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ただ美しく……  作者: 桐条京介
第1部
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28

 交際が順調に続いていくうちに、恋人はいつしか私の部屋へ入り浸るようになった。だからといって不快に思ったりはしない。むしろ同棲しているような感じで、とても幸せな気分になれた。

 朝から大好きな男性のために食事を作り、美味しそうに食べてもらえる。それがこんなに嬉しいとは想像もしていなかった。中学、高校生時代から夢見ていた生活が現実になり、天にも昇りそうな気持ちで私は日々の生活を心から楽しんでいた。

 このまま大学卒業後には結婚をするのではないか。新たに芽生えた願望をベースに、暇があれば自分の未来をよく妄想するようになった。

 昔から異性にモテたであろう掛井広大は交友関係も広く、私が知らない遊びなんかも教えてくれた。交際期間が長くなっても、飽きたりすることはまったくなかった。相手男性の真剣な想いに応えたくて、求められれば何でも受け入れた。これほどまでの幸せがこの世にあったのか。そう思えるくらいに、私は人生で一番楽しいと思える時間を過ごしていた。

「今日は何時頃に帰ってくるの?」

 夏休みも終わり、いよいよ本格的な秋になろうというとある日。私はいつもみたいに、最愛の彼氏に電話をかけていた。

 これまでと同じアルバイトを継続しているが、かつて常連客だった糸原さんはお店に一切姿を現さなくなっている。できれば友達に戻りたかったけれど、相手が望んでいないのであれば私の我がままにすぎない。糸原さんには申し訳ない気持ちになったけれど、アルバイトをしていたかった私はお店を辞めることはまったく考えなかった。

 掛井広大との電話を終えたあとで携帯電話を充電器に差し込むと、私は鼻歌を歌いながらエプロンをつける。すでに夕方近くになっているので、愛する彼氏のために夕食を作ろうと考えたのだ。

 今夜は広大君が大好きなハンバーグにしようかな。それとも、生姜焼きとかの方がいいかしら。献立に悩む時間も、幸せで楽しかった。いつも上手だと彼が褒めてくれる料理の腕を駆使して、次々とテーブルの上に完成した品を並べていく。立ち上る湯気がとても美味しそうなにおいを漂わせる。

 準備も万端に整い、あとは主役である掛井広大の帰宅を待つばかりだった。作ったばかりのハンバーグを食べれば「美味しい」と、私が大好きな笑顔をくれるはずだ。その時が訪れるのをウキウキしながら待っていたのだが、次第に時計の針が気になり始める。普段ならもうやってきてる時間帯になっても、自宅のインターホンが鳴らないのだ。

 何かあったのかと心配して、掛井広大の携帯電話へコールするも繋がらない。圏外にいるのか、電源が入っていないみたいだった。不安になった私は何度も電話をかけるが繋がらず、結局この日は一睡もできないまま朝を迎えた。せっかく作ったハンバーグは相変わらずテーブルの上にあるものの、もう美味しそうな湯気を立ち上らせてはいなかった。


 警察に届けた方がいいのかな。待ち人が来ないままに迎えた朝、私は心臓をバクバクさせながらそんなことを考えていた。大好きな掛井広大の身に何かあったら……そう考えると、黙って座っていられなくなる。一睡もしてないはずなのに、眠気はまったくなかった。

 むしろ時間が経過するほどに目がさえて、不安ばかりが大きくなる。相手男性がどこにいるか知っていれば少しは安心できるのだけれど、相変わらず連絡はとれないままだった。

 やっぱり警察に連絡しよう。決意して携帯電話を手にした時、部屋のインターホンが誰かに押された。呼び出し音に気づいてモニターを見れば、玄関前によく見知っている男性の顔があった。掛井広大だ。

