友達
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初出勤から10日ほどが経ち、春美は仕事の目まぐるしさにもだいぶ慣れてきたようだった。まだイレギュラーな事態に遭遇するとあたふたする毎日だったが、決められたルーチンワークのような仕事は、一応はそつなくこなせるようになっていた。
もっともいまやっている仕事はアルバイトでも出来るような初歩の初歩だ。当たり前だがまだとても他の2人の内科受付のようにはいかない。二人がどんな仕事をしているのかと、ちらちらその行動を観察するのだが、医師との会話もあり、多少医療の専門的な知識がないと難しいというのが分かってきた。これは粘り強くやっていかないと難しいな、と春美は思った。
仕事のプロになってお金を稼ぐことというのは、こんなにも大変な事なのだと思った。
今日は初めての週末、金曜日だった。
春美は仕事が終わったあと、同い年の受付、土井由美子と病院の近くのイタリア料理店でディナーを摂っていた。
「だいぶん慣れてきたんじゃない?」
由美子がピザを頬張りながら言った。
「え?そうかな?」
「そうだよ!凄い上達ぶり」
嫌味ではないその褒め方に、春美は素直に嬉しくなった。
「でもなー。土井さんとかチーフとかを見てると、まだ全然だめだなと思う」
「そりゃ仕方ないってー。私だって初めはそうだったんだし、たぶんチーフだってそうでしょう。みんな最初はそうなんだよ。しかもほら、私達って社会にも初めて出るんだし、あなたは一人暮らしも初めてなんでしょ?初めて尽くしじゃない。10日程度にしては上出来、上出来」
「うん、そっかな。これから頑張ればいいしね」
「そうそう」
生来ネアカな性格であろうと思われる由美子と話していると、何だか心が明るくなる。
「もう一本ワイン頼もうよ」
由美子が言った。
「うん」
「ところでさー。春美ちゃんって彼氏いるの?」
春美は北島のことが頭をよぎった。
一応、男と女の関係は持ったものの、よく考えてみると付き合うとか付き合わないとか、どういう関係なのかとか、そういう話はしていない。好きとか愛しているとか、言われたこともないし、言ったこともないが、そこまでしたのだから、言葉はなくても付き合っていることになるのだと思う。たぶん北島もそのつもりなのではないかと思った。改めてどういう関係かを聞くのもおかしな話だし、そんなことになった後でそんな話をすると、却って軽薄な感じがする。
「どうした?」
由美子が向かいの席から顔を覗き込んだ。
「いや、うん。いるよ」
「えー?いるんだ!?」
今度は椅子にのけぞりながら言った。かなりのオーバーアクションな人だと思った。
「うん。ヘン?」
「いやいや。故郷に?遠距離恋愛になっちゃったの?」
「ううん、彼はこっちにいる」
「あー、そっかー。なるほどねー」
由美子は何かがわかったらしく大きく頷きながら言った。
「え?」
「彼氏がこっちにいるから。春美ちゃんも追いかけてこっちへきたんでしょう?けっこうよくあるパターンだよね」
春美は首を横に振って、
「違うの、こっちで出来たんだよ」
由美子は少しぽかんとした。
「・・・出来たの?こっちで?この短期間のうちに?」
「うん」
「えー?どこで知り合ったの?まさかうちの病院の人じゃないでしょうね」
「違う違う。電車で知り合ったの。こっちへ来る旅立ちの電車の中で。たまたま席が隣り合わせだったんだけど、それで意気投合しちゃってね。それからこっちで会うようになったんだ」
「へー。なんか運命的な出会いのような感じもするけど・・・」
由美子はちょっと考える素振りをした。
「けど?」
「でも、それって一歩間違えると危ない出会いだったよね。ナンパみたいのと変わらないし、通りすがりの素姓のわからない相手だから、私だったら電車で隣り合わせたくらいでは、そんなに仲良くはなれないかな、きっと。相手にもよるだろうし、なったことないからわからないけど」
そういえば、北島のことはそれほど良く知っているわけではない。確実な情報はといえば、職業がコピーライターで実家が金沢というくらいだ。しかも、それも全て北島の話を鵜呑みにすれば、である。まさか結婚しているという訳でもないだろうし・・・。
しかし、人の事を疑いだすときりがない。人は信じてあげないと、自分の心が貧しくなっていくし、相手に対しても失礼だ。
世の中、悪い人はめったにいないと思う。
「土井さんは彼氏いるの?」
「いないのよ、これが」
由美子はちょっと顔をしかめた。
「不思議でしょう?」
「うん、不思議だね。可愛いし、仕事もできるのにね」
「でしょー。そう思う?」
「でも、社会人になるとなかなか出会いのきっかけってないのかもしれないね。朝から夜まで病院に缶詰めだし。職場ともなると学校と違って、何か友達感覚から付き合えるようなものでもないしね。難しいところがあると思う」
