失敗
失敗
病院で働き始めてから3ケ月が過ぎようとしていた。相変わらず目の回るような忙しさであったが、春美の仕事ぶりもだいぶ板に付き、めったなことでうろたえるような事はなくなっていた。
徐々にチーフにも認められてきたのか、色々なことをやらせてもらえるようになった。そのおかげで医師や看護師などとも関わる機会が増え、気軽に声を掛ける事の出来る顔見知りの仲間も増えてきていた。
私生活でも病院の複数のスタッフを交えて飲みに行くようにもなり、仕事もある程度こなせるようになってきた自信もあって、こちらでの生活もだんだんと楽しくなってきていた。仕事や生活での充実感のようなものも得られるようになったのだ。
「おう、ありがとう」
荒川医師の診察室にカルテを受け取りに行った。
「どうだい?今度の金曜日の夜、土井くんや他のスタッフ達と飲みに行くんだけど、君も来ないかい?」
荒川が気さくに誘う。
「はい、行きます!」
春美は元気よく答えた。
北島の一件は、大切な人を失ったという大きな心の傷としては残っていたものの、幸せをもらった代わりの人助けだったと思えば納得できる範囲の出来事だと思えた。
しかし、そのせいで次の給料が出るまでの1ケ月は生活が非常に厳しかったのだけれど。
昔の人はよく、「食える」とか「食えない」とかいう話をするが、その意味が本当に分かったことは教訓だった。お金がないと人はご飯が食べられない。「食えない」のだ。そのもしかしたら食えない状態になるかもしれないという状況に直面した時、お金のありがたみも分かったし、働く事の大切さも身に染みて理解できた。
今の多くの若者がそうなのかもしれないが、これまでは、両親の庇護のもとに実に甘い生活をしてきていたのだ。周りには物が溢れていて、住む家に困る事もなく、欲しい物が高くてなかなか買えないな、などという程度の悩みはあっても、「食う食わない」に直面するような生活の苦しさを味わった事などなかなかない人が多いのではないか。
自分の力で「食っていく」って大変なことなのだと初めて実感したのだった。
それを知ると、改めて両親の偉大さを思い知った。そして、社会で働き、自分でお金を稼いで家族の生活を営んでいる社会の皆様にも敬意を表さずにはいられなかった。
みんな、苦労して生きている。
でも自分はこんなに温かい職場で、生活できるだけの給料をもらって働かせて貰えている。なんてありがたい事なのだろうと思った。
金曜日の夜の飲み会は、由美子お勧めの居酒屋で行なわれることになっていた。こういう時に仕切るのはいつも由美子である。きっと学生時代には宴会女王だったのだろうと皆が笑っていた。
話が盛り上がっていない時にでも、話題を作っていくのが上手だし、料理を取り分けたり、追加の注文をしたりと気も良く効く。そういう事がサッと自然に出来るタイプなのだ。きっと、コンパなどでは一番モテるタイプだろうし、周りからも好かれるのだ。
春美はどちらかというと、そういう事に関してはどんくさい方だった。経験値の差なのだろうか、場馴れしていなくてどうしてよいものか分からないのだ。
いつもは医師や看護師が何人かは仕事が終わらなくて遅れて来るものだが、珍しくスタート時点の午後8時には全員が揃っていた。
総勢10名。しかし毎回、だいたい似たような顔ぶれではあった。
「乾杯!」
由美子の宣言で宴会が始まった。
少し狭いと感じる、個室の座敷での宴会。
男女比は5対5で、傍から見ればコンパのようだが、みんな気の知れた職場の仲間である。
春美も一応、そこにいる全員は知っていたし、たぶん相手も春美の事は知っているだろうと思われた。春美と由美子以外は、みんな医師か看護士である。
由美子は荒川の隣に座っていた。
春美は、名前が良く思い出せない男性看護士の間に座らされていた。一応飲み会なのだから、と由美子が男女交互に座らせるようにしたのである。
