蓋
(一)
その一見たわいなく部屋の片隅に置かれている物に、形容しがたい違和感を感じるようになったのはいつのことだったろう。
つい今しがた、そのように思うようになったのかもしれないし、それがそこに置かれるようになった瞬間から、既に感じていたことかもしれない。
そもそも、それはいつからそこに置いてあるのだろう。
まるでそこが定位置と言わんばかりに落ち着き、この部屋の日常にすっかりと溶け込んでしまっているが、よくよく考えてみると居間のテレビのまん前に居座ることが、それにとって最善のあり方だとはとても思えないのだ。
(ならば、動かしてみようか)
幾度か手を差し伸べてみたが、指先がそれに触れることにどうしても躊躇ってしまう。
(やめた方がいい)
何処からともなく聞こえてくる声に抗うまでの勇気を、私は蓄えていなかった。
(ならば、このまま放っておくのか)
(仕方がない)
(このままでいいはずがない)
(今更なにをしようと言うのか)
(いつまでも逃げられるわけじゃない)
(触れてはならない。開けてはならない)
(ああ、触りたい。開けてしまいたい)
(開けてはならない)
今夜も、出口のない問答が始まった。
スイカがすっぽりと入るくらいの大きさのそれは、しっかりと蓋で閉じられている。
誘うような滑らかな意匠を具えた取っ手は、「さあ、この蓋を開けてくれ」と、見る者に訴えかけてくるようだ。
(ああ、開けてしまいたい。早く楽になりたい)
(開けてはならない。決して中を見てはならない)
いつまでこの衝動に耐えられるのだろうか。
連日の不快な熱帯夜は、苛立ちと憔悴以外、何も与えてはくれない。
(二)
包丁で指を切ってしまった。
怒りが込み上げてきて、手にしていた皮をむきかけの桃を、床に叩きつけた。
粘着質で不愉快な音とともに、果肉が潰れて汁が飛び散り、台所が甘ったるい臭いで充満する。いかに果実が新鮮であろうとも、こうなってしまえば腐臭となんら変わりない。
まったく、何もかも調子が狂っている。
普段滅多に触ることのない包丁を使おうとしたからこうなったのだ。
実家の母が珍しく桃なんか送ってくるからこうなったのだ。
桃の果肉があんなに滑るなんて知らなかったからこうなったのだ。
やはりピーラーは見つけておいた方がよさそうだ。
足元にだらしなく広がっている果汁に、赤が混じっていた。
どうやら思ったより深く切ってしまったらしい。指からは今も血が滴り落ちていた。
まずは、絆創膏か。
今日も探し物だ。
毎日、一回は何かを探さねばならない。あの日以来、それが私の日常になった。
あの忌々しい時から、私の何かが狂いっぱなしなのだ。
*
あの日――。
あの人と会うのは、半年ぶりだった。
急な転勤と日々の雑多な業務に忙殺され、こちらから会いに行くことも、あの人が戻ってくることも叶わず、年末年始の休みになってようやく時間を作ることができた。
「ゆっくりと話がしたい」
あの人は携帯越しに、そう望んできた。
私に異論のあろうはずがない。久しぶりに会える喜びと相まって、自然とある想像が脳裏に浮かんできた。
交際を始めてからもう二年が経とうとしていた。だから、そろそろ先に進んでもいいのではないか。話とは、そういうことではないだろうか。
この半年間会えなかった分、愛情が育まれ、互いをより強く求めるようになったのだとすれば、二人を隔てた時間と距離も愛おしいものに思えてくる。
期待に胸を膨らませるあまり、私は普段なら到底口にしないであろうことを、その場の勢いで提案してしまった。
「手料理をご馳走するから、アパートに来てほしい」
あの人は少し戸惑ったようで、そこまでしてもらうのは申し訳ない、という態度を示したが、私も自分から言い出した以上、引き下がるつもりはなかった。
半ば無理矢理に承知させて携帯を切った後、私は事の重大さに改めて思い至り、目まいを覚えた。
実は、料理の経験など皆無だったのだ。
一人暮らしを始める際、一通りの調理器具は揃えたが、使ったことがあるのはせいぜい電子レンジと湯沸かしのポットくらいだった。
しかし、うろたえている時間はない。あの人が来るまでに、何とか体裁を整えなければならなかった。
アパートを飛び出し、まずは書店で簡単そうな料理の本を選び、メニューを決めて、スーパーで必要な食材を手に入れた。
もうあまり時間がない。
帰宅すると息を整える暇も惜しんで料理に取りかかった。
