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ただ美しく……  作者: 桐条京介
第1部
36/62

36

「ま、待ってくれ!」

 遠ざかろうとする私の背中に、掛井広大が精一杯の声をぶつけてきた。いまだ床に座ったままではあるけれど、いつになく真剣な目をしている。

「俺、本気なんだ。美麗さんが好きなんだよ」

「だったら何で、二股なんてかけてるんだ!」

 私が何か言うよりも早く、友人だったはずの梶原勝が、おもいきり軽蔑した視線とともに掛井広大へ苛立ちの言葉を叩きつけた。まさにそのとおりなので、あえて余計な口を挟まずに事の成り行きを見守ろうとする。こちらの足が止まったのを受けて、少しは見込みが残っていると判断したのか、大の男が人目も構わずに許しを哀願してくる。

「美麗さんが言ってる女は、ただのキープなんだ。本当だよ。あんな女なんか、もうなんとも思ってないんだ!」

 私と離れたくない一心から、恋人に聞かれたら破滅するしかない言動を繰り返す掛井広大。本人は誠意を尽くしているつもりかもしれないけど、傍から聞いてれば最低男の最低な言い訳でしかなかった。

 けれど私には一定の満足があった。今でも男を寝取ったあの女の、勝ち誇った笑みが夢の中に出てくるからだ。苦しめられるのも癪なので、どこかでこのトラウマを払拭する必要がある。それが今だった。

 幸いにして、ここまでは順調にきている。掛井広大は私の虜になり、いまだに交際を続けている女を「なんとも思ってない」と言い放った。

「申し訳ないけれど、貴方の言葉を今さら信じられないわ。自業自得よね」

「そ、そんな……お、お願いです。も、もう一度だけでいいから、俺にチャンスをください」

 必死で頼み込む相手の姿は十分に哀れだったけれど、私が受けた屈辱はこんなものではなかった。最後のひと押しをするために、懐で温め続けてきた台詞をここでようやく解き放つ。相手の目を見据え、はっきりとした口調で告げる。

「それなら、証拠を見せてもらえるかしら。恋人を捨てて、私を選ぶという確かな証拠をね」

 いくら掛井広大でも、私の言葉が何を意味してるかくらいはわかるはずだ。要するに、恋人との別れの現場を見せろと言ってるのだ。二股をかけるような最低男でも、この要求には躊躇って当然だった。なのに掛井広大は、即座に頷いてみせた。

「わ、わかった。それで美麗さんが納得してくれるのなら、言うとおりにするよ」

 同行してくれた梶原勝は憮然とした表情になっているけれど、私が決めたのならと異論を唱えるつもりはなさそうだった。親身になって相談を受けているうちに、通常の好意以上の感情を私に抱くようになっていた。普段はそれを押し殺しているけども、今回の掛井広大の不誠実な態度が状況を一変させる。

 ともすれば「お前にはもう任せておけない」と、梶原勝が私に求愛をしてきそうな勢いだった。こちらは恋愛感情など微塵も抱いてないだけに、そんな真似をされても迷惑なだけだ。梶原勝には何の恨みもないので、なるべく傷つけずにフェイドアウトさせたいと思っていた。私の標的はあくまでも掛井広大と、寝取ってくれた女の2人だけだ。

「あ、俺だけど……今から、出てこれないかな」

 早速、私の要求を実行しようと、掛井広大は自身の携帯電話で交際中の恋人へ連絡をとる。

 もう少しだ。あとちょっとで、東雲杏里の無念と屈辱を晴らせる。この地での忌まわしい思い出に終止符を打ち、私は優綺美麗としての人生を本格的に歩んでゆく。

「すぐ……来るって」

 電話を切った掛井広大が報告してくる。頷いた私は梶原勝に、違う席へ移るようにお願いする。最初についたテーブルに掛井広大だけを残し、私と梶原勝はカップルを装って、少し離れた席から様子を窺うことにした。

 そして十数分後。ついに憎んでも憎み足りない女が喫茶店へやってきた。同じく、憎んでも憎み足りない男へ会うために。


 喫茶店の扉が開く。姿を現したのは、私がよく見知っている女性だった。

 東雲杏里は、彼女を大切な友人だと思っていた。仲良くしてくれることに感謝していた。そして、心から信じていた。ファッションも彼女から学んだ。流行のお店も教えてもらった。一緒に遊ぼうと誘ってもらったのが縁で、友人も増えた。