由美子は頷いた。
「そうだね。でも好きな人はいるよ。内緒だけど」
「おっ。そうなんだ。うまくいくといいね」
春美はしみじみと言った。
「ぜったいにゲットしてやる!狙った獲物は逃がさない。なんちって」
由美子の言い方に、春美は少し笑ってしまった。
「頑張ってね」
「ねえ、明日は彼氏と会うの?」
「その予定はないけど・・・」
あれから、北島から連絡はないのだ。メールくらいくれてもいいのに、と思うのだが、忙しいのかもしれないし、それならこちらから送るのも何だか悪い気がして送っていなかった。
「じゃあ、明日梅田行かない?」
「えっ?いいよ」
春美は少し戸惑ってから言った。休日に遊びに誘ってもらえるとは思っていなかったので、嬉しかったのだ。
「じゃあ、明日10時に駅の入り口でね。なんかあったらメールして。―彼氏から連絡が入ったりとかね。そうしたら、遠慮なくそっち優先でいいからね」
由美子はウインクして言った。
そして、春美と由美子は、電話番号とメールアドレスを交換した。
その後は、職場での人間関係の噂などをしながら二人でビールやらワインやらを結構飲んだ。チーフは誰それと怪しいとか、そしてチーフは何とかという看護師とウマが合わないとかそういったくだらない話だが、由美子は色々なことをよく見ているなと思った。
由美子は酒には強いらしく、いくら飲んでもほとんど変化がなかった。春美のほうは、あまり飲みなれていない事もあって、由美子のペースには全然ついて行けなかった。
そして、注文した料理を全て平らげてから店を出て由美子と別れた。まだ初給料日前だからお金がないだろうと、由美子のほうが多めに出してくれた。
その夜、部屋に帰って寝る準備をしていると、由美子からメールが入った。
「今日はありがとう。愚痴っぽい私でごめんなさい。私の事は由美子って呼んでね。先輩とか思わなくてもいいし、そんなガラでもないから。友達になろう」
とのことだった。
春美は嬉しくて嬉しくて、気分がよかった。彼氏も出来て、友達も得た。こちらでの生活も何だか少し楽しくなってきたかもしれないな、と思った。
次の日の朝、10時前に駅の入口に着くと、由美子はもう来ていた。目を引くような赤のミニスカートのワンピースに、白のジャンパーを着ていた。何だか、彼氏とデートにでも行くのかというような、おしゃれをしている。
何だか垢ぬけて見えた。
春美はと言うと、普通のジーパンにセーターだ。由美子と並んで歩くと少し不釣り合いかもしれない、もっと違うのにすれば良かったと後悔した。
もっとも、目一杯おしゃれをしたところで、由美子のように都会の女性の雰囲気を醸し出せるかどうかは疑問だったのだが・・・。
まあ、いっか。
「ん?なに?」
じろじろと由美子を眺めている春美に気がついて、由美子は服装が乱れていると思ったのかワンピースの裾を直した。
「うんうん、違うの。―さすがに都会の人だなと思って」
「そう?春美もなかなかイケてるよ!」
とてもそうとは思えなかったが・・・。
二人は電車を乗り継いで、大阪梅田の繁華街へと向かった。乗り換えなどは、まだ全然分からなかったので、春美はあたふたと由美子の後を付いて行くだけだった。
休日の電車は、座ることもできたし、イメージよりもずっと快適だった。都会の電車というと、身動きも出来ないほど車内に人がギュウギュウで、みんな頑張って吊革に掴まっているというような想像をしていたからだ。そして、降りるときには人を掻き分けて「すみませ~ん、降ります!」と叫ばなければならないのかと思っていた。
テレビのニュースか何かで、電車のドアが閉まらなくて駅員さんが人を押し込んでいるのを見たことがあったからだ。
梅田に着くと、もう駅の改札口から混んでいた。
「どこか行きたいところある?」
人でごった返す改札の出口に並びながら、由美子が訊いた。
「いや、別に・・・。どこって言っても分からないし」
「そっか、じゃあちょっと付き合ってよ」
駅の外に出ると、ビルなどの建物の隙間を縫うように、道は続いていた。その道を慣れたように由美子は進んでいく。
春美はときどき人とぶつかりそうになりながらも、由美子と並んで歩いた。
いわゆる裏道と言うやつだろうか。そんなに通行人が多くはなく、路地裏の迷路のような道が続いた。
その路地を出ると、大きな通りに出た。目の前には大きな百貨店がある。
「ここを通ると速いんだ」
由美子が言った。
「ふーん」
それしか答えようがなかった。慣れない都会の道を歩いて、春美は何だか早くも疲労を感じていた。
由美子に連れられて百貨店に入ると、ブラブラとウインドウショッピングを始めた。都会の百貨店は中が広くて豪華で、人が多くて、とてものんびりとウインドウを見ている余裕など春美にはなかった。ブラブラと人の合間を縫って、通路からバッグやら洋服などを見る由美子の後を付いて回るだけで精一杯だった。
