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運転席には掛井広大が、そして助手席には友人男性の梶原勝が乗っている。私はといえば、ひとり後部座席に陣取っている。普段は助手席が指定席だけど、今回は梶原勝に譲った。その際の掛井広大の表情は、今思い出しても笑えてくる。
隣に座って運転できない。たったそれだけのことなのに、この世の終わりみたいな顔をしたのだ。私には些細な出来事でも、掛井広大にとっては何より大事だったのだろう。疑いようもなく、掛井広大は私にベタ惚れだった。車の席を決める時の光景でも、それがわかる。あとはどう料理をするか。考えるだけでワクワクしてくる。
もしかしたら掛井広大も、何も知らない東雲杏里を攻略している最中はこんな気持ちだったのかもしれない。持つ者だけが、持たざる者へ行える特権なのか。だとしたら、ろくでもない特権だ。
やがて車が止まったのは、高級なレストランだった。話は聞いているだろうに、梶原勝は到着した店の外観を見ただけで絶句する。
「お前……本当に、こんな店でよく食事をしてるのか」
ややかすれた声で梶原勝が、友人の掛井広大へ尋ねる。どうやらこういった店には縁がなかったらしく、入る前から独特の雰囲気に気圧されている。
「当たり前だろ。俺はお前と違うの。このぐらい、余裕だって」
胸を張って、得意満面。掛井広大は完全に調子に乗っている。長くなった鼻をへし折るついでに、からかっておくことにする。
「最初は、ろくにマナーもわからなかった坊やがよく言うわね。ずいぶんと立派になったものだわ」
すぐさま掛井広大は、痛いところをつかれたとばかりに「うっ」と口ごもる。それを見ていた梶原勝が、やっぱりなみたいな感じで笑う。
笑うなよと友人へ食ってかかりそうな掛井広大を左手で制し、私は入店をするように2人へ勧める。
「いつまでも、お店の前ではしゃいでいても仕方ないでしょう。それとも、怖気づいたのかしら」
最後の言葉は2人にではなく、梶原勝ひとりだけに向けたものだ。わかっているがゆえに、相手は「そんなことはない」と声を荒げる。
「疑った詫びもある。今夜の食事は俺が全額もつ」
「お、おい。勝手なことをするなよ。別にお前に奢ってもらう必要はないんだ」
料金の支払いイコール男らしさと、独自の概念を持つに至った掛井広大が慌てて友人を止めようとする。私にすればどちらが食事代を支払おうと別に構わないのだけど、なにより良いところを見せたい掛井広大には、梶原勝の言動は暴挙も同然だったに違いない。
「とりあえず中へ入りましょう。代金の支払いはあとで決めればいいわ。だけど……私が言うことを聞いてほしいのは、支払いの件ではないわよ」
梶原勝は私に免許証を提示させる際に、名前が偽名でなかった場合は、何でも言うことを聞くと宣言している。相手の目を見れば、こちらへの疑念が完全に晴れてないのがわかる。だからといって、口にした約束を反故にするつもりはないみたいだった。
「わかってる。それとは別に、支払いもすると言ってる。俺を見くびらないでくれ」
古臭い感じは否めないのだけど、梶原勝はそれが格好良いと思っているのだろう。価値観は人それぞれなので、あえて下手なツッコみは入れないでおく。機嫌を損ねて、あれこれ探られるのはごめんだった。免許証の一件で、せっかくおとなしくなってくれているのだから、しばらくはこのままでいてもらった方が都合が良い。
「それは失礼。なら、そろそろ本当に入店しましょう。このままだと、そのうち怪しんだボーイさんが店内からやってくるわよ」
三度入店を促したところで、ようやく掛井広大と梶原勝は目先の問題を棚上げにして、私の忠告に従う意思を示してくれた。夜の闇の中で存在感を示すように高級感溢れる輝きを放つレストラン。ここが私と梶原勝との第二ラウンドの舞台になる。
ボーイに案内されて席に着く。全員が二十歳を過ぎているので、食前酒を頼んで前菜が運ばれてくるのを待つ。高級レストランの雰囲気になれていないのか、入店した時から梶原勝はどことなく挙動不審気味だった。そんな友人の様子を、ここ最近の経験で自信をつけた掛井広大が見下したように眺める。
自分も散々私の前で失態を演じてきただけに、デビュー戦で好成績を友人に上げられるのは嫌なのだろう。ますます器の小ささが目立つワンシーンなのだけど、幸か不幸か掛井広大はその点にまったく気づいていなかった。
やがて料理が運ばれてくると、掛井広大は先に手をつけずに、友人の梶原勝がどのようにして食べるのかを観察しようとする。本当に仲が良いのかと、傍で見ていて疑いたくなる。
やや躊躇っていたものの、男は度胸とばかりにフォークを掴んで、前菜を食し始める。どこぞの牛丼店みたいに、ガツガツと調理された野菜をかきこむ。品性などは微塵もなく、明らかにレストラン内で浮いた存在になっている。
