38
目の前で泣いている女の姿が、今はもういないはずの東雲杏里と重なって見える。胸の痛みはさらに強くなり、思わず眉をしかめそうになる。けれどすんでのところで踏み止まる。私自身が選んだ道なのだから、最後まで見届ける責任がある。何より、同情は絶対に禁物だった。
新しい自分に――本物の優綺美麗になりたいのなら、心に突き刺さる棘を引き抜き、生じている痛みをすべて捨て去っていかなければならない。視界に映っているのは敗者で、見下ろしている私が勝者なのだ。相手へ手を差し伸べれば、つかまれた拍子に引っ張られて、今の立ち居地を奪われるかもしれない。それだけは、どうしても避けたかった。
「ごめん……ごめんな……」
何度も謝罪する掛井広大の声など耳に入らず、女はひたすら泣きじゃくっている。
考えてみれば、こちらまで悲しくなる必要はないのだ。東雲杏里は二股をかけられた挙句に、手酷く振られた彼氏に謝ってさえもらえなかった。
奪った女の目は、残酷なようだけど、これが現実よと語っていた。蘇る屈辱が、私の中に宿っていた弱い感情を消滅させる。
「最後に頼るのは女性の涙……ということかしら。つくづく、惨めね」
「……っ! うるさい……! アンタなんかに何がわかるのよ!」
「そうね……少なくとも、貴女以上には理解しているわ」
「はあ? わけ、わかんない……ぐすっ、いいから……さっさと、2人でどこへでも行きなさいよ! これだけ私に……ひくっ、恥をかかせたら……ううっ、満足でしょう!?」
ヒステリックに叫ぶ女の視線を、正面からすべて受け止める。決して目を逸らしてはいけない。惨めな敗北者の姿を、徹底的に己の記憶へ刻み込む。油断すれば、再び私は彼女と同じ姿を晒すはめになる。
やがて女は泣き顔を見られるのも嫌だと、カフェのテーブルに突っ伏してしまった。執拗に掛井広大が謝っても、もはや何の反応も示さなくなる。
これで彼女と掛井広大の関係は終わった。考えうる限り、最悪の形で。そして、それを演出したのが他ならぬ私こと優綺美麗だった。
生まれ変わった美貌の力で、過去にはできなかったことをやり遂げた。整形だ何だと蔑まれようとも、最後にものをいうのはやはり端麗な容姿なのである。
「用が済んだのであれば、私は失礼させてもらうわ。結論が変わったのなら、また呼び出してくれても結構よ」
「――っ! う……く……う……」
バカにするなとばかり女は顔を上げたけれど、余裕の笑みを浮かべる私を見て、声にするべき言葉を見失っていた。
同情は相手を余計に傷つけるだけ。恨まれるのも勝者の仕事なのだ。それが嫌なら、おとなしく目立たないようにひっそりと生きていくしかない。高校時代に袂を分かった友人の轟和美みたいに。
ここまで元恋人をコケにされているのに、掛井広大「さすがに、いいすぎだ」の注意ひとつしてこない。私に嫌われるのを恐れて、女を見捨てたのは明らかだった。
にもかかわらず、懲りずに自らの罪を女性に許してもらおうとしている。あまりの惨めさと滑稽さに、自然と私の目つきは冷めていった。
恋人を切り離す選択をしたのは自分自身なのに、辛い思いをするのは嫌だから、必死で謝って許してもらおうとする。どんなに言い訳を並べたところで、掛井広大の姿は卑怯の象徴以外の何者でもなかった。
東雲杏里を振った時も、整形までするような女に遠慮は無用とでも考えて、責任を転嫁させていたのだろう。誰もが一生懸命に生きている中で、どうしてこんなに男らしくない真似ができるのか。憤りが大きくなる。
むしろ女の恨みが私へ向かないように、すべての泥を被ろうとするのが普通なはずだ。二股をかけたのは、他ならぬ掛井広大自身なのだから、それがベストとはいえなくともベターな責任のとりかたなのではないかと思えた。
ところが私の視界に映っている男は、繰り返し謝っては元恋人から許しの言葉を引き出そうとしている。
見てる? 東雲杏里。貴女はこんな男に、心から惚れていたのよ。
寂しさも切なさも、恨みとともにすべてここへ置いて行こう。私は優綺美麗として、貴女が夢見た人生を歩み始める。
「……さようなら」
無意識に呟かれた別れの言葉は、目の前にいる女性へ向けてのものなのか、それとも瞼の裏で悲しげに笑う東雲杏里へ送ったものなのか。それは、私にもわからなかった。
カフェでの修羅場から一夜明けて、私は別の喫茶店の椅子に座っていた。
通っていたカフェほどお洒落ではなく、店内もそれほど賑わってはいない。このような場所に来たのには、もちろん理由がある。