春美は人見知りをするタイプなので、あまりこう言った大人数が集まる飲み会は得意ではなかった。何を話していいのかが分からなくなってしまうのだ。
それでも隣の看護士と時々他愛もない会話をしながら、酒を勧められてその場の雰囲気を楽しんでいた。自分ではうまく盛り上げる事は出来ないのだが、楽しいお酒の場にいると、やはり気分は楽しい。
2時間程もすると、みんな飲み疲れてダラッとしてくる。いつものパターンだった。そのタイミングを見計らって、由美子が締めるのだ。
「皆様、今日はお疲れさまでした」
由美子がそう言うと、おおーっと拍手が沸き起こった。みんな結構酔っぱらっているのである。春美もけっこう飲んでいたので、頭がボワーっとして気分が良くなっていた。もともとそんなに飲みなれてもいないので、酔いが回るのも速いのだ。
こういうのも気晴らしになっていいなと春美はつくづく思った。仲間というのはありがたい。こういった明るい場にいることは、今の春美にとって重要だった。
北島の事をまだ完全に吹っ切れた訳ではなかったので、なるべく明るい雰囲気の場所に身を置きたいという欲求があったのだ。そのことを思い出すとき、その出来事を納得できる自分と、傷ついている両方の自分がいたので、精神的にはやや不安定になっていたかもしれない。今、一番気分が滅入るのは、誰もいない真っ暗な自分の部屋に帰ったときだ。玄関のドアを開けた瞬間、中が真っ暗で寂しい気分になるのだ。そこで誰かが待っていて、「おかえり」と言ってくれたら、どんなに幸せな事だろう?
店を出たところで、由美子が春美に寄って来て、「ちょっとついてきて」と腕を引っ張った。
「じゃあね~」
「また、月曜日に!」
「バカヤロウ、俺は明日夜勤だよ!」
などというやり取りが、まだ店の前では行なわれていた。完全に酔っ払いの集団だ。誰もこの団体が、普段自分の命を預けている病院関係者だとは思わないだろう。
春美は由美子に引っ張られて、この街でもひと際目立つ大きなマンションの前に連れてこられた。
「すごいね由美子!こんなにいいマンションに住んでるの?」
春美はちょっとよろめきながら言った。けっこう足にきている。隣の看護士に、けっこう飲まされていたのだ。
「違うわよ、ここは荒川先生が住んでいるのよ。2次会よ、2次会!」
由美子は大口を開けて笑った。由美子もさすがに多少酔っている様子だ。
「そうなんだあ」
春美はなんだか気分が良かった。一人の暗い部屋に帰る時間が、もう少し先延ばしになったからだ。明るく、楽しい時間がもう少し続くのだ。
5分ほどエントランスの前で待っていると、荒川がやってきた。
「やあ、早かったんだね。なんか連中と話していると、なかなか話が終わらなくてね」
春美と由美子は荒川に連れられてオートロックのエントランスを入り、彼の部屋へと導かれた。
荒川の部屋は小奇麗に片付けられていた。部屋は何室あるのか分からなかったが、20畳くらいはあるだろうと思われるリビングに通された。そこには4人掛けのダイニングテーブルの他に、窓際にはソファとローテーブルが配置されていた。ソファの前には大型のテレビがある。目につくものはそのくらいである。マンションのモデルルームのような、物のあまりないすっきりとした空間だった。
「へえー随分きれいにしていますね。広いし」
由美子が感心したように言った。
「まあね」
荒川はこともなげに言った。
「何部屋あるんですか?」
春美が訊いた。
「1LDKだから、この部屋の他にもう一部屋、寝室があるだけだよ。一人暮らしだから、これくらいあれば十分だからね」
同じ一人暮らしだって、春美の部屋は6畳一間にミニキッチンが付いているだけだ。由美子だって似たようなものだろう。春美にとってはそれで充分だったが、やはり医師との格差の違いを感じた。
荒川は二人をソファに座らせると、奥の独立したキッチンのほうへと向かって冷蔵庫を開けて、
「ビールとワインとどっちがいい?」と訊ねた。
