第 四章 飛躍 - 前篇
大学生になったばかりの頃、茉莉亜は毎日が楽しくてたまらなかった。茉莉亜と雪菜が入った学科は、毎年1割の学生が留年や中退を余儀なくされる勉強と実験の厳しいところだった。また、卒業研究をする研究室も2年次終了時点の成績順で決まってしまう。高校生活とは一変し切磋琢磨し合う学友が出来た。何よりも、頑張って勉強すればまた中学の時のように雪菜の勉強を手伝える。英語と法規制と倫理の授業以外は4年間みっちり理数系の必修科目と実験が詰まっていた。体育も第2外国語もない。茉莉亜は雪菜の力になりたかった。
しかし、勉強をがんばる筈だった茉莉亜は入学半年で教授陣に目を付けられ、大学が行っている海外との共同研究や学科が満を持してこの年からを持して始めたばかりの留学生の受け入れを手伝わされた。数多くの学生達を見てきた教授陣は、多少勉強時間が減っても留年まではしない“茉莉亜のような学生”を見分ける目が肥えていた。翻訳、通訳、ディスカッション、大嫌いな英語が受験のためでなく現実のものとして降りかかった茉莉亜は授業料を払いながら徹夜で働くことに疑問を抱きつつ、友人達を人質に取られたのでは仕方がないとがむしゃらに働いた。数字が返ってくるだけの試験結果が悪くなることよりも、目の前にいる日本を選んで海の向こうからやってきた友人達をサポート出来ないことの方が恥ずかしかった。勉強時間が減り成績が下がることに抵抗はあったが、自分がいなければ形にならない、笑顔でありがとうと言われる仕事にやりがいも覚えた。
必要資料の翻訳や、通訳で必要と思われる単語を英語と日本語の両方でしっかり覚えるのに膨大な時間と労力が必要だった。何しろ、高校まで英語が1番嫌いだったのだ。最後にいつベッドで寝たのか思い出せない、毎日は家に帰れないなど当たり前だった。長いはずの夏休みと春休みにも呼び出され、空いた時間は必死でアルバイトをした。茉莉亜は価値を見いだせない努力は決してしないが、意味のある仕事には全身全霊で取り組んだ。高校までのあの無価値な、寧ろ時間の無駄にしかならない英語の勉強は友人達を日本人として支えていく上で必須となった。
重要な会議や全く日本語を話さない海外からの来賓を迎え入れる前は、プレッシャーから胃薬をコーヒーと栄養ドリンクで流し込むだけであとは何も口にできなかった。2週間で体重が6キロ落ちてしまったこともある。常日頃寝たい食べたい遊びたいのうち、食べたいしか満たせない茉莉亜は肉体的にも精神的にも限界だったが、それぞれの国の文化や宗教、考え方、食べ物について学んでいくこともお互い違うということを前提に積極的に友情を育んでいくことも心を豊かにしていった。改めて、日本を200もある国々から選んでくれたことに感謝しながらそれを力に変えた。
そんな茉莉亜を自分達も忙しい雪菜や友人達は支え続けた。栄養ドリンクを手にふらふらと教室にやって来ては「手伝って欲しい。」と嘆く茉莉亜を仲間達は誰も手伝えなかった。必修の授業、実験、実習が朝から晩まで詰まっている。毎年1割は次の学年に上がれないのだ。誰だって、振り落とされたくない。運命共同体であり、研究室の枠を争うライバルである今の仲間と一緒に進級して卒業したい。
それでも授業中に気絶したように眠る茉莉亜にそっと、本当は誰にも渡したくない授業のノートをコピーして渡した。茉莉亜のためにノートをまとめようと勉強会が企画され、仲良しグループは全員行きたい研究室に入ることが出来た。バラバラの研究室になってもお互いの希望が現実になったことを喜んだ。学友達は手伝うことは叶わずとも茉莉亜が大学に任された仕事に敬意を見せた。茉莉亜は、仲間たちがいなければとても両立など出来ないと心からの感謝を示し続けた。
雪菜の勉強は手伝えなかったが、茉莉亜は恋愛で悩む幼馴染を他の人にはない論理的な視点でサポートした。尤も、これは雪菜が茉莉亜を男にしたような気難しい天才肌を好きになり続け、それに対して茉莉亜が遠慮のない発言を繰り返していただけなのだが。
