言った。
「ふーん」
由美子はそれ以上は何も言わなかった。
春美の顔が、また少し曇ったことを由美子は見逃さなかった。