都会の空気を感じた。
この活気、この賑わい。とても北陸にはないものだ。この、人間のパワーはすごい。これが都会なのだ。
「何か欲しいものはない?」
由美子が後ろを歩く春美のほうを振り向いて言った。
「んー。とくにはないかな」
春美は首を傾げながら言った。
「そっか」
時折、由美子がちらちらと腕時計を見ているのが気になった。
「何か用事でもあるの?」
春美が訊いた。
「ん?なんで?特にないよ」
大阪人はせっかちだと聞くが、そのせいなのだろうかと思った。
それから宛てもなく店内をぐるぐると二人で回った。フロアを何となくブラブラと回ると、エスカレーターで上の階へ行って、またブラブラと見て回る。その繰り返しだ。
お祭りのような賑わいとお店の都会的な雰囲気を見て回るだけで、春美はウキウキとして楽しかったのだが、なんだか由美子の方はどこか気が乗っていないようで、単なる時間潰しをしているのではないかと思えた。
もしかして、田舎者の自分を連れて、気を遣っているのだろうかと春美は思った。
また由美子が時計を見た。釣られて春美も腕時計を見るとあと5分ほどで12時になる時間だった。
「そろそろ何か食べようか。最上階のレストランへ行こうよ」
由美子が言った。
「うん、いいよ」
二人はエレベーターに乗って、最上階へ上がった。
最上階には10軒ほどの飲食店が軒を連ねていた。喫茶店、中華料理店、日本食、うどん屋など様々な店がある。
由美子は先に立って、一軒の店の前に立つと、「ここでいい?」と春美に訊いた。
イタリアンレストランだった。
「うん、いいけど。イタリアンが好きなんだね」
春美が由美子の顔を見て言った。
昨日の夜に二人で飲んだ店もイタリアンレストランだった。由美子は本当にイタリアンが好きなのだなと春美は思った。
田舎ではそんなに食べ慣れていないものだったので、春美のほうは昨日一日食べたからと言って特に嫌ではなかった。これが毎日続くとなると嫌になってくるのだろうけど。
店に入ると、案内の店員さんが来るのを待った。店内は、まだそれほど混んではいなかったし、高そうな雰囲気のお店だったので、昼食に利用する人はそんなにいないのかもしれないと感じた。
イタリアンと言うと、春美には何かの記念日などでディナーに食べるもの、というイメージがあった。
ほどなく店員さんが来て、店内に案内されると、窓際のテーブル席にどこかで見たことのあるような男が、女性と二人で座って食事をしている。
さて、誰だっただろう?
春美がじっと見ているのに男が気付いた。そうすると、少し間が会ってから男は「あっ」という顔になって、こちらに手を振ってきた。
誰だっただろう?確かに見覚えはあるのだが、思い出そうとしても思い出せない。
とりあえず、悪いので春美も男に向かって手を振った。由美子も手を振っている。
「あ、ちょっといいですか」
由美子が席へと案内してくれている店員さんにそう言うと、そのテーブル席のほうへと向かった。春美も付いて行った。
「こんにちは、偶然ですね」
由美子がにこやかに言った。
「ああ、君も良くここに来るんだね」
男が言うと、男と一緒に食事をしていた女性が、男の顔をキッと睨んだ。
美人で上品な雰囲気だが気の強そうな女性だった。
男はその女性の視線に気がついて、あわてたように、
「ああ、病院の受付の子たちだよ」と言った。
ああ、思い出した。勤めている病院の内科医だ。名前はすぐには出てこないけれど、確かに見覚えがある。私が初出勤の日に、患者さんを脳神経外科のほうに回すように、と指示をしたあの医者だ。
「ご一緒したらお邪魔ですか?」
由美子が訊いた。
お邪魔に決まってるじゃない!と春美のほうが、少し赤くなった。
こんな雰囲気の席に座りたくなかった。
どう見てもデートでのお食事中だ。
しかし、男の連れの女性のほうが、
「どうぞ」と言った。
それに促されるように、男が、
「ああ、いいよ。どうぞ」と言った。
男は女性の隣の席に移って、コップや食べかけのパスタを全部自分の前へと手早く移動させた。
「どうぞ、座って」
「すみません」
由美子は軽くぺこりと頭を下げて、遠慮なく奥の窓際の席へと座った。
仕方なく春美も覚悟を決めて、
「失礼します」と由美子の隣に座った。
案内の店員さんが来て、
「こちらにご一緒でよろしいですか?」と訊いた。
由美子が上品に頷いた。あまり上品そうには見えなかったが。
「知ってるでしょ?内科の荒川医師よ」
由美子が春美に向かって言った。
はいはい、そうでしたね。春美は早くここから立ち去りたかった。
女性が、早く紹介しなさいよ、と目で荒川医師に言った。
「ああ、こちら、うちの病院で働いている土井くんと、―えーっと、名前なんだっけ?」
「北部です」
由美子が言った。
「ああ、そうか、そうだったね。スタッフも最近急に増えてきたから」
荒川は弁解するように言った。
