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短編集(恋愛)

ゴミ捨て場のカオル

作者: 卯花ゆき



 キャンパスのハルオ、六本木のダイチ、静岡のユウタ、本屋のサトル、大阪のケイスケ。


(それで、アイツがゴミ捨て場のカオル)


 村木香織の小さな呟きは、寒さのぶり返した二月の外気により、白い水滴となって窓を曇らせた。都心から離れた、閑静な市街地に立つ六階建てのアパート。築五年が経ち、所々ペンキの剥げてきた白い建物は、駅から程近い道路沿いに佇んでいた。その四階の北向きの一室から、香織はアパートの裏を通っている細い路地を眺める。男が一人、黒のロングコートを羽織って、ポリ袋に詰めたゴミを収集ボックスの中に仕舞い込んでいるところだった。ボックスのふたを開ける手つきや、袋を入れる動作が嫌に丁寧だったので、彼はA型に違いないという想いを、香織はますます強めた。

 彼がコートをかき寄せて身を震わせながらアパートに戻っていくのを見送った香織は、窓辺から身を離して、ミュートにしていたテレビの音量を戻した。チャンネルのボタンを押した途端、爽やかなBGMとともにアナウンサーが今朝のニュースを読み上げ始めた。ハートをデザインした赤い時計の短針は、五と六の間を指している。もこもこの部屋着をだらしなく着て、香織は面白くもないニュースに耳を傾けた。

『日本では、なかなか考え難いことですね』と、人気の女性アナウンサー。彼女が驚きを交えて紹介していたのは、中東の方にある「一夫多妻」を認めている国だった。「何人も伴侶を持てるなんて羨ましい」などと、口に出したことはないが、もしも「一妻多夫」を認めてくれる国があるのならば、香織はすぐさま国籍を移すつもりだった。

 高校生の頃、古典の授業で「源氏物語」を読んだ。冴えない中年の男性教師のお経のような朗読に眠気を誘われつつも、香織は、(なぜ私は、一夫一妻制の島国に生まれてしまったのだろう)と常々考えていた。自分は、光君のように、否それよりも遥かに上手く複数の異性を平等に愛せるだろうと自負していた。

―――どうして、夫は一人と決まっているの。

 誰かに呆れられたとしても、現在五人の恋人とそつなく交際し、其々から愛を勝ち得ている香織には馬耳東風、「相手が可哀そうだと思わないのか」と詰られたとしても、子犬が吠えている程度にしか感じない。その子犬とは、大抵が瞳を異様に潤ませたチワワ、何もできないくせに甲高い声でわめく負け犬である。テレビの前で口角を上げっぱなしでお喋りをつづける女子アナは、一体どちらだろう、チワワか否か。一瞬思案した後、どうでもいいことを考えてしまったと後悔して、チャンネルをwowowに変えた。画面いっぱいに広がったのは、なまめかしく動く一組の男女だった。二人は唇を貪り合い、瞼の下の爛々と輝いた瞳は、ちらともこちらを向くことはないのであった。



 二月三日、木曜日。

 朝からテレビをつけっぱなしにしてだらだらと過ごしていた香織は、一一時頃に昼食替わりのカップラーメンをすすって、正午過ぎにようやく家を出た。駅から二本電車を乗り継いで向かう場所は、大学のキャンパスである。真面目でも不真面目でもない二年目の学生生活は、一週間ほど前に終わりを告げ、今は春の長期休暇中である。大学生の休みと言うものは、うんざりするほどに長いのだが、勉学にそれほど熱心でない香織にとっては嫌と言うわけでもなかった。

 大学の最寄り駅から徒歩五分、キャンパス内にあるスターバックスに足を踏み入れてすぐに、待ち合わせていた人物は見つかった。自由の女神をデフォルメしたマークが入った透明なカップに、生クリームが山と盛られている。バレンタイン限定のドリンクが大々的に宣伝されていたが、香織が頼むメニューはいつもと変わらなかった。


「お前も相変わらずスッキだよなー、それ」


 テーブルで香織を待っていたのは、いかにも軽薄な金髪の男だった。膝が破れたデザインのジーンズに、革ジャンを着込み、ジャラジャラとチェーンやらピアスやらを見せつけている。男の視線は、香織がトレイに乗せてきたエスプレッソに向かっていた。