「ワインがいいです」
由美子が答えた。
ほどなく荒川はワインとグラスを三つもって戻ってきた。そして、ローテーブルに丁寧に置いて、自分は近くの床に直接座った。
「これ開けるのが難しいんだよね」
そう言いながら荒川がワインをコルク抜きを使って手慣れた手つきで開け、三つのグラスに注いだ。
赤ワインだったが、春美はグラスに注がれるワインのその色の見事さに見惚れていた。春美がワインなどに詳しいわけはなかったが、高いワインなのだろうということは容易に分かるような代物だった。母がたまにスーパーで買ってきていたようなワインとは、明らかに違う。
「じゃあ、改めて乾杯しようか」
荒川がグラスを持って言った。
「何に乾杯しましょうか?」
由美子もグラスを取り上げて言った。
それを見て春美もグラスを手に取った。
「じゃあ、遅ればせながら、北部くんの着任祝いという事にするか」
春美はぺこりと頭を下げた。
もう3ケ月も経っているのにと春美は思ったが、飲む口実など何でもいいのだろう。
「そうですね。じゃあ、乾杯!」
由美子にとっても、飲む口実などどうでもいいに違いない。そんな由美子を見て、春美は少し微笑んだ。
こうして三人だけの、2回目の乾杯が行われた。
その場は居酒屋で行なわれた一次会の飲み会と違って、和やかで居心地が良かった。飲み会も賑やかで楽しかったけれど、こういうふうに少人数でまったりと親交を深めるのも、またいいものだと春美は思った。
「ところで、北部くんはこっちへ来てからどれくらい経ったっけ?」
荒川がリモコンでテレビのスイッチを入れながら言った。
「3ケ月くらいですね」
そんな単純な荒川の質問に答えるのもやっとだった。飲みなれない高級ワインが春美の中枢神経を刺激したのか、頭がかなりぼーっとしてきていた。
「そうか。早いものだね」
「そうでもないですよ、すごく長い感じがしましたよ」
「春美は色々あったもんねー。仕事に慣れるのもたいへんだっただろうし、生活環境も変わったんだろうしね」
由美子がしみじみと言ったあとで、春美は噴き出して笑った。訳もなくおかしかったのだ。今の自分の生活など、笑い飛ばしてしまいたい衝動に駆られたのだ。
「ちょっと、大丈夫?」
由美子が心配そうに言った。
「大丈夫、大丈夫」
春美はもうだいぶろれつが回らなくなってきている。
「そんなに強くないもんね、春美は。大学時代なんて、コンパと飲み会の嵐でしょ?」
「そうでもないよ。真面目な学生生活を送っていたからね。門限も厳しかったし、実家にいたらこの時間まで外に出歩いているなんて考えられないよ。一人暮らしって楽しいかもね」
春美はまた上機嫌に笑った。
きっと、この和やかなゆっくりと流れる時間と雰囲気が、抵抗なくワインをどんどん体が受け入れて行くのだ。
荒川が、春美の空いたグラスに、丁寧にまたワインを注ぎ込んだ。
「春美って、普段は真面目だけど酔っぱらうとどうなるのか、面白そうだよねー。お酒の弱い人って、よく酔っぱらうと人格が変わったりするじゃない?」
由美子が言った。
「そうだね。昔、看護師にひどいやつがいたよ」
荒川が頷いた。
テレビは歌番組をやっていた。
「ところで、荒川先生のほうは、彼女とはどうなんですか?」
由美子が訊くと、荒川の顔色が少し曇ったように見えた。
「うん。まあ、彼女の家は開業医だし、難しい家だからね。なんていうか、僕はもっと普通に気楽に生きたいんだよ。僕個人と言うよりも、僕の医師免許を求められているように感じる事がある。風習、慣習、なんだか僕には高貴すぎて、苦しいかな。ほら、何かで見たことないかな?金持ちの家って、家の中が妙に堅苦しくって、プライドが高くて、世間を見下しているような感じがある。病院っていうところは、患者さんはお金持ちの人ばかりじゃない。だいたいは、みんなこの世の中で何とか頑張って生活している人達だ。その人達を相手に『商売』をしているような感覚さえあるよね。必要のない薬をわざわざ処方したり、一回で済む検査を長引かせて何度も来させたり、患者さんを救う事よりも、集めることに神経を使っているようなところがあるね。まあ、個人病院も経営があるだろうから、綺麗事だけじゃ難しいんだろうけどね」