「こちらは僕の婚約者の藤江明子さん」
藤江と言うその女性は、挨拶をするでもなく、
「ナースなの?」と荒川に訊いて、グラスのワインを飲んだ。明らかに不機嫌だ。
急にデートの邪魔が入ったので、怒っているのだろう。
「いや、受付の子たちだよ」
しかし、荒川は慌てる様子もなく言った。彼女のこんな不機嫌な態度には慣れています。そんな感じだった。
「ふーん」
藤江明子という女性は、蔑むような眼で由美子と春美のほうを見た。
「土井くんとはここでよく会うよね。いつもお昼時のちょうどこんな時間帯に」
荒川が藤江明子に向かって言った。
「そうだったかしら?」
明子は、眼中にないとでも言いたげだ。
「お二人は、いつご結婚されるんですか?」
由美子がどちらにともなく、訊いた。
「いや、詳しいことはまだ何も決まってないんだよ。お互いの両親がうるさくってねー。彼女の実家は開業医なんだよ」
「そうなんですか」
由美子は頷いた。
春美はこの場の空気をどうしていいものかと考えた。適当な話題に変えたところで、きっとしらけるだけに違いない。
春美は藤枝明子という女性に申し訳ないと思った。彼女だって休みの日の彼氏との、のんびりとしたお食事のはずだっただろうに、いきなり訳のわからない小娘が二人入ってきて、さぞ迷惑だろう。
「由美子、やっぱり席かえない?お邪魔なんじゃないかな」
春美は由美子のジャケットの袖を軽く引っ張りながら言った。
「あら、いいのよ別に。邪魔にはならないわ。いてもいなくても、そんなに変わらない感じだし」
藤江明子が澄まして言った。
店員さんがオーダーを取りに来た。
由美子はメニューも見ずにカニクリームソースのパスタを頼んだ。ここへ来るといつもそれを頼むのだろう。春美も慌てて、同じものを下さい、と言った。
「北部くんは仕事のほうはだいぶん慣れたかい?」
「はい。まだまだですが」
「そうか、頑張ってね。見ての通り、普段は患者さんでバタバタしているけど、何かあったら何でも聞きに来てもいいからね」
「はい、ありがとうございます」
春美が軽く頭を下げて言った。
「あら、優しいのね」
藤江明子は皮肉っぽく言った。
「でも気をつけないといけないわよ、この人、手が早いからね」と付け加えた。
「いいえ、私なんてそんな対象じゃないですよ」
春美は慌てて言った。
「春美は彼氏がいるんだもんね」
由美子が割って入った。
「あらいいじゃない、じゃあ楽しくっていいわね」
藤江明子はホホホと上品そうに笑った。
「ええ、まあ」
春美はちらっと由美子を見た。由美子はこの空気が苦痛ではないのだろうか。しかし、由美子はにこにこと微笑んでいる。由美子は鈍いのだろうか?それとも、自分のほうが気にし過ぎているだけなのだろうか。
とにかく、由美子はこの場の状況を楽しんでいる風に見えた。
パスタが運ばれてくる頃には、荒川と明子のほうは、もう食事を終えていて、ワイングラスをたまに口に運んでいた。ボトルが見当たらないので、グラスワインで頼んだのだろう。
「じゃあ、僕らはお先に失礼しようか」
荒川がそう言って席を立った。明子もそれに続いた。
「ここは一緒に払っておくから、ゆっくりしていきなよ」
「すみません」
春美は座ったまま頭を少し下げた。
「ごちそうさまです」
由美子も言った。
「じゃあ」
荒川が二人に向かって手を振ってから、レジに向かって歩いて行った。明子もそれに寄り添うように付いていく。
春美はほっと胸を撫で下ろした。やっとその場から解放された安ど感で一杯だった。
ほんの2、30分だっただろうか。春美にはその何倍もの時間に感じた。
由美子は、支払いを済ませて店から出て行く二人の後ろ姿をじっと見送っていた。
家に帰ると、春美はもうクタクタだった。初めて都会の人混みの繁華街を歩いて、極度の緊張の中、荒川先生達と食事をして、もうそれだけでどっと疲れが出るような感じだった。
楽しくなかったかと言われれば、そうでもない。初めて見るもの、街の雰囲気が新鮮で、まあ充実した一日だった。連れて行ってくれた由美子には感謝だった。
帰り道のスーパーで買ってきたビールを紙袋から取り出すと、二口、三口、グビグビっと飲んだ。喉が渇いていたのだ。
そして、携帯電話が鳴っていることに気がついて、カバンから取り出した。
―北島からだ。
春美は嬉しくなって、電話に出た。
「もしもし、こんばんは」
「あ、もしもし。春美ちゃん?」
北島の声のトーンが今日はやけに低かった。
「うん、そう」
「元気?」
「うん、今日は梅田に行ってきた」
「そうか・・・」
それから沈黙が続く、北島らしからず何だか歯切れが悪いような気がした。
「どうかしたの?」
「うん、いや、実はさ・・・」
「うん」
「いや、その・・・」
一体どうしたというのだろう。もしかして、別れを切り出されるのではないか、と思って春美は不安になった。「もう会えない」などと言われたらどうしよう?
