旅立ち
二十一世紀の環境問題なんて、考えているわけじゃない。アフガニスタンやイラクの人々の戦地での苦しい生活を考えている訳でもない。彼らの置かれている現実は、平和で物には困らないこの日本で生きる私達には想像もつかない壮絶な世界なのだろう。でも、私はそんなに偉い人間ではない。そこまでの人達の痛みは分からないし、心配する余裕もない。ただ、私の周りの人はみんな幸せになればいいなと、それだけを願っている。そして、周りの人たちの幸せな顔を見ながら、私も幸せになりたい。私だけが幸せなんて、そんなもの、わたしにとっては全然幸せじゃない。
お父さん、お母さん、お姉ちゃん、お姉ちゃんの子供3人と旦那さん。近所のおばあちゃん、いつも実家でお世話になっている灯油の仕入れ先のお兄ちゃん、ガソリンスタンドのおじさん。そして、これから私に関わるであろう全ての人々。そんなに大それた幸せじゃなくていい。みんな、「幸せ」そんな顔をしていてほしいんだ。
でも、幸い私の周りの人達は、みんなそれなりに幸せそうに見える。その暮らしが壊れないように、大事に大事にしていこうと思う。
少し取り残されている私。でも、私も今、幸せを掴みかけている。今度の幸せが、本当の幸せかどうかはまだ疑問だけど、今度こそは信じられる。明るい未来が見える。この幸せが、ずっと続くといいなと思う。探し続けていた幸せ・・・。そんなに高望みしているつもりもない幸せ。普通に結婚して、私も働くから何とか食べて行けるだけの収入があって、子供も3人いて、お父さんとお母さんにかわいがってもらうの。それで、あなたと一緒に歳もとっていくだろうから、老後は海辺に腰掛けて海を見ながらゆっくり過ごすの。そんなに大きな望みではないと思うけど。
ただ、お姉ちゃんが先にお嫁に行ってしまい、女二人姉妹の我が家には跡取りがいないので、婿に来てもらわないといけないということだけが、少し難しい条件になっていると思う。それで何人か逃げられた。私のいない間に、お父さんが彼に「婿に来てくれないと困るんだ」といつも勝手に話しているの。それを聞いた彼氏達の多くは、その後疎遠になってしまった。
でも、今度の彼は大丈夫。また私のいない間にお父さんに突然言われて引いちゃうと困るから、私が予め言っておいた。そうしたら彼は、「それは別に全然構わない」と言ってくれた。ただ、まだ付き合っていることは内緒にしておいて欲しいらしい。なんだか、両親に会うのって勇気がいるみたい。照れ屋さんなところもあるし、仕方ないかな。
優しい彼だ。こんなに優しい彼に今まで出会った事がない。私のことを優しく抱きしめてくれるし、好きって言ってくれる。
この幸せが、続きますように。
旅立ち
春美は、大阪行きの特急サンダーバードに乗っていた。高岡から電車で3時間半の距離にある大阪を目指すのだ。大阪へ行くには、いくつもの県を跨いで行かなければならない。高岡から金沢、加賀温泉、芦原温泉など、富山・石川・福井と北陸を通り、滋賀県に入るのだ。そして京都を通り、大阪へと到着する。
サンダーバードに乗るのはこれで3回目だった。初めて乗ったのは先月で、新しく勤める職場への面接と、そこに住む部屋を探すために大阪へと行った時のことである。その時には、母にもついてきてもらって、2泊3日の慌ただしい旅になった。就職先の面接は、想像していたのとは違い、ほとんど院長先生との顔合わせといった感じで、面接という雰囲気ではなかった。趣味はなんですか?とか、この仕事の志望動機は?とか、そういったことは当たり前に聞かれたのだが、その他のことについてはほとんど雑談に近かった。初めての一人暮らしで大変ですねーとか、仲間もすぐに出来ますよとか、理事長先生の話を聞いているとアットホームな感じがして、とても温かそうな職場であるという印象をもち、気に入っていた。春美はその病院で受付の仕事をすることになったのだ。
大学を3月に卒業して、今はもう6月になるので、世間よりもやや遅い就職になる。春美の世代もなかなか就職戦線が厳しく、本当は富山県内で就職先を探していたのだが、どうしても目ぼしいところが見つからなかった。そんなに選り好みをしていた訳ではないのだが、もともと何か人の役に立つような仕事をしていきたいと思っていたので、働ければなんでも良いとは思えなかったのだ。福祉か病院関係に絞って探してはいたものの、富山県内では施設の数に限りがあるし、田舎はなかなか人の入れ替わりも少なく、一度勤めたら定年までそこに勤める人が多いので、空きが出にくい。そこでたまたま通っていた高岡のハローワークの窓口の担当者にその職場を紹介されたのだ。大阪でも良ければ、急募で出ている希望に近い求人があるのだと、その窓口の担当者は冗談交じりに言っていた。その窓口の担当者は、まさか興味を持つとは思わなかったようだが、春美はすぐに紹介を願い出た。
