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ただ美しく……  作者: 桐条京介
第1部
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 時間が止まっていた。ここがどこで、自分が何者なのかもわからない。本当にショックな出来事があると、人は何もできなくなるのだというのを知った。目の前に広がる光景が、まるで絵本の中の出来事みたいに現実味がなく感じられる。けれども、紛れもない現実の1ページなのだ。

 認めたくない現実を、一生懸命理解しようとする頭脳。相反する感情の対立に、思考回路がショートして、文字どおり何も考えられなくなる。

 不意に私と掛井広大の目が合った。どうしてここに――? 驚きで見開かれた男の瞳はそう言っていた。同じベッドに入っている女性が、罰の悪そうな顔をする。しかし謝るでもなく、どこか他人事みたいに頭をポリポリ掻いている。

 ベッドサイドにあった小さなテーブルに手を伸ばし、最近では吸う女性も増えてきた煙草を掴む。中から1本を取り出し、口に咥えてから火をつける。喉がスーっとする感じが、またいいのよね。メンソールの煙草を吸っている女性が、以前に言っていた台詞を急に思い出す。

 どうしてこんな時に……。強くなる絶望と悲しみが、私の両目から雨のように涙を降らせる。

「――ちぇ。もうバレちゃったか」

 謝罪でもするのかと思いきや、なんと掛井広大は悪びれもせずにそう口にした。しかも、バレたら仕方ないとばかりに笑っている。ますますどういうことかわからなくなった私は、口をポカンと開いたままで相手男性を眺めているだけだった。

「つまり、そういうことよ。最初は掛井なんて、どうとも思ってなかったんだけどね」

 女が笑う。

「酷いな。いつも綺麗だねって、褒めてただろ」

 男がむくれる。

 何だ。このやりとりは。何が起きているの。私は起きてるの? これは夢なの? 簡単にはほどけそうもないぐらい、混乱の糸が私の頭の中でこんがらがっている。

 言葉もない私をまるで置物みたいに思ってるかのごとく、掛井広大と友人だと思っていた女性がイチャイチャし始める。

「あ、そうだ。誤解しないでほしんだけどさ。俺、杏里のこと真剣だったんだぜ。本当に可愛いとも思ってたし」

 ――だったら、どうしてなの。口にしたい質問が声にならない。唇も動かせないままに、相手男性の言葉を聞かされる。

「でもさ、こいつの方が綺麗じゃん。それが落とせちゃったんだから、しょうがないっしょ。もうちょっと杏里とも続けようと思ってたけど、嫌なら別れていいよ」

 さらりと言ってのける男の無神経さに、頭がどうにかなりそうだった。しかしそれ以上に理解できないのは、友人の彼氏だと知っていながらベッドをともにしている女の方だった。

「落としたとか言わないでくれる? 私はそんなに簡単じゃないんだけど」

「わかってるって。でも、すぐにメロメロにしてやるから、見てな」

 完全に2人の世界へ突入しようとしている。この場において私は、単なる邪魔者でしかなかった。

「あれ、まだいたの? なんなら、杏里も混ざるか?」

「アハハ。からかったら悪いわ。床に落としたレジ袋を見なさいよ。色々な食材があるじゃない。きっと掛井にご飯を作りに来てくれたのよ」

「ああ、レポートを作ってるっていう嘘を真に受けたんだ。杏里はいいお嫁さんになれるよ。これお世辞じゃなくて、本心」

「それで最後には愛人に夫を奪われるの? ウフフ。それはさすがに、かわいそうすぎるでしょ」

 部屋に響く嘲笑が、早く出て行けと私に告げる。手から落ちた荷物を拾いもせずに、背中を向けた私は一目散に駆け出した。

「ひっ……ひっ、うう……っ」

 掛井広大の家を飛び出して、しばらく走った私はようやく声を出せた。嗚咽交じりの悲鳴にも似た声を。


 夜のカーテンが降りた街は、日中とはまた違った顔を見せ始める。いわばすっぴんに、ネオンという化粧を施すようなものだ。煌びやかなネオンはまるで誘蛾灯みたいに、様々な職業の人々を呼び寄せる。サラリーマンやOLだけではなく、学生らしき若者の姿も多数見受けられる。