 良いことづくめで、綺麗になればこんなに魅力的な友人と付き合えるんだと奇妙な勘違いをした。最終的に辿り着いたのは、惨めさしかない不毛な土地だった。ともに歩こうと誓っていた男性は直前で姿を消し、事前にとってくれていたチケットは約束していた場所へのものではなかった。

 すべてを捧げようと思っていた男性に裏切られた絶望は、筆舌に尽くしがたいほどだった。周囲の慰めも嘲笑にしか聞こえず、奈落の底へ叩き落された気分になる。よく他にも良い人がいるからとか、すぐに忘れる方が貴女のためだとか言う人間がいる。親切心のつもりかもしれないけれど、当事者である私にすれば無責任な言動としか受け取れなかった。

 きっとそうした人たちは、実際に本物の絶望を味わった経験がないのだろう。あのドス黒くて醜い世界は、地獄みたいなものだ。抜け出すには相当の労力と覚悟が必要になる。中にはついに脱出しきれず、悲惨な末路を辿る者もいる。そういう人を、テレビのコメンテーターなどは心が弱すぎると一喝する。

 そういう問題ではないと声を大にして叫んでも、そうした人たちには決して届かないだろう。何故なら、絶望の度合いが人によって違うのを認めてくれないからだ。自分の価値観を絶対と信じ、異を唱えている人間が、どうしてそのような行動をとっているのか考えようともしない。そうした大人の背中を見て育つからこそ、歪んだ子供が誕生する。

 身体的な特徴を持つ他者を異端と決めつけ、少数派をいじめという名で排除する。東雲杏里は間違いなく被害者だった。それでもいいと思っていたけれど、途中で考えを変えた。この世の中、何もしなければ勝手に被害者にされ、負け犬扱いをされる。屈辱を与えられても笑い続ける自信が、とうとう高校時代になくなった。

 人間が平等だというのであれば、私にも輝かしい未来を手に入れる権利がある。だからこそ、すべてを捨てて変わる決意をした。人によってはくだらないと笑うかもしれない。しかし、それは相手が持っている者だからだ。持たざる者は人生を賭けてでも、勝負をする必要がある。

 もちろん私の勝手な持論であり、反対意見は数多くあるだろう。けれどもう選択をした以上、今さら引き返すのは不可能だった。

「どうかしたのか。広大の恋人がテーブルについたぞ」

「……そう。ありがとう。別にどうもしていないから、心配しないで大丈夫よ」

 笑顔で正面に座っている梶原勝へ告げる。演技とはいえ、私と恋人同士のふりができるのだから、相手男性はまんざらでもなさそうだ。

 掛井広大の恋人が到着するまで時間があったため、相手側から見えなくとも、こちらからはしっかりと様子を窺えるポジションを確保できた。もちろん、声もきちんと聞こえる。

 私と梶原勝がこっそり見ているのも知らず、到着したばかりの女は呼び出した彼氏に「いきなり、どうしたの」と尋ねる。

 ゆっくり時間をかけても仕方ないと判断したのか、それとも嫌なことはすぐに終わらせたいのか。恋人の目を見ながら、いきなり掛井広大は本題を切り出した。

「……大事な、話があるんだ……」

 予想もしていなかった深刻な雰囲気に、恋人の女性が息を飲むのがわかる。明らかに動揺していた。昔は相手もしていない風だったけれど、交際年月が増えるにつれて感情も変化したのか、今では本物の恋人らしくなっていた。掛井広大を好いている様子が傍目からでも伝わってくる。第三者の目には、仲の良いカップルにしか見えない。

「な、何よ……真面目な顔をして。ど、どうせ、いつもみたいにくだらないことなんでしょ」

 場を包んでいる空気を嫌って、無理にでも明るくしようとしたけれど、女の目論見は無残に失敗する。掛井広大を笑顔にさせることは叶わず、ついに決定的な台詞を口にされる。

「俺と……別れてほしいんだ」

 女の顔に広がる動揺と絶望。本気で好いているからこそ、ショックを受ける。私にとっては歓喜の、彼女にとっては悪夢の始まりだった。


「ちょ、ちょっと待ってよ。それ、本気で言ってんの?」

「……ああ。本気だ」

 まともに動揺する女とは対照的に、掛井広大は覚悟を決めてましたとばかりに真剣な顔をする。恐らく恋人が到着するのを待っている間に、彼なりに自分の想いを清算していたのだろう。その後に待ってる私との交際を考えれば、今の苦しみなんて安いものと判断したのかもしれない。