唐突な話ではあったが、春美に迷いはなかった。希望する仕事がそこにあるというのならば、どこへでも行ってみたかった。それに、親元を離れて一人暮らしをしてみたいという気持ちも多少はあったし、やはり大都会への憧れのようなものも持っていた。北陸の人間の身近な大都会は、大阪なのである。
そうして、サンダーバードに乗って母と大阪へ出掛け、色々な用事を一度に済ませた。母もそう長く家を空ける訳にもいかなかったし、かといって何回も行くことは出来なかったので、病院の面接に受かったら、そのまま出来る事を全て済ませてしまおうと思っていた。そして。二人とも都会の空気に圧倒されてクタクタになりながら、また帰りのサンダーバードに乗って帰郷した。その行き帰りで2回乗車していたので、これが3回目のサンダーバードでの旅になるのだ。
大学を卒業してから、旅行らしい旅行もしたことがなかったので、こういう電車の旅は胸が躍った。しかも、ただの旅ではない。新しい人生のスタート地点へと向けた旅なのだ。大阪へ向かって着実に走るこの電車に揺られながら、前回の母との旅で見た、田舎とは全く違う大阪の街並みを思い出して、春美はもうワクワクしていた。
大阪へ着いたら、既に自分の部屋があって、ベッドやテレビや洗濯機などの家財道具一式も入っている。不動産屋さんに無理を言って、部屋を決めたらすぐに鍵をもらい、その足で必要なものを買いに行って設置しておいたのである。
車窓からは、まだのどかな北陸の風景が広がっている。そろそろ金沢に着く頃だろう。
二人掛けの指定席のシートの隣は、まだ空いている。春美は窓側の座席を希望していた。全体的に、車内はまだ人がまばらな印象だったが、これから大阪に近づくにつれて、だんだん人が増えて来る事は前回の旅で分かっていた。
車内のアナウンスがあって金沢に到着すると、大きな荷物を抱えた人達がどっと乗り込んできた。あっという間に車内の座席の8割ほどが埋まり、空いていた春美の席の隣にも若い男が座った。
男は荷物を棚にのせてからシートに座りなおすと、プシュッと缶ビールを空けて飲み始めた。
春美は、北陸随一の規模を誇る金沢駅のホームを出る風景を窓からずっと見ていた。
「どこまで行かれるんですか?」
男が、急に春美に話しかけてきた。明るく、良く通る声で。
「大阪までですけど」
春美は、男のほうを向いて答えてあげた。
男は見たところ、30歳前後で髪は肩まで伸びた長髪だが、不潔な印象はない。ジーパンに黒のジャケットという、どこか垢ぬけた都会っぽさが漂っているように見えた。
「ああ、そうなんだ。僕も大阪だよ」
そういうと、男は手に持っていた缶ビールを一口グビッと飲んだ。
「里帰りしてきたの?」
男はそう聞くと、また続けざまにビールを飲んだ。喉が渇いているのだろうか、うまそうに飲んでいる。
「いえ、これから大阪へ旅立つんです」
春美は、馴れ馴れしい口調に少しイライラしながらも、丁寧に答えた。
「里帰りしてきたんですか?」
春美が逆に訊ねた。
「うん。ちょっと法事があってね。俺はもう大阪には10年住んでいる。仕事は、フリーのコピーライターをしている。本当は先週帰るはずだったんだけど、仕事の依頼が立て込んでしまって、今週になったんだよ」
「ふーん。そうなんですか」
大して興味もなかった。
「そっちは大阪へ行って何をやるの?」
「医療事務です」
「へえー、そうかそうか。がんばりなよ」
男は大きく頷きながら言った。
「法事は親父の法事でね。去年、亡くなったんだ。突然だったけど。まだ55だったから、助けて上げられたら良かったのに、と思うんだけど。こんなに早く亡くなると分かっていたら、大阪なんかに行かずに、もう少し金沢で一緒に暮らしていたほうが良かったかなと、ちょっと思ってさ」
「そうですか」
なんと答えたら良いのか分からずに、そっけない返事になってしまった事を少し後悔して、春美は窓の外に目をやった。
旅立ちにふさわしい晴れた空は、勢いよく街を照らしていた。もうすぐ金沢の街を抜け、またしばらくは田園が広がる風景になっていくのだ。
男は、そのまま口を聞かずに、ビールを飲みながら、ぼーっと前方を眺めているようだった。その様子を伺う春美の視線に気がついたのか、男は前を向いたまま言った。
「こういう長距離列車はね、色んな人の人生を乗せて走っているんだ。みんなそれぞれの思いを胸に抱きながら、この電車に乗る。日常の移動手段で乗るような電車ではないから、何かの旅立ちであったり、帰郷だったり、人生の継ぎ目で乗ることになるんだと思うよ。帰郷するにも、この電車で故郷へ向かいながら、これまで都会でやってきたことや、まあまだそんなに長くないけど、一応これまでの人生を振り返ってみたりもする。君もどういう経緯で大阪へ旅立つのかは分からないけれど、たまに故郷のお父さんやお母さんを振り返って、思い出してみたら感謝する日が来ると思うよ」