「うん。なに?」
「実は、俺、ちょっとだまされちゃってさ、もう死ぬしかないかもしれないんだ」
「え?」
何の事かわからなくて、頭が真っ白になった。
「友達の借金の保証人になっていて、それを返さなくちゃならなくなったんだけど、相手が闇金でさ、金が足りないんだよ」
「幾ら足りないの?」
春美の顔がこわばった。
「わからない、とりあえずもう20万くらいあればなんとかなると思うんだけど・・・」
「なんで・・・」
何を言おうとしたのかも、自分ではわからない。
「俺、死んじゃうよ!死んじゃう!」
電話の向こうの北島の声が大きくなった。
事情はよくわからないが、とにかく北島は切羽詰まっているのだ。何か北島の身に大変なことが起きているのが分かった。
「俺はもうダメなんだよ。死ぬしかないんだよ!せっかく春美とも会えたけど、もうどうにもならないんだ」
電話の向こうの北島の声のトーンがまた下がった。春美はその声に押されるように涙が出た。
「大丈夫だよ!20万くらいなら、私、あると思う。20万くらいで命を落とすの、もったいないよ。なんとかして!」
春美は夢中でそう叫んでいた。
「ほんとうか?」
「うん、どうすればいいの?」
少し間があった。
「ありがとう。じゃあ、今から言う口座に振り込んでくれる?」
「うん、わかった!」
春美は急いでカバンの中から、メモ帳とボールペンを取り出した。
「南海銀行大阪支店、普通口座2335437で、名義がムカイワタルー。月曜日に振り込んでくれないとまずいんだ」
北島はすがるように言った。
「分かった、振り込むよ!だから、死んだらダメだよ!お金で死ぬなんて、絶対だめだよ!」
「ああ分かったよ。それがあれば大丈夫だから。じゃあ、また電話する」
電話が切れると、春美は茫然とした。手に冷や汗をかいている。
まさか、北島の身にそんな事が起こるとは思わなかった。しかし、自分に出来る事があるのであれば、北島を助けてあげないといけないと思った。北島は死ぬほど切羽詰まっているのだ。それで、自分を頼りにして電話をかけてきてくれたのだ。事情は全くわかないが、とても放っておけるわけがない。
春美は急いでクローゼットの中をゴソゴソと探って、缶の貯金箱をふたつ取り出した。学生時代から500円玉貯金をしていたのだ。
たぶんこれで15万円くらいはあるはずだ。残りは銀行に今月の生活費が入っているからそれを使えば何とか足りる。
あまりの驚きに乾いていた涙が、また出てきた。
何だか切なかったのだ。
夢を追いかけて仕事に取り組んでいたであろう北島が、こんなことに巻きもまれるなんて。せっかく長い間貯めてきた貯金も、北島の命と引き換えだと思えば、お金の事は惜しくはなかった。
月曜日、由美子に、少し出勤が遅れるからチーフにその旨を伝えておいて欲しいとメールを送り、朝一番で大量の500円玉を手提げ袋に入れて銀行へと向かった。
そして、その500円玉を窓口で一旦入金してから、北島に指示された口座へ20万円を振り込んだ。
銀行を出ると、春美はひと仕事終えたような気分だったが、まだ心配であった。これでうまく解決してくれるといいのにと思った。
日曜日は北島のことばかりが頭の中を巡り、外出もせずに部屋に籠っていた。早く明日にならないか、とそればかりを考えていた。早くお金を振り込んで、心配事を取り除いて心を軽くしたかったのだ。それが終わるまでは、そのことばかりに気が滅入って、北島は今どうしているのだろう?大丈夫だろうか?と心配になった。早く振り込まなければ北島は死んでしまうかもしれないという気になったのだ。
職場につくと、あいかわらず凄い数の患者さんが列をなしていた。「遅れて済みませんでした」とチーフに謝りに行ったのだが、「
早くして」と冷たく一言言われただけだった。
午前の診療時間が終わると、昼食はいつもの食堂で一人で食べていた。いつもは春美と由美子を、チーフは先に昼食に出してくれるのだが、出勤が遅くなってしまったことでチーフを怒らせたのか、今日はサッサとチーフが由美子を連れて先に食事に出てしまったのだ。
お金を振り込んで多少ほっとしたものの、早く北島の声を聞いて安心したかった。
仕事中も、食事をしていても、その事ばかりが気になってしまう。
「どうしたの?」
「ねえ、どうしたの?」
初めは自分に話しかけられているとは気づかずに2度目の呼びかけで顔を上げると、荒川が立っていた。
「ご一緒してもいい?」
荒川は笑顔で言った。
「あ、はい。どうぞ」
荒川は春美の向かいに腰を下ろして、テーブルの上に食事の載ったお盆を置いた。
「なんか、世界の終りが来たような顔をしていたよ。大丈夫かい?」
「そうですか?いえ、ちょっと色々と心配事があったので」
春美は無理に笑顔を作って言った。
「なんだい?仕事の事かい?」
荒川は興味深そうに聞いた。