荒川は穏やかにそう言うと、グラスのワインをグビッと飲みほして続けた。
「そんなややこしい事を考えながら患者さんを診るのは、僕には出来そうにないな」
「そうですよね」
由美子が同意するように頷いた。
それでもきっと、救われている患者さんもいるのではないかな、と春美は冴えない頭で感じた。荒川先生の考え方は医師として立派だし、尊敬も出来た。しかし、その開業医も開業医で、自分に応じたやり方で患者さんを救おうとしているのだろう。お金だけの為に、社会で何かをしている人など、そんなにいないと思った。北島でさえ、お金の代わりにひとときの幸せを置いて行ってくれたのだ。きっと、世の中で誰の為にもならない人は一人もいない。その人がいるおかげで、無意識のうちに誰かを助けているのだ。
春美は勢いよくワインを飲んだ。
何となく、無常を感じた。
テレビから春美の好きな音楽が聞こえてくると、春美は無意識のうちに口ずさんでいた。そして、それにだんだんと熱が入ってきて止まらなくなってくる。
春美は訳が分からなくなって熱唱していた。そして、涙が出てきた。
荒川と由美子は呆気にとられてそれを見ている。声を掛ける事もできないといった風に。
荒川の部屋には春美の歌声が響き渡った。決して上手ではないが、大声で熱唱していた。部屋の外にも漏れているかもしれないような声で。
普段の春美であればこんなことは恥ずかしくてとても出来ないが、アルコールの影響で、気持ちが熱く、大きくなっていた。
「ちょっと、春美、どうしたの」
見かねた由美子が、春美の肩に手をやって言った。
春美はその手を払いのけて歌い続けた。
なぜだか分からないが、歌い続けた。
そして、その曲が終わると、春美はそのままソファの上で眠りに落ちた。
初めての「酔いつぶれる」という経験だった。
「ごめんなさい」
春美は席に着くなり、由美子に頭を下げた。
休み明けの月曜日、春美は由美子と病院の食堂で昼食を摂っていた。
金曜日の夜、荒川の家での自分の行動は記憶に残っていた。いつの間に寝たのかは覚えていなかったが、調子に乗って大声で歌を歌っていたことは、ハッキリと覚えている。
部屋の中で、酔っぱらって訳が分からなくなって大声で歌を歌い、その挙句に酔いつぶれて寝てしまう春美を、荒川はどんな様子で見ていた事だろう?そんな失態を犯した事を、春美は痛烈に後悔していた。みっともなかっただろうし、荒川と由美子には迷惑を掛けてしまった。
あの後、由美子に起こされた春美は、まだ酒が抜けていないぼんやりとした頭で、由美子に腕をとられながら荒川の部屋を後にした。そして、由美子にそのまま自分の部屋まで送ってもらう羽目になったのだ。
今更ながらに恥ずかしさが込み上げてきた。
きっと荒川先生も怒っているだろう。
午前中の勤務は、荒川に会うのが気まずくて、どうにか会いませんようにと心の中で祈りながら仕事をしていた。
「まあ、いいけどね」
由美子は苦笑いしながら言った。
「本当にごめんね」
春美は手を合わせて言った。
「私のことは別にいいんだけどさ、荒川先生には一言言っておいたほうがいいんじゃないかな。恥ずかしいだろうけど、あれくらいの事なら荒川先生ならそんなに気にしていないと思うから、大丈夫だよ」
「そうかな?」
春美は不安そうに訊ねた。
「そんなに小さな人じゃないと思う。実際、そんなに言うほどの大迷惑ってわけでもないしね。よくいるただの酔っ払い並みの軽い迷惑だよ。それよりも、避けるんじゃなくて、一言だけ謝っておいた方が良いと思うよ。それでいいと思う」
「うん、じゃあそうするよ」