ご飯を炊き、味噌汁を作り、時間がかかりそうな煮物は避けて、炒めものと、あとは玉子焼き。それにスーパーで購入した漬物を少々。
自分でも正視できないほど危なっかしいと自覚する手つきで切った野菜は、歪でみすぼらしかった。玉子焼は失敗の連続で諦めるしかなかった。
ここにきて、年末という季節がら、鍋料理にするという選択肢があったことにようやく気づいたが、後の祭りだった。
炊飯器が炊きあがりを知らせるアラームを鳴らしたのは午後七時。
そろそろ約束の時間だ。
見てくれは如何ともしがたいが、何とかそれらしきモノは用意できた。匂いも悪くない。
ちゃんと食べてくれるだろうか。味は美味しい、いや、せめて普通だと言ってくれるだろうか。不安と期待で胸が高鳴った。
あの人は時間通りにやってきた。
なんとなく落ち着かない気持ちで扉を開けると、正面にあの人が立っていた。
背後から、真冬の切り刻むような風が部屋の中に吹き込んでくる。
「寒いから、早く入って」
おそらく、私はそのようなことを口にしたと思う。
あの人は、玄関に足を踏み入れようとはしなかった。
「一体どうしたの?」
私は問いかけたはずだ。
あの人は一歩も動かず、静かにゆっくりと、しかしはっきりと私に告げた。
「別れて欲しい」
そこからの記憶が、ひどく曖昧だった。
気がついたら、あの人はどこにもいなかった。
開けっぱなしのドアから容赦なく風が吹き込み、部屋は冷え切っていた。
私は台所の床に、腰を抜かしたようにへたり込んでいた。
辺りには、粉々に砕け散ったガラス、凹んで穴があいた壁、叩き割られた皿、ひっくり返ったテーブル、ぶちまけられ踏みにじられた料理の残骸が、無秩序に散乱していた。
そして床や壁には所々、赤黒い染みがついていた。
それは、血だった。
私の両手は、血だらけだった。
*
年が明け、幾日かが過ぎて年始の休みも終わろうとする頃、部屋は片付いていた。
いつ片付けたのか、全く覚えていなかった。誰かがやって来て勝手に掃除してくれるわけもないから、自分でやったことには違いないのだろう。
ただ、物の配置が滅茶苦茶だった。
一見すると、すっきりと整頓されているように見えるのだが、冷蔵庫に歯ブラシが置いてあったり、押入れの布団の間にまな板が挟まっていたりと、とにかくデタラメで、何がどこにあるのかわからなくなっていた。
その日から、事あるごとに部屋で探し物をするのが日課になってしまった。
あるはずの物を見つけ出し、あるべき所に納める。その宝探しとパズルを合わせたような作業を一つひとつこなす度に、私の心も少しずつ平静を取り戻していくようだった。
今日は、靴箱の中から絆創膏を、トイレの貯水タンクの中からピーラーを発見した。
この部屋のパズルが完成すれば、心も元通りになるのだろうか。
(そんなことはあり得ない)
(あれを見てみるがいい)
(パズルが完成することはない)
はかない望みを抱く私をあざ笑うかのような声が、何処からともなく聞こえる。
その声が示すのは、居間の、テレビの前に置かれた物。スイカがすっぽりと入るくらいの大きさのそれには、しっかりと蓋がしてある。
当然のように置いてあるが、そこがあるべき所ではない。
一体どこがあるべき場所なのか、わからない。
パズルが完成することはない。
「開けてみればわかるよ」
蓋は今夜も語りかけてくる。
(三)
驚いたことに、こんな私でも身の回りの変化というものは起きるらしい。
止まっているようでも、時間は勝手に流れていく。いつもと同じ風景を眺めているつもりでも、昨日見たのと今日見たそれとは、似て非なるもの。物事は動くことをやめず、その流れに身を任せていれば、なるように落ち着いていくものらしい。
正月以来、様子がおかしいと職場では訝しむ視線に晒されていたが、そんな環境に私自身が馴染んでしまった。それが幸いしたのか、周囲の態度も幾分か柔らかくなった。
かと言って積極的に近づいてくる者もいなかったが、むしろそれが気楽で居心地が良かった。
一人の例外を除いては。
「先輩、先輩」
と毎朝連呼しながら近づいてくる新人君。研修期間を終えて、つい先ごろ私の下についた。
要領がよく、なんでもそつなくこなすので、手がかからない。
少々口数が多いが、それを欠点と感じるのは私くらいなものだろう。極端にやかましいわけではない。
「先輩、もうすぐお盆休みですけど、どこか旅行とか行かれるんですか?」
持ち前の人懐っこい笑顔で、ぐいぐい迫るように訊いてくる。