「そうですね。私はただ単に、そこにしか就職先がなかったから行くだけなんですけど。でも、やっぱり親元を離れて一人暮らしをしてみたいというのもあって」
春美は、両親のことが大好きだった。思春期や反抗期にも、決してグレたことはない。感情に起伏のない、素直な良い子だったと自分では思う。実家は自営業だったので、両親ともに忙しく、小さい頃から時間的になかなか構ってもらえる余裕はなかった。遊び相手はいつも4歳年上の姉だった。夕ご飯は、いつも母が食卓に用意してくれていたのを、姉がレンジで温めてくれて二人で食べていた。そんな、いつも面倒を見てくれていた姉にも、春美達姉妹を必死で育てようとする両親にも、いつも感謝していた。
男の言葉で、今朝高岡駅のホームまで見送りに来てくれた父と母を思い出し、胸に染みた。二人とも、不安そうな顔で春美の顔を見ていたのだ。
今頃になって、少し涙が出た。
「ごめん、余計なことを言ったかな」
男は静かに言った。
妙な男だった。見た目はどちらかと言うと今風の、ちゃらちゃらとしたような感じだが、どこかどっしりとした包容力のようなものがある。話し方も、やはり少し軽いような馴れ馴れしい話し方をしているが、妙に心に響くような話し方をする。
「あ、すいません」
男は、通りがかった車内販売のワゴンを止めて、缶ビールを1本買った。
「飲む?」
男が春美に訊いた。
「飲む」
春美は大きく頷いて言った。
「じゃあ、もう1本ください」
ワゴン販売のお姉さんにお金を払うと、春美に缶のフタを開けて渡してくれた。
「高けえなーやっぱ車内販売は」
もう空になったビールの空き缶を、前の座席のポケットに押し込み、自分もフタを空けて新しいビールをグビッと飲んだ。
その様子を見て、春美は笑ってしまった。大して笑えるような行動をしていたわけでもないのだが、その男にいくらかの愛着が湧いたのだろう。
それから、その男は良くしゃべった。自分がコピーライターとして、全国雑誌に載るようなコピーを書いて、その道で有名なコピーライターになる夢や、仕事に夢中になりすぎていて、3ケ月前に彼女に振られたこと。学生時代は、勉強は全然だめだったが、スポーツが万能でサッカー部の主将を務めていたことなど。
春美が北陸でも有数の進学高校だったことを伝えると、彼は尊敬の眼差しで春美を見て、深く感心しているようだった。
好きなスポーツ選手や、アーティストのこと。そして、また夢の話が始まる。そうして聞いていると、今度は大阪での一人暮らしで苦労した話が始まる。特に一番困ったのが、部屋のカギを2回無くして部屋に入れず、夜だったのでアパートの管理会社にも連絡が取れずに、近くのジュースの自動販売機に寄りかかって野宿したことが大変だったそうだ。
大阪のような大都会は、犯罪者がそこら中にうようよいて、危険そうなイメージを持っていたのだが、道端で寝ても大丈夫な程度なのかと少し安心した。
そんなふうに他愛のない会話であったが、春美は彼の長い話をふんふんとひたすら聞いていた。春美が相槌を打つたびに、彼は楽しそうに話を続けた。
やはり夢を持っている人にはパワーがある。北陸の人間は、こう言っては何だが、刺激の少ない街のせいか、何をするにも中庸で、人はチャレンジ的ではなく、前進的な思考の人は少ない。そんなことよりも、その日を働いて生活して過ごしていければそれでいい。若くからそんな風に思っているところがある。安全に、安全に、まずは食いっぱぐれのないようにと考える。生活を守ることだけに神経を使っている。だから、特別なことは望まない。稼ぎが足りなければ、もっと上を見るのではなく、自分の身の丈に合わせて縮めた生活をする。そんな発想だ。結婚する年齢も都会に比べて早く、平凡に生きて、何とか生活をしていければいいという考えの人が多い。少なくとも、春美の周りの人達はそうだった。夢を諦めているような街に思えていた。
これから、春美は夢と可能性のある大きな世界へと旅立つのだ。何があるだろう、と毎日ワクワクするようなことは、春美の住んでいた田舎にはなかった。みんな保守的だった。春美は、田舎のそんな風土がどちらかというと好きではなかった。みんな、もっと大きく夢を見て生活をすればいいのに。そんな風に思っていたのだ。
この男のように、目をキラキラさせて将来の夢を語れるような人間になればいい。
叶うかどうかは、分からないけれど。でも、ひとりひとりのそんな意識とパワーが街を変えて行くのだと思う。
高岡で生きる人達は、みんな、いったい何を守っているのだろう?