春美は素直に頷いた。
「うん。そうしな」
由美子は腹が減っているらしく、そんな話の内容などさして気にもならない様子で食べ続けていた。
逆に春美のほうは、気が気でないといった様子で、まだろくに食事には手を付けていなかった。
「由美子は怒ってないの?」
「別に。酔っ払いの介抱なんて、飲みに行っていればしょっちゅうあるじゃない」
「ごめんね」
春美は、由美子の心の大きさに感謝した。
それでもなかなか気が落ち着かない春美だったが、午後の診療時間、ついに荒川の診察室に入る用事をチーフから言い渡された。
覚悟を決めて、診察室のドアを開けた。
「この前はすみませんでした!」
診察室に入るなり、春美は深々と頭を下げた。
「ああ、いや・・・」
荒川は歯切れのよくない返事で返した。
春美はとりあえず荒川のほうに寄って、チーフから預かっていた書類を渡した。
「この前は酔っぱらってしまって、ご迷惑をおかけしました。本当にすみませんでした」
「うん」
荒川の表情が何だか曇っているような気がした。怒っているわけでもなさそうだが、いつものような大らかさがなく、心に何かを抱えているような、そんな印象を受けた。
それ以上、春美はどう言えばいいのか分からなかった。忙しいだろうし、これで部屋を出ていくべきなのだろうか。
「じゃあね、今度、部屋の掃除をしてもらおうかな。それで許してあげる」
荒川が二コリと笑いながら言った。でも、心底の笑いではない。
やはり、荒川の自分に対する見方が変ってしまったのだろうか?
「はい。わかりました。ありがとうございます」
春美はまた深々と頭を下げて、診察室を出た。
そのやり取りで、何だか心にモヤモヤしたものが残っていた。会話の内容と言うよりも、その雰囲気に。
そしてその週の日曜日、春美は部屋の掃除の約束を果たす為、荒川の部屋へと向かっていた。
これで許してもらえるのなら、気合いを入れて掃除をしなくては。もともと荒川の部屋は、その必要がないくらい小奇麗に片付いていたが、それでも見違えるように綺麗にしてやろうと思った。
しかし、荒川はなぜ春美に部屋の掃除などの条件を出してきたのだろう。春美にはそれが不思議だった。迷惑を掛けたお詫びならば、他にももっと色んな事がありそうに思えた。飲みにつきあうとか、食事を奢ってくれとか、肩を揉んでくれとか?
まあ、自分なんかと飲みに行ってもつまらないのかもしれないし、また暴れられでもしたら困ると思うだろう。それだけ綺麗好きということなのだろうか。
しかし、春美は思うのだが、本当に綺麗好きな人は、自分の部屋を他人に弄られるのは却って嫌なものではないだろうか?大学時代に、ドラマに出て来るように部屋を凄く綺麗にしている友人がいたのだが、人にはあちこち触られたくないと言っていたことがある。
あの時の荒川の様子と言い、何か心に引っ掛かるものを感じたが、部屋の掃除くらいであれこれ考えても仕方がない。それが荒川の望みであれば、そうして上げればいいことだ。
エントランスに入ると、オートロックの操作盤で荒川の部屋を呼び出した。
「はい」
荒川の声だ。
「北部ですけど」
「ああ、どうぞ」
それだけ言うとガチャッと通話が切れて、オートロックの自動ドアが開いた。
エレベーターで7階まで上がっていき、荒川の部屋の玄関ドアの前で、またチャイムを押すと、すぐにドアが開いて荒川が顔を覗かせた。
「やあ、入って」
「お邪魔します」
もう夕方だ。リビングには西日が差しこんでいる。
ぱっと見渡しただけでも、部屋は相変わらず綺麗に片付いていて、とても手を付けるところなどないように思えた。
「じゃあ、始めますね。掃除道具をお借りしてもいいですか?」
荒川はちょっと笑って、
「いいよ、ソファに座って」と言った。
「でも・・・」
何だか雰囲気が変だ。
「いいから、座りなよ。今、コーヒーでも淹れるから」
荒川が穏やかに言った。そして、台所のほうに消えて言った。