 だからこそ、私に言われたとおりに、恋人との別れに臨んでいる。少なくとも1年は交際しているのだから、掛井広大にしても軽い気持ちだとは考えられない。今でも好意を抱いている可能性は少なくなかった。

 それでもこのような状況になっているのは、私が原因だった。本気で惚れてしまったがために、危険だとわかっていても引き返せなくなっている。

「理由は……何なの?」

「……他に、好きな人ができた。お前には、悪いと思ってる」

「――ふざけないでよ!」

 怒りとともに席を立った女が、声を張り上げた。東雲杏里の印象ではクールなイメージだったけれど、ずいぶんと直情的になっている。このような一面もあったのだと驚きはしない。人は他の誰かを本気で好きになれるからこそ、歪んだ感情を持つに至る。掛井広大に別れを切り出された女だって、例外ではないのだ。

「はい、そうですかって簡単に頷けると思う? 私が嫌になったのなら、はっきりそう言ったらいいじゃない!」

 私だけかもしれないけど、女性の心理にすれば、顔も見たくないほど大嫌いになったと言われた方が、まだ踏ん切りをつけやすい。恨んで憎んで泣いたあとで、次の未来を目指して歩き出せる。

 けれど掛井広大に、相手のそんな微妙な心境を理解できるはずもなかった。なるべく傷つけないようにと、オブラートに包んだ言葉で修羅場を終えようとしている。

「誤解しないでほしいんだ。決して、お前を嫌いになったわけじゃない。ただ単純に、他に好きな人ができた。俺が全部、悪いんだ」

「……っ! 悪いわよ! 嫌いじゃないけど、別れたい? 冗談じゃないわ!」

 一気にまくしたてる女の剣幕に、掛井広大が押され気味になっている。元々別れたくなかったのだから、強気に出れないのも当然だった。けれど、二股なんて行為が許されないのは当人もわかっていた。だからこそ、本命を選んだ。それが私こと優綺美麗だっただけの話だ。

 別れに納得できない女は徹底して彼氏を非難しているけれど、この場から決して立ち去ったりしない。まだ未練がある証拠だった。

「頼む……わかってくれとはいわない。でも、仕方がないんだ」

「仕方がないって何よ! 意味わかんない!」

 カフェには私と梶原勝を含めて、結構な数のお客さんがいるけれど、女に気にしてる様子はなかった。完全に取り乱しており、周囲の目も構わずに喚きたてる。

 見苦しい――。それが名前も忘れた女へ抱いた感想だった。私にあれこれと教えてくれた当時の格好よさなど微塵もない。単にヒステリックなだけだ。

 掛井広大に対してもそうだったけれど、自分が成長して再び会ってみると、いかに取るに足らない存在だったのかがわかる。それに気づけないくらい、東雲杏里は変わったばかりの自分に、異性から好意を寄せられるようになった己に酔っていた。

 恥ずかしく、そして忌まわしい過去。だからこそ払拭するのを求めて、私は優綺美麗としてこの場にいる。

「大体、他に好きになった女って誰よ? 私の知ってる奴なの? 今すぐ、連れて来なさいよ!」

 顔は見えなくとも、掛井広大が困った表情を浮かべているのは想像に難くなかった。

 出番だ――。確信した私は席を立ち、掛井広大たちが言い合っているテーブルへ向かう。緊張で鼓動が加速するけれど、ここは絶対に避けて通られない場面だった。

「アンタ、誰よ」

 いきなり現れて、掛井広大の背後に立った私を見るなり、目を見開いた女は喧嘩腰に声をかけてきた。


 整形したてで、出会った当初の女は非常に頼もしく見え、面倒見の良い姉貴分的な存在だった。そうした性格のおかげか、周囲にはいつもたくさんの人間が集まっていた。男女問わず大きな輪ができていて、中心には必ずといっていいくらいに彼女がいた。友人でありながら、東雲杏里には憧れの存在でもあった。