「もうあと20分くらいだな」
大阪駅が近づく頃には、もうすっかりとお互いにうちとけあっていた。
窓の外は、いつの間にかのどかな田園風景が姿を消して、コンクリートの建物と古い住宅が乱立する複雑な街の風景になっていた。
男の話を聞いているうちに、若干持っていた都会での生活への不安はすっかりと消え、新たな生活への夢と希望だけが大きく膨らんでいた。
自分などにどれくらいの可能性があるのかはわからなかったが、とにかく希望に胸を膨らませるような旅立ちになった。
ただ単に生きているだけじゃない。熱く、情熱的に、希望を持って生きて行くのだ。
春美はそう決心した。
北部春美、23歳。
男は北島雄介と言った。31歳とのことだった。
大阪駅のホームで北島と別れた後、春美は電車を乗り継いで自分のアパートへと向かった。アパートから職場になる病院は歩いて5分ほどなので、通勤に電車を使うことはない。その辺り一帯は、春美の勤める大きな総合病院と、小さな個人病院が点在している医療関係機関の多い地域だった。大きなリハビリセンターなどもあって、医療関係の人達が多く住む地域だと不動産会社の営業マンに聞いていた。
大阪駅からは一時間足らずの距離で、最寄り駅の周りには八百屋や魚屋などの商店街がある。多くの人が行き交いし、住んでいた田舎から見ると随分と活気のある街のように見えた。高岡駅前のアーケード商店街など、人がまばらでとても商売なんて成り立たない。なのに、支線の中のたったひとつの小さな駅の通りがこんなに栄えていることが、不思議でならなかった。
―やっぱり田舎者だなー。
キョロキョロしている自分を見ている、買い物袋を提げたおばさんに気がついて少し恥ずかしくなった。
そして、通りにあったスーパーに入り、今晩の食材を買っていくことにした。
食事はこれまで当然のように母が作っていたので、もちろん自炊などしたことがなかった。野菜やなんかの食材を見て回るものの、それをどうすればいいのか、まったくイメージが湧かない。
―料理の本でも買ってこないとね。
それでも店内を一応ひとめぐりして、結局、魚か何かが入った弁当を適当に手にとって、レジへ持って行った。
ポイントカードはありますか?とレジのおばさんに訊かれたが、持っていませんと答えた。
「作りましょうか?」
「はい。お願いします」
このスーパーも、度々利用することになるだろう。
「では、こちらにご記入をお願いします」
渡された紙には、名前と住所と電話番号を書く欄があったのだが、住所をまだ覚えていなかった。
「これ、今度持ってきてもいいですか?」
「ああ、いいですよ」
そうしてスーパーを出た。
そこから角を曲がって2分くらいでアパートに着いた。方向音痴な割には、全く迷わずにスムーズにたどり着いた。とはいっても、駅前の通りをまっすぐ行ってスーパーの角を右に曲がるだけだ。これで迷っていたらここで生活なんて出来やしない。
なんだか、ドキドキしていた。
初めての見知らぬ土地、初めての一人暮らし、初めての仕事。
大丈夫、大丈夫。春美は自分にそう言い聞かせて、先ほど大阪駅で別れた北島の顔を思い出すと、少し安心した。
アパートは2階建ての木造で、築15年と言うがそんなに古い感じはしない。テレビでよく出てくるような古びたイメージのものではなく、ちゃんと共用部分の入口があって、入口には扉がついている。オートロックとまではいかないまでも、むき出しの外階段でもないので、初めての一人暮らしにしては、まあこんなものだろうと思った。
扉を開けて中に入ると、壁際には各部屋の集合ポストが並んでいた。自分の部屋の番号が入ったポストを開けてみると、チラシやDMなどが大量に押し込んであった。それをごそっと全て取りだすと、近くにあった備え付けのごみ箱にどさっと捨てた。
春美の部屋は2階だ。
階段を上ってドアの前に立つと、カバンから鍵を出してドアを開け、中に入った。玄関に入ると、短い廊下の奥に部屋が見渡せる。
―狭いなあ。
真新しいテーブルと、ベッドと冷蔵庫とテレビが置いてあるその空間だけが、自分の空間なのだ。
田舎の実家暮らしとはやっぱり全然違うな、と思いながら、靴を脱いで部屋へ上がり、テーブルに買ってきたお弁当の紙袋をおいて、その場に座り込んだ。
さっきまでの勢いはどこへいったのか、春美は何だか心細くなってきた。
―一人の空間は、こんなに寂しいものなのだ。この狭い部屋に一人。お父さんもお母さんもいない。お姉ちゃんも。これから一人で生きて行かなくてはならないのだ。
窓からは西日が差していて眩しかった。