彼には無視すると少し拗ねるような所があるので、私は仕方なく、最低限の返事だけはするようにしている。
「別に、私、出不精だし」
「えー、じゃあ、他に何かご予定みたいなものはあるんですか?」
「特には……のんびり過ごすだけよ」
「そうなんですかあ。じゃあ、僕と同じですね」
友だちが多そうな彼にしては意外な台詞だったが、それを詮索する気にもならないので、「ふーん、そうなの」と相槌だけ打っておいた。
「じゃあ先輩、お願いがあるんですけど」
まだ話が終わらないのかと、若干の苛立ちを覚えながら、私は彼の顔を見据えた。
「何? 仕事のこと?」
「いえ、違います。お盆休みに、先輩のウチに遊びに行っていいですか?」
「……は?」
一体、私は何を言われたのだろうか。
「先輩んちで、一緒に夕飯しませんか?」
「い、いや、ちょっと何なの、いきなり」
これは、どういう意味だろう。
*
怒涛の展開で、押しに押し切られて、本当に彼がこの部屋に来ることになってしまった。
一緒に夕飯をと言われたときは、一瞬で心が冷えた。二度と料理などするものかと決めていた。だが、
「僕が作りますから。得意なんですよー」
という言葉が続き、断るタイミングを失ってしまった。
ただ無邪気に懐いているだけなのか、暇つぶしなのか、何か相談事でもあるのか、からかわれているのか、それとも本気なのか。
彼の真意はわからない。それでも私自身、この思いがけない状況を少し楽しいと感じ始めていることは確かだった。
もうじき彼がやってくる時間だ。料理も必要な食材も、全て彼任せになっている。
とりあえずやるべきことは、部屋の掃除くらいしかない。
台所の調理器具は全て揃っているはずだ。
日課であった探し物も概ね済んでおり、八月に入ってからは一度もやっていなかった。
(それでいいのか)
一通り片付けをして、居間で一息ついていると、また何処からか声が聞こえ始めた。
(そのままでいいのか)
無意識のうちに、視線はテレビの前に置かれた物に向けられる。
(もうすぐやってくるぞ)
(見られてもいいのか)
(それはだめだ)
(見られてはいけない。見せてはいけない)
不意に、激しく頭が痛み出した。細い針を頭蓋に何十本も突き立て、頭皮ごと引っ掻きまわされるような、鋭さと痒みを併せ持ったような得体の知れない感触に全身が粟立ち、脂汗が吹き出した。
なぜ、こんなにも恐怖するのか。
なぜ、危険を感じているのか。
一体何を警戒しているのか。
これは一体何だというのか。
この蓋を開けるとどうなるというのか。
(見せたら終わりだ!)
目の前で火花が飛び散ったかのように、全てが真っ白に跳ぶ。
そして、ゆっくりと視界が色を取り戻すにつれ、忘れ去られていたビジョンが鮮明に、脳裏に甦ってくる。
あの日、あの時、あの忌々しい出来事の記憶とともに。
(そうなのだ、私はやってしまったのだ)
(もう手遅れだ)
(なぜもっと早く手を打たなかったのか)
(もう取り返しがつかない)
(見てはいけない。見せてはいけない)
(全てが終わってしまう)
(せめて、今だけは)
手が、自らの意志とは無関係に、勝手に伸びていく。
その指先が蓋に触れようとした刹那――。
部屋にチャイムが鳴り響いた。
彼が、やってきた。
「先輩、お待たせしました。近所のスーパーで、スイカの安売りしてたんで買っちゃいました。ほら、大きいでしょう。僕の顔くらいありますよ」
(四)
この猛暑に、よりによってキムチ鍋とはいい趣味をしている。
事と次第によっては体調不良でも訴えて帰ってもらおうかと思ったが、彼の風変わりなセンスに内心感謝した。臭いが強いことも、好都合だった。
「真夏はクーラーでがんがん冷やした部屋で鍋、が最高ですよね」
湯気と辛みで顔中どころか首回りまで汗だくになりながら、彼は勢いよくキムチ鍋を頬張り、ビールで流し込んでいく。
私も怪しまれないように、調子を合わせて鍋をつついた。
少々辛いが、正直なところかなりの美味だった。喉が渇き、ビールが進む。
やがて酔いがまわり、気分もだいぶ弛緩してきた。
「ところで先輩」
彼も若い食欲を満足させたのか、のんびりした口調になっていた。
「何かしら?」
答えながら、心の準備を始める。いよいよ本題、今日彼がここにきた理由が明らかになるかもしれない。それにしては今一つ緊張感に欠けるように見えるのが気がかりだった。
やはり、私が微かに期待していた内容とは違うのだろうか。
「この部屋って、ちょっと変わってますよね。あちこち壁が凹んでたり、黒っぽい染みがあったりで」
