第 三章 不同 - 後篇
レストランで、6人がそろって食事をしてから1カ月が経った。3月から最終学期が始まり、これまでの実験結果を論文にまとめる段階に進んだ茉莉亜は、手を動かせばそれなりに進んでいた実験のようにいかない英語論文執筆作業に苦戦していた。
そんな時、アーサーから電話でキャンプに行こうと誘われた。前回と同じメンバー6人だ。香奈絵が居ることは引っ掛かったが、4月から大学4年生になる香奈絵はもうすぐ帰国するそうだ。化粧室で脚を触られてからは新学期の再開を理由に接触を避けていたが、同時にケンやソフィにも会えない日々が続いていた。送別会ならば顔を出しておいた方がいいのかという気もした。英語をひたすら書くだけの辛い作業に突入してから大学外の人と気晴らしがしたかったし、前回の事も香奈絵に悪気があるようにはどうしても見えなかった。
当日になって、ケンは仕事でドタキャンだとアーサーから聞いた。ソフィがカップル2組と一緒では気まずくないかと心配だったが、それ以上にまた話せるのが嬉しかった。アーサーがレンタルしたキャンピングカーで現地集合の場所へ向かう。メキシコとの国境に近い湖のほとりにキャンプを張り、釣りをしたり日中泳いだりできるそうだ。
到着すると、ジャック、香奈絵、ソフィの3人はすでに到着し自分達のテントを設置し終えていた。昼食には早過ぎたが、ポテトチップスを適当にむさぼる気にならないというところは香奈絵と意見が一致してサラダを作ることに決めた。日本の大学の事を知り、年齢が近くて同じく大学に出入りする日本人というのは香奈絵だけだ。何の不自由もない日本語で一晩語りあかせると思うと気分が高揚した。香奈絵は、茉莉亜が乾燥わかめをもどしてサラダに入れるのをみて驚いた様子だった。
香奈絵「ねぇねぇ、ここだけの話なんだけど、うち両親が離婚しててお母さんと2人暮らしなのね。でも、大学生だし、当たり前だけど当然実家暮らしで家事とか一切やったことないのね。」
茉莉亜「ふぅん、そっか。仲悪いの認めてスパッと離婚してくれるなんていい親だね。仮面夫婦よりよっぽど潔いよ。私は親と住んだ記憶ないから、家事やらないのが当然かどうかは分からないけど。」
茉莉亜は、大学生なら当然親と住んでいる、家事もしなくて当たり前という香奈絵の考えには違和感を覚えた。自分自身親には育てられていないし、東京都内の大学に通えば必ず1人暮らしや寮生活の地方出身者に会うのではと疑問だった。また、身体が少しずつ不自由になっていく祖父母と同居では必然的に家の事もやることになる。
香奈絵「とにかく、親と住んでれば家事が出来ないのは当たり前なの。でもね、大学で必死に授業に追いつきながらジャック部屋にお泊りする日には頑張ってご飯作ることにしてるの。ジャックを愛しててたまらないから、忙しくても頑張れる!」
茉莉亜は「ふぅん。」とだけ返した後、出来あがったサラダを運んだ。全員が社会人のアメリカ人たちは、仕事の話で盛り上がっていた。サラダを持っていくと、小腹がすいてスナック菓子やケーキに手が出ないから日本人は細いのかという会話を挟んで食べ始めた。高校の同級生同士の近況報告が終わらないうちに、2つ離れた席から香奈絵が日本語で話しかけてきた。
「ねぇ、茉莉亜はどうしてアーサーと付き合う気になったの?」
「さぁ?自分でもよくわからない。香奈絵とジャックが居てくれたおかげっていうのはあるよ。すごいカルチャーショックだったから。」
「アーサーってさ、すっごいお金いいんでしょ?」
日本語の分かるジャックが香奈絵に視線をやる。その目は、礼儀をわきまえない幼い香奈絵を微笑ましく見つめているというよりは比べられた不快感に満ちているようだった。
「よく知らない。付き合う上で重要視している点じゃないし。」
「え?じゃあなんで?あんな超デブなのに。」
今度はジャックから「失礼だ。」というやんわりとした注意が飛んだ。不愉快だった茉莉亜はソフィに研究の話題を振って香奈絵を会話から遮断した。
食べ終えると、まだ温かいうちに湖で泳ぐことになった。せっせと水着に着替えると、アメリカ人勢と茉莉亜は我先にと飛び込んで遊んだ。香奈絵は、水着に着替えたにもかかわらず水辺で体育座りをしてこちらを眺めたり、「写真撮ってあげる。」といいながらカメラをこちらに向けたりしているだけだ。「せっかく来たんだから、泳いだ方が楽しいよ。」と声を掛けられてやっと足の先を水につけた。
茉莉亜「脚にそんな長い布巻いていたら動きにくいよ?取れば?」
香奈絵「いいの。私ね、コンタクトなの。水に顔つけるとか、絶対ないから。無理だから。ジャックゥ~、ここ深いのぉ?足つくぅ?怖いよぉ!」
結局、香奈絵は水着をもって湖までやって来たのにジャックにしがみつきながら「顔濡らすとか、絶対無理だから。」と連発して早々に上がってしまった。ジャックがまんざらでもなかった様子を見て、茉莉亜、アーサー、ソフィの工学部組は、絶対自分達では人前にさらすことのない態度をそれぞれの思いで眺めた。