荒川の事はまだ良く知らないが、何となく印象的に話しやすい人だという感じがしていた。医師は普段は無口で気難しい人が多いのだが、荒川は話し方が気さくで誰に対してもフレンドリーなのだ。さらにイケメンの青年医師ということもあって、看護師達にも人気があり、女性たちの「憧れの医師」という点ではナンバーワンであった。しかし、彼には開業医のご令嬢と言う婚約者がいるのもみんな知っていたので、ただの看護師の私達では全然世界が違うとみんな恋愛対象としては諦めているようだった。あまりにも高すぎる相手だと、そういう風には見られなくなってくるものだろう。どこかのアイドルのファンではあっても、その人を本気で恋愛対象として見ている人はほとんどいないだろう。荒川はそんな存在だった。
春美も同じような心境だった。荒川には好印象を持ってはいるものの、この人とお付き合いをしたいなどとは考えてもいなかった。
「ありがとうございます。でも、プライベートの話なので」
春美は気を取り直して言った。とても荒川に話すようなことではない。
「いいよ、プライベートでも。別に勤務時間以外はひとりの人間として、普通に色んなことがあってもいいものだよ。僕でよければ聞くけど?」
荒川の懐の深さに感謝しつつも、聞いてもらっても仕方がない話だし、あまり話したくもなかった。
「大丈夫です。本当に。大した話じゃないんですよ」
春美はまた無理に笑顔を作って言った。
「そうか。それならいいんだけど。―ところで、土井くんとは仲が良いみたいだね。土曜日にもほら、偶然デパートのレストランで会ったしね。彼女が感じ悪くて申し訳なかったけど。人をちょっと見下しているようなところがあってね。僕もちょっとそれが嫌に感じることがあるんだけど。すまなかったね」
「いえ、素敵な方ですね。結婚されるって聞いたんですけど?」
荒川は少し苦笑いをした。
「まあ、ああいう素姓の人とお付き合いするってことは、普通は結婚前提のお付き合いってことになるよね。―でも僕は開業医になりたい訳じゃないし、病院を継ぎたい訳でもないんだ。医者として僕が出来る精一杯の事を患者さんにして上げて、そして患者さんの助けになれればいいと思っている。病院を経営するとなると、どうしてもそれ以外の事で頭を悩ませることが一杯出てくるだろう?お金のことを初め、経営のことや何やらかんやら・・・。そういうのに関わっていると、医者としての本懐が果たせなくなるような気がするんだよね」
「はあ」
「ヘンな話、今の勤務医のままでも収入はそこそこもらえるよ。ある程度の生活は出来るんだから、お金のことはそれでいいじゃない?別に病院を経営して大儲けしようなんて思っていない。それよりも患者さんを救わなくちゃ。本来、人の病気を利用してお金を儲けるなんて商売はあってはいけないと思うんだ。全ての開業医がお金目当てってわけじゃないけど、ここで自分を待っていてくれている患者さんがいるんだから、その患者さんを大切にしたいね」
これこそが本当に医師としてのあるべき心持なのだろうと、春美は感心した。そして感動した。
「凄いと思います。私、お医者さんって、良い生活する為に目指すものなんだと思っていたところがあるんですけど、荒川先生のようなお医者さんがたくさんいれば、きっと患者さんも安心すると思います」
「おいおい、失礼だなー」
荒川は冗談ぽく笑って、
「確かに高給や社会的なステイタスを求めて医者になる人もいるけど、みんながそうじゃないよ。だいたいの人は、医師としてその使命感とプライドを持っていると思うよ。じゃないといくら儲かるからって、やっていられないもん、キツくて」
「そうですよね」
ちょっと失礼な言い方だったかな、と春美は反省した。
「そうだよ。キツいんだから、この仕事」
荒川はしみじみと言った。
春美はそれを見ておかしくなって笑った。作り笑いではなく、本当におかしかったのだ。そのキツさ加減が、本当に荒川の口調に出ていたからだ。
なんという使命感を持った素晴らしい医師なのだろうか。確かにキツイだろうけれど、頑張ってほしいと思った。人の為に尽くすことが出来る能力があるのは素晴らしい事だ。自分もそういった医師の力に少しでもなれるよう、頑張らなければならないと心に誓った。きっと医師にはそういった使命感を持った人達は多いのだと思う。結果的にお金や社会的なステイタスが得られているだけであって、医師の本質はきっとみんなそうなのだと感じた。自分も社会に役立つ人間になりたい。
そして、少し心が軽くなっていることに気がついた。帰ったら、北島に電話してみよう。きっと、もう解決しているかもしれない。そんな気がした。
そしてその夜、家に帰ると真っ先に携帯電話を手にとって、北島に電話をかけてみた。プーップーッと通話中の音が鳴った。それから30分おきに5回くらい電話をしたのだが、ずっと通話中のその音が流れるだけだった。
「どうしたの?何かあった?」
金曜日の夜、半ば恒例と化しつつある由美子とのディナー。ここ何日間か、春美の元気がない事に、由美子は気が付いていた。
あれから、北島とは連絡が取れない。仕事から帰ると、毎晩最低5回ほどは電話を掛けてみるのだが、相変わらず通話中のプーップーッという空しい音が鳴るだけだった。どういう事なのかが良く分からない。良くも悪くも何かの連絡があっていいはずだし、ずっと通話中になっているのは一体なぜなのだろうと不安になった。
もしかして、どこかに監禁されているとしたら?そして携帯電話を取り上げられて、通話が出来ない状態にされてしまったとか。色々と考えてしまう。