「広大君!?」

 いきなりの展開に驚きつつも、玄関へダッシュしてドアの鍵を開ける。

「やっ」

 朗らかな様子の掛井広大が、軽く右手を上げて顔を出した私に挨拶をしてくる。反射的に「おはよう」と挨拶を返したものの、そういう場合でないのは確かだった。

「い、今までどこにいたの? 心配したんだから」

 叫ぶように発して抱きつく私を、掛井広大は両手で優しく受け止めてくれる。そこにはいつもと変わらない温もりがあり、大好きな彼氏がこの場に存在している証明となる。

 きちんと説明するからと掛井広大が部屋へ上がろうとする。もともと彼を待っていたのだから、私に断る理由は一切なかった。

「昨日の夕食はハンバーグだったのか。失敗したな」

 食卓に上がっている料理の数々を見た瞬間、少しだけバツが悪そうに掛井広大が言った。

「実は昨日の夜。この部屋に向かってる途中で、偶然に中学の時の同級生と会っちゃってさ。懐かしいからって、そのまま飲みに行っちゃったんだよね」

「あ、そ、そうなんだ……」

 それなら連絡のひとつでもと思ったけれど、彼氏に嫌われたくない私は心の中の声を決して口にはしなかった。けれどこちらの疑問を察したのか、相手の方からその点についても説明してくれる。

「俺の彼女を紹介するよって、杏里を呼ぼうとしたんだけど、携帯のバッテリーが丁度切れててさ。しかも最悪なことに、充電してくれるとこが近くになかったんだよ」

 言いながら掛井広大が、自分の携帯を見せてくれた。確かにディスプレイは真っ黒で、電源が入っていないのがひと目でわかる。

「本当は夜のうちにここへ来る予定だったんだけど、酔い潰れちゃってさ。今の今まで、その友達のとこで寝てたんだ。心配しただろ、悪かったな」

 素直に掛井広大がペコリと頭を下げてくれたので、私に相手を追及する気持ちは微塵もなくなった。それにもとより怒っていたわけではなく、彼氏を心の底から心配していただけなのだ。恋は盲目とよく言ったもので、この時の私は相手の説明を砂粒ほども疑っていなかった。言葉をそのままに受け取り、安心から大きくため息をつく。

「本当だよ。すっごく心配したんだからね」

 ひと言だけ愚痴ると、すぐに私はハンバーグを温めるための準備を開始する。

「でも無事だったから、安心した。酔い潰れたなら、お腹空いてるでしょ。朝ごはん、すぐに準備するからね」

「サンキュー。助かるよ。だから杏里は好きなんだ」

「もう。おだてても、何もでないからね」

 今朝までの重苦しい空気が嘘みたいに、今の私の部屋は大きな幸せに満ちていた。


 論文を書くのが忙しくてさ――。その言葉を発した恋人の男性は、今もなお自分の部屋で缶詰になっているはずだった。心から掛井広大を信じている私にとって、相手の発言に疑うべき点は見つけられない。大変だなと心配するだけだ。

 そうした理由から、最近は私ひとりで大学に通っている。今日は午前中だけの講義なので、これからのスケジュールは空いている。なにか体力のつくものでも作ってあげようかな。そこまで考えたところで、私の計画は頓挫する。実はまだ相手男性の自宅を知らないのだ。

 会うのは大体が私の自宅だったので、あまり気にしたことはなかった。それだけに、今回がいい機会になるかもしれないと考えた。

 どうせならサプライズ的に、いきなり会いに行こう。彼だって私を愛してくれているのだから、喜んでくれるはずだ。となると誰かに掛井広大の自宅を教えてもらう必要があった。そこで私が目をつけたのは、よく一緒に行動している友人女性だった。