「別に、他に頼みたいものがないだけ」

「うわっ、その口調、冬に聞くと凍えそうだわ」


 ぶるりと身を震わせる仕草をした男の名は、ハルオという。同じ学部に通う同級生だった。

―――キャンパスのハルオ、と香織は呼んでいる。

 光源氏の恋人たちが、六条御息所とか明石の御方とか呼ばれたように、香織も光君を気取って男たちにニックネームをつけていた。


「それで、今日はどうするの?」


 最近めっきり太陽に会わないだとか、単位を落としたかもしんねえだとか、放っておいたらいつまでもマシンガンのように喋りつづけるハルオを遮って、香織は尋ねた。男はキョトンとした後、膝を打って、思い出したように尻ポケットを探りはじめる。香織は、半分ほどに減った薄茶色の液体を啜りながら、男が一枚の紙切れを取り出すのを待つ。


「このあと、六時からライブなんだ。来てくれるだろ?」

「ええ、行くわ。ただ、日付が変わる前には帰るわよ」


 そっけない口調に、男は大げさに嘆いた。拍子に薄いテーブルが揺れる。


「分かってるって。ホント、つれねえ女だな、恋人が自分のライブに誘ってるってのによー、褒め言葉の一つもねえ」

「ライブが成功したら、ね」


 ハルオはその言葉に俄然元気を取り戻したようで、再び間断なく喋りはじめた。

 六時きっかりに開始したライブは、学生によるものとはいえ中々上出来であり、帰り際、香織は約束通りハルオの唇にキスをした。ハルオは香織を引き留めたがったが、もう一度キスをして黙らせ、五日後にね、といつもの約束を交わして帰路に着いた。多分、次に会う場所はホテルかなと、漠然と予想しながら。



 二月九日、水曜日。

 先週の土日は、珍しく大雪だった。もう二月なのに、と眉を顰める反面、冬の終わりを感じて寂しくもなる。

 まだ白いものの残る裏路地を、香織はじっと見つめていた。カオルは、毎週火曜と水曜と木曜にゴミを捨てに来る。火曜と木曜は燃えるゴミの日、水曜は燃えないゴミの日である。彼はいつも南の玄関口から反時計回りにアパートを回ってゴミ捨て場にやって来て、帰りも全く同じルートでアパートに帰っていく。偶に、黒い鞄を抱えている時があるから、そういう日はそのまま会社に向かうのかもしれない。

 五分ほど待っていると、カオルがえっちらおっちら袋をぶら下げてやって来た。今日はいつもより多い、三袋である。先週まではロングコートだけの軽装備で現れたのだが、さすがに寒かったのか、灰色のマフラーを巻いていた。ぐるぐると首に巻きつけただけのマフラーは、遠目にも上等なものだとわかったのだが、いかんせん巻き方が雑すぎて(男らしいと言うのかもしれない)残念な態を晒していた。

 この不毛な観察をはじめたのは、今から半年前、うだるような暑さの夏だった。しかし、香織がカオルと出会った当初を思い出すには、さらに数年の時を遡らなければならない。

 その頃、香織は地元の静岡の高校に通う女子高生であり、彼女がまだ少女と呼ばれる時分だった一七の秋に、カオルはやって来た。

 鼈甲のフレームの眼鏡をかけ、緊張した様子もなくにこにこと微笑むカオルを、担任の教師が咳払いをしてから紹介した。


『今日から教育実習で、二週間皆と共に過ごすこととなった』


 そのあと、カオルの名前を口にしたはずなのだが、香織はさっぱり覚えていなかった。一之瀬だったか、市谷だったか、とにかく「いち」が付いたような気もするが、全く別の名字だった気もする。

『ほにゃにゃらカオルです(ここも香織の記憶にはなかった)。短い間ですが、皆さんと仲良くなれたらと思っています。至らないこともあると思いますが、精一杯尽くしますので、よろしくお願いします』と当たり障りのないことを告げて、カオルは教室を見回した。別段整ってはいないが線の細い顔に、女子生徒の幾人かがひそひそと言葉を交わし、嬉しそうに沸き立っていた。