無事……といえるかどうかは不明だけれど、恋人と縁の切れた掛井広大が私を呼び出した。何が目的かは、わざわざ相手の口から聞くまでもなかった。
「これで、俺……美麗さんと付き合えるんだよね」
彼なりに恋人との別れは辛く感じていたのだろう。憔悴しきった様子が見て取れる。東雲杏里を振った直後の平然とした姿を知っているだけに、なにか信じられないものを見てるような気分だった。
今回も平然とした態度で、こちらへ向かってくれば私も罪悪感を覚えたりしなかったのに。そこまで考えて、慌てて心の中で首を左右に振る。
少なからず相手を傷つける以上、自分も傷つくのは必然。避けて通るわけにはいかなかった。そしてその法則を、掛井広大にも教える時がやっときた。
どれだけ今日という日を待ちわびただろうか。そのために働きたくもないスナック勤務で多額のお金を稼ぎ、文字どおり私は別人に生まれ変わった。
効果は絶大で、誰もが私を優綺美麗だと信じている。美しさを手に入れて、勝者の席へ座ることが許された。これが特権なのだとある種の優越感にも浸れた。
けれどそのたびに胸が痛んだ。間違ったことをしているわけではないのに、どうしようもなく息苦しくなる。進んできた道を後戻りすれば、不快な症状は消えるかもしれない。でも、私には無理な相談だった。
過去を振り返るのは今日で終わり。誰にどのように思われようとも、私は優綺美麗であるために己の道をひたすら直進する。
「一体、何の話かしら」
疲れきった表情の中にも、私と交際できると信じて、喜んでいる様子が窺える。その顔がこちらのひと言で一変した。
唇は震え、蒼ざめた顔に動揺の汗が流れる。想像していたのとは違う展開に、明らかに慌てていた。
「え……い、嫌だな。美麗さんが、私と付き合いたいなら、彼女と別れてって言ったんじゃないか」
浮かべている笑顔は引きつり、とてもぎこちない。喉もカラカラになっているのか、喋り終えた途端に、テーブルの上へ置かれていたコップをつかみ、入っていた水を一気に流し込んだ。
空になったコップをテーブルの上に置くと、そうだよねとばかりに目で私に同意を求めてくる。だけど、相手の妄想に付き合ってあげる義理は微塵もない。私はつまらなさそうに口を開く。
「申し訳ないけれど、そんなことを言った覚えはないわ。恋人がいる立場でありながら、他の女性に手を出すのは、道徳的にどうなのかしらと疑問を呈しただけよ」
「そ、そんな……」
それだけ呟いたあと、掛井広大は愕然として肩を落とした。このまま抜け殻にでもなってくれれば話は簡単なのだけれど、好意を抱いていた恋人と別れさせられただけに、相手男性も潔く引こうとはしない。
「あ、あんまりだよ! こんなに、美麗さんのために尽くしてるのに!」
「そうね。確かに頑張っているわ」
「な、なら……!」
「――でも、それって私が頼んだからかしら? 貴方が好かれようとして、下心丸出しで勝手にやっていたことでしょう」
再び2人の頭上に舞い降りる沈黙。あまりに痛烈なこちらの言い分に、情けなくも掛井広大は口を半開きにしている。
唇が乾ききっているのが丸分かりで、尋常じゃないくらいの不安と緊張に襲われてるのが容易に推測できる。
「ふ、ふざけるなよ! レストランでのマナーも覚えた。運転免許証も取得した。それもこれも、すべて美麗さんのためだったんだ!」
「そう、ありがとう。私がいなくなっても、きっと貴方の将来に役立ってくれるわ」
「――っ! ま、待ってくれよ。たちの悪い冗談だろ。人にあんな仕打ちをさせておいて、あんまりじゃないか!」
勢いで立ち上がった掛井広大が、両手でテーブルを叩く。発生した音で、店内にいる数人のお客さんがこちらを見た。
今まで私の機嫌を損ねないように、常に下手にでていた男性もさすがに怒りを露にしている。だからといって、私が臆する理由は何ひとつなかった。
「だからよ。交際したとしても、他に好きな女性ができた途端、恋人を躊躇なく捨てるような男性なんてごめんだわ」
片手で髪をかきあげながら、静かに椅子から立ち上がりつつ笑う。もう話は終わった。私は態度で相手男性へそう告げた。
店内に響くテーブルが激しく揺れる音。直後にグラスが床と正面衝突して割れる。ほんの数秒程度の間に、私の背後で起きた出来事だった。
椅子も倒れ、喫茶店に緊張が走る。喧嘩か何かと、複数のお客さんが自分の席を立って、こちらに近づいてくる。
内心ではドキドキしているけれど、それを悟られるような愚かな真似はしない。こちらが弱い姿を見せれば、掛井広大の性格上、すぐに調子に乗るのは明らかだった。