 先ほどから雨が降り出してきた天を見上げ、若い男女がキャッキャッとはしゃいでいる。きっとカップルなのだろう。2人の間には、確かな愛情が見て取れた。

 視界の隅に映っていたカップルを置き去りにして、私はひたすらに自分の両足を動かし続ける。向かっている先は――どこかわからない。頭の中を整理できないまま、呆然と歩いてきた。ふと気がづけば周囲は暗くなっており、私は髪の毛からつま先まで雨に濡れてしまっていた。

 車のヘッドライトが流星みたいに通り過ぎていく街中で、男にフラれた女が雨にも降られている。どこぞの三流ドラマのワンシーンみたいだ。不意におかしくなってきた私は、その場に立ち止まって声の限りに笑ってみた。向けられる好奇の視線など、知ったことではなかった。

 悲しすぎる現実は、時として喜劇のごとく愉快に思えてくる。一度笑い始めると、なかなか止められない。通行人の目が、何がそんなに面白いのかと尋ねてくる。誰かに質問されたなら、迷わずに私は「さあ」と答える。相手をからかったりしてるわけではなく、本当に今、自分がどうして笑っているのか、理由がわからないのだ。

 本降りになってきた雨が、容赦なく私の顔面にぶつかってくる。これでもかと突撃してきたあとで地面に落ちるけれど、足元を濡らしているのは雨水だけではなかった。

 ――泣いていた。土砂降りの雨にも負けないくらい、私は泣いていた。そして笑っていた。悲しみと滑稽さがごちゃ混ぜになり、自分の感情でさえも把握できなくなる。

 どうしてこうなったのだろう。落ちてくる大きな雨粒ひとつひとつに、その疑問が含まれているみたいだった。どれだけ悩んでも答えを見つけられないから、私はあてもなく夜の街を彷徨っている。整形手術をした。オシャレも勉強した。スタイルも良くなったし、料理も上手になった。

 それでも愛し合っていたはずの恋人は、信頼していた私の友人と新たな愛を育んでいた。努力はすべて無駄だったのだろうか。そう思うと、涙が止まらなくなる。

「どうすればいいの……どうすれば……」

 自分では見つけられない解答の手がかりを得ようと空に救いを求めるも、分厚い暗雲は美しい月を私に紹介するのを拒んだ。

「――っきゃ!」

 上を見て歩き続けていれば、足元の注意が疎かになるのは必然で、バランスを崩した時にはもう手遅れだった。

 水泳の初心者が飛び込みを敢行したみたいに、お腹から地面へダイブした。この頃にはだいぶアスファルトも濡れていて、文字どおり私は雨にまみれる形になった。たまたま近くを通りかかっていたカップルが、酷く同情的な視線を傘の中から2人分送ってくる。

「ウフフ。ベタね……これじゃ、本当に……三流ドラマのヒロインじゃない……」

 なんとか地面に手をついて立ち上がった私は、再び笑いながら泣くのだった。


 目を覚ました私は、見慣れた天井に少しだけ安堵する。上半身を起こして、室内を見渡す。間違いなく、ここは自分の部屋だった。

 雨の中、ひたすら泣き続けた。だるさと寒さで頭がボーっとしてきて、それからあとのことはあまり覚えていない。

「……はっくしゅ」

 飛沫が宙に舞うくらい、派手なくしゃみがでた。起床後なのに身体のだるさがとれるどころか、逆に辛くなってる事実に気づく。ヤバいかもと額に手を当ててみると、明らかに熱っぽい。考えてみれば、ほぼひと晩中雨に濡れていただろうから、風邪をひいて当然だった。

 自分の格好をよくよく見て見れば、いつも着ているパジャマではなく、外出用の洋服を着用している。昨日とまったく同じ格好である。

「……夢じゃ……ないんだよね……」

 すぐに体温計で熱を測ろうとするわけでも、パジャマに着替えようとするわけでもなく、私は小さな声でそう呟いた。勝手に脳裏に浮かんでくる昨日の光景。初めてお邪魔した彼氏の部屋で目撃したのは、白昼堂々の浮気現場だった。

 散々酷いことを言われたのに、ツカツカと近寄って掛井広大に平手打ちひとつできなかった。怒りよりも、悲しみよりも絶望だけがあった。今日になっても、掛井広大と友人だと思っていた女性の姿が浮かんでくれば、涙で視界が滲む。