 当時三人の男と付き合っていた香織が、数年後になってカオルを思い出せたのは、偏に、名前が似ていること一点に尽きた。自分と一字違いの女みたいな名前、という失礼な感想を、当時の香織は抱いていたのである。

 もう一つだけ、彼に関する記憶を喚起するならば。


『やさしいんだね、君は』


 教育実習最後に日に、彼はそう言った。

 空を赤く染め上げる、夕日が、窓際の列の机をオレンジに照らしていた、放課後の教室。たった二言三言の会話を、二人は交わした。カオルの顔面が真っ赤で、血しぶきを浴びたようだと思ったことは、何故か覚えていた。DVD‐BOXまで買ってしまった、未だに見返すこともある、好きだった海外ドラマのせいだな。数年ぶりにカオルを見かけた去年の夏、香織はようやくそのことに思い至ったのである。


 キャンパスに向かう電車とは違う路線を使って、一時間弱をかけてたどり着いたのは、六本木駅。学生街の騒がしさとは異なる、オフィスが立ち並ぶ街。一番出口を出て、一際目立つ背の高いビルまでさっさと歩いて行く。建物内に足を踏み入れると、ほっとするような人工的な温かさに包まれた。背後で自動ドアが閉まる気配がして、一秒もせずにまた開いた。きらびやかなビルは、絶え間なく人間を飲み込み吐き出している。

 エスカレーターで三階まで上り、そこから通路を伝って別の棟に移動した。「現代アートの巨匠、集結」と銘打たれた美術展のチケットブース付近に、ピンと背筋の伸びたサラリーマン風の男が佇んでいた。頬から顎にかけての線がすっと通っていて、それが男の酷薄そうな雰囲気を一層魅力的なものにしており、男盛りと言うのだろうか、何人かの女性が男をちらちらと見やっていた。

 香織は、焦ることもなくゆったりとした足取りで男の元へ向かって行く。精悍な顔つきが香織に気付き、笑み崩れる。


「香織、久しぶりだね。会いたかった」

「そうね、十日ぶりかしら」


 近寄り、彼の眼もとに触れて、「今日は隈はないみたい」と、安堵するでもなく淡々と感想を述べる。

 男はダイチと言った。六本木のダイチ。


「前にあった時に、パンダみたいだと言われたから。最近は気を付けていたんだ」

「いい心がけね。前回は、こっちまで滅入りそうな顔色をしていたもの」

「だから、一度会うのを我慢したんじゃないか。おかげで一週間以上も香織に会えず地獄を見た」

「大した地獄だこと」


 香織はくすりと笑みを漏らすと、久しぶりに会った年上の恋人の首に腕を回した。周囲を気にしない行為だったが、ダイチの方も気にした様子はなく、嬉しそうに抱擁を返す。しばらく恋人同士の触れ合いを楽しんだ後、ダイチがあらかじめ用意しておいた前売りチケットを係員に渡して、二人は美術展を見て回った。

 現代アートというものは、ルネッサンス等の厳かな芸術作品よりも更に香織の関心からは縁遠かったが、ダイチはポップアートなるものが好きらしく、男とのデートは大抵が美術館やギャラリーのあるカフェテリアだった。夕刻頃になるとそこを出て、都内の高級ホテルに部屋を借りるのが、二人のデートの定番である。

 淡い照明に照らされたホテルのベッドに腰掛け、ダイチはスーツを脱いで無造作に椅子に掛けた。ストライプの入った生地で出来たオーダーメイドのスーツを投げる様は、アメリカの人気俳優が演じるドラマのワンシーンのようだった。香織が隣に腰掛けると、右腕を掴まれ滑らかな動作で押し倒される。肌触りの良いシーツに、幾筋かの皺ができ、二人分の重みでベッドが沈み込んだ。

「一度だけね」という香織の言葉を、ダイチの耳は捉えていただろうか。「一〇日も会えなかったんだから」と大の男がごねるように言ったが、男たちに平等に接することをモットーとしている香織は、すげなく首を横に振り、彼の唇に人差し指を押し当てて「ダメよ」とそれを拒んだ。ダイチの顔が歪み、そのまま香織の胸元へと襲い掛かってくる。鋭利な視線が矢となって貫くが、香織は頑是ない子供を宥める調子で、その丸い頭を撫でた。一見冷たそうに見える男。しかし、香織は知っていた。このような男ほど、母性と言う海のように深く広大な(と彼らは信じている)愛情に溺れることを願っているのだと。