「ねえ、春美」
返事がない春美に、由美子がテーブルを軽くトントンと叩いて言った。
今日は由美子お勧めのカフェダイニングに来ていた。何の料理の店なのかが良く分からなかったが、メニューを見ると、まあお洒落な居酒屋といったところだろう。
「うん、ちょっとね」
春美は北島のことを由美子に相談するべきかどうかを考えていた。
もしも誰かに話すとしたら、由美子しかいない。今、心を許せる身近な人間は彼女しかいないのだ。まさかこんなこと、電話で両親に相談する訳にもいくまい。しかし、誰かに相談したい反面、何だか話をするのも気分的に重たくもあったのだ。
「絶対なんかあるよね」
由美子は春美の顔を覗き込んで、
「彼氏と何かあった?」と訊いた。
その言葉で春美は、心に押し込んでいたものが流れ出てくるのを感じた。
「実はね。彼氏と連絡がとれないの」
春美は、北島からのあの夜の電話、お金を振り込んだこと、それ以降、何度電話をしても電話がつながらなくなった事を、堰を切ったように話した。
必死で話す春美の話を、由美子は黙って聞いていた。
「それで心配なの。もしかしたら、誰かに監禁されているのかも・・・」
春美は溜息をついて言った。
由美子は難しい顔をしていた。何か心に引っ掛かるようなものがあるようだが、言おうか言うまいか迷っているようだった。
「どう思う?」
春美が訊ねると、由美子は少し目を伏せた。
「これって、言った方が楽になるのか言わない方が楽なのか分からないけど・・・」
何か思い当たることでもあるのだろうか。
「何?何でも言って。由美子になら、何を言われても腹も立たないから」
「電車で出会ったんだよね?住んでるところも分からないんでしょ?」
「うん。そうだよ。だから困ってるの。もし住んでる所でも分かれば、すぐに行ってあげるのに・・・」
由美子はふうっと息をついた。
「その彼の電話番号を教えて」
「え?」
「私が掛けてみて上げるから」
春美は驚いたように、由美子を見た。そして、由美子に北島の携帯電話の番号を伝えると、由美子はそれを聞きながら自分の携帯電話にその番号を打ち始めた。
そして、携帯の操作で音声出力をスピーカーにして、テーブルの上に置いた。
プルルーップルルーッと呼び出し音が鳴った。
その音に春美は驚いた。あれだけ何度電話をしても通話中の無情な音しかならなかったのに、タイミング良く電話がコールしていた。
5回ほどコールすると、ガチャッと誰かが電話を受けた。
「―もしもし?」
何か警戒しているような感じの声だが、間違いなく北島の声だ。
「西島さんですか?」
と、ハンズフリーになっているテーブルの上に置かれた携帯電話に向かって、由美子が話しかけた。
「違いますよ」
電話の向こうの北島は不機嫌そうに答えた。
「あっすみませ~ん。間違えましたー」
由美子が軽く言った。
「ちっ、なんだよ」
それで電話が切られた。
春美は何が起こったのか訳が分からなくて、唖然としていた。
今のやり取りは何だったのだろう?そして、何を意味しているのだろう。―しかし、とにかく電話は繋がるようになったのだろうか。
電話の向こうの北島の対応が、春美のイメージしている北島とはちょっと違ったものの、とにかく電話が繋がるような状況になったのだということで、ほっと胸を撫で下ろした。最悪の場合、もうこの世にはいないのではないかと思っていたのだ。
「まだ分からない?」
さっきまでと違って安心した表情をしている春美の顔を厳しく見て由美子が言った。
「え?」
「もう一度、自分の電話で掛けてみなよ」
「うん」
春美は言われるがまま、メモリーに入っている北島の番号を呼び出して、電話を掛けた。
―プーップーッという、相変わらず通話中を伝える音が聞こえる。
「あれ?つながらなくなった」
春美が言うと、由美子はふうと息をついた。
「繋がらないのよ、ずっと。春美からの電話番号じゃ。着信設定をされているのよ。あなたの電話からかかってきた電話は話し中になるように設定されているの」
春美は訳が分からなかった。―いや、半分分かりかけていたのだが、信じたくなかったというのが本音だったかもしれない。
そして、だんだんと事情が飲み込めてくる。
「―騙されたのね、私」
春美が言うと、由美子は無言で頷いた。
「そっかあ、初めからお金を盗るつもりだったんだね」
どういう心境になったらいいのか、しばらくは分からなかった。とりあえず、北島に心配していたような事が起こっている訳ではないようで安心している自分がいたし、当然、裏切られたという寂しさもあった。
不思議と怒りのようなものはなかった。
「最近けっこういるみたいだよ。こうやって騙されてお金を振り込まされちゃう人。身近な人で騙されたのは私も初めてだけど」
「そっかあ」
春美の頭は真っ白になった。何を考えて、何を感じて、どう受け止めればいいのかがまだ分からなかった。
旅立ちの電車で出会って、そこから打ち解けて心と体を許した。北島と会っていると心が安らいだし、わくわくもした。この未開の地の都会で一人暮らす事になった春美にとっては、北島は心の支えでもあった。それが全て北島によって作られた虚構の世界だったというのか?
