鎌倉時代
(1)源頼朝政権
源頼朝は、正義力の人物である。天皇上皇勢力、摂関藤原勢力、社寺勢力、関東武士勢力と、様々な壁が立ち塞がったが、その押しの強さでついに鎌倉幕府を作り上げた。
ただ、政権の頂点に立った後は、迷走した。他人の意見を聞かず独善的に進める手法は、各方面からの反発を呼んだ。一族のほとんどを抹殺してしまう。その死が、謎に包まれているのは、暗殺を匂わせる。その死後、集団指導体制ができたのは、独裁への反省によるものだったのだろう。
頼朝政権のメンバーは、組織指導担当の和田義盛、陰謀担当の三善康信、人望担当の妻・北条政子、活性化担当の北条義時らである。理想的な配置といえよう。
頼朝は、武士政権にあるまじき人事をしている。異彩力の大江広元の首相登用である。独裁を制度化するつもりだったのか。また、外戚で異彩力ある北条時政も登用した。どうも、頼朝は自己を関東の天皇だと認識し摂関政治を模倣した形跡がある。
大江、北条時政の登用は、実力本位の関東武士たちを大いに動揺させたことだろう。
(2)源頼家政権
2代将軍・源頼家は、突進力あり、父の政治を継承しようとした。外戚で陰謀力ある比企能員を登用したのは、まさにその形だった。ただ、比企の陰謀が恨まれ、前代からの不満が噴出し、独裁は成らなかった。
人望力ある生母・北条政子の主導で、集団指導体制が導入された。ただ政子は生母にすぎず人望力も老成していなかったので、実質的な指導は同じく人望力ある御家人の梶原景時が担当した。
外戚権力の旨味を知った北条義時は、富む向上心により、これらを一手に掌握すべく乗り出していった。
(3)源実朝政権
北条義時は、父時政の異彩力、姉政子の人望力を活用して、実質指導者梶原景時を倒し、次期指導者と目された外交力ある畠山重忠も倒した。父がおかしなことを企てると見限って、すぐに追放した。組織指導力ある和田義盛を倒し、ついに全権を握った。
源実朝は、陰謀力あり、巻き返しを謀ったが失敗して暗殺された。
4代将軍として招かれた藤原頼経は、外交力あり、幕府内の融和(めちゃくちゃした後のアフターケア?)に一役買った。
(4)承久の乱
鎌倉幕府の権力は、朝廷からみれば関東自治政権、兼、警察庁だった。しかもその警察権限は、上皇天皇や摂関藤原氏の特権荘園に及んでいなかった。
しかし正義力ある(つまり独善的な)後鳥羽上皇には意外と支持が集まらず、幕府側の勝利となった。
(5)執権政治
北条泰時は、陰謀力あり、有力者たちを評定に参加させ手元に置き監視した。
泰時を支えたのは、知略政略に秀でた三善康連で、御成敗式目を作った。
北条時頼は、突進力あり、将軍藤原頼経を追放し皇族を将軍に迎えた。また、三浦泰村が外交力により反北条勢力を統合し強敵となっていたのを、打ち負かした。
北条時宗は、正義力の持ち主である。正義力はとかく独善的になりやすい傾向があるので、嫌われることが多い。しかしそのやろうとしていることは、至極当然というか、すこぶる正しいことである。ただやり方がまずい、というだけ。よって元寇のような一大国難には、不可欠の人材といえた。この北条時宗登場はまさに、神風だった。度重なるモンゴルの圧力に信念をもって抵抗し、ついに国を守ったのだった。
もちろん政治では独善の極みで、陰謀力ある側近平頼綱を用いた。