「ねえ、彼女を知らないかな」

 私はその女性と仲が良くて、掛井広大とも仲の良い女性に声をかけた。もちろん、こちらとも面識があるので不審者扱いされたりはしない。

「あ、杏里ちゃん。あの子なら、今日は大学に来てないよ」

「そっか……。あ、そうだ。広大君の自宅って、どこか知ってるかな」

「掛井の家? 知ってるけど、杏里ちゃんって確かあいつの彼女なんだよね」

「うん。そうなんだけど、私の部屋で半同棲みたいになってたから、あまり気にしたことがなかったの」

 嘘をつく必要もないので、私は素直に打ち明ける。すると、相手女性はそうなんだと納得して、広大君の住所を教えてくれた。

「前に1回だけ、他の友達と一緒に行ったことがあるだけだから、正確さには欠けるかもしれないけど、そこは許してね」

 笑顔を作りながら、小さなメモ紙に簡易的な地図まで書いてくれる。

「大丈夫だよ。ありがとう。それじゃ、またね」

 目的を達した私は、情報をくれた女性に手を振ると、すぐに大学をあとにした。まずは大学近くのスーパーで食材を調達してから、レジ袋を両手に持って掛井広大の自宅へ向かう。

 生まれ育った街ではないので、土地勘はまったくない。友人女性がくれた簡易地図だけが頼りだった。小さなメモ紙を片手に、見知らぬ風景の中を歩く。普通は不安になるものだけれど、私はひたすらウキウキしていた。なにせ大好きな彼氏の自宅を見られるのだ。緊張も不安も、期待に吹き飛ばされる。

「あった。ここだ」

 辿り着いたアパートの一室。ドアの前で私は深呼吸をする。表札には、確かに掛井と書かれている。どうやらこの部屋で間違いなさそうだった。

 初めてあがる彼氏の家。あまりにドキドキしすぎて、自分の心臓の音がやたら大きく体内に響いている。

「よしっ」

 いつまでも立ち尽くしていても仕方ないので、意を決して私はインターホンを押した。


 ――ピンポーン。確かに響く呼び出し音。なのに、誰かが出てくるような気配はない。もしかして留守なのだろうか。

 自宅にこもりきりで作業をしているだけに途中で食料が足りなくなり、近くのスーパーかコンビニへ買出しに行ったのかもしれない。もし予想のとおりならば、きっとすぐに帰ってくるはずだ。私は少しだけこの場で待っていようと考えた。

 しかし途中で、スケジュールの変更を決定する出来事が発生する。何の気なしに手をかけたドアノブが、抵抗なくガチャリと回ったのだ。鍵がかかってなかったらしく、ようこそいらっしゃいましたと言いたげに開いたドアが私を出迎えてくれる。ひょっとしたら、インターホンの音が聞こえなかっただけかもしれない。

「あの……広大君?」

 シンとしてる廊下へ声をかけるも、やはり何のリアクションも返ってこない。留守だとしたら、鍵もかけてないのはあまりに無用心すぎる。いくら恋人とはいえ、主の不在時に勝手に部屋へ上がるのは躊躇われた。親しき仲にも礼儀ありという言葉もあるくらいだ。

 けれどこみあげてくる好奇心と、最愛の男性の自宅から発せられるある種、独特なにおいに私は不思議な興奮を抱いていた。まるで大好きな絵本の中に迷い込んだ子供みたいに、おおはしゃぎしたい気分になる。

「お、お邪魔します……」

 しばらく悩んだ末に、私は留守を預かるという大儀名目を掲げて、掛井広大の自宅へお邪魔することにした。間取りは1DKといった感じで、フローリングの床は比較的新しいようにも見える。繁華街から少し離れている立地もあり、家賃は多少お得気味な感じかもしれない。

 廊下の正面にはドアがあり、そこを開ければ掛井広大が日々を過ごすスペースがあるのは用意に想像できた。歩いている途中でトイレとバスが一緒になったスペースを発見する。先ほどまでお風呂にでも入っていたのか、ほんのりとした熱気みたいなのが頬に伝わってくる。

「広大君……いるのかな?」

 だとしたら私がインターホンを押した際に、何らかの反応があっていいはずだ。やはり留守なのだと結論づけて、目の前まで近づいたドアを開ける。

「え――?」

 玄関のドアと同様に、こちらも鍵はかかっていなかった。けれど、それが最悪の展開を引き起こした。持っていた食材が入った袋が、ドサリと床へ落ちる。何が起きているのか、私はまだよく理解できなかった。

 部屋の隅に置かれたベッドの上。最愛の彼氏は、友人のはずの女性と抱き合っていた。

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