「どうする?警察に行きなよ」
由美子が険しい顔で言った。
春美は首を横に振った。
「いいよ。騙された私が悪いんだよ。よく言うじゃない。騙すより騙される方が幸せだって」
騙された人は、本当にみんなそう思うのだろうか・・・。
「だって、そんな問題じゃないじゃない!」
何だか由美子のほうが怒っているようだった。
「それにね、ひととき、いい夢を見させてもらったしね。幸せももらった。いいんだ。ほら、ひとときの幸せを求めにホストクラブとか行く人もいるでしょ?それに比べたらいいんじゃない?きっとお金に困ってたんだよ。彼がそれで暮らしていけるなら、人助けというか、そういうのもありかな・・・」
涙は出てこなかった。
何だか、北島が可哀そうにも思えていたのだ。人を騙してまでもお金が必要だったのだろう。お金がなくて困っていたのだろう。自分のそのお金でひとまず暮らしていけるのなら、仕方がないと心から思ったのだ。
「春美・・・」
「いいの、本当に。心配掛けてごめん。それにありがとう」
ひととき、大事な彼氏でした。ありがとう。
高校生の時、友人に彼氏を盗られたことを思い出した。
陸上部の部活で一緒だった同級生の男の子だったのだが、けっこう女の子からはモテるほうだった。彼は陸上短距離走の選手だったのだが、県大会では100m走で必ず3位以内に入る実力だった。スタンドの応援席からキャーキャーと言われる彼が眩しく見えたものだった。
春美のほうも一応陸上部の短距離選手だったけれども、短距離選手としてはごく平均的なタイムで、目立った活躍は出来なかった。いつも大会では予選で真ん中ぐらいの成績で、表彰台に上がったことももちろんなかった。
そんな春美だったが、不思議な事に、ある日の部活動が終わった後、道具を片づけている自分に彼が近づいてきて、「付き合ってほしい」というのだ。春美が一生懸命走っている姿が好きだから、と。こんな、タイムも出ない自分の走っている姿を好きになってくれる事が不思議だったけれども嬉しかった。
初めは、もしかしたら軽い気持ちで半分からかわれているのかもしれないな、と思っていた。あんなに女の子にキャーキャー言われているのに、わざわざ自分なんかを選ぶ必要性が感じられなかった。
でも違った。嬉しい事に。
彼とは部活が終わるたびに一緒に帰るようになり、お互いの帰り道が途中から違う方向へと変わるのだが、彼はわざわざ遠回りして春美を家の近くまで送ってくれた。そして、何かにつけ優しかった。高校生でお互いお金もなかったので、大した物のやり取りは出来なかったのだが、春美を気遣う彼の優しさが一番の贈り物だった。
春美は一度、なぜ自分に告白してきたのか?と訊いた事があった。彼は軽く笑って、「言わなかったっけ?一生懸命走っている姿が好きだったんだよ。それに可愛いしね。春美は自分で思っているよりも可愛いと思うよ」と答えてくれた。
そんな彼との付き合いが1年くらいたった頃、彼は春美に体を求めて来るようになったのだ。彼も思春期でそういうことに興味もあっただろうし、1年も付き合って何度かキスをしたことがある程度の付き合いだったので、もっと深い付き合いを望むように彼はなっていたのだ。今となっては、彼の気持ちは理解できる。しかし、その時代の春美は、まだそんな事を経験した事もなかったし、怖くてする気にはなれなかったのだ。ただ、他の事では十分に彼には愛情を注いできたつもりだし、彼も受け止めてくれているものだと思っていた。
確かに、なかなか体の関係を持つまでには至らなかったけれど、彼は「春美が嫌なら無理しなくてもいいよ」と結局はいつも優しかったのだ。
その当時、クラスでは、よく誰と誰がセックスをした。というような噂が陰で飛び交っていたりした。みんな、そういう事に興味のある年頃だったのだ。公認の仲だった彼と春美の間にも、当然セックスは済ませているという憶測が飛び交っていたのだが、ある日、友人の孝子と彼が学校帰りに街のホテルから出てきたのを目撃したという噂が流れたのだ。
それは確かな情報のようで、小さな街に1軒しかないホテルから、出てくるところを度々目撃されていたのだった。
孝子には、彼の事で良く相談ごとをしていたのだ。孝子には日常に起こったくだらないことや、些細なことでも気にかかるような事があると相談もしていた。彼がセックスをしたいみたいなのだが、自分はまだ怖くて出来ないでいる、といったような相談までしていた。
そして、そんなある日、突然、彼の口からお別れの言葉が春美に告げられた。理由は分からなかった。彼が言ったのは「もう別れよう」それだけだった。
次の日の彼の行動から、何が起こったのかは明白だった。孝子と付き合い始めたのだ。
春美は、体で彼を奪われたのだ。孝子も人知れず、彼の事を想っていたのだろう。ふと、もしかしたらそうなのではないか?と思うような事もこれまでに何度かあった。
春美の話を普段から聞いていて、今ならチャンスと孝子は体を使って彼を誘惑し、モノにしたのだ。
別れを告げられてから、自分に代わって、彼にべったりになった孝子と彼を見るのは辛い事でもあったし、後悔もした。
孝子とは会話もしなくなった。
彼があんなに望んでいたならば、なぜそうさせて上げなかったのだろう?きっと彼にとっては蛇の生殺しだったに違いない。可哀そうなことをしていたと後悔した。
でも願いは孝子によって叶えられた。
そう考えると、とても孝子と彼を恨む気持ちにはなれなかった。自分がして上げられなかったことを、孝子はしてやったのだ。そして、それは彼にとって幸せなことだったに違いない。
彼に言えることはただひとつ、ひととき大事な彼氏でした、ありがとう。それだけだった。
ひととき、大事な彼氏でした。ありがとう。
そして、私は相手が望んでいる事をしてあげる事の大切さを学んだ。




