人間魚雷
今日のテーマは『自死』ということについてです。もうこの『自殺』という言葉はさいきんはあまり見掛けなくなりましたし、聞かなくもなってきました。今からそうとう昔のこと、近代あたりの頃には有名な文学者が『自殺』をすることは度々ありましたし、それに何か意味を持たせようとする傾向にもありました。芥川竜之介に太宰治、そして三島由紀夫といった大文豪がまるで時代をハシゴするかのように『自死』で繋いでいったとみるならば、それは一つのステータスとして機能していたのかも知れませんね。
ところで、まず、なぜ『自殺』を語らなければならないか、その理由を言っておくべきでしょう。それは安易だし、不十分ですが、あえていわせて頂きますと、それは今回の作品の題名が「人間魚雷」だからです。今回は一番初めにこの題を付けようと思い至りまして、後に書こうとした内容のほうは「人間魚雷」をメタファーさせる文章を考えようとしたところ、この題に相応しい文章とは重苦しい『自害』だけであろうという結論に至ったというわけです。
それに私は『自害』ということについて何か言及できないかと前々から目論んでいまして、そして今日に辿り着いたというわけです。ちなみに、何年か前にこんなニュースが流れていました。中学生の友達男子二人組のうち、一人がいじめに遭い、もう片方がショックで自殺をしてしまったという事件でした。死んだ生徒の遺書に「Y君は悪くありません」的な内容の文章が書かれてあったそうです。詳細はよく分かりませんが、中学生はナイーブなのでそういうことがあり得るといった証明の事件であったと記憶しています。
なぜ『自ら自分の生命を絶つ』人がいるのでしょうか? それは、生きていることが剥き出しになって、表れるからでしょうか。太宰治の場合は自ら死を選ぶことによって、芸術作品を完成できたのです。太宰の文学は死にたい、死にたいという吐露の連続で、作品は死ぬまでの手記になってしまった。でも、もう時代が時代だし、自殺なんて天国に行けてもやんないよっていう人が出てくるならば、社会は大きく良い方向に変わったとみることも可能ではないか。自殺を考えている方々、もう一度考え直して欲しい。死んだら、そこで終わりです。苦しい状況から抜け出したいなら、生き延びてみて下さい。
私は二十五歳くらいの頃、持病である統失の幻聴の症状が、ひど過ぎるくらい悪化してしまい、あれはもうその日一日生き延びるのがやっとの状態で、それが毎日二年間ぐらい続きました。よっぽど死のうかと何度も何度も考えましたが、そんな度胸はどこにもない。治る保障などなかったですし、まさに十字架に磔にされたイエス・キリストのような思いを致しました。つまり、僕の不幸は極限にまで達していたのです。当時、僕は自分がなぜ死なないのか疑問でさえありました。しかし、僕はたぶんどれだけ不幸でも、その不幸に対して僕が取った行動というのが、生きるという意味を保持し続けたいということでした。僕は病気になって、知人や友人に多大な迷惑を掛けてしまった。それは謝りたいです。けれども、僕は僕が経験したことを、皆様に伝えなければならない。『自ら自分の生命を絶つこと』だけは待って欲しい。人間はいつか死ぬんです。そのいつかまで、ずうずうしく生きてみようではありませんか?