 朝日が昇る前に、香織はダイチに車を出させた。男は文句を言いたそうだったが、「これでも十分おまけしてるの。また今度、会いましょう」と言った後に、「次は五日後がいいわ」と耳元で囁けば、男はあっさり口許を緩ませたのだった。



 二月一六日、水曜日。

 今日もカオルは、早朝の裏路地に現れた。毎度毎度、よくもこんな寒い中を、と香織は半ば感心する。自分などは、朝の凍えるような空気に触れるのを厭って、夕方や夜にこっそりゴミを出しに行くのが習慣付いてしまっているというのに。

 高さの調節できる椅子に座り、背もたれを前に回して両腕を乗せる、足をぶらぶらと動かせば、暖まり切っていない部屋の空気がズボンの中に入り込んでくる。香織は、両足の運動をピタリと止めて、まじまじとカオルを観察した。今朝のカオルは、いつもとどこか違った。心なしか足取りが軽やかであるし、それよりももっと外見的な部分で……。


(ああ、マフラーが違うのね。この間のと)


 彼は、灰色の上等なマフラーではなく、深緑の毛糸のマフラーを首に巻きつけていた。買い換えたのだろうか、と思ったが、違うようだとすぐさま考えを翻す。彼が踵を返した拍子に、香織ご自慢の1.5の視力が、緑のマフラーに黄色の毛糸で編み込まれた「K」のイニシャルを捉えていた。恋人に貰ったのだろうか、と去っていくカオルを視線で追いかけながら再び思考の海に沈む。一昨日は、バレンタインデーだったから。香織は、駅構内のコンビニで、自分用に小さなガトーショコラを買っただけだったけれど、世間の恋人たちの間では、さぞかし盛り上がるイベントなのだろう。

 強い風が吹き、裸の樹木が枝をわさわさと揺らした。アパートの陰に消えていった、あの緑のマフラーが風に飛ばされる光景が、ふいに脳裏に閃いたかと思うと、幻のように消滅した。



『香織ちゃん、元気やった?東京は雪降って、ごっつ寒いらしいからなあ、風邪引かんよう気いつけなあかんで』

「雪が降ったのは、もう一週間も前よ。私より自分の心配したら?お腹出して寝てるんじゃないの」

『なんで分かったん。香織ちゃんには、ほんま敵わんわ』

「あなた、分かりやすいのよ」


 というテンポのいいやり取りを、電話越しに交わした。大阪に住まうケイスケとは、週に二度ほど、連絡を取り合っている。

 始終おちゃらけた風に話していたケイスケは、いつも通話時間が二〇分を超えたあたりで声のトーンを落とす。


『なあ、もう三カ月も会ってへんやろ?香織ちゃん不足で、死んでまいそうや』

「死んでも生き返りそうよね」

『往生記でも書きましょか。……いや、そうやなくて』


 心底参っているといったケイスケの声に、香織は苦笑して答えた。


「分かってるわよ。三月に入ったら、会いに行くわ。就活は終わってるんでしょう」

『おう、バッチリやで!四月からは社会人やさかい、香織ちゃんとのデートも豪華にできるな』

「船上でディナーとか?」


 からかいの言葉にも、ケイスケは機嫌よく『まっかしとき』と答え、彼がお調子者そのものの仕草で胸を叩く様子が目に浮かんだ。この男には、いつも笑わされてしまう、素直にそう伝えれば、ケイスケが照れくさそうに笑ったのが電話越しにも分かった。


「それじゃあ、今度はメールするわね」

『おう、ハートマークぎょうさん付けてくれよ。楽しみにしとるからな』

「はいはい、おやすみなさい」


 名残惜しむことはなく、香織は電話を切る。画面に通話時間が表示された。二八分四五秒、電話は三〇分以内というのが香織の中の決まりごとだった。

 スマートフォンの画面をホームに戻すと、新着メールが一通届いている。開くと、静岡のユウタからだった。高校三年生の時のクラスで、地元を離れる生徒と地元に残る生徒は丁度半々だった。高校二年の時のクラスメイトであるユウタは、地元に残り、そのまま家業を継いで働いていた。