私は後ろを振り返ることなく、真っ直ぐに喫茶店の出入口を目指して歩く。派手な物音程度では足も止められないと知って、相手男性が最後の手段に出る。
「待ってくれ! 俺、本当に美麗さんじゃないと駄目なんだ! お願いだから、いや、お願いですから、考え直してくださいっ!」
人の前にまわりこんだと思ったら、殴りかかるとかではなく、いわゆる土下座をしてきた。暴力に訴えなかったのは褒めてあげられるけれど、簡単に人前で床に頭を擦りつける男性と、親密な関係になりたいとはとても思えなかった。
相手からすれば、男がここまでしているのだから、思いをくんでくれと言いたいのだろうけど、私の目には格好悪い人間の醜い足掻きにしか映っていない。要するに、掛井広大の努力はまったくの無意味だった。
そもそも最初から、好意を抱いて近づいたわけではない。純粋だった東雲杏里の想いを、無残に投げ捨てた男女へ復讐するためだった。
つい先日、一方の女性には引導を渡してきた。人前で恥をかかせられ、無様に泣き叫ぶ姿まで晒しては、当分の間は立ち直れない。もしかすると、一生のトラウマになった可能性もある。
手放しで喜んではいないけど、因果応報だと相手への同情心は捨て去った。そして今、私の目の前には最後の復讐対象者がいる。
見ず知らずの人たちが見ている前で、恥も知らずに女――つまりは私の足元で土下座している。裏返る声が泣きそうなのを証明しており、掛井広大の情けなさをさらに強く演出していた。
「どうか……俺と付き合ってください! 彼女とも別れたし、もう美麗さんしかいないんだ!」
顔を上げた掛井広大の両目からは、大量の涙が溢れている。本気で私を愛し、本気で想っている純粋な輝きが見て取れる。
東雲杏里が見たことのない姿に心を打たれ、相手の涙とともに私の憎しみはすべて洗い流される。
――わけがなかった。どのような言葉も、態度もしらじらしく見える。世界でもっとも誠実な対応をされたとしても、私には二度と掛井広大という人間を信じるのは不可能だった。
恋愛対象にもなっていない男に、涙ながらに哀願されても何ひとつ心には響かない。滑稽極まりない演技にしか見えず、少しでも気を抜けばこの場で吹き出しそうになる。
「そこまでするほど……私を愛してくれているの?」
「も、もちろん! 俺、美麗さんのためなら、どんなことだってできるよ!」
1年以上交際していた女性との縁や絆を、簡単に捨て去ったこの男であれば、実際に何でもしそうだった。
それならばと私は、片足を相手の目の前へ伸ばした。意味がわからずにきょとんとする掛井広大に、周囲が絶句するほど衝撃的な要求をする。
「なら……私の靴を舐められる? 人間としてのプライドがあるなら、できるはずないわよね」
悪魔のごとき性悪女の完成だった。辛辣な要望で諦めさせるつもりが、事態は予想外の方向へ向かおうとする。
なんと掛井広大は迷った挙句に、口から舌を出そうとしているのだ。全身に鳥肌が立ち、悪寒が止まらなくなる。
「な、舐めたら……俺と付き合ってくれるかな……」
完全に掛井広大は周りが見えなくなっている。元恋人との別れなどもあり、すっかり自分自身を見失っていた。
私のためにとすべて行ってきたのに、気がつけば振られそうになっている。かつての恋人や親友。心の拠り所をすべて捨ててきた男には、優綺美麗しか残っていないのだ。
だからこその行動だったのだけれど、私はすぐに足を引いた。本当に靴を舐められたりするなんて、ゾッとするだけだ。しかしその一方で、相手男性が見せる惨めな姿をせせら笑っていた。
これが東雲杏里の心に深くエグい傷をつけた男と、同一人物だとはとても信じられなかった。落ちぶれていく掛井広大の姿が、私に禁断の興奮を覚えさせる。
ある種の快感へと変化し、絶望の表情を浮かべる男をさらに追いつめるべく、口を開いて辛辣な言葉をぶつける。
「本当に人の靴を舐めようとするなんて、頭がどうかしてるのではないの? 簡単にプライドを捨てて、人間以下になろうとする男になんて、名前すら呼ばれたくないわ」
見下ろしたまま、冷めた視線をプレゼントする。何も言えなくなった相手男性の顔から血の気が失せる。ボロボロと涙をこぼし続ける憐れさは、捨てられた子犬さえも敵わないレベルだった。
悲しみの涙が床を濡らし、男が嗚咽を漏らす。格好悪いと思う余裕もなく、多数の人間に見られているとも気づかない。
そのような状況下でも、全員が掛井広大に同情してくれるとは限らない。見物しているお客さんの中には、指を差して笑っている者もいた。