テーブルの上の紙袋を眺めていると、少し涙が出た。
昨日までは、みんなで囲んでいた夕食。お母さんが、机いっぱいに狭いくらいにお皿を並べて、テレビを見ながらいつまでもビールを飲んでいるお父さんに、「早く片づけてよ」なんていつも文句を言いっていた。お父さんはお父さんで、「うーん」なんて言いながら、それでも片づけないのでまたお母さんに文句を言われる。お姉ちゃんは、まだかまだかとお母さんを急かして待っている。そして、なんだかんだと言いながら、節操もなしに誰からともなしに食べ始めるのだ。わいわいと賑やかで、楽しい夕食だった。
今日は、このお弁当が自分の晩ご飯。
涙が出るくらい、家族の有難さを感じたのは、生まれて初めてだった。
春美は初めて職場になる病院の事務室を訪ねて行くと、事務長さんから内科の受付へ行くように言われた。そこで、受付のチーフという中年の女性から簡単な自己紹介を受けた後、すぐに受付のカウンターの周りに看護師さんやら医療の検査スタッフなどが集まり、ミーティングが始まった。聞きなれない単語や、何かの略称が飛び交い、春美には全くなんのことかわからなかった。
そして、そういったやり取りが20分くらい続いたあと、みんながそれぞれの持ち場へと散っていった。
その後、春美はチーフから20分ほどかけて受付処理の仕方を教えてもらった。
「簡単なことだから、一発で覚えてね」
見た目は40歳くらいの、そのチーフは、春美に釘をさすように付け足した。
「そして、テキパキとね」
病院が開くと、その患者の多さに圧倒された。次から次へと人がどっとやってくる。春美は内科の受付窓口の担当になったのだが、50人ほども座れるような待合室の椅子は足りないくらいの患者さんが待っていた。すごい活気だった。とても病院とは思えない。お祭りの屋台やなんかに群がるような患者さんを相手に、受付業務をこなしていった。
受付業務とは言っても、総合受付が打ち出した受付表をバーコートでスキャンし、呼び出し番号を渡すだけの単純な作業だった。そして、診察が終わった患者さんが、採血などの検査に回ってもらう際に、また受付表をスキャンし、該当の検査室なり処置室をご案内するのだ。あとは、全てコンピューターが管理している。
受付表を受付でスキャンすると、予約が入っている患者さんは来院したことが記録され、自動で順番が来たら診察室に呼び出される。診察室で待機している医師のコンピューターには、その患者さんのこれまでの経過や検査結果などが表示され、それらも参考に診察を行なう。そして、医師が患者さんの内容を把握して、検査なり、投薬なり、処置なりを判断して、次の指示をコンピューターに入力するのだ。そしてその受付表をスキャンすると、今度は受付のコンピューターの画面に医師の指示が映し出され、受付係はその指示に従って患者さんを案内するのである。
この近代化された大病院のシステムに感動し、また感心させられた。昔のように、看護師さんが、「なになにさん」と呼んで、それぞれの係の人が全て付き添うような手間のかかるようなことは、この病院ではもうしていないのだ。
そんなことなので、仕事自体はそんなに難しい事ではなかったのだが、その処理量の多さと、単調さに戸惑っていた。流れ作業の繰り返しなのだ。まるでスーパーのレジ係のようだった。
チーフも含めて3人が在籍する内科の受付はみんな女性で、3人いてもフル回転しているような状態だった。隣のブースにある脳神経外科などはそれほど混んでいるようには見えないのだが、内科はやはり混んでいる。
「トイレからブザーが鳴った!ちょっと見てくる。これ、まだ未処理だから」
と、もう一人の受付の子が、持っていた受付表を春美に手渡して、カウンターを飛び出していった。
来院者に何かあったときに知らせる緊急呼び出しボタンが押されたのだ。
受付がチーフと2人になり、めまぐるしさは倍増した。常にカウンターの前には5、6人が受付待ちをしている状況だ。そしてまた新たに、診察室から出てきた患者さんが並ぶ。
その間にも、採血室のわからない患者さんを案内したり、どこへ行ってどうすればいいのかわからないお年寄りなどに説明したりと、
まるで忙しさは留まることをしらなかった。
「ちょっと君!」
6つある診察室の中のひとつから医師が出てきて、春美を呼んだ。
「はい!」
「この患者さん、緊急に脳神経外科のほうに回して!緊急だからね!それから、CTが最短でいつ使えるかも確認しといて。この患者さん、先に通すから!」
頭を痛そうに押さえた50歳くらいの男性が、フラフラと診察室から出てきた。ちょっとした頭痛の場合でも、最初は内科から診ることも多いのだ。
