5
夜になり、私は満の運転する車の助手席に乗っていた。まだ少し体がだるいのに、なんだか心地よく感じるから不思議だった。
窓を開け、夜風を浴びる。おでこが全開になろうとも気にしない。火照りの残る肌の冷える感覚に、恍惚にも似た吐息を漏らす。
ベッドから起きたあと、軽く喉を潤しただけで食事はとっていない。人生最後の食事は大口を開けて食べた巨大なハンバーガーとなった。
「海側は真っ暗ね。闇に吸い込まれそう」
日中はキラキラと輝いていた海が、夜になると不吉なブラックホールみたいに様変わりする。
軽く身震いをする私に、ハンドルを握る満は「怖いかい?」と聞いた。
怖くないといえば嘘になる。だけどそれ以上に、優綺美麗の美貌を完全に失うのが怖かった。
「私が望んだことよ。優綺美麗の幕は今夜降りるの。とても素敵な舞台だったわ」
人生で初めて主役といえる場所に立てた。誰もが羨望の視線を私に注いだ。どれもが美しくなければ体験できないことばかりだった。
「世界にとって美しさはすべてじゃないかもしれない。実際に何も変えずに幸せに暮らしているであろう子もいるもの」
轟和美の顔を思い浮かべる。彼女はきっと今も、最愛の男性の隣で笑っているだろう。
「でも私にはすべてなの。世間の人がどう思おうとも関係ない。自分で望み、手に入れ、終わらせる。これも一つの人生だわ。とても幸せな、ね」
満の横顔を盗み見て、悪戯っぽく指で脇腹をつついてみる。
「運転中に危ないよ」
「大丈夫よ。さっきから一度も対向車とすれ違ってないじゃない」
深夜を過ぎた現在、海岸通りを走っているのはこの車だけだった。夜になれば地元の人間も滅多に近づかないという場所を目指している空当然だった。
「満こそ、怖くないの?」
「君が一緒だからね」
当たり前のように言う。彼には私こそがすべてなのだろう。そこまで愛されている事実に、女としての幸せを感じた。
だからだろうか、つい乙女な発言をしてしまう。
「こちらでは無理だったけれど、向こうでは一緒に暮らしましょう。結婚するのよ」
満が拒否をするわけがなかった。ただ不満点は一つだけあるらしい。
「ありがたい申し出だけど、向こうについたらせめて僕からプロポーズをさせてほしいな」
「考えておいてあげるわ」
ケラケラと笑う。着実に終幕へ近づいているというのに、妙に楽しかった。晴れやかな気分というべきかもしれない。
カーステレオはついておらず、お互いの声と走行音だけが聞こえる。とても静かな夜だった。
「こんなにシンとしてると、大きな声で叫びたくなるわね」
「海だけど、やっほーとでも言ってみる?」
「アハハ。さすがにそこまで子供じゃないわ。少しだけやってみたい気もするけどね」
シートに上半身を預け、軽く目を閉じる。
もうすぐ私の人生は終わる。東雲杏里として生まれて、優綺美麗として去る。強くそう望んだから。
「……約束の時間も過ぎたわ。優綺美麗に戻るわね」
満に捧げた東雲杏里としての一日は終了した。過去の思い出を再び捨て去り、美だけを求めた女になる。
完璧だった頃より崩れも目立つけれど、まだまだ世間では美人で通るはずだ。これまでの傍若無人な振る舞いを詫びて、媚を売るようになっていれば仕事は貰えただろう。
だけど私はそこまでやって残るより、優綺美麗らしく振舞っていたかった。希望通りになったのだから、未練はもうない。
舗装された夜の道路がヘッドライトの光に照らされては聞けていく。一瞬だけ輝くからこそ綺麗だとも思える。
私が得た輝きも、きっとこの程度の瞬間的なものでしかない。でも満足するほど堪能できた。
「ああ、幸せだった」
