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糸原満は躊躇わなかった。私――優綺美麗のどんな我儘にもそうしてきたように、真面目な顔で頷いた。
「冗談ではなく本気よ」
念を押す言葉を告げても、彼の決意にはさざ波すら立たないみたいだった。
「構わない。何度も言っただろ。僕は君の側にいる。この先もずっと」
「わかった」
そう言うしかなかった。私の決意を誰にも止められないように、彼の決意も妨害してはいけない。
「でもその前にお願いがあるんだ」
「何?」
「君の時間を一日だけ僕にくれないか。今から明日のこの時間まで」
断る理由はなかった。里亜砂らの妨害により、どうせ私には仕事がない。有り余っている時間をどのように使うのも自由だ。
「いいわよ。一日中セックスをするのかしら?」
誘うように手招きをしてみるが、ここでも満は乗ってこなかった。
「セックスをしたいんじゃないんだ。マネージャーと優綺美麗ではなく、糸原満と東雲杏里として過ごしたいんだ」
「わざわざ捨て去った名前を着させるなんて意地悪ね」
「駄目、かな」
「いいわ。大学時代にトラウマを受けたのは私だけじゃない。糸原さんにも失礼な真似をしたものね」
「そんな記憶はないよ。それより名前で呼んでもらえると嬉しいな」
スケベ親父のスポンサー連中を手玉に取ってきた私が、男の名前を口にするだけで照れてしまう。
本当に優綺美麗から、東雲杏里に戻ったような気分だ。なのに嫌悪感がさほどでもないのは、満が一緒だからかもしれない。
「じゃあ、満。これからどうするの?」
「そうだな。まずは話をしようか。杏里は覚えてるかな。僕たちが初めて出会った時のことを」
「覚えてるわよ。プロポーズしそうな勢いで私をナンパしたのよね」
「ええっ? そんなはずは――あっ、僕をからかってるな。そんな酷いことをする子はこうだ」
「あはは。やめてよ、やめて」
両脇をくすぐられて、ソファの上を転げ回る。
降参するまで続けるのだから、意外と満も性格が悪くなっている。
正直に感想を告げると、彼は笑ってこう言った。
「何年も優綺美麗の付き人をしてきたからね」
「ウフフ。やっぱり意地悪になってるわ」
日が昇る。窓から差し込む光が、朝になったのを教えてくれる。
軽いボディタッチこそあれ、私と満はとうとう男と女の関係にはならなかった。
大学生のようにはしゃぎ、当時にできなかったスキンシップを今しているみたいだった。
軽く手が触れあっては気恥ずかしくなり、同じグラスに口をつけては間接キスだと言ってみたりする。
どこのうら若き女学生だと自分自身へのツッコミもできず、気がつけば朝になっていたのである。
きっと――いいえ、間違いなく私は浮かれていた。
「朝になってしまったわね。何かしたいことでもあるの?」
「まずはホテルで朝食をしよう。最近、君はお酒を飲んでばかりで食べていなかったからね」
「今夜まで私の時間は貴方のもの。何でも従いますわ、ご主人様」
「うっ。杏里にそう言われると、グっとくるものがあるね」
「満は変態だったのね。望めば足蹴にもしてあげるけど?」
結構真面目に聞いたつもりだったのだが、即座に満は苦笑いを顔に張り付けた。
「遠慮しておくよ」
「それは残念」
彼に立たせてもらい、エスコートされて一階の朝食会場へ行く。バイキング形式になっている。望めば個室に届けてもらえるが、せっかくだから利用しようという話になった。
軽めに食べたあとは今度も満の要望で外を歩く。昨夜に見た街並みとは逆方向に大きな海がある。温かな日差しを浴び、心地よさそうに海面が輝いている。
アスファルトの道路から砂浜に降り、オフシーズンとなっている海を沿うように散歩する。