―――こっちはこないだ雪が積もった。まだまだ寒いが、俺は元気にしている。大学は春休みに入った頃か、暖かくなったら一度顔を見せろよ。一年前から工事してた新しいショッピングモールができた、案内する。―――


 ぶっきらぼうな文面は、昔から変わらない、男の不器用な性格をそのまま映し出したかのようだった。


―――東京も雪が積もりましたが、そちらに比べれば些細なものです。あなたの言うとおり、今は春休み、のんびりしています。近く、静岡に帰ろうと思っています。日程が決まり次第連絡しますが、新しくできたというショッピングモールを回るのを楽しみにしています。個人的には美味しいクレープ屋さんがあると嬉しいです。―――


 そのまま、お互い五通ほどメールのやり取りをした。ユウタに就寝の挨拶を送信した時には、時刻は一一時を回っていたので、香織はシャワーだけを浴びて、さっさと布団に潜り込んだ。そして、ここ最近の悩みについて解決策を模索する。

 複数の男たちと交際することになった中学一年生の初夏、香織は己の中である約束事を決めた。恋人たちには平等に、そのためにも、一カ月の日数を恋人の数で割って、順番に男たちに割り振ること。五人の男たちを恋人としている現在は、一カ月を五で割って、平等に割り当てているというわけである。(ただし、ケイスケとユウタは直接会うことはできないため、ケイスケに電話する日はユウタにメールし、ユウタに電話する日はケイスケにもメールするという具合で、平等を図っていた)

 専らの悩みと言うのは、それに関することだった。三〇日までの月はそれでいいのだが、三一日まである月になると、どうしても一日分余ってしまう。これといった趣味もなく、バイトするような日数でもないため、その一日を持て余していた。

―――さて、どうしたものか。

 軽々しくこの一日を恋人の誰かに与えてしまったならば、その瞬間にも、香織は「一妻多夫」に憧れる資格を失ってしまう。それはいけないことである。香織の心がそれぞれの恋人たちに占められる時間数は、等しくなくてはならない。

 今夜も解決策が見つからないまま、時計の針は刻々と進んでいく。細長いハートの形をした短針と長針が天辺で重なり合ったのを見届けた香織は、考えることを放棄して、やわらかな枕に頭を沈めたのだった。



 二月一七日、木曜日。

 カオルを観察する時、いつもならば香織は窓に顔をくっつけるようにして遠慮もなく彼の様子を眺めるのだが、今朝に限ってはそうはいかなかった。ゴミはとっくにボックスの中に入っているというのに、カオルは空を仰いでは、白い息を何度も吐きだしていた。久々に彼の旋毛ではなく、目と鼻と口が付いた顔を目にすることになったが、見つかりやしないかと香織は冷や冷やしていた。

 しかし、心配は無用だった。

 カオルは、アパートの陰から現れた時には既に上の空で、ため息を吐く憂い顔は、思いつめたような雰囲気を漂わせていた。その悩める男の顔を見たことがあると、あまり当てにできない己の海馬が主張していた。去年のクリスマスに別れた十歳上の元恋人が、同じ顔をして香織の下に現れたことを、バケツで水をぶちまけた水彩画のような淡さで香織は思い出した。呆れるほど長い間、寒空の下でカオルの左手がコートのポケットに突っこまれ、何かを弄っているので、ふと思いついて一つの賭けをしてみることにした。

 香織が賭けの内容を大雑把に決めてから更に五分、カオルは決意に満ちたような満ちていない様な、随分とはっきりしない様子で、黒鞄を抱えていつもの道を戻っていった。その背中が丸まっているのを認識して、大脳のどこかがが再び何かを訴えようとしている、そんな気がした。


 大理石模様の床に、蛍光灯の光が反射して、店内を明るく照らしている。正午前には賑わっていた駅前のスーパーの人ごみも幾分緩和され、通りを歩く人々の足取りものんびりとしている。三色の石タイルが埋め込まれた通り沿いに、一軒の本屋が居を構えていた。よくあるようなチェーン店ではなく、珍しく地域に昔からあるような萎びた本屋だった。店内の奥まったところに、主婦が好みそうなスピリチュアル系の雑誌が取り揃えてある。「アナタを守護する天使たち」というタイトルの本を、一〇分ほど前から香織はパラパラとめくっていた。