優綺美麗としての人生は、その一言に尽きる。
最後におもいきり屈辱を味わわされたが、他の人間を同じような目にあわせてきた私に文句を言う資格はなかった。
「僕も幸せだった。君に出会えたからね」
「ずいぶんと歯の浮く台詞ね。得意なのかしら」
「まさか。言いたいことも言えずに終わった恋を後悔した経験があるから、思ったことを素直に表現するようにしてるんだ」
「失恋が貴方を強くしたのね。なんだか素敵だわ。私に言われても嬉しくないでしょうけど」
「そんなことはないよ。さて、そろそろ目的地に着くね。準備をしておくかい?」
車道の真ん中で一時停止した車内で、差し出された満の手。幾つかの錠剤が握られている。
「言われて用意した睡眠薬だよ。即効性はないから、徐々に眠くなってくる」
睡眠薬を飲んで、意識が虚ろになりかけたところで車ごと海に飛び込む。そうすれば満と離れずに済む。私が提案した終わりの方法だった。
「何から何までお世話になったわね」
僅かな不安や緊張はあるが、躊躇いはない。
受け取った錠剤を口の中に入れ、用意していたペットボトルの水で食道へ流し込んだ。
ペットボトルから口を離して、ふうと息をつく。これでもう後戻りはできない。
見れば運転席の満も、同じように錠剤を飲んでいた。効果の遅いタイプを選んだのは、飲んでからも少し運転するなり話をしたかったからだ。
再びアクセルを踏んで、満は車を走らせる。
まだ眠気はやってこない。助手席の窓から顔を出し、星空を見上げながら呟く。
「これで優綺美麗ともお別れね」
親から貰った大切な名前と顔を捨てて選んだ新たな人生。
誰もが羨む美の女神として歩いた道。
私は優綺美麗。その事実はきっと、深くて暗い旅路さえも明るくしてくれるだろう。
「そうだね。君はこれで優綺美麗ではなくなる」
頷きながら言った満に視線を戻し、窓を閉じる。余計に車内がシンとした。
「貴方も優綺美麗の付き人から、ただの男性に戻れるわね」
「どちらでも構わないさ。君の隣にいることだけが僕の望みなんだ」
「ええ、知ってるわ。これからもよろしくね」
この世界での存在は終わりになるが、他の世界があるのならもっと満を大切にしようと決めた。
目的地である崖に車が到着した。あとは海へ向かって走らせればいいだけだ。
シートベルトをしたままで、息を吐きながら満は背もたれに身を投げ出した。
「ふう。なんだか緊張するな」
「それはそうでしょう。私も心臓がドキドキしているわ」
満の手を掴み、自分の胸を触らせる。
柔らかな感触の下に存在する心臓の脈動が、手のひらを通して彼に伝わっているはずだ。
しばらくその体勢のまま見つめ合い、口付けをした。
「優綺美麗の最後のキスの相手になれて幸せね」
「光栄の極みだよ」
微笑んだ満が手を離した。
「そう言ってくれて嬉しいわ。満は東雲杏里と終わりたいと願ってると思っていたから」
「心配ないよ。僕は優綺美麗を演じている東雲杏里が好きなんだ」
思いもよらない発言に、吹き出しそうになる。
「そんな風に言われるなんてね。だとしたら私の女優の才能は圧倒的だわ。たった一人にしか演じてるのを気取られなかったのだから」
シートを倒して仰向けになる。聞こえる波の音へ合わせるように、少しずつ眠気がやってきているような気がする。
満も私に倣って車内で横になった。そろそろと伸ばした手で、遠慮気味に頬へ触れてくる。
満の手に自分の手を重ねてから、指を絡める。しっかりと彼の存在と体温を記憶するために。
「……眠くなってきたわね」
先ほど飲んだ睡眠薬の影響で、ウトウトし始める。それは計画実行への合図でもあった。
眠い目を擦り出す私に、囁くように満は「行こうか」と言った。