春美は困ってしまった。
こういう場合、どうしていいものかわからない。かといって、明らかに急を要している業務だ。心ばかりが焦ってしまった。
そこへトイレを見に行ったもう一人の受付がカウンターへと戻って来た。
「あの!緊急にこの患者さんを脳神経外科に回してくれっていうんですけど!それとCTも!」
春美は藁にもすがる思いで、急いで彼女にそう告げた。
彼女は、春美のそれだけの説明で全てを悟ったらしく、手早く受話器を取り、どこかへ内線をかけて、5秒ほど話をするとすぐに切った。そして、カチャカチャとパソコンのキーボードをたたき、何かを確認してからまた内線をかけた。
そして、その患者さんの脇を抱えて、隣の脳神経外科のブースへと歩いて行った。
内心ほっとしながらも、自分が何も出来なかった悔しさと恥ずかしさが込み上げてきた。自分が何も出来ない新人だという事を思い知ったのだ。いったい、彼女くらいのレベルになれるまでには、どのくらいの時間が必要なのだろうと思った。
午前中はそんな調子で過ぎて行き、12時半になってもまだいくらかの患者さんが待合室に座って待っていた。午前の受付終了時間は11時なので、それ以降は新規の患者さんは来ていないはずだったが、診察の順番がまだ来ないのだろう。
この時間になってようやく、新たに受付に来る人はほとんどいなくなった。ぎっしり人で埋まっていた待合室も、今は10人くらいが座っているだけで、何だか急に閑散としたような感じだった。
「あなた、お昼行ってきていいわよ。」
チーフがパソコンのキーボードをカチャカチャとやりながら、春美が手持無沙汰になってきているのを見ていてか、そう言った。
「じゃあ、お先にすみません」
そう言うと、春美は病院の最上階にある食堂へと向かった。
食堂は病院に勤務する関係者だけではなく、一般外来に来る患者さんや、入院病棟へお見舞いに来た患者さんの家族や知人、親戚なども利用するのだが、それほど混みあってはいなかった。4人掛けのテーブル席が10席程度あるくらいの広さだったが、半分程度しか席は埋まっていなかった。見たところ、そのうちのほとんどが、看護師さんや医師と思われる白衣の病院関係者で、いくつかのテーブルに分かれて食事を摂っている。
いかにも社員食堂といった風な、殺風景な食堂で、ここも病院らしく静まり返っている。当たり前だが、とても家族で楽しく食事をしようというような雰囲気の場所ではなかった。
4人掛けの一番奥のテーブル席には、なんだか気難しそうな顔をしている中年の女性が一人で座っていた。顔は青ざめていて、今にも泣き出しそうな沈痛な面持ちで、目の前の食事には手もつけずに、それをずっと遠くを見るような眼で見つめている。
きっと、ご家族が亡くなったか、もしくは医師から重病を宣告されたのだろう。
食堂のカウンターの上に置いてあるメニュー表を見ると、数種類の麺類と、日代わり定食、それと健康定食なるものがあるだけだった。
「日替わり定食ください」
春美は頭巾を被った、カウンターにいる店員のおばさんに言った。
「はい。500円ね」
おばさんは愛想よく言った。
500円玉を財布から出して払った。
一、二分ほどでお盆に載った、その日替わり定食がカウンターの前に出された。驚くような速さだった。
「はいお待ちどうさま」
「はやっ」
春美は感心して言った。
「ここは忙しいお医者さんや看護師さんが、わずかな合間を縫って食事に来るからね。スピードが命なんだよ」
おばさんは愛想よく言った。
「ありがとうございます」
お盆を手にとって、一番入口に近くの、空いている席に座った。
メニューは何かの魚と、納豆とみそ汁と、漬物と白米のご飯と豆腐。いかにも病院らしい健康的な内容だった。
春美はもそもそと一人で食べ始めた。そんなにグルメなわけではなかったが、あまりおいしいとは言えなかった。しかし、病院の食堂など、そんなに一流のシェフがいるはずもないので、こんなものだろうと思った。
それにしても、なんとスケールの大きな病院なのだろう。10階建ての建物が2棟並んで建っていて、ふたつの棟は一階だけが一体になっていて、二階以上は各階廊下でつながっているのだった。一棟はまるごと入院病棟で、もう一棟は病院機能が5階まで入っているのだが、六階から九階はこれまた入院病棟だ。そして、10階にはこの食堂と、使われていない大きな部屋が何室かある。