「せっかくだから素足で歩いてみようかしら」
脱いだ靴を両手に持ち、砂浜から伝わる温もりにはしゃぐ。灼熱には程遠く、足の裏で砂の感触を味わうには丁度いいくらいだった。
「海と杏里か。とても似合ってるね」
「そうかしら。捕まえてごらんなさいと逃げてみる?」
「それは楽しそうだね。じゃあすぐに捕まえてあげるよ」
「ちょっと、本気!?」
楽しそうに追いかけてくる満から逃げ回るうちに、気がつけば私も大きな声を出して状況を面白がっていた。
砂浜から戻るとシャワーを浴びて汗を流し、着替えてから街に出た。
目的地は特に決めておらず、適当に入った映画館で同じく適当に上映中の恋愛映画を見た。
顔を見知っている女優が懸命に演技し、少しでも映画を盛り上げようと頑張っている。
私は芝居に関して、一度でもここまで努力しただろうか。
答えはすぐに出る。していない。美貌で人気を得たことに胡坐をかき、天狗になっていた。
あれでは東雲杏里を虐めていた北川希と変わらない。
――いや。きっと私は北川希と同じ側に立ちたかったのだ。
優綺美麗の美しさが生来のものであったならば、私は何の疑問も持たずに轟和美や東雲杏里を嘲り笑っていただろう。
業界でのし上がろうとしたのも虚栄心を満足させたかっただけ。所詮はその程度の小者。知ったふうな口を叩いて動き回っても、勝ち残れるはずがなかったのである。
コケにしていた華憐と同じでしかなかった。そうわかると妙におかしくなってくる。
新たな女帝となった里亜砂も変わらない。彼女もきっと気が付いているようで、理解していないはずだ。私達はあらゆる意味で、業界で見世物になって踊っていただけなのである。
踊れなくなった女は退場させられる。当たり前の話だ。だから私はここにいる。隣に満の姿があるのは予想外だったが。
「映画はつまらなかったかい?」
どうしてそんな質問をするのか。スクリーンを見てハッとする。考え事をしている間に、映画が終わっていたのである。
映画の余韻に浸るでもなく、どこか遠くを見るような目をしている。同行者が不思議に思うのも当然だった。
普通の恋人同士のデートであれば、笑顔で面白かったと嘘をついたかもしれない。けれど満の前では、体面を気にする必要があるとは思えなかった。
死ぬつもりだと告白して、受け入れてくれたからかもしれない。何もかも許せるような心情が、私の口と心の鍵を壊していた。
「一生懸命な女優を見て、自分の情けなさを再確認していたの。美しさを求めた理由もね」
「そうか」
「ええ。だけど後悔をしていないのに変わりはないわ。優綺美麗として生きた証も少しは残せたでしょうしね」
写真集にしろDVDにしろあるが、それらはいずれ捨て値で中古屋に売られる。いや、すでに処分品の棚に並んでいてもおかしくなかった。
「君が満足できたならそれでいい。僕も満足したからね。意外と楽しかったんだよ、付き人の仕事というのも」
「あれだけ振り回されても? やっぱり満は変態だわ」
「きっとそうだね。だから変態の僕の相手は君じゃないと駄目なんだ」
「それじゃ、私まで変態みたいじゃない。でもいいわ。受け入れてあげる。感謝してよね」
館内が明るくなったのを合図に立ち上がる。
映画館を出て昼食をとろうと向かったのは、ハンバーガーショップだった。
普段ならカロリーを気にして食べないビッグサイズのを買って、公園の茂みの中で大口を開けて食べる。
スカートが草や土で汚れても構わない。加えていえば、サングラスも外していた。
どうせもうすぐこの世での生を終わらせるのだ。優綺美麗がどうこうと噂を立てられたところで、何の影響もない。