その様子を、やはり楽しげに掛井広大が眺める。次にどうするのか黙って見ていると、程なくして勝ち誇ったように優雅な食事動作を友人へ披露する。
あまりにマナーが酷いと「私に恥をかかせないでほしいわね」といった辛辣なひと言を浴びせてきた。いつ脱落してもおかしくない状況下で、重ねてきた努力が実を結んでいる。
完璧とまではいかなくとも、同席している人間から笑われるようなレベルではなくなった。だからといって調子に乗っていたら、己の底の浅さを示しているようなものだ。もっとも、掛井広大にそこまで求めるのは酷だとわかっていた。
「ナイフとフォークはこうやって使うのさ」
メインディッシュが運ばれてくるまでに、様々な料理を使って、掛井広大は梶原勝に己とのレベルの差を教えようとする。そして、そのたびにちらちらと横目で私を見てくる。自分の方が優れてると証明したいのだろうけれど、初心者も同然の友人を相手にそこまでする必要もない。
高級レストラン独特の空気と、本格的なフォークとナイフを使ったマナー。見るからに無骨そうな男性が、順調にこなしていけるはずもなかった。
「すまないな。こういう店は不慣れだ……」
初対面時にあれだけ勝気だった男性が、目の前の食事と悪戦苦闘しながら弱気な発言をした。掛井広大はこれで勝ったとでも言いたげだけど、最初から梶原勝と比較してるつもりはない。従って私は、マナーレベルの差をたいして気にしていなかった。
「誰にでも不慣れなことはあるわ。それに貴方は慣れてないみたいだし、知ったかぶりをしないで、素直に経験不足なのを説明すれば、あまり気にしなくても大丈夫よ」
掛井広大と初めて食事をした時とは、雲泥の差の対応を見せる。それだけで、つい先ほどまで得意気だった男が嫉妬に狂いそうな表情を見せる。わざとジェラシーを覚えさせるという計画ではない。梶原勝に悪印象を与えない応対に終始していたら、いつの間にかこうなっていただけの話だ。
料理も終わって食後のワインを楽しんでいると、掛井広大がトイレのために席を立った。本音をいえば、私はずっとこの瞬間を待っていた。掛井広大が席を離れたのを確認してから、いよいよ本題とばかりに、私は梶原勝へ話しかける。
「何でも言うことを聞く……っていう約束は、覚えているわよね?」
もちろんだと、梶原勝が頷く。男気溢れる性格をしているらしく、何があっても約束を違えるつもりはないみたいだった。ともすれば暑苦しい性格でしかないけれど、こと約束事に関しては頼りになる。私は梶原勝が登場した時から、ずっと考えていた計画を実行する。
何を言われるのかと構える相手男性へ向かって、私は恐らく梶原勝が想像もしていないであろう言葉を口にする。
「これからも、彼の友達でいてあげてほしいの」
一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたものの、すぐに梶原勝は真顔になって「何を今さら」と呟いた。
「わざわざ言われなくても、俺は最初からアイツの友達だ」
「ウフフ。そうね。そのとおりだわ、ごめんなさい」
自らに非があるとばかりに、謝罪する私を意外そうな目で相手が見てくる。当初、抱いていた印象と、実際に出会って話した印象が大きく異なるので戸惑っているのだ。
殊勝な一面をあえて見せ、こちらが高慢ちきな女性ではないと認識させる。遊び慣れている男性ならともかく、真面目そうな梶原勝にはうってつけの策略だった。
「……どうして、そんなことを言うんだ?」
念のために聞いておくといったニュアンスで、梶原勝がこちらの発言の真意を確かめようとする。
「貴方が私の素性を確かめようとした理由と一緒よ」
両手を膝の上へ置き、背筋を伸ばした状態で相手の目を見つめ返す。冗談や誤魔化そうとしているわけではなく、真剣な理由だと相手へ教えるためだ。
良く言えば真っ直ぐ。悪く言えば単細胞な梶原勝は、簡単に私の意図どおりの反応をしてくれる。少々、物足りないくらいではあるけど、あまり調子に乗りすぎると失敗する。計画どおり事が運んでいるからと慢心したりせずに、最後の詰めを行う。梶原勝に信頼されるも疑われるも、ここでの出来如何にかかってくる。
「貴方も心配していたとおり、彼は少し素直すぎるところがあるでしょう。騙されたりしないためには、勝君のようなお友達が必要だわ」
出会ってまだ間もない男性を、君付けとはいえ下の名前で呼ぶ。喜ぶ対象が多い一方で、いきなりの馴れ馴れしさを嫌う人間もいる。印象的には後者に見える梶原勝に、この手法を使ったのはある種の賭けだった。多少のリスクを負う必要はあるけれど、リターンがあれば大きいはずだ。
結果として私は賭けに勝った。ほんの数秒程度とはいえ、相手が顔を赤らめたのを見逃さなかった。まんざらでもない感じから察するに、少なからず梶原勝はこちらに好意を抱いている。そこまでわかれば、ある程度は強めに押していける。とはいえ、やはり図に乗るのは厳禁だった。油断したがゆえに勝利目前で敗北するなんてケースは、いくらでも現実に転がっている。
「だから……お願いね」