ほとんど全ての診療科目が入ったこの病院は、この近辺一帯の高度総合病院として、地域の医療を支えていた。医療設備は最先端のものを導入し、常勤医師の数は70人を越え、看護師さんやその他のスタッフを合わせると、軽く300人以上が働く大病院だ。
医師の中には、著書を出しているような著名な医師も在籍していると聞いた。
長い一日になりそうだった。
午前中の仕事だけで、春美はもうけっこう疲れ切っていた。精神的な疲れもあるだろう。
午前中の仕事ぶりを振り返って、他の受付の女の子がやっていたように、自分もあのような対応が出来るようになるのだろうか。と不安になった。少し何かイレギュラーなことが起こると、半ばパニック状態だったではないか。
思わずふうとため息が出た。
「ちはっ」
目の前で軽い声がした。
そういうと、さっさと私の向かいの席にお盆を置いて座ったのは、一緒に業務をしていたもう一人の内科受付の女の子だった。
ちょっと病院には不釣り合いのように見える濃いメイクと赤い口紅が目を引いていた。細面の整った顔立ちと相まって、ぱっと見た目、派手に見える印象だ。
「あ、どうも」
と春美は食べながら軽く会釈をした。
「どうだった?ため息なんてついちゃってー」
彼女は良く知る親しい知人にでも話しかけるように、明るく、自然に言った。
「あ、私は土井由美子。短大を卒業して3年目になるよ。よろしくね。今年大学を卒業したんでしょ?ダブったりしてなければ、同い年だね」
「私は北部春美。ダブってないから、同い年かな」
「そっか。じゃあよろしく」
由美子はお盆から箸をとって食べ始めた。左利きらしく、左手で箸を持って食べている。
「あの・・・。いつもあんなに大勢の患者さんがいらっしゃるんですか?」
「うん。午前中はね。新患とかも来るからね。午後はほとんど予約の患者さんだから、そんなには混まないよ」
「そうなんですか」
少しほっとした。
「びっくりしたでしょー?予約の患者さんもけっこうパンパンに入っているのに、新しい患者さんが来るから、たまたま空いた診察の合間に入れたりしてやりくりしているけど、やっぱりみんなけっこう待ってるよねー。2時間待ちとかザラだもん」
「大きな病院ですもんね」
「そうだねー。風邪くらいなら、近所の街のお医者さんでも充分だと思うんだけど、けっこうちょっとした風邪くらいでも来ちゃう人いるから。本音を言うと、それくらいではあんまり来てほしくないかな。だって、もっと違う病気で来てる人がそれこそ来にくくなるじゃない?待つのも辛いだろうし」
「ですかね」
「そりゃあ、病気に重いも軽いもないって言うし、患者さんはみんな平等に扱わないといけないとは思うけど。でも、却って患者さんの為にもなってないような気もするんだよねー」
「はあ・・・」
「私達みたいな事務系の人間はまだいいけどさ。昼過ぎれば患者さんが引くから、こうして短いながらも休み時間があってお昼くらいそれなりに時間をかけて食べられるじゃない?でもお医者さんと看護師さんは、午前中で診きれなかった患者さんをまだ診ているからね。だからほら、お昼時なのに空いているでしょう?この食堂。彼らはまだ食事できなくて、そのうち空いた時間に来てパパッと食べて行っちゃうの。そうこうしているうちに、午後からの診療も始まっちゃうから、ほんとに時間ないよねー」
「ふーん。そうなんだ。大変なんだね、お医者さんって」
「その代わり、コレ貰ってるけどね」
由美子はいたずらっぽく笑いながら、右手でお金のマークを作って見せた。
春美はもう食べ終わっていて、食べながら器用に話す由美子の話を聞いていた。
「私は、とにかく業務でいっぱいいっぱいで、何にも考える時間なかったな」
「そのうち慣れて、色々と見えてくるよ。私も最初はそうだったもん」
「いやー、混んでたね今日は」
その声に後ろを座ったまま後ろを振り向くと、これまたお盆を持った白衣の男性が春美の後ろに立っていた。
「あっ、荒川先生。どうぞ」
由美子が顔を上げて言った。
「うん、いいかい?」
というと、その荒川と呼ばれる医師は、由美子の隣の席に腰を下ろした。
見たところ30代半ばくらいの青年医師で、なかなかの色男だった。ドラマに出てくるようなエリート医師のような風貌だ。
「内科の荒川先生だよ」
由美子が春美に紹介した。
「誰だい?見たことないな」
「あ、はい。今日から入りました、北部春美と言います」
「そうか、がんばってね。うちの病院、忙しいから」
荒川先生はにこやかに言った。
「じゃあ、私はこれで失礼します」
春美は慌てて立って、深々と頭を下げた。そして、食べ終わった自分のお盆を手に取ってカウンターへ向かい、返却した。
なぜあんなに慌ててしまったのだろう?
