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飛鳥奈良平安【1】

安定期というが、現実には争いの連続である。暗闘期といってもよいかもしれない。組織や社会が崩壊しない程度に、様々な人間が入り乱れて進み、苦しみ、生きてゆく。


(1)飛鳥時代


従来、物部氏が朝廷を支配し指導していた。蘇我氏は新興勢力であり、物部氏との対決は時間の問題だった。

蘇我馬子は、特に向上心に富み、まずは物部氏との決戦でこれを打ち破った。

馬子の次の、そして最終目標は天皇(大王)勢力だった。しかし、神的な権威を帯びる天皇勢力を打倒することは不可能だった。


592年、馬子は祟峻天皇を殺害した。この事件は歴史上大したことはないとされ、歴史学習し始めだった私は違和感を持ったものだった。

姓名判断してみると

祟峻天皇は、正義力を持ち、周囲(蘇我氏と妥協する勢力)のいさめをはねつけ蘇我氏の排除を図ったが、失敗した。


後を受け即位した推古天皇は、組織指導力を持ち、祟峻事件で動揺した朝廷の立て直しに成功した。


聖徳太子こと廐戸皇子は、外交力と正義力を兼ね備えた人物である。蘇我氏と天皇勢力との接着剤、あるいは大陸隋帝国との外交(文字通り)担当として、推古天皇に採用された。本人自身、祖母が馬子の妹、妻が馬子の娘である。


小野妹子は、知略に秀で、隋皇帝の憤怒をうまく処理した。


馬子を継いだ蘇我蝦夷は、知略政略に秀で、巧みな策で皇位の継承を操った。


蝦夷の子、蘇我入鹿は、組織指導力を持ち、蘇我氏は朝廷の全権力を握った。


廐戸の子、山背大兄王は、陰謀力を持ち、圧倒的な劣勢の中抗おうとして失敗した。


(2)大化の改新


中大兄皇子(天智天皇)は、人望力と異彩力を兼ね備えた人物である。その下には様々な人材が集まり、また特殊な政治体制を敷いたりした。ただ、指導力を欠き、しかも人望が裏目に出て流され浮遊する晩年だった。


皇極(斉明)天皇は、正義力あり、改新政治を事実上指導した。中大兄改新主導の定説に、異を唱えたい。当時は、巫女が最高権力者だった。本来世俗指導は男子の務めだが、中大兄に指導力がなくやむなく世俗指導したのではないか。


孝徳天皇は、浮遊力に秀で、各勢力間を巧みに浮遊し地位を維持した。


孝徳の子・有間皇子は、正義力あり、権力奪取を図り失敗した。正義力ある人物には、なぜか支持が集まりにくい傾向がある。


※改新政治メンバー


人望担当は、中大兄の他、阿倍内麻呂だったが早くに亡くなる。蘇我から寝返った赤兄も人望力があったが、老成せず節操なしとして信用を欠いた。


基礎力担当は、中臣鎌足。政権を陰から支えた。


正義担当は、僧旻と、蘇我から寝返った石川麻呂。政権の政策を推進した。ただ、石川麻呂は正義力が高じ政権内で孤立しついに討たれた。


知略政略担当は、南淵請安。政権の青写真を作った。


突進担当は、高向玄理。政権に新機軸を与えた。


組織指導担当は、大海人皇子(後の天武天皇)。皇太弟として政権の最高指導者だったが、中大兄の息子溺愛のため失脚し、政権迷走が始まった。



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