 整形手術をしたと露見した際も、彼女は美を追求するのは悪いことじゃないと肯定してくれた。数少ない理解者だと思っていた。心から信じていた。それなのに裏では、当時付き合っていた私の彼氏と逢瀬を楽しんでいた。しかもたいして好みではないけれど、押し切られたので仕方なくといったニュアンスだった。

 以来、私は心から人を信用できなくなった。誰もが大切なのは自分であり、いざとなれば大の親友であったとしても平然と裏切れる。予測ではなく、現実の経験談だった。

 所詮、人は利用し、利用されるだけの関係にしかなれない。それを友人と呼ぶのだと、認識するようになった。正しいのか、間違っているのかはたいした問題ではない。それが世の中というものなのだ。

 考えてみれば、私も綺麗になるために彼女を利用した。おかげでファッションに関する知識もだいぶ深まった。その代わりに彼女は私を引き立て役として利用し、自らの価値をより高く見せていた。

 どちらも悪くはない。何も知らずに、無償で優しさを提供して貰えると考えていた東雲杏里という女が愚かすぎただけだ。だからこそ、すべてを理解した上で私――優綺美麗は利用し利用されるだけの関係を構築する。

 己のトラウマを払拭するためだけに近づいた掛井広大も、そのうちのひとりだ。利用する代わりに、美しくなった私とのひと時を与えた。両者にメリットがある実に素晴らしい関係だ。

「だからアンタ、誰なのよ」

 何も言わない私に、苛立ちを隠せない様子で女が再度、先ほど同じ質問をしてきた。捨て去ってきたはずの顔を無意識に思い出してしまったせいで、知らず知らずのうちに無言の時間ができていた。

 普通の相手ならば失礼にあたるけれども、前方にいる女にそのような感情は持たない。苛立ちを見せるほどに、楽しさがこみあげてくる。

「私が誰かわからないなんて、頭が悪いのかしら」

 クスリとする私を見て、ますます女は怒りで顔を歪める。顔立ちは整っている女性なのだけれど、面影は少なくなりつつある。

「自己紹介もしないで、そんなことを言う方がよほど頭が悪いと思うけど?」

「あら、ごめんなさい。勘違いをしていたわ。頭が悪いというより、品がないだけだったみたいね」

「……っ! もういいわ。ちょっと、この女は何なのよ!」

 私と話していても埒が明かないと判断したのか、女は恋人である掛井広大に向かって話しかけた。

 答えはわかっているはずなのに、修羅場独特の雰囲気に気圧されたのか、掛井広大は口をもごもごさせるだけで明確な言語を話せていない。見事に男らしくない態度に、思わず苦笑する。

「これまでの話の流れと登場するタイミングで、多少なりとも知能のある生物なら理解できるはずよ。もっとも、貴女は別みたいだけどね。だから、恋人に愛想を尽かされるのよ」

 怒りと動揺で思考回路の働きを鈍らせていた女も、この台詞でようやく私が何者なのか気づいたみたいだった。

「へえ、そう。アンタが泥棒猫なんだ。人の男、寝取って恥ずかしくないの?」

 自分のことを棚に上げて、よく言えるわね――。もう少しで、この台詞が口から飛び出そうだった。

 彼氏を奪われたのは、東雲杏里という憐れな女性であり、私――優綺美麗には何の関係もない。迂闊な発言は綻びを露呈し、下手な疑いを招く恐れがある。慎重になりすぎるくらいで丁度よかった。

「誤解を招く発言は止めてもらえるかしら。申し訳ないけれど、私は彼と1度も寝てないの。だから寝取ったという表現は相応しくないわ」

 余裕綽々で笑う私とは対照的に、正面に座っている女の顔は引きつりまくっている。

「正しく表現するのであれば、彼が勝手に私の後をついてきただけ。この場合は、側を離れられた貴女の魅力の無さを憂うべきではないかしら」

「な、な……!」

「ウフフ。何か反論があるかしら。あるなら、聞いてあげるわよ。好きなだけしてちょうだい」

 言いながら私は、あえて掛井広大の横へ座る。ごく自然に、それが当たり前であるかのように。

 瞬間的に、女の瞳の奥に宿る嫉妬の炎が激しく燃え上がる。よほど掛井広大を奪われるのが嫌らしい。ますますもってこちらに好都合な展開だと、私は内心でほくそ笑んだ。

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