春美は不思議に気が急いてしまったのだ。
一日目の仕事が何とか無事に終わり、春美は駅前の商店街のほうへと向かっていた。
今日は北島雄介と食事の約束をしているのだった。大阪行きのサンダーバードで偶然隣り合わせたその男と、携帯の電話番号を交換し、連絡を取り合っていた。
約束の時間は7時だが、もう5分ほど過ぎている。
足早に駅に向かうと、改札を出たところに北島が立っているのが見えた。
北島も歩いてくる春美に気がついたのか、こちらに向かって手を振った。
「やあ」
「遅くなって、ごめん」
「大丈夫だよ」
「ごめんね、こんなところまで来てもらって」
「いや、いいんだよ。そんなに遠くないし」
「家、どこ?」
「ああ、天王寺のほう」
「そっか。どこ行こうか?まだ良く分からなくて・・・」
「どっかその辺を歩いてみて、よさそうな店があったら適当に入ろうよ。別にどこでもいいからさ」
「うん。わかった」
春美と北島は、並んで商店街のほうへと歩いた。
結局2人が入ったのは、小さな焼き肉店だった。
「どうだった?初出勤」
ビールで乾杯すると、北島が言った。
「ぜーんぜんダメ」
「初めてだろ?仕方ないよなー」
笑いながら相変わらず美味しそうにビールを飲む北島を見ると、ほっとしたのか、春美は今日の出来事をやたらと話し始めた。
たぶん不安で寂しくて、誰かと話しをしたかったのだ。浅い付き合いながらもこちらでの唯一の知人とも言える北島と再会したことによって、春美はその欲求を満たそうとばかりにとにかく話しまくった。自分がこんなによくしゃべる人間だったとは、今まで気がつかなかったくらいに。
春美のそんな話を、北島は優しく聞いてくれた。
「忙しい病院なんだな」
北島は肉を焼きながら、感心したように言った。
「うん」
春美は、思いの丈を北島に話したことで、何だか満足していた。
「そう言えばさ、今度、面白いところがあるから連れて行ってやるよ」
「うん。行く行く」
北島に対する感情が、はっきりと恋愛感情へと変わっていることに気がついた。
自分には、この人が必要なのだ。
今この場所で、この孤独な環境の中で、心の安らぎを与えてくれるのはこの人しかいない。
生まれ育った故郷には、たくさんの友人も親戚も家族もいるし、傍で安心して話せて笑うことが出来る人がたくさんいた。しかし、現実問題、ここにはいないのだ。誰もいない。
あんなに身近で、いてもいなくても変わらないような人達だと思っていたけれど、逆に言うとそれくらい生活や心の中に当たり前として浸透していたのだ。それがゴソッと今は抜け落ちている。何を支えにして、どう生きていけばいいのかが分からなくなっていたのだ。
こっちで数日間過ごして見えていたものは、輝く未来ではなく、過ぎ去ったありふれた日常の楽しい過去ばかりであった。希望に満ちて、大阪駅のホームに降り立った春美ではあったが、知人のいない大都会で、いざ一人になってみると、希望や夢一辺倒のような精神状態というわけには、やはりいかなかった。どうしても急に一人っきりになった孤独感というものが、時折込み上げてくる。
一人での生活の不安な毎日の中、北島は雲の合間から差した光のように思えた。
焼肉屋での食事が終わったあと、北島は春美の家に泊まった。そして、熱く北島に抱かれたのだった。春美は彼を求めた。足りないものを埋めるように、彼を求めたのだ。
旅は、まだ始まったばかりだ。