仕方なく春美はソファに座った。
荒川がコーヒーをふたつ持ってくると、テーブルの上においてから、自分も春美の隣に座った。
「この前は、えらく酔っぱらっていたね。そんなにお酒は強くないみたいだね」
「ええ、まあ」
そういうと、荒川が春美に覆いかぶさってきた。春美は何だか負い目のようなものを感じてしまって、抵抗できなかった。
そしてキスをされ、どんどん服を脱がされていく。春美には何が何だか、訳が分からなかった。
しかし、嫌な気分ではなかった。この人が彼氏になるのであれば素晴らしいだろう、と欲のようなものが自分の中にあるのを感じたし、自分が持っている負い目のようなものが早すぎるその行為を拒絶させなかった。
春美も、夢中で荒川にしがみついた。
ソファの上で、という状況だったけれども、荒川は春美を求めてきていた。それを拒む事は、春美には出来なかった。
荒川にも悪い気がした。
ふいに、玄関のドアの鍵を開ける音がした。静寂の中で、その音は大きく響いた。そして、玄関のドアが開く音がして、バタンと閉まった。
荒川と春美は一斉にリビングの入口の方を見た。
そこには、買い物袋下げた一人の女性が立っていた。そして、凄い形相でこちらを見ている。―春美にはすぐに分かった。デパートのレストランで荒川と一緒にいた女性だ。藤江明子と言ったか・・・。
「何をやっているの?」
明子は声を押し殺すように言った。顔面は蒼白で、鬼のような目つきをしていた。
春美は心が凍りついたように、思考がパタリと止まってしまった。
荒川は何も答えずに、春美から離れた。
春美はその時に初めて気がついた。これは浮気だったのだ。自分は荒川と浮気をしていたのだ。
明子の眼は、瞬きもせずにこちらの方を見ている。それはそうだろう、婚約者の生の浮気現場を見てしまって、気が動転していないわけはない。
「浮気したら、別れるって言っておいたわよね」
それでも明子は声を絞り出すように言った。
「ああ」
荒川は特に言い訳をする様子もなく言った。
それから明子は、春美の方をキッと睨んで、
「なんでこんな子とそうなるのか、訳が分からないわ」と吐き捨てるように言った。
そして、明子の目つきは憐れみと汚いものを見るようなものに変わった。
春美は放心状態で、どうしていいのか分からなかった。ただ、春美に向けられた明子の眼は、胸に鋭く刺さって、心を抉っていくようだった。心を突き破られていく、そんな感覚だ。
「はやく服を直して出て行きなさいよ!」
明子が今度はヒステリックに言った。そして、泣き崩れた。
春美は手早く衣服を整えて、カバンを持って、逃げるように部屋を出た。
自分の行動は、これで良かったのだろうか。降りて行くエレベーターの中で、春美はようやく心を取り戻したかのように涙を流した。
凍りついた心が溶け出して、ようやく感情が流れ出して来たのだ。
涙も拭わずに、まだ乱れている衣服を直した。
明子の春美を見る目が、脳裏から消えなかった。あれほど色んな、複雑な感情を持った眼で見られたのは生まれて初めての事だった。
明子の気持ちはどうだっただろう?
自分は悪い事をしていたのだ。婚約者と他の女が抱き合っているシーンを見た明子の胸の内はいかばかりだっただろう。それが、あの複雑な感情を持った眼になって自分に向けられていたのだ。
そして、部屋に残った二人は今、いったい何を話しているのだろう?
私はただの汚い女でいい。だから、二人は上手く収まって欲しかった。自分のせいで他人の幸せが壊れるなどということは耐えられない。
自分はなんていう事をしてしまったのだ。荒川への怒りよりも、明子の気持ちを思うと胸が張り裂けそうだった。
そして、忘れられない明子のあの眼。もしかしたら、一生忘れられないかもしれない。
止まらない涙を手の甲で拭いながら、春美は自分の部屋へと帰る道をトボトボと歩いた。
夕日はまだ健在に差していて、春美の背中を照らした。