 一体どうしてこんなことになったんだろう。考えている最中に、またくしゃみをする。昨日と同じ服装をしてるのだから、私は帰ってきてまだ着替えてないという結論に達する。濡れた服を乾かしもせずに着続けているのは、どう考えても健康にプラスとは思えない。

「食欲も……ないよね……」

 呟いた独り言に応じてくれる者は誰もいない。最近は2人でいるのが当たり前だっただけに、私だけだと部屋の中がやたら広く感じられる。掛井広大のことを考えているとまた号泣しそうなので、風邪薬を飲んで無理やり眠ることに決める。

 昔から風邪薬を飲むと極端に眠くなる体質なのに加え、昨日の今日でとても大学へ行く気にはなれなかった。脇の下に入れていた体温計を取り出すと、ディスプレイには38度5分と表示されていた。やはり熱がある。

 手早く着替えた私は、再び休もうとしたけれど、ここである事実に気づく。シーツが濡れていて冷たいのだ。帰ってきてすぐに身体も拭かずに眠ったのであれば、シーツがびしょ濡れになるのは当たり前だった。だからといってシーツを取り替えている体力も気力もないので、風邪薬を飲んだ私は毛布を寝袋みたいに利用して眠ることにした。


 翌日以降、風邪の熱も原因のひとつではあるけれど、もっと他の理由から私は大学を休んでいた。考えられる限り最悪の恋人との別れが、深々と心をえぐって傷をつけた。しかも浮気相手は、友人だと信じていた女性なのだ。一気に人間不信になりそうだった。加えて、大学内でどのような噂が立っているのかも私を恐怖させた。

 だけどいつまでも毛布をかぶって眠っていても、事態は何も変わらない。高校時代の教訓を活かして、前へ進むことを決意する。案ずるより産むが易しという言葉もある。もしかしたら、私が考えているよりも最悪な展開にはなってないかもしれない。

 お出かけ用の服に着替えた私は、バッグを片手に大学へ出発する。丁度、今日は午前中に休みたくない講義が入っていたので丁度よかった。

 大学の敷地内へ入るなり、数人の学生が私を見た。声をかけられたりはしなかったけれど、目が合った全員が文句を言ってるような錯覚に襲われる。単なる被害妄想だと不安を心の中から追い出すも、靴を履いている両足は緊張と恐怖で震えていた。

 大丈夫……大丈夫……何かの呪文のように「大丈夫」を繰り返す。教室へ行って、いつもみたいに皆へ挨拶すれば、すぐに元の日常へ戻れる。希望的観測と言われようとも、それだけが私の最後の砦みたいなものだった。ほんの少しの可能性であっても賭けてみたい。そう思わずにはいられなかった。

 辿り着いた教室のドアを開け、ずいぶんと見慣れた面々が視界に飛び込んでくる。挨拶をしようと右手を上げかけたところで、想像どおりにいく現実などないのだと思い知らされる。友人だと思っていたグループの全員が、私を見るなりクスクス笑いだした。輪の中には掛井広大も加わっており、愉快そうに隣に座っている女性と会話している。

 その女性こそ、私の愛する彼氏とベッドを共にしていた友人だった。掛井広大に肩へ手を回されているが、嫌がる素振りを見せない。にもかかわらず、調子に乗らないでという態度が目つきに表れている。

 不意に私と該当の友人女性の目が合った。瞬間的に、相手は小さく笑う。勝ち誇ったような顔で。間違いなく、こちらが負け組に分類される。どちらが先に手を出したかなんて関係ない。私は男を寝取られたのだ。なんという惨めさなのだろう。なんという屈辱なのだろう。まるで目の前で火事でも起きているみたいに、視界がカーッと赤くなった。

「どうしたの、杏里。こっちに来て、座ったら」

 勝利を手にした女王が絶対的な余裕を持って、みすぼらしい奴隷に慈悲を与えようとする。とても残酷な慈悲を。

 受け入れられるはずのない私は、受けるべき講義だったはずなのに、気がつけば教室に背を向けていた。足早に教室から遠ざかっているはずなのに、私の背中には友人だと思っていた人々の嘲笑がいつまでもまとわりついてきた。

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