極上の笑みを作ってお願いする。望みどおりの美貌を手に入れて以来、宿泊しているホテルの鏡を使って何度も練習してきた。成果は上々で、掛井広大程度なら一発でKOできる威力がある。
「だから、言われなくてもわかっている……任せておけ」
無愛想な応対に見えるけれども、これまでと大きく違っているのは、台詞の最後に小さく付け加えられた「任せておけ」のひと言が証明している。
友人の掛井広大と親しくしている女性だけに、梶原勝が私に横恋慕する可能性は低い。仮に惚れたとしても、想いをきっと心の奥底に隠しておくだろう。そういうタイプの男性だ。
「ありがとう。これで私も、少しは安心できるわ」
懲りずに私が微笑みかけると、つられたように梶原勝もぎこちない笑みを見せた。そのあとに小さく「フン」と鼻を鳴らして、ぶっきらぼうにするあたりはご愛嬌といったところだ。
頭の中に描いていたとおりに、梶原勝を陥落させてからややして、掛井広大が席へ戻ってきた。そのあとは余計な疑念を抱かれたりせずに、解散するまで楽しげな雰囲気が維持されていた。
梶原勝と知り合って以降、私は彼と頻繁に連絡をとるようになった。掛井広大とのメールをする頻度は少ないままなのに、である。
こちらは掛井広大とのことを真剣に相談する体を装っているので、梶原勝も本気になって応じてくれる。
けれどやりとりの内容は秘密にしてほしいとお願いしているため、掛井広大へ漏れたりはしない。こういう点でも、男気溢れる性格の人間は便利だった。
どこからか私と梶原勝が親密にしてると聞いたのか、掛井広大の不機嫌さがとある日に最高潮に達する。メールではなく、直接会って話をすることになった。
待ち合わせは私が東雲杏里だった頃に、よく通っていたカフェだ。あえてそこへ梶原勝を連れて行く。
誤解されているので、助けてほしい――。このようにお願いすれば、一発だった。私は梶原勝とともに、掛井広大の待つ喫茶店へ入る。
「――っ! やっぱり、そういうことだったのかよ」
歯軋りが聞こえてきそうなくらい、並んで入店した私と梶原勝の姿を見て、掛井広大が悔しがる。もちろん、相手が想像しているような関係にはなっていない。完璧な誤解だった。もっとも、そうなるように誘導したのは他ならぬ私だ。掛井広大のリアクションも、十分に想定の範囲内だった。
だがこちらの計画をまったく知らない2人の男性は、正面から激しく言い合う。やれ誤解だの、やれ言わなくてもわかっているだの、好き勝手な言動がお昼のカフェ内で乱れ飛ぶ。あまり混んでないとはいえ、お客さんは他にもいる。否応なしに私たちは注目の的になる。傍から見れば、ひとりの女――つまりは私を、2人の男が全力で取り合ってるようにしか見えないはずだった。
「どうして、俺じゃ駄目なんだよ!」
友人の梶原勝を押し退けて、掛井広大が私へ詰め寄ってくる。逆上した男に迫ってこられるパターンも、頭の中には存在している。
「理由なら、貴方が一番よく知っているでしょう。自分の胸に手を当てて、聞いてごらんなさい」
東雲杏里時代に働いていたスナックで、強面の酔っ払い客に散々絡まれて怖い思いをしてきた。それに比べれば、掛井広大の迫力はまだまだ子供みたいなものだ。優しく告げてあげたのだけれど、掛井広大は私が何を言ってるのか、いまいち理解できていないみたいだった。仕方がないので、単刀直入に理由を教える。
といっても、私が口にしたのはひとりの女性の名前だった。心当たりがある掛井広大は、まともに顔を蒼ざめさせる。
掛井広大の親友である梶原勝も当然、女の名前を知っていた。けれど彼女が恋人だとまでは知らないみたいだった。
「お前……まさか、二股をかけてたのか!?」
初めて梶原勝が、親友に対して怒りを爆発させる。曲がったことが嫌いな人間らしく、不誠実を働いていたと知れば友人でも容赦はしない。止める間もなく掛井広大の胸倉を掴み、今にも殴りかかりそうなほど憤る。 このような展開になるのも予測済みだった。私とのデートについてきた梶原勝は、明らかに不正行為を許すようなタイプではない。なのに私を、恋人のいる男を誘惑するなと罵ったりしなかった。その時点で、掛井広大が親友のはずの梶原勝に、彼女の存在を秘密にしてると確信した。だからこそ、この場で二股をかけられてる事実を公表したのだ。
激情に支配されている梶原勝を、落ち着くように私がなだめる。深呼吸して、とりあえず怒りを抑えこんだ梶原勝が、掛井広大の胸倉から手を離す。すると相手男性は、その場に力なく座り込んでしまった。その態度が二股の事実を証明しており、現場に酷く気まずい空気が流れる。
項垂れる掛井広大を冷めた目で眺めながら、私は「甘く見られたものね」と声をかける。
「二股をかけるような不誠実な男に、簡単になびくと思っていたのかしら。お生憎様ね。私はそんなに安くないの」
冷淡な口調で言い放つと、話はこれで終わりとばかりに、私はカフェに床に座り込んだままの掛井広大へ背を向ける。