「実は昔から、こういうジャンクフードが好きだったのよね。ダイエットをして以降はずいぶんと絶っていたから懐かしいわ」
「そうだね。僕もそんなガツガツ食べる杏里は初めて見たよ」
「大学に入った時には、もう本性を隠していたものね。さすがにみっともないでしょ」
「全然。むしろ好感が持てるよ。僕は杏里のすべてが大好きなんだ」
「……よくそんなに爽やかな笑顔で、恥ずかしい愛の告白ができるわね」
「僕としては当たり前のことを言ってるだけなんだけどね」
確かめるまでもなく、満の愛情の深さは理解している。生半可なものでは、最後の瞬間まで私に付き合おうなんてできない。
けれど彼は笑顔で承諾した。どこまでも私の隣がいいのだと。
風に流される髪の毛を手で押さえながら、クスリとする。告白や誘いは幾つも受けてきたが、これほど嬉しく感じたのは初めてだ。
「よかった。なんだか上機嫌になってくれて」
「全部、満のおかげよ。不思議ね。大学時代はあんな別れ方をしたのに」
そこまで言ってから、私はふと疑問を覚える。
「そういえば、どうして優綺美麗と東雲杏里が同一人物だとわかったの?」
「癖だよ」事もなげに満は言った。「君は左の髪を掻き上げる時だけ薬指一本でやる癖がある」
「そんなところまで見てたの?」
「ストーカーみたいだって言わないでくれよ。実は僕もそう思ってたりするんだからさ」
「これはますます変態だわ。重症じゃない」
責めてはいない。私も彼と一緒に笑う。
「あとは歩き方とかもそうかな。優綺美麗の一挙手一投足に、僕の思い出の中にいる東雲杏里が重なったんだ」
一度優綺美麗が東雲杏里かも知れないと思ったらいてもたってもいられず、事務所へ電話してマネージャーにしてほしいと願い出た。
私生活のすべてを放り出してでも、そうしたかった。対面した際に確信を得た満はそう思ったのだという。
「もしかしたら違うかもしれないと、不安になったりしなかったの?」
「会った時に君が僕を知ってるような反応を示したからね。間違いないと思ったよ。事務所での在籍が長くなるにつれ、信頼を得ると社長からも整形の話だけは教えてもらえたからね」
人気絶頂時こそ危機管理が大切になる。付き人である満に情報を教え、万が一の場合には即座に対処できるようにしておくのは当たり前だ。
とはいえ事務所のトップタレントが整形しているのは結構なニュースだ。社長の満への信頼度が、相当なものだったのは想像に難くない。
「付き人にまでなって追ってきた僕を軽蔑するかい?」
「そんなはずないでしょ。むしろ感謝してるわ。今もとても楽しいもの」
二人を囲む草木に祝福されながら、どちらからともなく唇を重ねた。触れ合うだけの軽いキスに、ここまでドキドキするのは初めてだった。
「……私、疲れたから少し休みたいな」
「わかった。そうしよう」
私が利用しているホテルの部屋で、ベッドの軋む音が鳴る。
生まれたままの姿で、何度も何度も愛し合う。
言葉はない。お互いの目を見れば、わざわざ口を開かなくとも何を考えてるのかがわかる。
絡み合う濃密な吐息に肌を汗ばませ、シーツの海を二人で泳ぐ。
途中からは窓もカーテンも開けた。これで終わりなのだからと開放的な気分を味わった。
一緒にシャワーを浴びて、またベッドに入る。
何を気にする必要もなく、直接伝わる体温に安心と幸せを感じる。
疲れ切った四肢を放り出すように仰向けになり、天井を見つめる。隣には同じ体勢の満がいる。
それだけで、世界のすべてを手に入れたような気分になった。
「ありがとう」
お礼を言ったのは私からだった。
「こちらこそ、ありがとう」
頭の下に満の腕が伸ばされる。いわゆる腕枕だ。
遠慮なく頭を乗せ、寄りかかるように彼の胸に頬をつけて少しだけ眠る。
そして、運命の夜になる。