2人の通う大学では、世間では絶対的少数派であろう茉莉亜のような才能と環境に恵まれた学生が何人か居た。幸い、雪菜が好きになる相手の思考回路が茉莉亜には手に取るように分かった。邪魔だと思った相手を遠ざけるためには手段を選ばず、心にグサッと刺さることを平気で言う。彼が何をどう考えるか茉莉亜に尋ねてその答えを聞くたび、雪菜は落ち込みながら「そういう考えしてそう。」「あ、それ多分言われる。」と暗い声で返した。
「あーあ、茉莉亜は本当にすごいな~。」
「すごくないって。雪菜が好きになる私の同一人種以外は何考えているか良く分かってないよ。」
「茉莉亜が男だったらな~。ね、茉莉亜男だったら絶対モテるって!」
「今からじゃ無理!雪菜も、科学の事だけじゃなくて雪菜の事も考えてくれるやさしい人探した方が幸せになれるよ。」
「アタマいい人じゃなきゃ嫌だ~!!」
雪菜が茉莉亜の無愛想で無神経な男版に惚れるたび自分と同じ様な人がどこまでも好きなのが嬉しい半面、飛びぬけて何かの才能がなくてもいい、ごくごく普通の、神経も時間も雪菜のために使ってくれる人に想われて付き合った方が雪菜は幸せになれると思った。気が休まらない相手となぜ一緒に居たいのかも理解できなかった。毎回忠告したが無駄だった。心ないことを言われて落ち込む雪菜を慰めるのは茉莉亜だった。『そんなにやさしい心の持ち主だったら、自分が仕事手伝ってもらいたいよ』と、茉莉亜は本気で思った。相手の男が何を考えているのか、どれだけ効率の悪い道を忌み嫌い避けて通りたいのか分かってしまうのだから。茉莉亜にとって雪菜は常識であり癒しであったが、大学で初めて知り会ったばかりの、しかも男が、茉莉亜と雪菜のように溝のない繋がりを持つのは至難の業であろう。
充実した大学生活の中で、茉莉亜は次第に大学院に進みたいと考えるようになった。生物工学の世界で研究職に就くためには修士号はほぼ必須条件だったからだ。さらに研究室生活が始まってからは英語の論文や説明書を研究のために読まなければならなくなり、この際英語圏の国でやれば英語で読んで日本語で書くという面倒な作業もしなくて済むのではないかと思った。
留学生のサポートを続けていた茉莉亜は、自身が留学生になる事に興味もあった。が、ここで高校受験の悪夢が再び蘇る。持って生まれた頭の良さと入学半年後から続いた不眠不休生活のおかげで英語の成績は奇跡的に大学院に入れるギリギリの水準に達したが、大学の成績が奨学金の条件に満たなかったのだ。
茉莉亜は悩んだ。最高峰の研究機関が集うアメリカの大学院に進学したい場合、大学側の指示通り働いていなければ英語学校に何カ月、いや、何年通う羽目になっていたか分からない。かといって、ついてしまった成績は今更上げられない。私費留学ならば問題なく入学が許可されるが、それでは生活費を含めると2年間で1千万以上かかってしまう。茉莉亜は、英語で受講と論文が出来ればいいのだからとフィリピンやマレーシア、奨学金がより簡単に取れるドイツに視野を広げながら準備をした。1度社会に出てから貯金して行ってもいいと思っていた。1年で終了できるイギリスは、1年では海外経験として短すぎるのとご飯がまず過ぎて死んでしまいそうだったので選択肢から外した。
茉莉亜の頑張りを知っていた同級生達は、腑に落ちない様子だった。
「茉莉亜は大学がいきなり国際化とか言って留学生入れることになった事情に振り回されただけだよね。成績、何とか融通してくれないのおかしくない?」
「仕方ないよ。奨学金の基準がすごく高いっていうのもあるし。大学がくれた仕事してなかったら、英語のスコアでアウトだったから同じこと。」
「茉莉亜…。あんなに頑張っていたのに、それでいいの?悔しくないの?」
「正直、ちょっと悔しい。でも、いい。気を使ってくれてありがとう。それだけで充分幸せ。」
茉莉亜はふっきれていない笑顔を見せたが、現状を踏まえて前進せざるを得ないことを知っていた。留学生達の中には、本当はアメリカに行きたかったが奨学金や生活費の問題で日本を選んだという学生もいた。それに、飢餓に苦しむ国や地域の事を考えれば何ともぜいたくな悩みだ。そういう国々から、祖国を変えるために勉強すると意気込んでやってきた学生ほど自分に気負いがあるようにも思えなかった。『仕方ない』『これで充分幸せ』と自分に言い聞かせた。
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