「ええ」私は目を閉じる。「案内をよろしくお願いするわ」
「もちろんだよ。僕は優綺美麗の付き人だからね。新しい世界に案内するよ。君が喜んでくれるかはわからないけどね」
「喜ぶに決まっているわ。貴方が隣にいてくれるのだから」
覚悟を決める必要もないくらい眠気が強くなる。意識が途切れれば、すべてからお別れだ。
その前に私は目を開けた。肝心なことを伝えていなかった。
今さら迷惑かもしれないけれど、どうしても彼に――満に言っておきたかった。
私の視線に気づいた満が、こちらを見る。記憶の中にある通りの優しげな目で。
「どうかしたの?」
「貴方に伝えるのを忘れていた言葉があるの」
「何だい?」
「愛してるわ」
この世の最後に残す言葉としては、これ以上に美しく綺麗なものはない。
満足した私はもう何も言うべきことはないと瞼を下ろした。
「僕も……いや、この言葉の続きは、君が目を覚ましたら言うよ」
車が走り出す。
直後に私の体は浮遊感に包まれた。
これで私はずっと今の美を保っていられる。満ち足りた気持ちだった。
闇の中で少女が躍る。スポットライトの下、広い舞台を所狭しと飛び回る。
誰かが拍手を送る。高校時代の制服を着た轟和美だ。両親も見守ってくれている。
私の舞台を見に来てくれた人たちが、惜しみない拍手と賞賛を捧げてくれる。
私をからかった掛井広大や、友人だと思っていた女もいる。二人は観客ではなく、ステージを彩る木と石の役。とてもお似合いだ。
小笠原大輔と阿部康子という大学時代に世話になった先輩カップルも、隣同士の席で仲睦まじく私の晴れ姿に見惚れている。
北川希もいる。彼女は主演を争ったライバルだったが、私に負けてステージ横で補佐仕事の真っ最中だった。
居心地のいい世界。いつまでも踊っていたい。私を邪魔する者はいない。
ステージを見ていた事務所の社長が、いきなり土下座をする。自分が間違っていた。君以上の存在はいないと。
すぐそばでは里亜砂という生意気な女が、涙を流して私に許しを求めている。
鬼ではないので謝ったからには許してあげるべきだろう。幸せな気分の私に感謝してほしい。
誰もが私だけを見つめる。この世界のすべては私のものだ。
気持ちよく踊ってるさなか、不意に誰かがステージに上がった。
誰かしら。邪魔をしに来たのでなければいいのだけど。
そちらを確認する。闇の中から一本の腕が伸びる。誰のかわからないのに、私は安心して手を取った。
私も一緒にステージに突如として発生した闇の中に飛び込む。
やっと会えた。
そう言って微笑んでくれたのは糸原満だった。
見つけるのが遅いのよ。
私は言った。彼は困ったように笑った。
遅れてごめん。でも、もう離さないから。
ステージ上で抱き締められる。痛いくらいに力が込められていた。
嫌がらずに、私は身を預ける。この人にならすべてを任せてもいい。
途端に闇は晴れた。
舞台はエンディングへ向かい、観客は残らず立ち上がる。
満足していただけたかしら。私のステージは。
隣に立つ糸原満に支えられ、優雅に頭を下げる。
これにて物語は終幕。めでたしめでたし。
歌うように口ずさむ。割れんばかりの拍手がバックグラウンドミュージックだ。
挨拶を終えて頭を上げる。観客が一瞬にしていなくなり、スポットライトも消えた。
驚きの中でも私は不安を抱かなかった。繋いだ手の温もりだけは、しっかりと今も残っているから。
舞台も消える。私は緩やかに落下する。
暗い闇の中を漂うに落ちていく。繋いでいる手の所有者と一緒に。
微かに頬へ伝わる温かな感触を最後に、私のすべては闇に溶けて消えた。