「占いとか、興味あるんですね。意外」


 間近から聞こえてきた声に、香織はふっと顔を上げた。少年と言っても差し支えない外見の男が、薄い眉をハの字にして手持ち無沙汰に佇んでいた。


「いつの間にいたの」香織は少し驚いて尋ねる。

「ついさっきです。本を読んでいたので、声を掛けようか迷って」


 そういって小さく微笑む男、本屋のサトルには、つくづく気配と言うものがなかった。見るからに気弱そうな、影の薄い少年である。


「そんなに真剣に読んでたわけじゃないわ」

「香織さん、占いとか信じなさそうですよね」

「血液型占いとか、わりと好きだけどね」


 肩を竦め、持っていた雑誌を元の書棚に戻す。サトルの腕を引いて、二人は本屋を出た。同じ通りにある喫茶店に入って、店員に向かって二本指を立てる。香織たちの後ろで、カランカランと安っぽいベルの音がした。年季の入ったテーブルに、エスプレッソとコーヒーが並べられる。「ミルクとお砂糖は」と尋ねられ、サトルはどもりながらもそれを断った。ようやっと大学受験を終えたばかりの幼い恋人が、苦いコーヒーを苦手としていることはあからさまな事実だったが、香織がそれに触れたことはなかった。


「入試、お疲れ様」


 黒い液体に顔をしかめないように気を張っていたサトルは、労りの言葉に肩肘から力を抜いて、「ありがとうございます」と弱々しく礼を述べた。


「受かったかどうか、分かりませんけど。香織さんが、応援してくれたから、受かっていてほしいです」


 どこまでも意地らしいサトルは、頬を染めて俯いた。


「私が応援したからじゃなくて、あなたが頑張ったから、受かってほしいと思ってるわ。まあとにかく、発表まではゆっくり休みなさい」

「こんなに力を抜いて香織さんに会えるの、久しぶりです」


 ティータイムを楽しんだ後、数駅離れた場所にある映画館で、号泣必至と謳ったラブストーリーを鑑賞した。サトルは、大好きな恋人の手前だと必死に涙を堪えていたが、暗闇の中の香織からの素早い口づけに、思わず驚きの声を上げてしまっていた。日が暮れて二人が別れるまで、サトルはそのことをしきりに恥ずかしがり、少年の頬はまるで林檎のように赤いままだった。



 二月二三日、水曜日。

 先日の賭けの結果はまだ出ないようだった。

 カオルの左手は、今日もコートのポケットの中を弄って、小さな四角い箱を取り出しては仕舞うことを繰り返している。あんなに小さな箱だから、そのうち彼の手をすり抜けて、排水溝に吸い込まれてしまうのではないか。コンクリートの蓋がカオルと小さな箱を阻む光景を想像して、香織は一人悦に浸る。勝率など考慮していなかった賭けだけれど、もしかしたら勝てるかもしれない。


(それにしても、この賭けに勝ったらどうしようか)


 今更、肝心なことに思い当たって、香織は少しの間困った。数分悩んだ末に、コンビニでハーゲンダッツを買うことにした。

 カオルの両の足はまだ、ゴミ捨て場をうろうろと彷徨っていた。


 ハルオとデートの日には珍しく、香織は引き留められることなく帰路に着いた。明日は朝からサークルの合宿だとか。「帰ってきたら、すぐにお前に会えっからな」と笑っていたが、見送る時の男の目には、ちろちろと熱が燻っていた。香織は、恋人を慰めるでも励ますでもなく、「楽しんできてね」と偽りのない笑顔でハルオと別れたのだった。

 東京の夜は明るい。実家にいた頃は、思い立ったら星座観測ができるほど、空は澄み切って星が輝いていたというのに。夜空の色は同じ紺色にも関わらず、見える景色はこれほどに違う。

―――星屑の海で、魚が泳ぐ夜、真夜中は私を連れて行く。

 新宿駅を降りたところで掛かっていた、売出し中のバンドの歌を口ずさむ。ちらと耳に入れただけなので、サビすらも満足に歌えなかった。


「星屑の海……」


 飽きることなく、同じフレーズを口ずさむ。上機嫌なのは、甘いカクテルを数杯飲んできたからだ。夜の住宅街は、通りを歩く人も少なく、道路を走っていく車のタイヤを擦る音しかしなかった。ひっそりとした街で、本当に魚が泳いでいるのかもしれない。