これがこの世の儚さであり、敗北者の口内には常に惨めな味が残る。どんなに高価な歯磨き粉を使用しても無駄で、ひたすらに苦しめられる。
――わかるかしら。それが東雲杏里という女の子が味わった苦しみよ。せいぜい堪能しておきなさい。心の声で罵倒したあとに、私は目の前で土下座を続ける掛井広大へ退けるように告げた。
「い、嫌だっ! お、俺、諦められないよ。美麗さんだって、その気があるから誘いに応じてくれたんだろ!?」
すがるような目。懇願する口。掛井広大を形成するどれもが、私に「はい」と言ってくれと心から願っていた。
けれど私が口にするべき答えは決まっている。かすかな希望の糸を手繰ろうとする男性には、極めて残酷な宣告となる。
「いいえ。申し訳ないけれど、貴方みたいなプライドの欠片もない僕ちゃんは好みじゃないの。ごめんなさいね」
にこやかな笑顔とともに、喫茶店内へ放たれた言葉が掛井広大を直撃する。B級映画でもあまり観られないようなシーンに、ギャラリーと化している人々が思わず「うわ」と声を上げた。
あまりに凄惨な失恋現場に誰もが声を失うかと思いきや、他人事の観客たちは控えめではあったものの失笑している。
「う、嘘……だよね……? だったら、どうして……彼女と、別れさせたり、なんて……したの……?」
掛井広大の声はかすれ、台詞も途切れ途切れになる。かつてないほど動揺し、顔には尋常じゃない量の汗が噴出している。
「決まってるでしょう。自分がモテると勘違いしている軟派な男性を、少しだけからかって遊んであげたのよ。面白かったでしょう?」
「な……! か、か、からかって……? は、はは、ははは……お、俺、耳……悪くなったのかな……」
「心配しなくても大丈夫よ。貴方の耳は正常だわ。私の言葉を、きちんと理解できているもの」
他者から見れば嫌悪されて当然だとわかっているのに、私は段々と楽しくなってきていた。これが虐める側の心境なのだとしたら、夢中になる気持ちもわからなくはなかった。
一方で掛井広大は、虐められる側の気持ちを、ようやく理解できているはずだった。世を儚んで嘆く者の、決して弱いだけとは評せない心情に襲われている頃だ。
何の気のない言動や行動であったとしても、受け取る側には一生消えない傷になるケースもある。それらを理解した上で、なおも虐めを継続するのであれば、あとは自己責任になる。
近い将来、自分が敗者の立場に落とされても何ひとつ文句は言えない。黙って受け入れるのが責任のとり方になる。その覚悟がないのであれば、最初から虐めなんて真似をしなければいい。そうすれば誰にも恨まれない。
「ほ、本気で、からかっていただけなのか……だとしたら……お前は悪魔だよ!」
泣き叫ぶ掛井広大に、私は眉ひとつしかめずに「人聞きの悪いことを言わないでくれるかしら」と応じた。
「私は何度も、貴方に恋人とよりを戻しなさいと忠告をしたはずよ。従わずに、勝手に暴走したのは誰だったかしら。愚かな男の名前を、丁寧に詳しく教えてさしあげましょうか?」
「う、うう……うああ……!」
私を引き止める手立てをすべて失った男は、絶望に打ちひしがれて涙を流すことしかできなくなっていた。
誰もが私を悪者扱いして当然なのに、どうしてか現場では被害者であるはずの掛井広大が笑い者になっている。
これが勝者の位置にいる者の特権なのだと、私は理解する。これが優綺美麗ではなく、東雲杏里であれば決して同じ状況にはならなかったはずだ。
ありあまるほどの美貌は、何もしなくとも私に味方を作ってくれる。敵になるのは、嫉妬する持たざる者たちだけだ。
だがそうした連中であっても、こちらから近づいて優しい言葉をかけてやれば味方に変わる。この世界はどこまでも単純であり、どうしようもなく愚かなのだ。
「それでは、ごきげんよう。楽しい暇つぶしの時間を、長々とありがとう。お礼を言ってあげるわ」
悲しみと絶望に支配された掛井広大に顔を上げる力は残っておらず、私が喫茶店を出ようと、隣を通り抜ける間もずっと項垂れたままだった。
かつて東雲杏里を苦しめた2名の人間は等しく報いを受けた。これでもう、この街には何の用もなくなった。
今夜のうちに街を出よう。どうせなら華やかな場所を新天地に選び、優綺美麗の伝説をスタートさせる。
打ちのめしたひと組の男女の残像を踏みつけ、すがりつこうとする自らの過去の幻影を振り払うかのように軽くなる足取りは、真っ直ぐに未来だけを目指していた。