「えっ?」
言われて、初めて気づいた。
改めて見渡すと彼の言う通り、壁は穴だらけ、染みだらけだった。
これはあの時、逆上して我を失った私が暴れて殴ったり物を投げたりして出来たもののはずだ。
つまり、あの時から今までずっと壁はこの状態だったのに、私はそのことを気にとめないどころか、全く認識していなかった。たった今指摘されるまで、見えていなかったのだ。
なんということだろう。
私はやはりまだ、どこか壊れたままなのか。
しかし、今はそんな絶望に身を浸している場合ではない。
彼に、見られてしまった。
壁の穴や凹みはどうでもいい。問題は「黒っぽい染み」だ。
あれは、血だ。
時間も経ち、かなり変色してほとんど真っ黒だが、彼は気づいているだろうか。
「良ければ今度、直しますよ。デコボコ均したり、壁紙貼ったり。実は好きなんです、そういうの」
「あ、ありがとう……なんかすごいね。料理得意で、壁も直せたり」
「へへ、何でも自分でできないと気が済まないタチなんですよ」
得意げに笑って見せる彼に、今のところ不審な点はなさそうだ。
あまり用心深くなってもかえって怪しまれてしまうこともある。むしろこちらから積極的に話しかけて、別の事に注意を向けさせる時間を増やした方が得策だろう。
「あ、もうビール切れてるでしょ。今冷蔵庫から取ってくるね」
私は立ちあがって、台所に向かった。
冷蔵庫を開けると、彼が買ってきた大きなスイカが目に入った。触ってみると、もういい塩梅に冷えていそうだ。
「ねえ、スイカどうする? 食べる?」
声をかけると、居間の方から彼の声が返ってきた。
「お、いいっすね。でもスイカは最終ラウンドでしょう。僕はまだまだいけるんで、第二ラウンドに移っていいですか?」
まだ食べるのか、と内心苦笑してしまう。でも、久しぶりに楽しい気分だった。
ずっと、きっとこんな情景に憧れていたのだ。あの時も、きっと。
「いいけど、第二ラウンドって、次は何を食べるつもりなの?」
「鍋のシメ、と言ったら雑炊で決まりです! キムチ雑炊、かなりいけますよ」
「あはは、それ美味しそう。私もひと、くち……くらい、な……ら?」
何かが引っ掛かる。
瞬間、強烈な警報が脳内で鳴り響いた。
(見られてはならない)
(見られたら終わりだ)
「ま、待って! 雑炊って、どうやって――」
叫びながら、居間へ駆け戻った。
もう遅かった。
目の前にはただ、私を絶望へと追い落とす光景があるだけだった。
テレビの前に置いてある物――その蓋に具えられた、滑らかな曲線を描く取っ手に、彼は既に手をかけていた。
さっきの壁同様、蓋の取っ手には、今まで私には見えていなかった黒い染み――変色した血のりが付着していた。
(全て終わりだ!)
「ここにあったんですね。見つからなくて探しちゃいましたよ。それにしても、結構大きいですね、これ。さっき買ったスイカくらい入っちゃいそうですね」
「お、お願い。そ、それは」
「それに、随分重いですね。ズシっとくる」
「だめ!」
「え?」
「だめ、だめ――開けないで」
「ああ――気にしないでください。少しくらい汚れてても気にしませんから、じゃあ、ちょっとお借りしますね、この炊飯器」
彼は躊躇うことなく、蓋を開けた。
「いやぁぁぁぁぁ――――っ!」
「お……お、オェェェェェェェ――――ッ!」
容器の中から舞い上がる緑やら黒やらの毒々しい粉末と、鼻はおろか命の危険さえ感じさせる異臭がたちまちのうちに充満し、この部屋は阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
呼吸が困難になった私は立つこともままならず、その場に倒れ込んだ。
粉末をもろに顔面に浴び、視界を塞がれた彼は大量の涙を流しながら、誤って炊飯器の中に手を突っ込んで、何か柔らかくて糸を引くものを掴み上げてしまい、恐慌状態に陥った。
(これが終わりの風景だ)
何処からか、声が聞こえてきた。
(彼はもう二度と、ここには来てくれないだろう)
薄れゆく意識の中で、しかし私はしかと己が心に刻み込んだ。
炊いたご飯を入れたまま、半年以上炊飯器を放置してはならない。
万が一放置してしまったら、恐れてはいけない。勇気を振り絞れ。見て見ぬふりだけは、絶対にやってはいけない。
それが、今味わっている恐怖を回避するための教訓だ。
お読み頂きありがとうございます。
慌てて書いたため、後にいろいろ改稿するかもしれません。