 アパートの玄関口の階段を登ろうとして、香織は足を止めた。自分のものではない、誰かの声が耳朶を揺らす。無意識のうちにカオルが毎度使っていた道を通ってアパートの裏手に回り、しばし辺りを見回す。誰かが鼻を啜る。香織は、ゴミの収集ボックスの向こう側を覗き込んだ。

「カオル」

 そう、呼んでしまった。

 スーツの上に黒のロングコートを着込み、イニシャルの入ったマフラーに顔を埋める彼が、そこに座り込んでいた。線の細い顔と、一本一本が繊細な糸のような髪の毛が寒さに震えている。丸まった背中を少し伸ばして、カオルはこちらを見上げ、また膝に向かって突っ伏した。


「風邪、引くわよ」


 我ながら、心のこもっていない声だなと香織は思った。カオルは一向にこちらを向こうとしなかったが、香織は気になって仕方がなくて、一瞬悩んだ後直截な質問をした。


「振られたの?プロポーズ、上手くいかなかったのね」

「なぜ、見ず知らずの君が嬉しそうにするのか。僕にはわからない」


 鼻声だったが、意外にも気丈な声でカオルは言った。香織は、「同じアパートの住人よ、見ず知らずじゃないわ」と弁解し、「ねえ振られたの」と、今度ばかりは喜びを隠しきれない声音で答えを催促した。何の配慮もない質問に、彼がこちらを睨む、次いで怪訝な顔をした。カオルの黒目が、いろんな方向に動く。


「……君は」


 今まさに、彼の大脳が何かを訴えているのだろう。香織はカオルを見下ろしたまま、ヒントを与えた。


「三年前、静岡県、高校二年生」


 カオルの黒目が再びあちこち動き、やがてハッとして香織を見つめた。


「君は、あの時の子か。花に、水やりをしていた」


 ヒントを与えておいてなんだが、そこまで思い出されるとは思わなかった。香織はひどく驚いて、目を見開いた。覚えていたのか、この人は。

 感心してそう伝えようとすれば、今や涙の止まったカオルは、あの頃と変わらぬ薄っぺらなにこやかさで笑んだ。


「相変わらず、すごい美人だ」


 香織は、思わず口をつぐんだ。

―――そんなことを、思っていたのか、あの時も。


『村木さん、何をしているんだい』


 今とほとんど変わらない、カオルの声が遠くで響く。三年前の記憶が、鮮やかに瞼の裏を支配した。



 放課後の教室で、香織は一人、窓辺に佇んでいた。誰もいない教室は、妙にセンチメンタルな気分を起こさせる。別に憂鬱なことがあったわけではないが、昨日見たドラマでヒロインが恋に破れて泣き暮れている所を思い返しては切なげに眉を顰め、香織はちょっとした恋愛ドラマの主人公のようだった。

 四階の音楽室で、吹奏楽部がセッションをしているらしい。トランペットの甲高い音が聞こえ、クラリネットが高音を外した。空を見上げていた視線を戻し、何気なく教室の隅に遣る。桃色の花が小さなプランターに咲いており、一様に枯れかけていた。このプランターの花々をいつも世話しているのは、クラスメイトの大人しそうな三つ編みの女子だった。明日にでも彼女は新しい花を持ち込んで、教室の一角はまた華やかさを取り戻すのだろう。そう思うと、ふいに憐憫の情が沸き起こってきて、香織の白く細やかな指は、いつの間にかジョウロの取っ手を掴んでいた。

 女子トイレに二つ並んだ手洗い場、その蛇口の片方を捻る。鼻の長い赤いプラスチック容器に水がたまるのを待つ間、香織は鏡の中の自分の姿を見つめていた。角にヒビの入った鏡と、そこに映る大人びた少女という組み合わせは、ひどく不釣り合いに思えた。

 プランターに霧雨のシャワーを降らせると、土は見る見る黒く染まっていく。どれくらい水をやればいいのかと考えてから、どうせ枯れているから関係ないかと思い直し、あとはもうジョウロの水が減っていくのを眺めるばかりだ。