夜になり、バーベキューを楽しんだ後はキャンプファイヤーを囲んでマシュマロを焼いた。途中、温度の下がったバーベキューを片付けにジャックとアーサーが席を外すと、また香奈絵が日本語で話しかけてきた。
「ねぇ、知ってる?ソフィってもう30なのに結婚全然焦ってないの。見た目だって全然気にしないで、化粧もダイエットもしないんだよ。」
「それは個人の自由だと思うけど。」
「ちょっと前は、女は24になるとクリスマスイブの安売りって言われたってお母さん言ってたし。30まで独身とか、もう信じられないし考え方終わってるよね。」
敢えて日本語の分からないソフィと3人の時に言われることとしては、最上級に不快である。
研究者にとって27歳で博士課程を終えた後、最初の就職先で結果を出せるかどうかがかかる30前後というのは正念場である。この時期に研究者同士で籍を入れたとしても、すでに出版済みの論文に名前がある場合は混乱を避けるために別姓するか事実婚にするのが一般的だ。何の専門分野も持たずに他に考えることのない香奈絵には分かるまいと茉莉亜は黙ったが、香奈絵のおしゃべりは止まらなかった。
「ケンとあんなに一緒に居るんだから、結婚しちゃえばいいのに。信じられない!てかさ、私ソフィの30歳の誕生日一緒にお祝いしたのね。でも、その前だって全然焦ってなかったし、当日も追い込まれたって感じじゃなくて普通に楽しそうにしてたし。もう、頭どうなってるのって感じ。普通さぁ、婚活焦ったらダイエットくらいはするでしょ。あんなに太ってるのにまたお菓子食べてるし。」
アメリカは、世界第2位の肥満大国である。第1位のメキシコと国境を接したカリフォルニアでは、道を歩けば日本ではお目にかかれない“横幅の大きな”人と何度もすれ違う。アーサーも相当太っているが、ソフィはそれに輪をかけたようだった。それでもソフィの体型は決して珍しいわけではない。茉莉亜のぶすっとした反応を無視して、香奈絵は話し続けた。
「やっぱさぁ、あの年まで結婚しないで実家だと家事だって全然できないしもういくら焦っててももう表に出せないって感じ?」
ソフィは、まだ香奈絵の声が聞こえる距離で日本語の会話が終わるのを静かに待っている。
「ちょっとお手洗い行ってくる。」
そう言って、茉莉亜が怒りのオーラを放ちながら立ちあがった。
「あ、ねぇ、茉莉亜は大事な親友だし、信用してるから話したんだよ。今日の話、2人だけの秘密だからね。」
茉莉亜が戻ると、香奈絵はソフィの目の前に座りこんで親しげに話している。香奈絵いわく、これから始まるジャックとの遠距離恋愛についてソフィに相談していたそうだ。先ほどの会話内容を知らないソフィは親身に相談に乗っているようだった。1か月前の食事同様、新参者が何か言えば責められるのは分かっていたから茉莉亜は何も言わず、そのまま朝まで席を外した。
翌日の朝早く、アーサーから帰る前に釣りに行こうと誘われた茉莉亜は外に出た。前日、深夜まで話し込んでいたはずの香奈絵が何故か起きていて、キャンプの朝に似つかわしくない厚化粧の顔を覗かせた。昨夜の雑談中に肌が弱い、高い基礎化粧品で念入りに手入れしていると嘆いていたが、ここまで皮膚呼吸を止めれば吹き出物が出て当然である。肌荒れのない茉莉亜は香奈絵に使っている化粧水を聞かれたが、適当に濁してアーサーとその場を去った。「魚を殺して食べるなんて残酷!可哀そう!」と言って香奈絵が誘いに乗らなかったのがせめてもの救いだ。
雪菜と話したくなった。
「ねぇ、どう思う?アーサーの事と言い、貴重な出会いと言い、今から切るわけにいかないんだよね。」
茉莉亜は、エネルギーを吸いつくされてしまったとでも言うように雪菜に問いかけた。
「う~ん、そうだね。会ったのは、実質2回だけか。それに、アーサーさんの件で困ってたときに日本の事話して助けてくれたんでしょ。ヤバそうではあるけど語学留学とワーホリだらけじゃ茉莉亜も気の合う日本人居ないだろうし、もう少し様子見たら?」
「他の大学通っている日本人って学部からこっちか社会人MBAのどっちかだから、大学違うとはいえ貴重な存在なんだよね。付き合ったことないタイプだし、アーサーの事もあるから何とか上手くやってみる。遅くまでありがとう。ちょっと元気出た。」
「うん、お休み。って、そっちまだ昼間か!」
出た結論は雪菜と話す前と変わらなかったが、ある程度心が軽くなった。第一、交換留学を終えて4月から日本の大学に戻る香奈絵とは今後会う機会もないだろう。暫くは忘れて論文に専念すると決めた。
それでも、苦しい大学生活の末に留学をつかみ取った茉莉亜は努力の影が全く見えない楽天的な香奈絵が鼻についた。
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