 唐突に、『村木さん』と背中に声がかかった。ジョウロを水平に持ち直して振り向くと、今日で実習が終わるはずのカオルが立っていた。


『何をしているんだい』


 自分から尋ねておいて、カオルは勝手に納得したように頷いた。彼の口角が緩やかに上がっていく。


『やさしいんだね、君は。いつも水をやっているのかい』とカオルは微笑んだ。香織は、なにも返さず、ジョウロから降り注ぐ霧雨をただ見つめていた。

 「やさしい」という言葉は、この花を教室に飾り、欠かさず世話をしていた、ボランティア精神あふれる女子に送られるべきものだった。香織の行いは、センチメンタルに酔った、一時のきまぐれに過ぎないのだから。

 その時、不意に香織は理解した。理解したいと望んでもいなかったことを、知ってしまった。

―――この人は、私たちに、何の興味もないのだ。

 たった二週間しか香織たちとこの男の人生は交わらないのだから、生徒に必要以上に関わらないことは当然の帰結である。

 にこやかに微笑み続ける青年は、己の上っ面が薄いことを取り繕うこともせず、ただこの場をやり過ごすことだけを考えている。上手くいけば、自分の評価が上がるようにと、打算的な想いを抱えているかもしれないが、そうならなくとも構わないとも思っている。

 温度の無い小石みたいな人だと、香織は感じた。

 日が暮れかかっている、夕日が、教室の窓際を赤く染め上げた。

 カオルは、まるで血しぶきを浴びたように赤い顔で、結局最後まで微笑んでいたのだ。


 そのカオルが、今、恋人に無残に振られて、香織の、あの時は世の中を知らぬ女子高生に過ぎなかった香織の眼前で、こちらを確かに見つめている。香織の心は、夜を泳ぐ魚のように満足感に浸っていた。

 気づけば、彼に向かって右手を差し出していた。


「恋人にしてあげてもいいわよ、六番目だけど」


 カオルは少し目を見開いて、しばしの間固まった。香織も自分の言葉に戸惑ったが、後悔は不思議となく、差し出した手はそのままだった。カオルを恋人にすれば、三一日目の問題も解決するではないか。

 驚く青年の背中が、自然と丸まる。それだけに注目すれば、臆病な小動物のようだった。いつだったか記憶を刺激した、カオルのその仕草を初めて目にしたのは、三年前の放課後の教室で彼と別れた時だった。去っていく彼の背中が、広くも逞しくもなく、ただ丸まっていたのを、つくづく男らしくない人だなと、香織は失礼な感想を抱いて見送った。

 カオルの薄くて色の悪い唇が、僅かに動いた。何て答えるのだろうと、期待だけを込めて待っている。カオルは、こう言ってのけた。


「恋人じゃなくて、友達になろうか。君、友達いなさそうだから」


 悪びれる様子もないカオルは、薄っぺらい笑顔で微笑んでいる。香織は、彼女には珍しく唖然とした。

 まったく、図星だった。



 カオルと二人でアパートに戻ったところで、香織は「あっ」と声を上げた。


「ハーゲンダッツ買ってこなきゃ」


 怪訝な顔をするカオルを無視して、香織は踵を返した。アパートのすぐ隣から、コンビニの明るい光が漏れてきていた。

 香織の後を追いかけてきたカオルは、勝手に納得したらしい、大股で彼女の横に並んだ。


「新しい味が出たらしい。ローズ味だ。僕にはバラを食す趣味はないのだけど」

「そう、でも、私はスタンダードな味しか買わないから」


 バニラか抹茶しか買わないの、と告げると、彼は有り得ないとばかりに口をつぐむ。


「意外に、冒険心がないんだね」


 ゴミ捨て場のカオル改め、友人のカオルは、不満げな顔でこちらを見下ろしていた。






 作中の歌詞は、自分で創作したものですが、万が一既存の歌に似ているものがありましたら、お手数ですが教えていただけるとありがたいです。一応検索はかけたのですが……。

 それから、関西の方、いらっしゃったら申し訳ないです……。関西弁難しい。


 流行りの逆ハーを書こうとして見事に失敗した作品ですが(笑)、読んでくださって、ありがとうございました。

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